#10 鬼火
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【鬼火】
1963年 フランス映画
監督:ルイ・マル 出演:モーリス・ロネ ベルナール・ノエル ジャンヌ・モロー
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◎
放課後、
来年は自分が映画研究会の部長だ。
今は廃部寸前だが、新学期になれば自分の中学から映画好きな後輩が入学してくる予定になっている。そうなれば、この部も盛り上がっていけるだろう。
自分がそれを牽引していかなければならない。
そのためには、何が準備できるか、今のうちにいろいろと下調べをしておこう――
まずは自主映画制作のノウハウを。
自分がYoutubeにアップしているようなお手軽チープ映像でなく、もう少しキチンとした体制でスタッフ=部員たちを回していかなければならないだろう。
井崎先輩は、映画知識は豊富だけれど、あくまでも観る側専門で、作るほうに関心はあまり無い。でもいろいろと助言はしてもらおう。
――ヘンリー部長――【元】部長は……
あんまり、アテになんないかもなあ……
とにかく、
もっともっと、自分が勉強しないと……
両肩に掛かる責任と新たな取り組みが始められる期待に、ハイネの心は高揚していた。
できることなら、自分が撮る来年の自主映画には、緋色菜津に主役を演ってもらいたい。
もちろん、緋色が井崎先輩と付き合っているのは知っている。
――でも……
甘酸っぱい淡い想いとともに、ハイネは来年のプランをあれこれと夢想した。
日本十進分類法に準じ並べられたこの高校図書の書棚の中から映画関連の書物を何冊か選び出し、両手に抱えながら、空いた自習机を探そうとしていたとき、校庭の側から「どさっ」と鈍く重たい音が響き、一瞬の間を置いて女生徒の悲鳴が校舎内の空気を切り裂いた。
波紋が広がるように
わらわらとベランダの手摺に群がった生徒たちが鈴なりとなり、それとともに「誰かが落ちたぞ」「女生徒だ」「違うよ、部外者が立ち入って飛び降りたんだ」などといった声が散発的に飛び交った。あちこちから教師が飛び出し、ベランダから下を覗き込むと即座に「下を見るなっ。みんないったん教室に入れっっ」と声を荒げて生徒たちを建物内へ押し戻そうとするが、人数が多く手に負えない。仕方なく先生は同じ注意を叫びながら廊下を走っていった。
校内のただならぬ空気に、ハイネも他の生徒たちと同じようにベランダへ出て校庭を見下ろしてみた。
ちらちらと降る雪が次第に増す中、特別教室のある校舎角の下で、制服とは違うエンジのパーカーを被った物体が地面に横臥わり、スカートの裾から一条の赤黒い液体が流れているのが見えた。
少し離れたところに、衝撃で壊れたワインレッドの眼鏡の蔓が飛び散っている。
躰の下から拡がったどろりとした赤い沁みが、じわじわと大きくなって流れだす。
肉体の上に徐々に雪が降り積もり、白く隠していく。血溜まりに落ちた雪は朱に染められていく。
一連の光景を見続けながら、ハイネはその斃れた物体の着ているパーカーのバックプリントに見憶えがあった。だが、心がその情報を受け容れることを拒絶した。
「そんな……そんなはず、ない……そんなこと、あっていいはずが、ない……」
* * *
十数分後、表通りからサイレンの音が近づいてきて、校庭を横切って進入してきた救急車が横付けし、衣服にべっとりと血の滲みがついた塊がストレッチャーに載せられた。髪から赤の
ストレッチャーが救急車に運び込まれたところで、数台のパトカーも到着した。残された血の池の周囲がブルー・シートで囲われる。
ストレッチャーが救急車の中に消えてから妙に長い時間がかかった後、救急車がふたたびサイレンを唸らせ校門から去っていった。
これ以上の進展がないと諦めたのか、生徒たちもベランダでの見物から1人2人と引き剥がされていった。
校舎全体に不穏な空気が淀む中、警察の現場検証の脇を生徒たちが雪溶けのぬかるみの中を帰宅していく。ブルーシートの傍で見張る教師たちが、立ち止まらないよう生徒らに促している。
周囲には、獣臭にも似た、
ベランダに正座するように尻を付き
