#8 風花

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【風花 kaza-hana】

 2000年 日本映画

 監督:相米慎二 出演:小泉今日子 浅野忠信 麻生久美子

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         ◎


 秋彦が『遠征』から戻って来て、すぐに桜にLINEで連絡を入れた。


“行ってきたよ、きみの地元”


 受信を確認すると、桜はすぐに返事を送った。


“おかえり”


 一瞬の間を置いて、レスを綴った。


“それに、”


“地元じゃないよ、もう”


 そうだ。

 自分にとって、あの土地はもう『地元』ではない。


 桜は、秋彦からの文字で、それを覚った。



 この週末、秋彦はゲストとして登壇の予定がなかったが、云わば「お忍び」で、桜の以前に住んでいた地域のシネコンに足を運んでいた。ひとつには、自分に縁のない場所での観客の反応を見たかったのと、もうひとつは、桜のいた地域を見てみたいという好奇心からだった。


 C5――“Cinema Complex Campas Cinema Competition”は、主要都市の選ばれたシネコンのみが開催地となっていたが、それでもおよそ20会場余を数える。桜がイメージしていたよりも大規模なイベントだ。映像用素材はオンデマンドで各会場へ供給。何ヶ所ものスクリーンで同時間に上映ができる。これはシネコンのシステムを活用した利点だ。


 フェスは全国同時一斉同一のプログラムが行われるわけではない。複数のシネコンを数グループに分け、それぞれのグループ毎に同じ期間で上映が催される。


「だからね、地域によっては、同時刻に、あちこちの場所のスクリーンで、同じ作品が上映されてるんだよ」


 帰ってきた早々に「会おうか」と提案され、下宿に赴いた桜に、秋彦が自慢げに桜に説明する。



――あ。だから、離れた別の劇場で、同じ時間に同じ作品を上映していたのか。



 秋彦から聞かされたC5開催のシステムを知ることで、桜は初めて幸生と決めたルールに理由があるのを知った。


 どうしても上映時期が被ってしまうので、すべてのイベントに制作者や監督がゲスト登壇するのはほぼ不可能で、概ね地元や近隣地域の監督がゲストに参加することが多かった。時には人気や知名度のある監督の作品などはライブビューイングで他会場へ登壇イベントの中継を行うこともあるが、秋彦の作品ではそのような措置はとられなかった。


 そして――次の週末には、この地域でイベントが開催される。


 秋彦は自作上映の際に監督として壇上に立つ予定だ。


 それに、桜も。



 秋彦が桜を呼び出したのは、表向きは週末に備えたC5登壇についての打ち合わせだ。同時に期間が被る秋彦の大学の学園祭への、桜の出演者としてのゲスト紹介のスケジュールも詰める相談だ。

 だが、会いたい理由はもうひとつあった。


 桜も秋彦も、互いの肌の触れ合いを求めていた。


 桜が秋彦の下宿の玄関のドアを閉めた瞬間、土間に靴を脱ぐのももどかしく、ふたりは唇を重ね激しく抱擁した。




 シーツに包まれ寄り添いながら、秋彦が桜にC5や学園祭のスケジュールについて説明をしたのは、互いの躰を求め合った後だった。


「これで、ボクたちの映画が、みんなに見てもらえるね」


 秋彦が桜のこうべを胸に抱えながら囁く。


「うん……」


 桜は、秋彦の胸板に軽く口吻をして応えた。

 心に、仄かな棘の傷みを感じながら。



――週末に、以前住んでいた場所で開催された、C5の上映。

  幸生くんは、観てしまったのだろうか……



 アマチュアの自主映画などには殆ど関心を示さなかった幸生が、わざわざ学生の映画祭に足を運ぶとは、桜には思えなかった。


 けれど――。



 一抹の不安が、桜の心を曇らせていた。



    *   *   *




「泊まってけばいいのに」


 下宿の玄関口で靴を履きかけている桜を、秋彦が呼び止めた。


「そうはいかないでしょ。あたしまだ高校生なんだもん」


 軽い口づけを交わすと、桜は「じゃね」と言ってドアを閉めた。

 カンカンと鉄階段の音が夜の静寂しじまに響く。秋深まる肌寒さを身に受けながら、桜は帰路についた。





 自宅に到着し入浴を済ますと、帰宅してすぐにベッドに放り投げていたスマホの着信灯が点滅していた。

 画面を点けてみる。

 LINEのトークが届いていた。

 自宅に着く頃を見計らって、よく秋彦がメッセージを送ってくることがある。今回もそうかな、と思ったが――違っていた。


 アイコンは、幸生のものだ。


 トーク画面を開いてみる。


“元気?”


 レスは妙に畏まった文言から始まっていた。


 やや躊躇いがちの桜の指が画面をフリックする。


“うん げんきだよ

 どうしたの?”


 やや間があってから、レスを告げるジングルが鳴った。


“べつに

 どうしてるかなとおもって”


 桜がどうレスをつけようかと思案していると、続いて受信があった。


“そういえば

 この前C5っていうのを見にいったよ”


 届いた短文が目に入ったとき、桜の思考は固まった。

 どう返事を書こうか。


 さんざん迷った末に、


“  そう  ”


 とだけ書いて送った。


 レスは、つかなかった。



 固く重たい空気が桜にのしかかる。


 自分は、何かレスポンスが返ってくるのを期待していたのだろうか。

 それとも、次にどんな言葉が投げられるのかを、恐れているのか。

 桜は、自分が何を望んでいるのか、わからなかった。

 




 深夜になって、幸生からのレスが再開した。


“いま ちょっといい?”


“うん へーき”


 数分が過ぎ、幸生からの続きが届いた。


“ちょっと、直接話したいんだけど

 いい?”



 桜の指がスマホの上で留まる。

 文字を打ってから送信ボタンを捺すまで戸惑いがあった。

 1分ほど指が宙を漂った後、ようやく画面のタッチセンサが反応した。


 トーク画面にレスが反映される。


“いいよ”


 少しの間を置いて、通話の着信音が桜の掌を震わせた。


 ONをクリックする。


「――もしもし?」


 久しぶりの、懐かしい声が桜の鼓膜に響いた。

 大いなる不安を抱えて。


「……もしもし?」


 常套句だけ返したが、桜の唇からは次の句が出ない。

 桜の沈黙に気付いたのか、電話口の向こうの幸生が言葉を継いだ。


「その……元気?」


「さっき聞いた」


 桜の突っ込みに、クスリ、という息がスピーカーを通じて届いた。

 ちょっだけ、空気が和む。


「ひさしぶりだね、こうやって話しするの」


「そう、だね」桜が応える。


 ふたたび沈黙が覆う。


 幸生が何の話をしたいのか、薄々は気付いている。

 だが、桜は相手がその話題に触れるまで、口を開くのを控えることにした。



 無音が続き、机に置いてある目覚まし時計の針が午前0時を指した。

 もどかしさを紛らすためか、桜の口が、考えるともなく目に映った風景を描写した。


「てっぺん、超えちゃったね」


「テッペン? なに? それ」


 桜の放った聞き慣れない単語に幸生が反応した。桜が返答する。


「午前0時を回ることだよ。撮影なんかの現場ではね、それを『天辺てっぺん超え』っていうんだって」


「あ、そういうことなんだ……へえー」


 言ってしまってから、しくじったと桜は悔やんだ。


 “てっぺん超え”という慣用句は、撮影中に秋彦たちが呟いていた言葉だ。

 プロの現場で普段交わされる用語らしい。秋彦たち大学映研のメンバーが憧れの気持ちも込めてそれらの単語を多用していた。時計の短針が、アナログ時計の頂点に座している『12』の文字を超えるのをそう呼ぶ。

