#11 モダン・タイムス

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【モダン・タイムス】

 1936年 アメリカ映画

 監督:チャールズ・チャップリン 出演:チャールズ・チャップリン ポーレット・ゴダード ヘンリー・バーグマン

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         ◎


 日本海沿岸で起きた傷害事件と、太平洋側の地方都市でその数日後に飛び降り自殺した女子高校生との関連を繋げる者は、世間では殆どいないようだった。


 ふたつの事件は、日々更新されるニュースに埋もれ、いつしか人々の記憶から忘れ去られようとしていた。


 ただ、数人を除いては。


 緋色菜津に関わった映画研究会の部員たち。

そして、荻野桜。


 彼らにとって、真実が茫洋としたままこれからの日々を過ごすことが心にくさびとなった。





 年が明け、3年生に進級した幸生は、ますます周囲との接触を避けるようになり、学校でも孤独を選ぶようになった。

 映画研の部活にはもう顔を出すこともなく、ヘンリーとたまに校内で鉢合わせても目を合わせるだけで挨拶も交わそうとしなかった。


 昼休みになれば、菜津とよく昼食を食べた、天蓋の無い渡り廊下で過ごした。

 付き纏う菜津にいつも鬱陶しさを感じてはいたが、傍に居ない今、そこに吹くすきま風が幸生に寂しさをいや増した。



 あの事件以後、屋上は閉鎖され、生徒たちの自由に立ち入ることができなくなった。

 もともと『無断立入禁止』というルールではあったが、これまでは半ば有名無実化されていた。菜津の“事故”があって以来、ドアの鍵は頑丈なものに交換され、学校側が校則を厳守するようになった。


 屋上に直結する非常階段も、春休みのうちに金網で覆われ、手摺から身を乗り出すようなことも出来なくなる処置が為された。年明けから組まれたその工事用の足場も、新学期までには取り払われていた。



    *   *   *



 穏やかな暖気が、桜の花びらを運び、校舎間の渡り廊下に佇む幸生を包み込んだ。

 花びらの吹き込む方角を見下ろすと、五分咲きの樹の間から新入生たちの部活の勧誘に勤しむクラブの上級生たちの喧騒が臨んだ。

 眼下から少し離れた場所に、映画研の勧誘ブースが見える。


 幸生は一年前のことを思い出した。


 去年、ヘンリーに籠絡され、乗り気でない部活に参加させられたこと。


 新入生勧誘の際、菜津に声をかけ、映画研に入部させたこと。



――いや、声をかけたのは菜津で、かけられたのは、自分のほうだ。



 菜津は、この学校に入学する前から、自分のことをっていた。

 それを、最期のときに、告げられた。



――もっともっと、

  あいつに大事にしてやればよかった……



 幸生が頭をもたげ、項垂れる。


 肩の上に花びらがひとつ、そっと舞い落ちた。





 顔を上げた幸生の眼が映画研究会のブースにフォーカスする。


 部長となったハイネが何も知らない新入生たちに声をかけている。

 脇にはヘンリーがブースの机に陣取り先輩風を吹かしている。


 ハイネが数人の新入生の集団と会話を弾ませている様子が見える。打ち解けた態度から、あのグループが、おそらくハイネの話していた中学の後輩たちなのだろう。

 ハイネが促し、グループは映画研の机に向かい、ヘンリーの差し出した入部志望の用紙に順々に書き込みを始めた。


 一連の光景を見て、幸生は安心していた。



――これで映画研も安泰だな。


  よかったな、ヘンリー。

  そして、ハイネ。



 スタッフの数が揃えば、もっとマシな『シャシン』が作れるだろう。


 ハイネの夢が、現実になろうとしている。

 俺やヘンリーは、それを見ることができるんだ。




 幸生は、これからハイネの歩む希望と、己の墜ちゆく人生のそれぞれを想い描いていた。



――自分はもう、幸せになってはいけないんだ。


  菜津のためにも。




    *   *   *




「試写会当たったんだけどな、幸いなコトに連れてくヤツがだぁーれもいないんだわ。で、お前にその恩恵を授けてやろうかなァーって」


 幸生が昼放課に教室のテラスで佇んでいると、久々にヘンリーが自分の教室からテラス伝いに近寄って来て、おかしな日本語で話しかけてきた。


 ゴールデンウィークも終わり、若葉の季節になっていた。時折、汗ばむような陽気が訪れるようになり、夏が忍び足で近付いているのを感じる。

 部活のほうも新歓の時期はひと区切りになり、部員たちの顔ぶれもほぼ確定したようだった。


 ヘンリーもひとり部員となってしまったハイネを手助けするため3年生にも拘らず部の運営に精を出していたが、大型連休が終われば活動も本腰となる。そろそろハイネを中心とする体制に任せてもいいだろう、と考えたか、一線から退くつもりのようだった。

