#7 ライムライト

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【ライムライト】

 1952年 アメリカ映画

 監督:チャールズ・チャップリン 出演:チャールズ・チャップリン クレア・ブルーム バスター・キートン

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         ◎


 10月の衣替えを迎える前に、桜は早々にブレザーをクローゼットから引っ張り出し、登校に羽織っていくことにした。

 同級生たちはまだまだブラウスの上にカーディガンという中間服の出で立ちだったが、地元育ちでない桜にとって、この時期の北陸の気温は堪えた。街中ではもう薄手のコートを纏っているOLの姿もチラホラ見かけることだし、ガマンをして風邪っをひいても仕方ない。思い切って冬の装いに切り替える決断をした。


 朝の混雑したバスや電車に押し込まれると――それでも昔住んでいたところのほうが都会だったが――ブラウスの中が篭もり、じっとりと汗が滲んできたが、家の近所の停留所でバスを待つ間にかじかむよりはましだった。


 秋が過ぎれば、雪国に冬が訪れる。



――もう、ここに来てから、季節が一巡したんだな。



 秋の澄んだ空気に透過する空の高さを見上げ、桜は過ぎ去った日々を想った。


 幸生とも、5月の大型連休以来会っていない。

 LINEでのやりとりも、次第に虚ろとなっていき、今では10日か2週間に一度連絡を往復するくらいに減っていた。


「あたしたち、このまま終わっちゃうの、か な……」


 下校のバスの中で、5日前にやりとりをした幸生とのLINEトーク画面を眺め、桜は溜息をついた。


 トークのレスはいつもの素っ気の無い映画の約束だ。

 桜も観に行けるときは同意するし、行けなければ「ごめん」とレスを付けて会話は終了する。

 このときも幸生から映画の誘いがあったが、桜はタイミング悪く、そのつい直前の日曜に当該の作品を秋彦と連れ立って観てしまっていた。

 もちろん秋彦と一緒に映画に行ったことは言い及ばなかったけれど、「先に観ちゃったから」とだけは言い訳した。



“なら、観終わったら感想言いあおう”


 幸生からのレスに、桜は“うん”と返事をした。




 心が離れゆく喪失感が桜の胸に風穴を開ける。どうしようもない寂寞の念がふいに躰を駆け抜ける。

 その空虚を埋めていたのは、秋彦の存在だった。


 幸生との距離が疎遠になればなるほど、秋彦との関係は深まった。

 夏休みの撮影以降、桜は秋彦とは2日と空けずに連絡を取り合い、週に一度は会い続けた。週末に会えなければ平日、学校が終わったあとでどこかで待ち合わせた。時には桜が直接秋彦の下宿に赴くこともあった。


 10月になると、「大学の講義や映画研の部会で帰りが遅くなるときもあるから」と、秋彦は下宿の合鍵を桜に預けた。男性の部屋の鍵を受け取るのは、桜にはなんだかくすぐったい心持がした。その鍵を桜は自分の財布の中に大切に仕舞った。



 秋彦からは「待ってる間、部屋のDVD観てていいよ」と告げられていたので、棚の映画コレクションを観賞するのがだんだん日課となっていった。秋彦の棚はわかりやすく整理分類されていて、探しやすかった。時折、幸生と一緒に観に行った映画のタイトルを発見するたびに、桜はパッケージをしげしげと眺めた。

 『シェルブールの雨傘』はいつも棚に並んでいたが、桜は手に取ろうとはしなかった。



 この日も、桜は秋彦の部屋に先着し、棚のDVDを再生しながら秋彦の帰りを待っていた。何気なく取ったのは『シェルブールの雨傘』の隣りに並んでいたものだった。


 陽も傾きかけ窓がオレンジに染まる頃、カンカンと鉄の階段を登る足音が響いた。リズムで秋彦のものだと判った桜は、本編を観終え映像特典を流していたDVDをデッキから取り出し棚に戻した。


 ドアが開くと同時に、秋彦が「ただいま」と桜に声をかけた。

 桜も「おかえりなさい」とそれに応えた。


「待った?」


「ううん、へーき」


「またDVD観てた?」


「うん」


「何観てたの?」


「『シベールの日曜日』っていうやつ」


「フランス映画だね」


 最近、秋彦はいつも帰りが遅くなる。学園祭が近づき、その準備でサークルも遅い時間まで活動をするようになっている。とはいえ学祭で上映するメインの作品は既に『C5』用に完成、主に展示のための打ち合わせだけだ。きょうは桜と会う約束をしていたため、少し早くの帰宅だった。