 この言葉を知って少し経ってから、桜は、アナログ時計を眺めてその言葉の意味を知った。


 桜も、映研のロケに同行するうち、その言葉使いに馴染んでしまった。それが幸生との会話でつい漏れた。


 しまった、と思ったが、発した言葉はデジタル信号となり瞬時に幸生の耳元のスピーカーまで届いてしまった。

 会話の中で、言外に『誰かから得た知識』という含みがあったことを、悟られなかったろうか。


 だが、幸生は『誰から聞いたのか』ということは、訊ねなかった。

 気づかなかったのか、知らないふりをしていたのか。


 言の端を捉えられぬよう、話を逸らそうと「そういえばね、」と桜が口を開く。


「その……じつは、ね……

夏休みに、こっちの大学の、映画研の人に誘われて……自主映画に参加したの」


 これまで、このことを告げたら幸生がどう勘ぐるか、ということばかりを危惧していたが、むしろ桜の胸でずっと重しとなっていたものが解け、ようやく伝えることができた、という安堵のほうが強かった。


「……そう……」


 少し間を置いてから、幸生が続けた。


「そうか……やっぱり」ぽつりぽつりと言葉が届く。「……こないだ観た、から……」


「ごめんね……なんか、黙ってて」


 桜が会話の流れを翻す。


「あぁでも――でもね、まさか入選して、日本中で上映されるなんて、思わなかったから……」


「うん……いいよ、それは」


「ホントに、ごめんね……」


 こんどは話の詰まった桜に代わり、幸生がリードをとった。


「どうやって出演することになったの?」


「え……なんか、映画館で声、かけられて……『ウチのサークルの自主映画に出てくれないか』って」


「いきなり?」


「そ・そうそう、そうなんだ……ちょうど幸生くんとの映画の約束しててシネコンへ行ったときに……」


「へえ……なんか、スカウトみたいだね」


「うん――ホントに、スカウト」


 会話の最中でも、桜は内容に踏み込まれないかと気を配った。


「その、さ――綺麗だったよ、映画の中のきみ」


「あ……ありが、と」


 幸生もまた、質問が深く踏み込まなてよう、気を配っているように桜には感じた。

 お互いが、本当に訊ねなければならないこと、話さなければならないことを、避けている――数千キロを隔てた電波のシグナルで、そんな会話が続いていた。




 桜は嘘はついてない。


 ただ、その声をかけてきた大学生が、どんな相手で、その後どんな交流が続いているのかは、


 ――言えなかった。



 その後は、次の週末には桜の地域でもC5があるとか、出演者だからいちおうステージに上がって挨拶をするなど、予定の報告だけに留まった。

 桜は自分の出演した作品が日曜に上映されることを告げた。


「見てみたいな、桜のステージに上がる姿」


「はずかしいよぉ、そんなの」


 幸生の相槌に桜が照れを返したが、二人の会話はどこか空々しさが漂っていた。

 それからは、特に中身のない話題が続き、それも途切れると、どちらからともなく電話を了える雰囲気を感じとった。


「じゃね」「うん、それじゃ」「おやすみ」「おやすみ」


 就寝の言葉を交わし、通話をOFFにする。

 桜は大きく、ふう、とひと呼吸吐くと、ベッドにどさりと伏せった。

 寝返りをし仰向けになる。

 天井の模様が桜の瞳を染める。


 桜は、ぼんやりとモザイクのような模様を眺め続けた。

 テキスタイルの文様を目で追っていると、心に思考が浮かんでは消える。桜はその連想に任せるにした。


 幸生との対話が済み、桜の気持ちは凪のように穏やかだ。


 どちらかといえば、桜の心地は、ずっと抱いていた重しがようやく降ろせた、という安堵の気持ちのほうが強かった。



 だが――

 これで気掛かりが晴れたわけではない。



 明彦とのこと。


 幸生とのこと。




 いずれは、結論を出さなければならないことは、桜も自覚していた。





 ただ、



 今は――






 思考を泳がせているうち、桜は深い眠りに落ちていった。



    *   *   *



 昼放課。

 菜津は2年生棟で幸生を探していた。

 日曜にシネコンで部活動としてC5上映会へ行って以後――正確にはその中のあのやたらと長ったらしいタイトルのプログラムを観て以後、だ――幸生が沈んだままなのを見ているのは、菜津にとっても辛いことだった。