 ヘンリーとて幸生と同じ受験生だ。部活のことにばかり気を回すわけにもいかない。


「お前、今のこの時に、よく試写会なんて応募する気になるな。いい加減受験勉強に本腰入れなきゃなんないだろ……」


 誘われた幸生が苦言する。


「受験生だって、たまぁーには息抜きも必要だろ。で? 行くの行かないの?」


「お前の場合『たまに』は勉強のほうだろ」


「ガハハハ。ま、そんなコトは置いといて、と」


 じっさいは試写会は口実で、幸生に声がけするきっかけを作りたかった。


 幸生のほうも、毎日校内では見かけるのに会話が無いのはそろそろ苦しかった。互いにどこかで切り出す機会を探っていた。


 幸生もその映画には興味を持っていた。好きな監督のひさびさの新作だ。


「まあ、その日なら……予備校もないし……」


 幸生も受験生よろしく週に3日予備校の授業を受けているが、試写会の日時とはうまく被らない。


「じゃ、OK、ってことで」


 ヘンリーが迷う幸生の背中を押すように、決定としてしまった。

 あいかわらず勝手な奴だ、と幸生は思ったが、嬉しくもあった。



 試写会の件が終わったところで、ヘンリーが会話を続ける。


「最近、映画観てるか?」


「いや……」


 ヘンリーから眼を逸らし幸生が答えた。

 幸生の返事を受け、ヘンリーが相槌を打った。


「そっ、か……」



 菜津の事件があって以来、幸生は映画館へ足を運んでいなかった。


 幸生にとって、ひと月以上も映画から離れているのは、中学2年で劇場に映画を観に行き始めてから初めてのことだった。


 もちろん、食指の動く、幸生の関心を誘うような新作はいくつも封切りされた。だが、どうしても劇場まで行こう、と思い切れるような気分になれなかった。


 俯く先の中庭では女生徒が数人輪を作りバレーボールで遊んでいる。キャッキャという歓声が『コ』の字型の校舎に反射しエコーとなって響く。



 ふたりの沈黙を破り、ヘンリーが幸生に告げる。


「じゃ、約束したぜ。試写会、な」


「ああ」


 幸生の応答を待たず、ヘンリーが自分の教室へ戻っていった。

 ヘンリーの背中が教室に入るのを幸生が見届けると同時に、午後の授業の予鈴が校内に鳴り渡った。


「試写会、か……」


 ひさびさの映画鑑賞。


 会場は、通い慣れたあのシネコン。


 桜と、

 そして――

 菜津といっしょに映画を観た、あの場所。



    *   *   *



 試写会は18時半からだったので、幸生はその時間まで暇を持て余してしまった。

 かと言って映画研の部会に参加するのは憚られる。ヘンリーは無論そこに居るだろうが、今更どの顔で出れるというのか。

 考えた末に、幸生はシネコン併設のショッピング・モールのファストフード店で時間を潰すことにした。


 先に現地に着いてることをヘンリーにLINEで伝え、“到着したら連絡してくれ”と追記すると、紙コップに注がれたコーヒー1杯を頼りに幸生は店の隅で粘ることに決めた。


 バスターミナルに面した窓の席に陣取ると、発着するバスを眺めた。ターミナルの横には円形の広場。

 あの広場のベンチで桜とともに過ごした一昨年の大晦日の夜を幸生は思い出した。



――なんだか、ずいぶん昔のことのように思えるな……

  ほんの一年とちょっと、のことなのに。



 小一時間ほど待った後、ヘンリーから“ついたでー”という間の抜けたレスが入り、幸生は尻の痛くなるファストフード店の硬い座席からようやく開放された。




「よぉー」


 シネコンのロビーでヘンリーが幸生を迎える。


「なんだよぉ~、先にくるんなら試写会のハガキ渡しといたのに」


 シネコンでの試写会なので、今回はカウンターで当選ハガキを提示して座席券と交換するシステムだった。


「わかってたらそうしてたけどな」


 幸生も連絡の不備を少し悔やんだ。


「ま、しゃーないか。誘ったのはこっちだし」


 ヘンリーも諦め口調で話を切り替えた。


「もう席取ったからな。ホラ」


 と言ってヘンリーが券を一枚、幸生に手渡す。


