#9 スケアクロウ
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【スケアクロウ】
1973年 アメリカ映画
監督:ジェリー・シャッツバーグ 出演:ジーン・ハックマン アル・パチーノ ドロシー・トリスタン
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◎
夕方のニュースで、地方のシネコンで事件があったことが伝えられていた。
『……きょう午後、映画館で男女2人が刃物で襲われるという事件が起こりました』
夕飯を控えリビングで寛いでいた幸生が“映画館”という単語に反応し、思わず点いていたTVモニタに目を向けると、画面に事件のあったシネコンの建物の外観が映し出された。
その見憶えのある風景を見て、幸生は「えっ」と声を洩らした。
――ここ、
春に、桜といっしょに映画を観たシネコンじゃないか……
ゴールデンウィークに桜に会いに行った。
そのとき、一緒に行ったシネコン。
幸生の中の茫洋とした記憶のあの映画館の映像が、モニタの画像に重なり鮮明に蘇った。
アナウンサーが抑揚のない音声で報道を続ける。
『……劇場のロビーにいた男性(21)と女性(17)が、カッターナイフを持った女に切りつけられ、男性が怪我をしました。病院に運ばれたものの命に別条はないとのことです……』
画面に、建物の入口に横付けされた救急車や、劇場のロビーで現場検証をしている警察官・鑑識の姿が映し出される。
――このシネコンの上映スケジュールで、桜と一緒に観る映画を決めていた……。
不安になった幸生は、ソファに沈めていた上半身を起こし、テーブルに放っていたスマホを掴むと桜とのLINEのやり取りを確認してみた。トークを遡ってみる。書き込まれた劇場名を確認する。
やはり、報道されているあのシネコンで間違いはない。
たしか今日は、桜の出演した自主映画がその劇場で上映される予定になっていた。
桜もその場に行っていたはずだ。
事件に遭遇しなかっただろうか。
ひょっとして、襲われた女性というのは、桜だったのでは……
報道では、17歳と出ている――桜と同じ年齢だ。
幸生の胸騒ぎが募る。
――桜に連絡をしてみようか。
スマホを手に握ったまま、幸生は逡巡した。
LINEのトーク画面で指をフリックさせる。
“ニュースで見た
シネコンで事件があったみたいだけど だいじょう”――
書きかけたところで、入力した文字をすべて消去し、画面を閉じた。
――もし、事件に巻き込まれていたのなら、かえって恐怖を煽ることになるかしれない。
せめて夜になってからメッセージを送ろう……
事件の報道はまだ続いていたが、桜を心配することでいっぱいで、もう幸生の耳にニュースの声は入ってこなかった。
『なお、犯人はその場から立ち去り、まだ逃走中、ということで、警察は周辺に注意を呼びかけています……』
* * *
夜が
画面をONにすると、最後に閲覧していた桜のLINEトーク画面が表示された。
少し考えてから、幸生は文字を打ち始めた。
“上映イベント、終わった?”
『既読』表示が
“うん 終わったよ”
とレスが付いた。
幸生は改めて
“そういえば、”――
と入力したが、思い直し、
ここまで書いたものを消すと、新たに
“電話いい?”