遠ざかるサイレンの音が空に消えても、ハイネの耳にはいつまでも
それが、緋色菜津だということが判ったのは、夜中になってからだった。
* * *
菜津が校舎の屋上から飛び降りたというのを幸生が耳にしたのは、帰宅して数時間が過ぎ、深夜近くになってからだった。
この日は明日提出の宿題があり、幸生はTVを観ることもなく自室に籠もり机に向かっていた。菜津からのLINEの返事もなく、半ば諦めて勉強に気を向け集中することにした。
スマートフォンの音楽アプリを起動し、イヤフォンを装着しながら幸生はいつものように机に向かっていた。
最初の報せは、ハイネからの連絡だった。
通話の着信表示があり、画面には『梯 映日』とハイネの本名が表示された。
アプリを停止し、スマホを通話に切り替える。
「――はい? どした? ハイネ」
電話に出ても、スピーカーからは返事がなかった。
「……ハイネ?」
疑問に思った幸生が問い質す。
圧し殺すような嗚咽が送話口から漏れてくる。
やがて重々しい声でハイネが
「緋色が……菜津さんが、屋上から飛び降りて――」
と言葉を詰まらせながら電話口で伝えた。
「え……?」
一瞬、ハイネが何を言っているのか、理解できなかった。
まるで未知の言語を耳にしたように、言葉が只の音となって幸生の脳が意味を判断するのを拒絶した。
ハイネの発言にどう反応していいのかわからない。
幸生の戸惑いを遮るように、ハイネの声が続いた。
「どうしてそれを、井崎先輩が知らないんですかぁ!? どうして、僕から先輩に報せなくっちゃなんないんですかぁっ!!」
電話口の向こうで激昂するハイネの声が幸生の脳幹を貫いていた。
その後もハイネの言葉は続いたが、狼狽と悲憤で声にならず、最後は幸生を罵るような口調で絶叫へと変わり通話が一方的に切られた。
プツリと切断する電気音がスピーカーから聞こえ、恐ろしいほどの静寂が襲ったが、幸生の頭の中ではガンガンと轟音にも似た血管の脈動が響いていた。
慌てて居間に降りTVを点け、ニュース番組をザッピングする。
ようやく
見慣れた校門と校舎の光景に続き、映像の奥で見慣れないブルーシートの周りを鑑識らしき数人の青い服が動く画が映し出され、ナレーションが被さる。
“……きょう午後4時20分頃、市内の高校から『生徒が転落した』と通報があり、警察と救急が駆けつけたところ、校庭に女性が倒れているのが発見されました。この女性はこの高校に通う女子生徒とみられ、心肺停止の状態で、病院に搬送されたものの、死亡が確認されました。死因は……”
TVのスピーカーがその女生徒の名前と年齢を告げる。
そのプロフィールが幸生の知っている人物と合致していたが、記憶を照合するのを心が抵抗し、頭の中で合致を拒んだ。
――ちがう。
ここで言われてるのは、自分の知ってる名前じゃない。
このニュースで語ってる『 ひ い ろ な つ 』って、
誰、だ……? ――
頭の中で『ひいろなつ』というTV音声がリフレインされる。
心臓が受け容れるのを拒み、血流を乱れさせる。
ひいろなつ。ヒイロナツ。ひイロなツ。H-I-I-R-O-N-A-T-S-U。
――緋 色 菜 津 。
TVのリモコンを握ったまま呆然と画面を見詰めていた幸生は、落ちるようにどさりと後ろのソファに座り込んだ。
がくがくと震えが止まらない。
どうやって自分の部屋へ戻ったのか、幸生が我に返ったときは窓のカーテンの隙間から雪止みの後の陽光が差し込んでいた。
幸生は自分のベッドで体を縮こませ深く眠っていた。
スマートフォンの画面には数十件に及ぶ着信と留守電、LINEのメッセージがあった。
それを開いて確認する気持ちにはなれなかった。
幸生はもう一度布団を頭から被ったが、睡りにつくことはできなかった。
薄明るい掛布団のシーツの白をいつまでも凝っと見詰めていた。
* * *
隅にところどころ降雪の
夜半過ぎに雪は上がり、低気圧が連れてきた寒気だけが大地を覆っていた。街のすべてが一気に冬に模様替えをしたようだった。
幸生の心が凍っていたのは、
学校に到着すると、校庭に繋がる正門は使えず、生徒はすべて裏の通用門からの登校になっていた。
校庭も使用禁止。体育の授業は体育館使用のみとなった。
校庭を使用する運動系の部活動も休止。