 少しでも、彼の心の負担を軽くしてあげたい――だが、いったいどうすればいいのか、わからなかった。


 菜津にできるのは、ただ幸生に少しでも長い時間、いっしょに居ることしかなかった。


 この昼の休み時間が過ぎてしまえば、あとは6限の終わった時間しかない。

 けれど、きょうは部活のない曜日だ。見逃して帰宅されてしまうかもしれない。


 4限終了のチャイムが鳴ると同時に菜津は教室を飛び出し、机の脇に掛けていたミニトートバッグを引っ掴むと、幸生のクラスまで疾駆した。

 1年棟と2年棟の間の渡り廊下を駆け抜ける。授業の終わった教諭が、菜津とすれ違いざまに「廊下は走るなよ」と声を掛けたが、菜津は無視した。

 逸る心が脚の筋肉を動かす。

 ようやく幸生の教室に辿り着き、中を覗いたが、幸生の席はもう空になっていた。


「あの……井崎先輩、どこ行ったか知りませんか……?」


 ちょうど出てきた生徒の1人に菜津は問いかけてみたが、「さぁ」という素っ気ない返事だけを残して階段のほうへと去っていった。

 教室を抜け、反対側のテラスへと出る。数人の生徒が机と椅子を持ち出し弁当を広げている。そこにも幸生の姿はない。

 テラスの手摺に体を預け、見下ろしてみる。眼下の中庭では、男子生徒たちがバスケットゴールを囲みゲームに興じている。


「どこにいるのよぉ、センパイ……」


 次第に菜津の苛立ちは幸生へと向かう。思わず掴んでいた欄干を拳で数度叩き、怒りをぶつける。


「もぉっっ」と舌打ちし地団駄を踏むが、それで幸生が見つかるわけではない。


 欄干から身を乗り出すように真下を探索するも、発見できないフラストレーションは募るばかりだ。



「お前なにしてんだ、こんなトコで」


 ふいに背中から声をかけられ、振り返ると、探していた相手がすぐ後ろに立っていた。


「どこ行ってたんですかぁ~、もうっっ」


 ぷりぷりと怒りをぶつける菜津に、理由も解らぬ幸生が戸惑いながらも


「どこって、コンビニへメシ買いに行ってたんだけど」


 と返し、レジ袋を指し示した。

 カサカサと音を立てながら幸生が中身を取り出す。惣菜パン2つとあんぱん、それとペットポトル飲料。


 それを確認した菜津の口から「あー……」と溜息が漏れた。


「……え? な・なんだよ、どうしたんだよ」


 菜津の態度に戸惑う幸生の前に、おずおずと手に提げていたトートバッグが差し出された。


「あの……おべんと作ってきたんですけど……いっしょに、食べてもらえます?」


 ようやく意味を覚った幸生は自分の持ったレジ袋と菜津のトートを交互に見交わし

すと、


「ま、パンは後でも食えるから……」と言い、レジ袋を背中に回し


「いいけど」と答えた。「帰り道にでも食べるよ」


「ホントですかぁ!?」菜津が破顔する。「やったぁーっ」


 言うが早いか、菜津は幸生の腕を掴むと、テラスを渡り棟を繋ぐ廊下へと連れ出した。


「お、おいっ……」



    *   *   *



 最上階、棟の間の渡り廊下は屋根がなくちょうどテラスのような構造になっている。きょうは晴れていて外の空気が心地いい。菜津は幸生を段差のある桟に座らせると、隣にちょこんと腰掛けた。トートバッグから2つのタッパーを取り出し、やや大きめのほうを幸生に手渡した。


「ハイッ」


 受け取った幸生がタッパーの蓋を開ける。海苔を履かせた三角おむすびがふたつ。レタスの隣にはおかずカップに入ったポテトサラダ。卵焼き。タコをかたどったウィンナが4つ。


「今朝ね、早起きして、いっしょぉけんめい作ったんですよぉ。――あ、デザートもありますからね」


 そう言うと、別のタッパーを取り出し、掌の中で開いてみせた。カットしたリンゴに楊枝が刺さっている。「残さず食べてくださいね」


「あ……ああ、ありがと」


 軽く礼を言った幸生は、添えられていた小さなフォークを掴むと、まずはタコのウィンナから手をつけ始めた。黒ゴマで丁寧に目が付けられている。それ以外は卵焼きにせよポテトサラダにせよそれほど手間はかかっていないようだが、菜津にとっては大仕事だったのだろう。


「うん、うまいよ」


「よかったぁーっ」


 ひと口食べ終えるまで凝っと幸生の顔を見詰めていた菜津が、その感想に安心したのか、自分のお弁当をようやく開き三角おにぎりにぱくついた。


 食事を続けながら幸生が周囲を見渡す。

 同じテラスには他に2組の女生徒の集まりがいて、昼食とダベリングに勤しんでいる。

 その光景をぼんやりと眺めていると、ふいに菜津が


「どうかしましたか? センパイ」


 と声をかけた。


「いや――べつに。ただぼんやりしてただけ」


 そう返事をしたものの、菜津は「うん……」と浮かない表情をみせた。

 食事の手が止まった菜津を怪訝に感じた幸生が言葉を返す。


「どした?」


「……え、と……」


 口籠りながらぽつりぽつりと菜津が言の葉を繋いだ。


「あの……あの、ね……

あのひと、なんですよ、ね……」


 どきり、としながら幸生がはぐらかそうとする。


「……何の、こと……?」


「あたし、知ってる……知ってたんです……日曜の、あの映画に出てた……

あの女のひとって、センパイの……」


「どうして、それを――?」


 突然の暴露に動揺を覚えながら、幸生は記憶のあやを解きはじめた。


「だってお前、この春からこの学校に――桜の――あいつのことなんて、知らないハズだろ? ……」


 ふたりの間に硬直した時が続く。


 菜津は幸生の視線から逃れるように目を逸らすと、溜めていた気持ちを絞りだすように、ぽつりぽつりと語りだした。


「見てたんです。去年。センパイが、あの女のひとと一緒に映画館にいたトコ……」


 その菜津の告白は幸生にとってすべてが予期せぬものだった。


「ずっと、言わなかったけど……言わないでいるつもりだったけど……あたし、去年から、センパイのことを知ってた……知ってて……」



――知って、いた?

  自分と、桜のことを??



 幸生の混乱を無視するように、菜津が捲し立てる。


「あたし……あた、し……去年あの映画館で、センパイを見てから、ずっとずっとすぅっと探し続けて、ここの高校の生徒だってわかって……それで、いっしょうけんめい、がんばってがんばってがんばって勉強して、ようやく合格できて、ここに入学したんです……だから……だか……ら……」


 幸生は全身が硬直したまま菜津の言葉を浴び続けていた。


 気づけば、テラスにたむろしていた女生徒のグループは皆いつの間にか姿を消してしまっていた。食事を了えて教室に戻ってしまったのか。あるいは幸生と菜津のただならぬ雰囲気を察知し居たたまれずその場を離れてしまったのか。吹き曝しのコンクリートの床にひゅうと風が通り抜けた。どこからか飛んできた紙切れが隅でくるくると踊っている。

 カサカサという紙の立てるリズムが幸生と菜津に届く。


 それにかき消されるように、菜津の鼻を啜る音が幸生の耳に響く。幸生はあえてその音から注意を逸らそうとした。



 鼻音に紛れるように、菜津が呟く。


「ね……あのひとのことなんて、もう忘れて、あたしと……

あたしのほうを、見てくださいよぉ……」


 絞り出すようにその言葉を言い了えると、菜津は口をつぐんでしまった。


 沈黙がテラスを覆い、長い時間が過ぎたように、ふたりには感じられた。




 昼休み終了を告げるチャイムがスピーカーを通じて校内に響いた。



 食べかけの弁当タッパーを閉じると、幸生は菜津に突き返し、


「お前には、関係ない……関係ないことだ。踏み込むな」


 と云い捨て、テラスから立ち去っていった。




 午後の本鈴が鳴っても、しばらく菜津はその場から立ち上がることはできなかった。



    *   *   *



 放課後になり、菜津はふたたび幸生を探しに2年生棟へと向かったが、

 幸生は先に帰ってしまって落ち合うことはできなかった。




 よたよたと歩を進めながら、菜津は帰途についた。

 幸生を気遣う悔しさと、想う切なさが混濁し雫となって頬を伝い落ちた。



――彼のために、なにかをしてあげたい。


  彼のためなら、どんなことでもできる。


  誰よりも、強く、

  彼を想ってるから――




  私には、その覚悟があるから……


  命懸けで、彼を――――





 菜津の心の中で、ひとつの決心が湧き上がっていた。



    *   *   *



 翌日の放課後は部活の日だったが、映画研に菜津は現れなかった。

 昨日の今日、ということで、幸生は少し不安になった。


 ハイネが菜津の隣りのクラスなので訊ねてみたが、新部長からは「なんか、きょうは休んでるみたいです」とだけ返ってきた。


「ホントは今日の部活で、来年度に向けての年間計画や部員増のアイデアを相談しようと思ってたんですけど……緋色さんがいないんじゃ、話も進まないですね。来年の文化祭には、短編でもいいから何か新作撮って上映ができれば、と思ってたんですけど……」