と書き込み送信した。
こんどは、『既読』が点いてからやや間を置き
“うん
いいよ”
とレスが表れた。
幸生は伝える言葉を整理する時間を置き、スマホを握り直すと通話のボタンを押した。
2度の発信音の後、
「もしもし――」
という聞き憶えのある声が幸生の耳に届いた。
「――ああ、桜?」
いざ実際に桜の声を聞いてみると、訊ねようと予め考えていたことが頭の中から霧散してしまい、幸生は次の言葉に詰まってしまった。
「その――」
短い沈黙が続き、幸生がようやく言葉を発した。
「ニュース、見たんだけど……」
「……あ……」
幸生の言の意味を察し、桜が圧し黙る。
「きょうの昼に起きた映画館の事件って、その……桜のとこのだろ? だから、心配になって……」
「――うん……」
幸生が受けて続けた。
「襲われたのが、17歳の女性、って言ってたから……ひょっとして、きみがそうだったのかな、と心配になって……きょうはたしか、きみの出た映画の上映があったよね。だから……」
幸生の言及に対して桜が遮るように被せる。
「あ、でも、私はなんにもなかったから。だから大丈夫。元川さんは襲われてケガしたけど……」
「モトカワさん?」
「あ、あの映画の監督の人」
秋彦のことはあまり幸生と掘り下げたくなかった。会話が途切れたため幸生は内容を逸らした。
「犯人、まだ捕まってないんだって?」
「そう、みたい……」
会話をしている最中、事件を反芻していた桜の口から、ふと言葉が漏れる。
「女のひと、だった。ていうか、女のこ……あたしと、おなじくらい……」
「え?」
口が辷ってしまったことを桜は悔やんだ。
今日起きたことを、なるべく触れたくなかった。詳細を伝えるのは控えた。
幸生に伝えて、心配をかけても仕方ない。
どうしてあの少女が自分を襲ったのか理解できなかったが、自分は無事だったのだから、黙っていよう。
そう思い、ふんわりと説明したつもりだったが、端々に見え隠れする具体を幸生は逃さなかった。
「女――じゃなくて、女の子、だったの……?」
躊躇いながら桜は「うん……」と返辞した。
――おんなのこ――少女……
それで報道もあまり詳細には触れないのか。
幸生は合点した。
「わからないの……私じゃなくて、元川さんを狙ったんだと思うし……」
嘘を、ついた。
ほんとうは、あの女の子は、自分を標的にしたのだ。
秋彦でなく。
けれど、いくら考えても、
理由は、わからなかった。
そのあとは、通話の空気がなんだかギクシャクしてきたので、どちらからとなく会話を切り上げることにした。
「じゃね」「うん、じゃ」
何かあったら報せて――そう言おうと思ったが、幸生が口にするより先に通話は切れてしまった。
『通話終了』の表示が出た画面を、幸生はぼんやりと見詰めていた。
* * *
自分の寝床に潜り込んでいることを菜津が自覚したのは、東の空に薄明が始まってからだった。
目醒めたあとも、まだ体の震えは続いていた。
昨日、帰宅後に母から夕飯の用意ができたことを告げられたが「いらない」と返辞をし、そのまま布団を被った。いつの間にか眠ってしまった。
カーテンを閉めずに寝てしまった窓から、次第に白む空の陽光が差し込む。
その光の作る、徐々に濃さを増す影の中に、菜津の心は
――あたし……あた、し……
答えの出ない苦悩が、菜津の中でぐるぐると渦を巻く。
為してしまったことの悔恨ではない。目的を為し遂げられなかった己への憐憫だった。
* * *
幸生たちの学校に月曜が来た。
新部長・ハイネの提案で、来年度の活動計画に関して議題とする臨時部会招集の通知があり、放課後に映画研のメンバーが部室に集まったが、菜津は姿を現さなかった。
遅れてきたヘンリーが「あれ? 緋色のヤツは? 来てないの?」と狭い部屋を一瞥して口に漏らした。
そういえば、今日は昼放課も見かけていない。そう幸生が訝しんでいると、ハイネが
「部活のグループトークで連絡したんですけど……緋色さんだけ、『既読』つけてないんですよね……」
と歯切れ悪く答えた。
「仕方ないから、もう俺らだけで開くか」
というヘンリーの提言に幸生が
「おいおい、もう俺たちは引退してんだぜ。実質、部員が1人だけで何を決めるっつうんだよ」
と反論する。
「じゃ、どうすんのよ」
ヘンリーが混ぜっ返すが、幸生は反論できずに口を閉ざしてしまった。
ハイネが二人の間に割り込み助け舟を出す。
「えと……とりあえず、ボクからいろいろ案があるんで、先輩たちから何か助言があれば……」
ヘンリーも「そうだな、そうすっか」と同意し、ようやく部会が回り始めた。
会議の間を縫って幸生は菜津にLINEで
“どうした? きょう部会だぞ 来ないのか?”