ともかく、今週いっぱいは校庭の使用が禁止された。生徒たちへの精神的な負担を和らげようという措置だった。
薄っすらと雪を被った校庭を、幸生は教室の窓越しに眺めた。
消えかかったトラックレーン。錆の浮いたバスケットゴールの支柱。脇に置かれた鉄の朝礼台。
誰もいないフィールド内を、どこかから迷い込んだのか、野良猫が足跡を残しながら横切っていた。
女生徒の中にはショックで学校を休む者も出てきた。事件が放課後だったので現場を目撃した生徒は多くなかったが、一部始終を見ていなくても、学校で起きた騒動に動揺した者が多かった。
幸生は教師に呼び出され、会議室で二人の刑事から話を訊かれた。
菜津の持っていたスマホからLINEの履歴が割れ、幸生との関係が自殺に関連するのか追及された。
幸生は「わかりません」とだけ答えた。
「だけど、キミは緋色菜津さんと交際していたんだろう?」
「それは……彼女が、一方的に想っていただけで……」
「屋上から落ちた直前まで、LINEトークで遣り取りしていたよね?」
「彼女は、感情の浮き沈みが激しくて、いろいろ悩んでいたようなので……それで、相談を……」
警察も、それ以上深く問い詰めることはしなかった。
例の、あのシネコンで起きた事件との関連も一切聴かれなかった。
まだ判明していないのか。
あるいは、調べはついているものの、詰問は控えたのか。幸生には判らなかった。
映画研に顔を出すのは、もうできなかった。
特に、ハイネと会うことが辛かった。
休み時間に廊下でヘンリーと擦れ違ったが、目で挨拶を交わしただけで無言で過ぎていった。
普段は気が利かない奴だが、こういうときは慮ってくれるのか、と幸生は少しヘンリーに感謝した。
ハイネは幸生と校内で行き交っても目も合わせなかった。
映画研と幸生は、互いを避けるように学校で過ごしていたが、告別式の日取りが決まると、ヘンリーが幸生に
「行ってやれよ。お前が行ってやらなくちゃ、緋色も残念がるぞ」
と告げ、映画研のメンバーとは時間をずらして菜津に最後の別れを告げることにした。
本当は、行くつもりはなかった。行く権利など自分には無いと幸生は考えていた。けれどヘンリーの言葉で己を改めた。
「ハイネも、な……お前にはちゃんと、緋色にお別れをして欲しいって、さ」
それはヘンリーなりの優しい嘘だったのかもしれない。
式の終わり間際に、幸生は斎場へ着いた。
祭壇の遺影の、菜津の笑顔を見た瞬間、幸生の中で抑えていたものが溢れ、涙が止まらなかった。
斎場を跡にすると、建物の隅で、壁に体を預け、へたり込み
枯れるまで泣きたかったが、あとからあとから涙が零れ、止められなかった。
* * *
職員会議でそのように決定したのか、事故の原因はその女生徒が「手摺りに座って遊んでいるうちにバランスを崩して落ちた」と緊急に開かれた全校集会の講堂で校長が説諭した。
だが、生徒たちの間では「飛び降り自殺した」という噂が罷り通っていた。
その日無届で休んでいた生徒が私服で転落したのだ。その非日常的な状況を教師たちは説明できなかった。
幸生は、菜津との関係を勘ぐられ、校内では白い視線が突き刺さった。
その後の学校と保護者たちの話し合いの結果、事件の影響で、年内中は校庭が使用禁止になった。
生徒たちの精神的なショックを和らげる配慮だった。
教職員たちの発案か、菜津の落下した地点には広い範囲で石灰が撒かれていた。消毒や消臭を期待してのことと思われたが、あまり効果もなかった。
現場検証も終了し、
翌週になって正門は封鎖が解かれ通れるようになったが、カラーコーンで囲われたままの現場は皆一様に大回りで避けるようになり、近づく者はいなかった。
誰が置いたのか、白いモクシュンギクの小さな花束が、寒風に晒されながらカラーコーンの脇に添えられていた。
添えられた花を見つめながら、幸生は
――この花の花言葉って……
なんだったっけ……
* * *
12月も終盤を迎え、連絡が滞ってしまった幸生が心配になり、桜のほうからLINEを入れた。
気付けばひと月近く、幸生とのトークのレスが更新されていない。
近頃やや疎遠になったとはいえ、こんなにも間が空いてしまったのは出遭って以来初めてだった。
“げんき?