 諦めとも愚痴ともとれるハイネの独白に苦笑いしながら、幸生は菜津のことを気にかけた。


 いつもつきまとっている菜津がきょうは姿が見えないことに疑問を持ったヘンリーが幸生に


「あいつは? どうしたんだよ、いっつもチョロチョロつきまとってたじゃん」


 と声をかけた。


「知らないよ、俺は」


 幸生が素っ気なく返辞をする。


「そういえば、先週C5で観た映画でさ、女の子が出てたやつあったじゃん。あの娘、どうもどっかで見たことある気、すんだけどなあ……」


 ヘンリーが何も考えていない思いつきの言葉を口に漏らす。

 幸生は同意も否定もせず、ただ曖昧に「ああ」とだけ相槌を打った。



――こいつが鈍感でよかった。



 幸生は思った。



――いや、こいつの場合、他人にはとことん関心なんて、ないのかもしれない。




 菜津が休みとなれば、正規の現役部員はハイネ1人だ。

 ヘンリーや幸生と活動についての相談をしても、あまり意味はない。もとより来年3年生に進む彼らは活動に口出すのは遠慮したい。


「じゃ、俺は先に帰るから」


 幸生はそうハイネとヘンリーに告げると、そそくさと部室を後にした。




 駅で到着した電車に乗ると、幸生は車両が空いているにも拘らずドアの端に佇んだ。

 窓外の家や木々が次々と流れていく。その風景が時折線路に添う鉄柱で遮られる。

 線路の継ぎ目がガタンガタンとリズミカルに時の過ぎるのを刻む。



 揺られながら、幸生はこれまでの映画研での自分を振り返っていた。


 考えてみれば、もともと自分がこの部に出入りすることになったのも、ヘンリーの横車だ。あいつに無理矢理部員にされたのだ。


 最初の入部のきっかけは……



    *   *   *



 日曜日、

 菜津は始発で地元を出発し、昼前には現地へ到着した。

 ここは、菜津たちの太平洋側からみて真裏、日本海を臨む北陸の湾を囲む都市だ。


 急行列車からターミナルの駅へ降り立った瞬間、菜津は



――潮の香りがする――



 と思った。



 家には黙って出てきた。

 父母は、まさか娘が日本列島の反対側まで遠出をしているなんて、思ってもみないだろう。

 それに、どうせ日帰りだ。夜までに帰宅すれば、親は何も気づくまい。



 改札口を出て、駅前広場に出た菜津は、ぐるりと周囲を見渡した。

 意を決したように深く呼吸いきをする。腹腔に海風の湿気が沁み入る。

 駅はかなり内陸に位置している筈だが、周辺に漁港から届く微かな魚の匂いが漂う。


 背後には、建物の後方に霞む日本アルプスの連峰。


 駅を彩る、見慣れぬ観光スポットのポスター。


 ご当地の名産品を告げる色とりどりののぼり


 城下町の雰囲気を残す街の佇まい。


 地を這うように進む路面電車。



 何もかも、自分の住む土地とは別の空気が感じられた。



 スマホの検索バーで、シネコンのスケジュールを確認する。

 C5。

 作品名『SAVE THE DISGUSTING WORLD』の上映時間。


 タイトルをクリックするとプログラムのページが表示され、スタッフ/キャスト欄に目が行った。


   ・監督/元川 秋彦


   ・出演/荻野 桜



「おぎの、さくら……」


 菜津は画面の文字を声にして呟いた。


 シネコンに置いてあったフライヤーでは監督名しか表記がなかった。

 このメインビジュアルの少女――幸生と関わりのあるひと――の名前がフライヤーやポスターにあれば、あるいは幸生も事前に気付いたのかもしれない。

 突然スクリーンに現れた彼女の姿に、ショックを受けることもなかったかもしれない。


 そう思い返すたび、菜津の中で悔しさが湧き起こった。



 部活には出席していないので、あれ以来幸生とは顔を合わせていない。

 休み時間も、昼放課も放課後も、なるたけ2年生棟からは遠去かるようにもしていた。

 幸生の顔を見てしまえば、また感情が揺り動かされる。


 菜津はもう、冷静さを保つことができなかった。


 己の心に決着をつけなければならない。

 その覚悟と決意が、菜津を行動させた。




 菜津がこの地を訪れた目的は、ただひとつだ。



 菜津は市電に乗り換えると、目指すシネコンの最寄り駅へと向かった。



    *   *   *



 菜津の住む地域とは違い、この街は市電が縦横に市内に張り巡らされている。

 スマホアプリの乗換案内で目的地を入力すると、鉄道を使うよりも便利そうだということが判り、それに従うことにした。


 車と並走して路面を走るトラムに乗るのは初めてで、菜津は物珍しさを感じた。見慣れない街の風景を眺めていると、しばしば新鮮な経験が心配を上回ったりもした。


 沖合を暖流が通過する影響もあり、ここ数日温暖な気候が続いていた菜津の住む太平洋側とは違い、日本海に面したこの地域では大陸に控えた冬将軍が足音を忍ばせ接近しつつあり、んやりとした空気が街を覆っていた。

 ブラウスの上にパーカーだけを羽織って家を出てきた菜津は少し後悔した。


 だが、今更仕方がない。

 両肩を掌でさすりながら、菜津は天を見上げた。

 曇天が少しずつ重く自分の頭上にのし掛かってくるようだった。



 乗り換えを一回経て、シネコンの入るショッピングセンター近くの停車場に菜津は降り立った。



    *   *   *



 昼過ぎに桜は家を出て、シネコンに向かった。

 市電を待つ間、腕時計を気にして眺める。上映は午後からだ。ゆっくり行けば充分間に合う。


 11月の最終の土日となったこの日、日本海から流れ込む寒気はこの平野の地面を冷やし、ひんやりとした風を街の中へ送り込んだ。冬の足音はすぐ近くまで聞こえてきている。


 昨日は秋彦の大学の学園祭に行った。撮影のときに顔馴染になった映画研のメンバーが桜を歓迎してくれた。来年は高校3年生になる桜に「ウチの大学に来なよ」と皆が言ってくれた。桜もまんざらではなかった。