と促したが、既読も返信も付かなかった。
この日、菜津は学校に現れなかった。
* * *
幸生が家路に着く頃、陽はもう西に傾き、家々の後ろに顔を隠し始めていた。
議論が白熱し、部会がやや長引いてしまい、帰宅は普段の部活時間よりも延びてしまった。
家への路地を入ったとき、幸生は何か気配を感じ、歩を緩めた。
眼を凝らす。
街灯の明りの下に、ぼうっと小さな人影が佇んでいる。
その影が一歩前に出ると、街灯に照らされた姿が幸生に声を掛けた。
「――センパイ――」
幸生を見据え浮かび上がった菜津の顔は、青醒めて見えた。それが街灯の下で照らされた色味のせいなのか、菜津の思い詰めたような表情からくる印象なのか、幸生は判断できなかった。
家までの距離はあと数十歩だったが、幸生は路を外れ、黙って歩き始めた菜津に
先を歩く菜津の背中を眺めながら、幸生には或る不穏な考えが浮かんだ。
だが、それが何なのか、具体的な源を見極めることはできなかった。ただ曖昧な棘のようなものだけが心に付き纏った。
菜津のパーカーの小刻みに揺れるフードを眺め、幸生は無言で後ろを歩いた。
3、4分ほど歩いた距離に小さな公園がある。菜津は事前にその場所を知っていたように、迷うことなく幸生を引き連れて園内に足を踏み入れた。
公園の中ほどまで来ると、菜津は歩を停め、その場で立ち留まった。公園の中心にぽつんと佇む街灯がトップライトとなって菜津を上から照らす。頭の上部が反射し、幾筋の髪の艶が櫛目を際立たせる。肩に照射した灯りはハレーションを起こし、その対象で背中から下が闇に紛れ黒い躰の影が包み込む。
暫く動じることなく立ちったままでいる菜津に、見兼ねた幸生が背中越しに声をかけた。
「お前――きょう、部会に来なかったな」
ぴく、と小さく菜津の肩が反応する。
菜津の返答を待っていた幸生に、背を向けたまま菜津がようやく返事をした。
「ちょっと……気分が優れなくて……休んだんです、学校」
「そう、か……」
会話を続けるだけの相槌を幸生が返す。
菜津からの継ぐ言葉がないので、仕方なく幸生は話を続けた。
「ニュース、見たか」
「…………」
返答のない菜津に、幸生の胸は不安でざわついたが、確信があるわけではない。
とにかく、菜津の口から言葉が欲しかった。
幸生が続ける。
「日曜に、地方の映画館で、人が襲われたらしい……知ってたか」
返事はない。だが、菜津の躰が強張っているのを幸生は感じた。
「そこの……シネコンでは、学生映画のイベントが開かれてて……ちょうど先週、俺たちが観に行った、――そう、『シー・ファイブ』ってやつだ」
菜津の肩が微かに動く。
反応には気付いたが、幸生は話を続けた。
「――そこで、ちょうど居合わせた……桜――が、襲われた。一緒にいた大学生はケガしたらしい。それで……」
菜津の首がやや俯向いたように幸生は感じた。
「それで、桜の話では……
襲ってきたのは、自分と同じくらいの
幸生が菜津から目を
「犯人は……まだ……逃げ、て――」
幸生がそこまで言ったところで、菜津がひとつ息を吐き、掠れるような声でぼそりと呟き始めた。
「――ぁたし、 で す……」
「……え? ……」
幸生が訊き返す。
言葉をよく聴き取ろうと幸生が半歩近づこうとしたところ、菜津がくるりと体を向き直り、幸生をまっすぐ瞳を据えると
「……あたし、……あたし、なんです……」
と語りかけた。
「だって……だってだって……憎かったんです……あの、女が……あいつ……あいつさえいなければ、センパイは――幸生さんは、あたしの――あたしだけのものなのに……」
絞り出すような菜津の発言に、幸生は耳を疑うと同時に、心のどこかで『やっぱり』という諦念も抱いた。
立ち尽くす幸生に迫り、菜津が抱きついてきて
「あいつさえ、あの女さえ消えちゃえば、もう幸生センパイはあたしだけのものですよね!? あたし、こんなにこんなにこんなに、センパイのこと好きなんですよぉ……だから……だか、ら……」
と幸生の胸の中で慟哭した。
「おねがい、だから……あ・あたし、だけ、を……あたしのほうを向いてくださいよぉ……せんぱぁい……」
幸生は口を
圧し黙ったままの幸生に菜津が畳み掛ける。
「それに、あたし知ってます……向こうであの女、もう別の男と……」
その一言が幸生を拒絶に傾けた。
幸生は菜津を引き剥がし、払い除けた。
「止せ――」
だが菜津は尚も抵抗し幸生にしがみ付こうと抗う。