 座席にたいした拘りのないヘンリーは、やや後方の通路際という(幸生にとっては)まったく節操のない座席を確保してきた。

 チケットに印字された席番を見てちょっと顔が曇ったが、誘われた手前、幸生は文句も言えない。


「さんきゅ」とヘンリーに返事をし、券をおずおずとポケットに仕舞った。


 待つ時間もなく入場時間となり、幸生はヘンリーとともにロビーからゲートへと向かった。



    *   *   *



 上映が始まると、幸生の知るような貸しホールで催される通常の試写会とは趣が異なっていた。

 この試写会は劇場での開催なので、その小屋のルールに則り劇場で購入の飲食が認められているのだった。


 近くの観客の持ち込んだキャラメル風味ポップコーンの甘い香りが漂ってくる。

 菜津がいつも隣の席で食べていたお気に入りのフレーバーだ。


 その甘い匂いが、幸生の中の菜津の記憶を掘り起こした。



――あいつ、いつもキャラメル味のポップコーンを食べてたっけ……


  まったく。

  ガサガサ音をたてて、うるさいったらなかったな……



 ふいに、スクリーンが歪むのを幸生は自覚した。


「あ……あれ? ……」


 目から一条の雫が零れる。


 楽しい場面が続いているはずなのに、幸生の心の震えが瞳から溢れ出す。

 画面から眼を背け、幸生は前席の背凭れに隠れるように顔を伏せた。 


 銀幕が涙で滲んで、観続けることができなかった。



    *   *   *



 上映が終わりロビーに出たところで、ヘンリーが


「わりぃ、ちょっとトイレ」


 と幸生に告げ、隅のトイレへ駆け込んでいった。


 どうやら上映中に幸生が落涙していたのを気づかれてはいないようだ。

 幸生は少し安堵した。


 ――ひょっとしたら、気づかないフリをしているのかもしれないけれど。



 試写会からけてきた観客の流れもほぼ終わり、ロビーも閑散としてきている。人気の少なくなった空間を、幸生はしげしげと見回した。


 ひさびさの映画館。


 壁に掲示された新作映画のポスター。


 モニタで流れ続ける公開予定の予告編。


 コンセッションカウンターから匂うポップコーンの香り。



――ああ、やっぱりいいな。映画館は。



 幸生はひさびさの劇場の空気を感じた。



 ヘンリーを待ちながら、幸生の眼は何気なく角のグッズショップを捉えた。

 陳列棚には、このシネコンのオリジナルグッズが並べられている。


 そこにぶら下げられているキーホルダーの数々。

 赤と青の2種類のオリジナルキャラクター。


 今もあのマスコットのキーホルダーが陳列されているのに幸生は気付いた。




「よっ。おまたせー」


 ヘンリーがトイレから戻ってきて、幸生と合流した。

 幸生の物思いに耽ったような様子を見付け、ヘンリーが


「どした?」


 と幸生に訊ねる。


「いや……べつに」


 そう応えると、幸生は


「じゃ、行くか」


 とヘンリーを促し劇場のロビーを後にした。



    *   *   *



 帰宅した幸生は、制服を脱ぎ部屋着に着替えると、机の抽斗を開けてみた。

マスコットが入っている。


 雑然とした中から、劇場オリジナルキャラクターのマスコット・キーホルダーが顔を出した。


 それを手に取り、幸生は優しく撫ぜた。


 幸生の瞳が潤み、雫が頬を伝う。


 すすり泣く声を圧し殺し、ベッドに腰を落とした。




 幸生の中でシネコンで一緒に過ごした様々な記憶が蘇る。



 隣で臭う甘ったるいポップコーンの香りも、それを食べるたびに発するガサガサというカップ容器の音も、引き寄せられるように組んだ腕も、煩わしいだけだった。



 それがもう、二度と感じられなくなってしまった今、








 とてつもなく愛おしい。








    *   *   *



 夏休みに入り、桜は地元の予備校へ夏期講習を受講し始めた。

 桜の志望は私立の文系コースだ。