 何より、この大学には秋彦がいる。


 春が訪れれば、自分の気持ちも固まるだろう。桜は漠然とそんなことを考えていた。




 ショッピング・モールに到着すると、シネコンのロビーには前日会った映画研のメンバーが半分ほど集まっていた。

 きょうのプログラムで上映される作品の制作グループらしき集団も、同じロビーにちらほらとたむろしていた。皆学生なのですぐにそれと分かる。


「やあ。来たね」


「おはよう」


 映画研の面々がそれぞれ桜に挨拶を交わす。

 桜も「おはようございます」と返した。


「いよいよ、だね」


 秋彦が桜に声をかける。


「はい」


 秋彦と目が合うと、桜は


「あ……じゃあ、ちょっと着替えてきます、ね」


 と断り、化粧室へと入っていった。



 個室の鍵をかけ、持っていた紙袋から白いセーラーブラウスを取り出す。

 桜が撮影で着用していた衣裳だ。


 昨日、大学へ行った際、秋彦から「これを着て、ステージに上がってくれる?」と渡された。

 家から着て来て皺になるのは避けたい。それに、見知らぬ服を絵笑子に見つかり突っ込まれたりするのもなんとなく困る。桜の選択は現地で着替えることだった。


 久しぶりに衣裳に袖を通しながら、


「懐かしいなあ……」


 と桜は思わず囁いた。


 秋彦や映画研の仲間たちとの、あの暑くも楽しい夏の日々が心に蘇った。

 洗面台の鏡で制服の胸のリボンをチェックし、桜は化粧室を後にした。



    *   *   *



「お待たせー」


 桜が着替えを終え戻ってくると、ロビーには秋彦だけが待っていた。


「あれ? みんなは?」


「もう、先に客席に行っちゃったよ」


 桜の問いに秋彦が答える。


 周りを見れば、たむろしていた学生のグループもその場からは消えている。彼らもおそらくもう会場へ入ってしまっているようだった。

 入口の掲示板には、会場であるスクリーンに「入場中」の表示が点滅をしている。


「じゃ、俺たちも入ろうか」


「うん」


 秋彦に促され、桜は一緒にゲートを入っていった。



 壇上の挨拶は上映後の予定だ。それまでは観客席で待機となる。

 ステージに上がるのは、監督である秋彦と主演の桜だけの予定だ。

 桜は緊張しながら会場スクリーンへの通路を歩いていった。



 劇場に入る桜たちを、距離を置いて睨むように見詰める少女の姿があった。





 シネコンの複合ビルに入り、エスカレーターを昇って劇場のロビーに入ると、菜津は掲示で改めて上映時間を確認し、チケットカウンターの列に並んだ。日曜の映画を楽しむべく、7、8人の客が目当ての作品のチケットを求め連なっている。

 購入を待つ間、菜津はロビーをぐるりと見渡してみた。

 家族連れや若いカップル、高校生らしき男子数人のグループとは別に、明らかに学生仲間の数人ずつのグループがロビーのあちこちで輪を成している。

 あの辺りのグループが、おそらくC5目的で来ているのだろう。菜津はそう予想した。

 だが、その各グループの面子を隈なく凝視してみても、菜津の頭の中のイメージと一致する顔の人物は確認できなかった。


「ご希望の作品名をお伝えください」


 菜津の番になり、カウンター越しにスタッフがにこやかに問いかける。


「あ……C5の、えと……Bプログラム、を……」


 座席を確保し、スマホで時間を確認する。まだ開場まで30分余りもあった。


 菜津はできるだけ目立たないようにと、グッズコーナーの棚の背後に隠れるよう位置すると、陳列商品越しにロビーに視線を送った。この場所からならこの空間のほとんどのものを視野に入れることができる。


 暫く窺っていると、玄関口から1人の少女が入ってきて、中のひとつのグループに向かって小走りに駆け寄っていった。学生の集団が彼女を迎え入れ、言葉を交わすのが見えた。



――いた。

  あのおんなだ。



 目標となる個体を捉え、菜津の視線が彼女にズーム・インする。



 彼女が加わったグループは雑談を続けていたが、ほどなくロビーに現れた男性がその集団に近付き、加わった。

 その男性の顔を確認し、菜津は強ばった。



――あのひと、たしか……



  そうだ、

  先週、地元のシネコンでハイネくんと話をしていた……



 菜津の中で、パズルの欠片かけらが組み合わされつつあった。





 遠目で様子を窺う菜津には気付かずに、桜は秋彦に会釈すると一旦集団から離れ、暫くして着ていた服を着替えて戻ってきた。

 菜津はその服に見憶えがある。

 あれは、あの女――桜が映画の中で着ていた衣裳だ。


 桜が着替えのため場を離れている間に、入場開始のアナウンスがロビーに流れ、他のメンバー達は既に劇場のほうに向かっている。1人だけ、菜津の記憶にあった学生――秋彦だけが、桜の戻るのを待ち、戻ってきた桜と合流すると揃って入口へと進んでいった。