話 したいけど、いい?”
『既読』にはなったものの、暫く待ってもレスは付けられなかった。
気掛かりがあった桜は思い切って幸生に通話をかけた。
8回ほどコールを待って、ようやく幸生が電話に出た。
幸生の「はい」という応答が弱々しく聞こえる。
桜がおずおずと気遣いながら話しかけた。
「そっちの高校で、女子生徒が校舎から転落した、って……ニュースで言ってた、けど……」
桜の転校前の高校で、生徒が校舎から転落して亡くなった事故があり、ニュースで報道もされていた。事故ではなく自殺だったのではないか、とも伝えられているが、真相は明らかではない。警察は事件性はないと発表した。
そのことが幸生の心身に影響を及ぼしてしまっているのではないか。
桜はどこかでそんな予感がした。
桜の問いかけに、幸生は沈黙を続けた。
それだけで、その死んだ女生徒と幸生が、少なくとも知り合いだったのが窺われた。
そして、おそらく。
ただの知己だけでなく、特別な――
会話が途切れる。
(幸生が)訊かれたくないのでなく、(桜が)訊きたくない。
桜は話題を逸らした。
「もうすぐ、お正月だね。また、前みたく、同じ映画を同じ時間に――」
「――ごめん」
桜の言葉を遮って、幸生が呟く。
「今は、そんな気分に、なれないんだ……」
投げられた言葉の強さに、桜は次の句を継ぐことを躊躇った。
幸生がそのまま続ける。
「だから、しばらくは映画は行けない。ちょっとバタバタしてるから……。ゴメン」
チグハグな理屈が繋がらないことは幸生も承知だった。けれど、それ以外に説明できなかった。
「わかった」とだけ桜は返信した。
事前に探りを入れるのは嫌だったが、桜は、電話をする数日前、幸生と連絡が途切れていたことに心に引っかかりを覚え、元クラスメートの女子にLINEで事の次第――校内で起きた転落事故――を訊ねてみていた。
旧友の伝えたところでは、その女生徒の件が事故なのか故意だったのかは判らない。けれど、生徒たちの間では「自殺」だとの噂が上っている。
――そして、その原因が井崎幸生にある、と囁かれている――
それでも、桜は、幸生の口から直接の言質が欲しいと思った。
ほんとうに大切なことは、隠さずに自分に告げて欲しい。
そんな想いだった。
「幸生くんの……知ってる子、だったの……?」
「映画研の……後輩だった」
桜が改めて質すと、幸生はぼそりと答えた。
幸生が映画研の後輩に女子がいるのを話すのは初めてだった。変人の部長に懐柔されて已む無く入部したことや、ユーチューバーの一年生が入部したことは聞いてはいたが……
それまでこの女子部員のことを触れたことがなかったのが、幸生にとってどういう存在なのかを伺わせていた。
彼女の死の理由について、幸生は「解らない」と答えた。
自殺だったのか幸生は明言を避けた。桜もそこまでは踏み込むことができなかった。
幸生が今回のその件――女生徒の『自殺』――に関わっているのか、ということは聞けなかった。問い質したのは自分のほうだったが、それ以上の
「でも」幸生は答えた。「……ごめん……」
スマートフォンを通じ幸生の辛さが伝わってきて、桜も、何も言えなくなってしまった。
「……」
互いの電話口はいつまでも沈黙していた。
幸生のほうで通話を切ったのか、プツリという電気的な切断音に続き、桜の耳元にサーというサイレントノイズが届き、やがて無音になった。
桜は、『通話終了』の表示の出たスマホの画面をしばらく見詰めていた。
桜と幸生の関係は、これで終わった。
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