 階段下のポストから持ってきた郵便物を秋彦が一通ずつ差出人を確認している。多くはただのダイレクトメール。そのままゴミ箱へ直行する。

 その中で、秋彦の動きが止まり、差出人の名を改めて確認したあと、他の手紙を放り出してその封書を慌てて開封し始めた。

 何やら慌ただしい緊張感に、秋彦のためにポットのお湯でインスタントコーヒーを入れていた桜も手を止め、


「どうしたの?」


 と訊ねた。

 封書の中から取り出した一枚の書類を、穴が開くほど凝視していた秋彦は、桜の問いかけにようやくうつつに引き戻され、桜と目を合わせると、


「……きた……」


 と呟いた。


「え?」


 握った書類を桜に示すように前に差し出し、秋彦が改めて言を発した。


「……入選したんだよ!! 映画が――ぼくたちの映画が!!」


「――え? ……ええー!?」


 桜は硬直し、顔を紅潮させた秋彦と、息をするのも忘れ暫く見つめ合った。




 鍵を開け玄関に入ると、前方の廊下はひっそりとして人の気配がなかった。

 誰もいない室内に向かって、桜は声をかけた。


「ただいまぁ……」


 廊下の床や壁に伝わった短い残響が闇の中に溶けていった。返事が来るはずがないことは桜にも分かっていたが、帰宅の発語は習慣となっていた。

 父はまだ帰ってきていない。絵笑子からも夕方頃に「遅くなるから夕ご飯は桜ちゃんひとりで済ませてね」とSMSが入っていた。


 遅い帰宅の理由を取り繕わなくて済むことに、桜は少しほっとした。

 夏休みが明けてから、桜が秋彦と会うときは「部活の大学の先輩OBに勉強を教えてもらってる」という言い訳をしていた。


 父と絵笑子が帰ってくる前にと、桜は軽くシャワーを浴び、秋彦の部屋で染み付いた煙草のヤニの匂いを洗い落とした。秋彦自身は喫煙はしなかったが、出入りするサークル仲間にスモーカーがいて、部屋にはうっすらと紫煙の残り香がある。微々としたものではあったが、秋彦の部屋に立ち寄るたびに、桜の体にはこのツンとした匂いが纏わり付いてくる。それを消すためにわざわざ桜は衣類用の消臭スプレーを買ったくらいだった。


 父・泰秀は気付いていなかったが、絵笑子にはうすうす勘付かれているようだった。



 溜めた湯船に浸かると、桜はつい数時間ほど前に秋彦の部屋で交わしていた会話を反芻した。



 C5に入選した、ということ。

 それはつまり、自分の動画が全国のシネコンのスクリーンで映し出される、ということだ。


 幸生のいる地域の劇場でも。



 幸生に事前に報せるべきか。黙っているか。

 桜は浴槽の中に沈み、悩み続けたが、最適解は得られなかった。




 浴室から出ると、ちょうど帰ってきた絵笑子がと廊下で鉢合わせした。


「あ、おかえりなさい、絵笑子さん」


「ただいま。桜ちゃん、もうお風呂済ませたの?」


「うん。まだ火落としてないから、絵笑子さんも入っちゃったら?」


「そうするね。――夕飯は? 桜ちゃん」


 外着を脱ぎながら絵笑子が訊ねる。


「うん、外で済ませてきた。ファミレスで」


 ファミレスというのは本当だが、行ったのは桜1人でなく、秋彦と一緒にだった。

 曖昧にしたい桜の気配を汲んだのか、絵笑子は「そう?」とだけ返し、それ以上追及はしなかった。



 絵笑子の姿がバスルームへと消えるのを確認し、桜は自室へと戻った。



 ドライヤーで髪を乾かしながら、桜は鞄の中からスマートフォンを掴み、LINEアプリを開くと幸生のページにアクセスした。トーク画面の窓が開き、フリックボードが下部に表示される。桜の指が画面に触れるが、文字を入力する指は動きを止めたままだった。


 幸生に伝えるべきだとは思う。

 けれど、どう書けばいいのだろう。


 点滅するカーソルが心臓の鼓動と同期し桜の胸をざわつかせる。




 ちゃぷちゃぷと浴室の水音が廊下伝いに聞こえてくる。

 時おり外の街道を走る車の音が夜を覚まさせていく。


 何も書かないまま、桜はそのままスマートフォンの画面を閉じた。




 C5の出品が決まってからは、秋彦の周囲も俄に慌ただしさを増していった。映画祭実行委員会とのやりとり。様々な書類の送付。加えて大学の学園祭の準備。

 中でもC5上映にあたっての諸々の権利類の確認については、当の秋彦自身が根を上げかけるほどの面倒事だった。出演者や映り込むありとあらゆるもの、使用されている音楽・効果音に至るまで、権利がクリアになっているかが求められた。