 歩きながら、秋彦が桜の背中に手を添えるのを菜津に確認できた。


 その光景を見遣りながら、菜津の心に渦巻くものがあった。


 疑念、疑念、――疑念。


 あのふたりの関係を訝しみながら、菜津は少し間を置いて劇場に入っていった。

 気配を殺し観客席へと進む。最後尾の列の席をとっていた菜津は場内を見回しながら自分の席へと着いた。

 菜津が着席すると、すぐに開始のチャイムが鳴り、場内が徐々に暗転した。


 暗くなりつつある場内に、菜津は前方の席で並んで座る桜と秋彦の姿を認めた。



    *   *   *



 桜と秋彦はゲストとして招待券で入場した。主催者側が用意した関係者席はホールやや前寄りの場所だった。


「挨拶は、上映後にあるからね」


 秋彦の声掛けに、桜も


「うん」


 と返事をした。


 監督である秋彦はもちろん、桜も“主演女優”として紹介をされる。

 あのスクリーンの前の舞台に立ち、何か言わなければならないのか。

 不安は桜の意識を自分があの場に登壇したシミュレーションにいざなった。思わず体を反らし、観客席の様子を見る。

 振り返ると、大学の映画研のメンバーがこちらに向かって手を振った。

 桜もそれに応じて小さく手を振ったが、着席している全員の目がスクリーンに・ステージに向けられているのを実感し、緊張が高まった。


 気持ちを落ち着かせるいとまも無くホール内にチャイムが響き、場内が次第に暗転していった。


「さ、いよいよ始まるよ」


 秋彦の言葉にも、桜はもう応じることができないほど胸が鳴っていた。



    *   *   *



 本編の上映中も、桜はその後にある登壇のことで頭がいっぱいで、映画には集中できなかった。

 自分たちの作品なら既にストーリーは分かっているが、併映されていた他の作品について、どんな内容なのか桜は殆ど把握できなかった。



 上映が終了し、ホール内がふたたび明るくなる。

 イベントらしく場内からは拍手が起きている。それがまた桜の心を緊張させた。


 ステージの袖から司会の者が現れ、


「さ、それでは只今上映した各作品の監督・出演者の皆様に登場してもらいましょう。皆様も拍手でお迎えください――」


 というアナウンスとともに各作品の登壇者の名を読み上げていく。


 秋彦が自分の名を呼ばれると、


「さ、行こうか」


 と隣の桜を促し、桜の手を握り揃ってステージへと向かった。


 秋彦と桜は観客たちに拍手で迎えられながらステージへの階段を昇っていった。

 すべてのゲストの登壇が終わり、各作品名とその登壇者たちの紹介が行われる。


「――それでは、続いて『SAVE THE DISGUSTING WORLD』の元川秋彦監督と主演の荻野桜さんです――」


 自分の名を呼ばれ、桜はぺこりとお辞儀をした。

 場内の拍手のシャワーを浴び、桜は更に硬直してしまった。


 劇中の衣裳を着てステージに上がった桜に「かわいー」と声が飛ぶ。

 桜の顔がますます真っ赤に染まり、顔を両手で覆った。それがまた観客の受けを呼び場内が和む。



 映画の中で桜が着ていたセーラーブラウスタイプの制服は、秋彦の妹が高校で使用しているものだ。

 袖を通してみると、桜にはややサイズが窮屈だった。自分よりも細身であろう秋彦の妹のスタイルを想像し、撮影時、桜は少しだけ嫉妬した。


 白でコーディネートされた清潔感のあるルック。こんな制服もかわいくていいな、と桜はステージの上で照れながら心がくすぐったくなっていた。






 ステージの盛り上がりに反して、観客席の最後列に座る菜津の心中はざわめきを覚えていた。



    *   *   *




「ふぅー」


 イベントが終了し安堵した桜は、空気の抜けた浮き輪のようにロビーのベンチにぺたりと腰を落とした。


「疲れた?」


 秋彦が声をかける。


「うん、ちょっと」と桜が答えた。


 桜はあまり人前に出て自分をアピールするのが得意ではない。ステージに上がって大勢の観客の視線を浴びることなど、自分の人生で想定もしていなかったことだ。


「がんばったからね。ありがと」


 すっかり気疲れしてしまった様子の桜をねぎらうように優しい言葉をかけながら、秋彦は隣に腰を落とすと、そっと桜の頭を撫でた。

 桜は周囲を気にしながら、甘えるように秋彦の肩に寄り掛り体を預けた。桜の体温と重みが秋彦に伝わる。秋彦は何も言わず桜のするに任せた。



 映画研のメンバー達は、秋彦と桜を気遣ったのか、二人に「先に帰るよ」と声をかけるとロビーから退出してしまった。彼らはまた大学に戻って学園祭で映画研の上映展示を仕切らなければならない。人手を割いてC5のイベントに集まっていた。


 桜が、残った秋彦に


「いいの?」


 と訊ねると、秋彦は


「ああ――みんな、気を回してくれたみたい」と返した。


「ふーん」


 撮影以来、二人の仲はサークルの中では公認の間柄となっていた。


 桜は改めて、ロビーの人目がまばらになったことを確かめると、秋彦の肩にこうべを預けた。

 秋彦も顔をやや桜のほうへ向け、髪の匂いを嗅いだ。


 この数日は、秋彦の大学の学園祭の準備や、この上映イベントに向けての地妖星などで、ふたりだけで過ごせる時間が極端に少なくなっていた。


 互いに言葉を交わさずとも、この時間を共有したいという想いが通じていた。



――これから、どうしようか……


  どう、したいの、かな……



 桜の躰の芯が疼き、秋彦を欲しているのを自覚した。

 けれど、女のほうから求めるのは、恥ずかしかった。


「あの、ね……」


 言いかけたが、言葉を飲み込む。


「なぁに?」


 秋彦が言葉を返す。

 けれど、桜はそのキャッチボールを返すのを躊躇った。

 秋彦に、ふしだらな自分を晒すのは止したい。できたら秋彦のほうから誘って欲しい。


 秋彦はそんな桜の地団駄な心根を覚ったのか、わざと焦らすように桜の手の甲に自分の掌を乗せ、そっと撫でた。


「……あ……」


 くすぐったさを感じた桜が手を引っ込める。

 引いた手をもう一方の手で撫ぜ、いま感じた触覚の続きを反駁する。


 触れ合いが、互いの欲情を繋ぎ合い、話さなくともこれからの行動は既に合意の下にあった。



――まだ、いっしょに、いたい――



 手の甲の感覚が落ち着いた桜は、慰みに胸の制服のリボンをもてあそびながら、気持ちを切り替えると、


「そろそろ着替えるね、これ」


 と秋彦に告げた。


「ああ」


 秋彦の返事を受けると、桜はベンチを立ち上がり化粧室へ向かっていった。







 売店の陳列棚の影に隠れ、2つの燃える瞳が、桜と秋彦の一連の光景を見詰めていた。


 その影が、桜の後を追い、化粧室に消えたのを、秋彦が気付くことはなかった。





 ロビーの隅のベンチで桜と秋彦が仲睦まじく過ごしているのを見て、菜津の心はささくれ立っていた。

 先に消えてしまったが、周囲に居た彼らの仲間たちも、ふたりの間柄を認めているような雰囲気だった。どうやらこちらでは、このふたりは公認らしい。


 菜津は、桜の横の男に見憶えがあった。

 記憶の糸を手繰り、絡まっていたニューロンが解ける。

 あれは先週ウチの地元のシネコンに来ていた男だ。


 とすれば、自分の女の元カノ=幸生を探りに来ていたのか……


 菜津の中の幻惑が膨らみ、感情が増幅される。



 周囲に人がまばらになると、人目を気にする緊張がほぐれたのか、桜が萎えるように秋彦の肩に頭を凭れ、手を重ねた。その光景に菜津は息が詰まる。



――それじゃあ、井崎センパイは、どうなるのだろう……


  ひどい。

  あんまりだ、こんなの……



 自分にとっては、桜の心が幸生から離れるのは朗報だが、彼の心を弄び裏切ったこの女=桜は許せなかった。

 そんな複雑な思いがぐるぐると渦を巻き、憤怒は更に募った。



 桜が秋彦に何かを告げると、席を離れた。どうやら、化粧室へ向かうようだった。

 菜津の足が勝手に動き、フラフラと桜の後を追っていった。

 自分のバッグの中にいつも入れているペン・ケースの中に、カッターナイフが常備されていることを菜津は思い出した。言葉が頭でまとまる前に、形にならないドロドロとした意識がそのカッターナイフを手に握らせた。