「だから――ね?? あんな女のことなんかもう忘れてねあたしを――あたし、だけを……」
そう語りながら菜津が幸生の首に腕を回し、
「――止めろっ!!」
全身に力を込めて掴む菜津の腕を幸生はようやく剥がすと、菜津も力尽きたのかへなへなと数歩後退り、諦めたように
「……どう し て……」
と呟いた。
それきり幸生は押し黙り、答えなかった。答えないことが何よりも雄弁に幸生の気持ちを語っていた。菜津は唇をぎゅ、と血の滲むまで噛んだ。菜津の網膜に映る幸生の横顔が歪んでいく。
菜津の瞳から溢れた涙がぽろぽろと零れた。
幸生は踵を返すと、振り返ることもなく公園を立ち去っていった。
残された菜津は、よろよろと力なく歩くと、ブランコの座台に座り込み、項垂れた。
支柱と繋がれたブランコの鎖がたてたガチャンという音が静寂に溶けていく。
公園の中で菜津の嗚咽が響いた。
「……う……う・う……うぅうう、う……」
闇の中で
菜津はその夜、家へ戻らなかった。
* * *
翌日。
菜津は登校しなかった。
あれきり、菜津からの連絡はない。
昼放課に幸生は菜津の教室まで足を運び、中を覗いてみたが、姿を見かけなかった。
ちょうど廊下で同じ階のクラスのハイネと鉢合わせたので
「緋色、見なかったか?」と訊ねたが、
「いえ、そういえば見ないですね」
という返事が返ってきた。
幸生は昨晩のことが気になった。
菜津からの告白。一線を越えてしまった行為。
一晩中考えていた。
このままにしていても、いずれはあの事件の犯人は特定されるだろう。
それなら、自ら出頭したほうがいい。
早く収拾をつけなければ、取り返しのつかないことになる。
菜津にそのことを促そうと考えたが、本人に遭えなければ説得の仕様もなかった。
別れ際、ハイネが
「緋色さんに、ちゃんと部会に出るように言っておいてください」
と伝言を頼まれれ、幸生は
「わかった」
と返したが、それは部長のお前の仕事だろ、と心中で愚痴った。
それに……
もう、事態はそれどころではない。
渡り廊下で中庭を覗くと、テニスコートで女生徒たちがゲームに戯れていた。キャッキャとはしゃぐ歓声が屋上のここまで届いている。
欄干に凭れそれを眺めながら、幸生はスマホを握り菜津へのメッセージを入力した。
LINEでDMを送ったが、既読は点かなかった。
吹き付けた北風が幸生の顔をこわばらせる。
急激に発達した低気圧がこの街に迫り、厳しい冷え込みが
空を仰いだ幸生が思わず呟く。
「雪になるかな、これ……」
幸生は白い吐息を残し、ベランダ伝いに外階段を降り校舎へと入っていった。
* * *
午後の6限目が始まる頃、校舎裏の通用門から人目を忍ぶように敷地に入る小さな人影があった。
私服のパーカー姿。
昨晩、幸生を訪ねたままの菜津だった。
よろよろと抜け殻のように建物にへばり着くと、菜津はゆっくりと非常階段を昇って行った。
カツン、カツン、と、静寂な校舎の壁に金属質の足音が沁みていく。
その音を72段数えたところで、屋上に達した。
地上から離れ遮るもののなくなった風がごうごうと真っ直ぐに菜津を襲い、体がよろける。
太い赤文字で『無断立入禁止』と書かれた札が架かっている金網に辿り着き、壊れている
日本アルプスを超えて訪れた北風が、木枯らしとなって菜津の心を吹き抜けていく。
強風に巻き上げられた銀杏の葉が、16メートル余りの高さのこの屋上にも扇形のモザイクを落としている。
そこにしばらく菜津は佇んだ。容赦のない風が菜津を貫いて行く。
シベリアから日本海を経て運ばれてきた灰色の雲がこの校舎の空を覆い、菜津の頭に重くのし掛かった。
6限の終わりを告げるチャイムの音が菜津の金縛りを解いた。
菜津は視線を下ろし、
音楽室からは、ブラスバンド部の管楽器の練習の音が漏れてくる。
それぞれが勝手に練習しているのか、全体の統率のとれぬ各々の楽器どうしの不協和音が続く。それが菜津の心の
その場にしゃがみ込む。
みるみる菜津の表情が苦悩へ、苦悩から悲嘆へと変貌し、嗚咽とともに瞳から涙が溢れた。
初めて幸生を映画館で見かけたのはちょうど一年前だった。
その瞬間から、菜津の心は幸生の残影に囚われ、幸生だけを想い続けてきた。菜津にとってこの一年は幸生がすべてだった。
その幸生が、いま自分の前から去ってしまった。
菜津の内に巨きな喪失感の空洞が抉られた。
手摺りを握る手の甲に、ちらりと白い結晶が触れ、溶け消えた。