 湾を囲う地形のこの地は盆地のように周囲を山に覆われ、列島の北側に面していても盛夏の熱さは厳しい。

 木漏れ日さえも肌にチリチリと突き刺さる強い陽射しの下、桜は混雑する市電に揉まれながら予備校へ通った。


「大学はどうするの?」


 秋彦と話をしているとき、ごくごく普通に受験の話が出る。

 桜は


「こっちの大学を受けることにした」


 と答えた。


「なに学部?」


 秋彦の問いに、桜は曖昧に


「文学部、かな――英文とかに進みたい、な」


 と返していた。



 ホントは、もう第一志望を決めている。

 秋彦のいる大学を受験するつもりだ。


 少しでも秋彦と一緒にいたい――

 そんないじましい気持ちからだった。


 秋彦には、まだそのことを伝えていない。



 進学のことを悩ますたび、桜はもうひとつの引っ掛かりが頭をもたげた。



――そういえば、幸生くんは大学どうすんのかな……



 幸生のことは気になったが、あれきり連絡はとらず終いだった。

 桜は心で幸生にエールを送った。



――お互い、がんばろうね。





    *   *   *



 幸生の高校では、各クラブの代替わりも落ち着き、夏に向けて部活動が活発化し始めた。

 体育会系は夏の地区大会に向け練習に真剣さが増し、音楽室からはブラスバンドの音色に熱が入っていった。



 映画研では、ついにハイネが自主映画を作りはじめた。


 ハイネの頭の中ではプロットは既に決まっていたらしい。春休みのうちに脚本に着手し、ゴールデンウィークが終わる頃には脱稿していた。

 夏休み入ってすぐにクランク・インの計画だったが、いろいろな準備が嵩み、結局撮影が始まったのはお盆直前になってからだった。


 女性を主人公に設定したことで、主演女優の選定に戸惑った。クランク・インが遅延したのはそれが最大の理由だった。


 映画研のメンバーは全員男子だ。


「なンで女が主役の映画作るかなー。男が主役なら、部員だっていいんだし、最悪スイネがればいいだけじゃん」


 ヘンリーが先輩風を吹かしていろいろと小言を述べていたが、ハイネはそれを右から左へ聞き流した。


「ハイネにとっては、何かこだわりがあるんだろ」


 幸生はヘンリーの言い分を遮ってハイネをフォローしたが、幸生にしてもどうして撮影が遅れてまで主演女優の選定に拘るのか、いまひとつ納得はできなかった。

 ヘンリーの言うには、


「なんかさぁ、イメージに合うのがなかなかいないんだってよ。校内でずっと探してんだけど。――こりゃヘタしたらこの学校の外に募集かけることになっぞ」


 ヘンリーが半ば諦め顔で絶句しながら吐き捨てた。



 幸生もヘンリーも、そのシナリオがもともと菜津をイメージしてハイネが書き上げたものだということは、知らなかった。


 ハイネも、そんなことは一切誰にも打ち明けることなく、己の心に秘めて自分の映画の制作にこの夏を明け暮れた。



 どうにか女優を探しだし(その女性がハイネのおメガネに叶っていたかどうかは誰も知らない)、撮影が開始されたが、あらゆる伝手を辿って他校から連れてきたその女学生がどことなく菜津に面影が似ているのを気付く者は殆どいなかった。



 様々なドタバタの末ようやくハイネの“初監督作品”は完成し、念願だったC5に応募したが――


 最初の挑戦は、惨敗に終わった。



 あれ以来、互いに学校で擦れ違っても目も合わせないでいるが、幸生はハイネを心の中で応援した。



――けれど、あいつならまた作るだろう。

  それは、どこかに応募するとかしないとか、そんなことには拘わらず。



  かならず。




    *   *   *



 秋が深まる。

 受験の季節が目前に迫っていた。


 幸生は東京の大学を第一志望にした。

 地元に留まるつもりは、なかった。





 この街から離れたかった。






 菜津を感じるから。


 菜津の匂いがあるから――。





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