 菜津の怒りは沸点に達していた。



 己の感情を制御することができなくなった。



    *   *   *



 化粧室に向かいながら、桜は今しがたのイベントの風景を反芻した。

 撮影からのこと。このセーラーブラウス。C5入選を秋彦と祝ったこと。


 連想するうち、桜の中である気掛かりが持ち上がる。


 ちょうど、先週は幸生たちの都市で開催だった。上映のあった日、秋彦もお忍びで観に行っていたはずだ。


 幸生から、自分の=秋彦の作品を観た、と告げられたのも、そのときのことだ。



 ひょっとしたら秋彦は、幸生と鉢合わせをしたのだろうか。


 互いのことは知らないはずだ。


 …………



 化粧室は人の気配がなく、深閑としていた。

 着替える前に洗面台の鏡に映った自分の姿が眼に留まり、ふと立ち止まってぼんやりと見入りながら、



――この制服も、見納めだなあ……

  けっこう、好きなんだけどな、このデザイン。



 などと考えていた。



    *   *   *



 桜が鏡で己の姿を映しながら物思いに耽っていたとき、背後で連続したカチリという音が聞こえ、現実に引き戻された。


 いつからそこに居たのか。

 自分と同じくらいの年端の少女が、睨むようにこちらを見詰めているのに気付いた。


 緊張し強張った表情。上下する肩。荒い呼吸。

 鏡を通して自分と眼が合った瞬間、全身のバネの力を放つように少女が駆け寄り、



 手に握ったものが金属質の光を放つのが分かった――





 菜津が化粧室に入ると、先に入っていた桜が洗面台の鏡に向かい姿見をしているのに出会でくわした。

 その姿が目に入ったとたん、菜津は瞬時に半歩退き、角に身を隠した。

 改めてそぅっと覗き込む。

 どうやら相手に気付かれなかったらしい。

 菜津は気を取り直し、化粧台の気配を窺った。


 角を曲がった先に、あの女がいる。

 個室に入るでもなく、自分の姿を眺め、時折胸のリボンを整えたりスカートの裾を摘みプリーツを拡げたりしている。



――なにしてるんだろう……



 他の個室から物音はせず、気配がない。桜の動くたびに発する、衣装の衣擦れの音だけがタイル壁に反響している。


 どうやらこの化粧室には、自分とこの女の2人しかいないらしい。


 そう確信した菜津は、普段からペンシルケースに入ったままのカッターナイフを鞄の中で握り締めた。

 手に馴染んだ、ピンクの。安物だが、眼を瞑っていても、操作ができる。


 カチ。


 カチ……カチ……



 掌の中で、刃を押し出す振動が響く。






 こんなことをしたところで、どうなるのか。


 それは菜津にもわからない。



 ただ、己の心の置き処が、




 ほしかった。






 取り出したカッターナイフを前方へ構えるようにぎゅっと握り直す。緊張が、腕、肩、上半身、全身へと伝播する。

 菜津の体が、化粧室への通路の角を曲がり、水洗台のスペースへと移動していった。





 桜が鏡面に向かい着ているセーラーブラウスに見惚れていると、背後に微かなザリリとタイル床と靴底の擦れ合う音がし、同時に鏡の端に何かが動くのに気付いた。


 自分の姿に合わせていた視線をゆっくりと端に移動する。


 両眼の焦点がその“動く物体”を捉えたとき、自分と同じくらいの年端の少女と目が合った。


 逸らすことなく、自分をっと睨むように捉える瞳。

 この化粧室には他に誰もいない。手を洗いに来た雰囲気でもない。


 自分に用があると感じた桜は、その相手の迫力にやや居竦みながら、体を反らしてその人物に「何か?」と声を掛けようとした、その刹那――



 少女の体が瞬時に距離を詰め、手に握った光がひゅん、と風を切った。


 咄嗟に体を除けた桜の瞳孔に、カッターナイフの刃の光跡が灼き付けられた。体を外したものの、カッターの振り下ろされた空間に残ったセーラーブラウスが攻撃の犠牲となった。

 バサリと繊維の切り裂かれる音が耳に入り、ブラウスの脇の箇所が一文字に開く。その隙間から桜の薄紅色の肌が露出した。


「え? え? なに!?」


 何が起きたのか把握できないまま桜が呆然とする。


「ゆるさない……ぜったい」


 一撃を外された菜津は、崩れた体制を立て直し、カッターをふたたび構える。


「あなたには、もう渡さないから」


「え……?」


「あのひとは……あのひとは、あたしのものなんだから……っっ」


 そう口走ると、菜津は桜にまた向かって行く。


「え!? ち・ちょっと待っ……なんのこ と……」


 桜の弁明にも応えることなく菜津が飛びかかる。


 こんどは顔を狙った。

 カッターの切っ先が眼の前に迫る。

 攻撃から反射的に屈み込みかわす桜。


 体勢を崩した菜津は上半身を泳がせ、その勢いでカッターの刃が鏡にぶち当たる。

 全体重が乗った刃先は、ペキンッ、と、鏡面と接触した先端が折れ、破片がシンクの中に落ちる。と同時に、その勢いでカッターが菜津の手から零れた。


 菜津が床に飛んだカッターを拾い上げ、刃の再装填に手間取っている隙に、機転で桜が脱兎でその場を逃げ出した。


 桜が逃走したのを見遣り慌てた菜津はふたたびカッターを零しそうになったが、しっかりと握り直すやカッターの刃をカチカチと柄から押し出し、瞬時に後を追って化粧室を飛び出した。





 化粧室から血相を変えて飛び出してきた桜に気付き、秋彦がベンチから立ち上がり


「どうした!?」


 と叫ぶ。


 髪をふり乱しながら、ほうほうの体で秋彦のところまでたどり着いた桜は、緊迫で過呼吸となり表情を歪め崩折れた。抱き上げた秋彦の腕ににしがみ付き、


「たっ……たすけ、て――」と途切れ途切れに声を出した。


「何? いったい――」


 声を掛けながら、秋彦が桜の出てきた化粧室を見遣ると、ドアを力任せにバン!と開けた少女が、ロビーを一瞥するとこちらを見付け、真っ直ぐにこちらへ向かって来るのを認めた。