視線を上げた菜津の目に、まだ11月だというのに、鉛色の雲から雪が降い落ちる光景が映った。日本海から中央山脈を越え吹き降りた雪雲が太平洋に面するこの地域まで到達し、風花をもたらしたのだった。
ちろちろと舞い降りる雪の華が、空いていたバレーコートでゲームに興じる男子生徒たちの上でダンスを踊った。
菜津はふたたび視線を天へ向けた。
空の青は鼠色の濃淡に隠れてしまい、あの澄んだ色を菜津の瞳に映すことは、もうなかった。
視界の雲がぐにゃりと歪んだのは、風が雲を押したからではなかった。
視線を落とす。足元の灰色の床の上に、菜津の目から零れた雫がぽたぽと落ちてはセメントの地に染み込んでいった。
校庭から16メートル。長く伸びたコンクリートの荒野には菜津だけが取り残されている。
菜津の心が呟く。その声が風に舞い、空へとかき消えていく。
――センパイ、あたしを……あたしの中で、あたしとひとつになってくれたじゃない……もう、あたしたち、繋がってるんですよ……
――おねがい……せんぱい……
――でないと、あたし……
――あたし……
“いざき”という名前と、学校の制服だけを頼りに、幸生を探し当て、辿り着いた。
彼に近づきたくて、近づきたくて、近づきたくて、
この高校に入った。
なのに、
どうして、
私の運命は、私を裏切ってしまうのだろう……
スマホを取り出した菜津は、幸生のLINE画面を開いた。
幸生からのメッセージが数回届いていたが、菜津はもうそれを見ようとはしなかった。
ゆっくりと文字をフリックすると、DMを送信した。
『既読』のマークが点いたのを確認すると、菜津は手摺を乗り越えた。
足がようやく置けるほど幅の狭い
握る腕に力を込めたのに合わせて、バッグにいつも付けていたマスコットが揺れた。
シネコンのオリジナルマスコットキャラクターのキーホルダー。
幸生とお揃いで買ったものだった。
菜津はそのマスコットを慈しむように両手で包むと、瞳を閉じ自分の胸に引き寄せた。
足下の教室で習った授業の内容が菜津の脳の中でランダムな記憶を結びはじめる。
「物理の授業で、習ったな。……重力加速度、毎秒9.8m……ここは4階だから、地上までの距離、3.6m×4階+屋上の床の厚さで……到達時間の計算式は……」
菜津の右脳が概算の解を導きだした。
「1秒と、ちょっと、かな……」
――ほんの1秒足らず。その間だけの恐怖。
だいじょうぶ。それさえ我慢すれば、いいんだ――
そう決断した直後、菜津は躊躇うことなく手摺りを乗り越えていた。
鉄の欄干から、力を喪った手が中空を彷徨う。ベランダの縁から足が離れる。
散り降る風花に誘われるかのように、
菜津の躰が、
舞った――
* * *
幸生がLINEのDMを受け取ったのは、駅のホームで到着した帰路の電車に乗り込もうとしたときだった。
ポケットに入れたスマホがブルルッと2度振動し、着信があるのを告げた。
習慣付いた仕草で取り出したスマホを操作し、画面を開く。
菜津のトーク画面に短いレスが付いていた。
“ だ い す き 。 ”
読んだと同時に電車のドアがプシュンと閉まった。モーターの起動音が床から幸生の足に伝わり、車窓の風景が後方に流れていった。
「なんだ、これ……」
どういうことかと訝しんだが、菜津はいつもいつも『あいたい』だの『だいすき』だのと一日何回も連投をしていた。今回も例のごとくのその類のDMだと幸生の頭は判断した。
そんなことよりも、まずは菜津と直接話をすることが先決だ。閉まったドアに寄り掛りながら、幸生は返信を入力した。
ドアに接触した肩からレールの継ぎ目の規則的な振動が伝わってくる。
画面をフリックしていると、耳の脇でカサカサと音が鳴っているのに気付いた。幸生が顔を上げると、窓に当たった白い粒が溶けた
「やっぱり、雪になったか……」
幸生は小さく呟いた。
――今年は、ずいぶん早いな……
温暖なこの地域としては、早い初雪だった。
思えば、桜が引っ越していって、もうすぐ一年になるのか。
そんなことを心に浮かべながら送信ボタンを押す。
“いま どこにいる?
話あるんだけど”
遠くで救急車のサイレンが通り過ぎ、掠れるようにかき消えていく。
返信を送ったが、『既読』の表示は点かなかった。
永遠に。
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