「な・なに……??」


 秋彦が異常に気付き接近する少女を注視する。彼女の手に何かきらりと光るものがあるのが判った。

 次第に歩を早め、駆け出したその少女の視線は、桜から一切外さず見据えている。


「あ゛ぁ――――――っっっ!!」


 言葉にならない声を発し、少女が手の光る物を振りかざす。

 手の中にピンクの柄が見える。


 ――カッターナイフ。


 標的となっているのは――桜。



 握られた物体の存在を確認した秋彦が、咄嗟に桜を抱え、己の体で包み込み守ろうと防御する。


 とにかく、この攻撃を阻止せねば。


 秋彦はひたすらその想いだけで行動した。





 振り下ろされた刃が、秋彦の二の腕を擦過する。

 ざくり、という熱さが秋彦の肌を通過し、皮膚組織を切断する。


――」


 切られた秋彦のシャツに、じわりと真紅の条痕が滲み出す。

 思わぬ苦痛に顔を歪めながら、秋彦は必死で桜の盾になり少女の前に立ち塞がると、怯んだ少女の隙を突いてカッターを持った手首を掴んだ。


 反射的に少女の腕を捻る。


「いっ、いたいッ――」


 思わず少女の口から苦痛の言葉が零れると同時に、制圧された手から離れた凶器がカチャンとロビーの床に落ちた。


「いぃいいたいぃっっ。は・離せェっ!」


 抵抗し暴れる少女を逃がすまいと、更に腕を搾り上げる秋彦。

 少女は「ぎゃっ」と悲鳴を上げたが、なんとか逃れようと体を捻り続けている。


「おいっっ、どういうつもりだ!?」


 秋彦のその問いには応じず、代わりに、架けた眼鏡を通し少女が睨み返す。

 そのセルフレームの奥の瞳を見た瞬間、秋彦の記憶のどこかで引っかかりを覚えた。


「あれ? ――キミ、は……」


 おろおろとした劇場スタッフが近付いてきて


「どうしました? 大丈夫ですか……?」


 と心配した声を掛ける。


「あ――」


 秋彦がそのスタッフを心配させまい、けれど怪我をしてるから大丈夫とも云えない――と返辞に戸惑った一瞬、気をとられて力が抜け、その隙を逃さず少女は秋彦の腕を振り解いた。


「あっ! おい待て――」


 秋彦の制止も聞かず、離れた菜津は


「ぜったいぜったい、ゆるさないっっ!!」


 と捨て台詞を残すと、全力で走り去ってしまった。



 咄嗟のことにその場にいた全員が対応できず、秋彦も追うのを諦めた。

 集まってきたスタッフが、秋彦の腕から血が滴っているのに気付き、別のスタッフに「救急箱!!」と指示している。


 さっきまで桜を待っていたベンチにふたたび座らされた秋彦は、女性スタッフから手当を受けた。


 別のスタッフに抱え起こされた桜だったが、一難去ると、手が、足が、全身がガクガクと小刻みに震えだした。今更のように恐怖が四肢まで拡がり、立っていられなくなった桜はへなへなとその場にへたり込んでしまった。



 やがてフロアまでやって来た救急隊員に連れられ、秋彦はビルの外に待機する救急車で病院へ向かった。

 救急車と同時に連絡した警察も到着し、桜が事情を訊かれたが、相手の素性も、襲われた理由もまったく身に憶えが無かった。


 ようやく過呼吸から脱したものの、まだ恐怖の記憶は醒めず、桜の体の震えは止まらなかった。



――あの、ひと――?


  だれの、こと? ……




 血のしずくに混じり、床には刃の欠けたピンクのカッターナイフが、拾う者もなく転がっていた。



    *   *   *



 到着した病院で秋彦が治療を受けていると、到着した桜が合流した。

 受付で呼び出しを待つあいだ、病院の待合の長椅子で二人は並んで座った。


「その……だい、じょうぶ……?」


 桜を案じた秋彦が問いかける。


「うん……」


 怪我を負い腕に包帯を巻いた秋彦から言葉をかけられ、ほんとうは彼のほうが大変なのに、と思うと、桜は気丈に


「へーき」


 と続けた。


「あたしのことより、その腕……」


 言われて秋彦が改めて患部の腕に目を遣る。

 ぱっくりと開いた服の切り口から、白い包帯が痛々しく覗いている。


「ごめん、なんか、あたし……」


「桜のせいじゃないよ」


 そうだ。

 たしかに、狙われたのが桜なのかどうかは不明だ。


 だが……


 桜は逡巡した。


 あのとき、明らかに、彼女は自分に向けて「ゆるさない」と罵った。



――いったい――


――なにを――



 考えを巡らす桜の黙り込む姿を、フラッシュバックが襲ったのかと思った秋彦は、そっと桜を抱き寄せると


「だいじょうぶだよ、もう」


 と耳許で囁いた。


 桜もそれに応え、こくりと頷いた。


「ぜんぜん、心当たりがないの――」


 そう呟く桜の額に、秋彦は軽く口吻くちづけをした。


 それ以上は秋彦も尋ねなかった。

 事件の記憶を掘り起こし桜の恐怖を蘇らせてしまうのを避けた。



 伝えることを思い出し、桜が告げる。


「明日、ね……学校が終わったら、警察署に行くことになったの」


「そう……」


 秋彦もまた、事情聴取のため警察署に出向かなければならなかった。


 どこかでまた合流して、一緒に向かおうか。


 そう考えたが、相談するのは家に着いてもう少し安静を取り戻してからDMで遣り取りしよう、と考えを改めた。

 今は、桜の気を落ち着かせてやりたかった。


 長椅子に寄り添い合ったまま、時が過ぎていった。




 言葉にはしなかったが、秋彦は考えていた。



――たしかあの娘……どっかで……



 黙ってしまった秋彦を心配し、桜が声をかけた。


「痛むの?」


 桜の不安そうな顔をみて、秋彦が微笑えみを返した。


「いや、だいじょうぶ。なんでも、ない」


 そう言うと、秋彦はまた自分の記憶を探りはじめた。



――あの、ワインレッドのセルフレームの眼鏡。

  見憶えがある。


  どこだったか……




    *   *   *




 北風が大西洋の湿気を運び、日本アルプスにぶつかるとその湿度を陸地にぶつけ、重たい雲となって平野を辷っていく。


 発車ベルの響くホームから飛び乗った菜津の背後でドアがプシュンと閉まり、ヴィーンという低音と共に床からモーターの振動が伝わってきた。

 目についた空席に菜津はどさりと腰を落とした。

 全身にどっと疲労が押し寄せる。


 休日午後の遠距離列車の車両に人はまばらで、菜津の座ったボックス席も他の乗客はいなかった。

 菜津は斜に架けたバッグを肩から外すと、隣の席に無造作に投げた。



 どこをどう走り、どうやって駅まで辿り着いたのか分からない。

 気が付けば、菜津は急行列車の席に座っていた。


 車内をひとわたり見回し追って来る者がいないのを確認すると、ようやく気を落ち着け窓の外に目を向けた。


 見覚えのない街の風景が過去へと過ぎ去っていく。

 流れる建物の隙間が次第に広がり、田園の色が目立ち始める。



 灰色の雲が垂れ込め、菜津の頭上に覆い被さる。





 ぼんやりと眺めた窓にサラサラと白いものがぶつかる。



 この日――

 北陸の都市に初雪が降った。


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