「こんなにぜんぶ守らなくっちゃなんないの?」


 下宿に訪れた際に見せてもらった書類を眺めた桜の口から思わず溜息が漏れると、秋彦が諦めたように返答した。


「たぶん、あのシネコンはメジャー資本のせいだろうね。単なるプライベートな自主上映だけなら、ここまで細かくチェックされないだろうけど。全国の系列館で上映するのも関係してると思うよ」


「めんどくさいんだね、映画館で上映するのって」


「問題が起きても主催者や劇場側が責任を回避するためだよ」


 桜の不満も厳格なルールを前にしてはにべもなかった。


 更には、監督など制作者には、この全国で開催されるイベントの登壇が義務づけられていた。もちろんすべての会場ではないが、最低限、地元の会場では登壇することが必定とされた。


「あそこの劇場の登壇はできると思うけど、それ以外の場所はなあ……。学祭もあるし」


 C5は、11月下旬から12月初旬にかけて全国の系列のシネコンを巡回する。

 秋彦の大学の学園祭は11月23~25日。地元のシネコンでは11月21日に開幕するC5のスケジュールとモロ被りしていた。

 以前から気になっていたそのことを桜が心配して訊き返す。


「へーきなの?」


「ま、せっかくの地元での上映だし、映研の連中にも納得してもらって、登壇はできると思うよ」


 スケジュールの問題ではなく、秋彦の体を心配している桜がやや納得できない浮かぬ表情をした。それを窺った秋彦が空気を変える。


「桜も、いっしょに舞台挨拶、するかい?」


 意表を突かれた桜が慌てて否定する。


「そ・そそそそそそそんな!? あぁああああぁあああたしはいいよぉ」


 まっ赤になった桜をからかうように秋彦が追い詰める。


「だって、主演女優なんだから、登壇くらいしてくんないと、カッコつかないよ」


「ぜぜぜぜっっっっったいにムリ」


 そう言い返したが、秋彦はなんだかにやにやと含み笑いをしている。肯定も否定もしない態度に桜はなんだか煮え切らない気分だった。



 秋彦が書類に目を戻し、独り言のように呟いた。


「ぼくはね、映画っていうのは、『作るまでは監督のもの、映画ができてからは役者のもの』だと思うんだ。よく完成披露の会見なんかの映像がマスコミに出るだろ? でも映し出されるのは俳優さんたちばかり。監督なんかフレームから見切れてて写ってもいないのがほとんどだ。――でも、それでいいと思うんだよな」


 秋彦の映画についての考え方は同意するところがあった。

 けれど、それと自分が登壇するのとは、また別の問題だ。桜はそう思った。



    *   *   *



 数日後、秋彦から



“映画祭のフライヤーが送られてきたよ。プログラムも決まった。”



 とメッセージが届いた。



 下宿を訪れ、メインビジュアルを見せてもらった桜は、飛び上がらんばかりに仰天した。


 秋彦の作品紹介には、映画の1ショットである、桜を正面から捉えた単独のバストショットが、スチルとして用いられていたからだ。


 そのことに秋彦からは何の相談もなかった。




 このチラシが、全国の系列シネコンに置かれるのだ。



 桜は戸惑うと同時に、心で呟いた。



――どうしよう。

  きっと、幸生くんはこれを見てしまうだろう。



  なんて言い訳したらいいんだろう……



  まだ、なんにも話してないのに。



    *   *   *




「なあ……うちは映画研だよな。自主映画作ったりしないのか」


 9月に入り高校の文化祭参加に向けた展示のテーマを決める部会で、幸生は部長のヘンリーに苦言ともいえる提言をした。


「うちは観賞専門。だから、映画についての研究が展示の中心。お前にもそれを説明して入部してもらったハズだけど?」


 言われてみればたしかにそんな気もする。幸生は記憶を辿りこれまでの経緯を繋いでみた。


 て言うか、もともと部としての体裁を保つため単なる数合わせで名簿に加わっただけじゃないか。当初は幽霊部員でよかった筈だ。

 それがなぜか今はこうして部会にもいそいそと出席している。


 ヘンリーが畳み込むように続ける。


「だいたいだな、実働部員が俺とお前、それにハイネと緋色の4人で、何が創れるってんだ?」


 そりゃたしかにそうだ。それに文化祭までもう2週間しかない。自主映画を撮るなら、1学期のうちに企画を決め、夏休み中に制作していないと厳しい。そもそも充分な機材もない。そこは幸生も頷いた。


 だが、新入部員のハイネははなから制作志向だった。

 彼の燻りは、幸生もなんとなくは感じていた。


 もともと個人でも短編を独りで制作していたハイネ。彼のこれまでの作品をてきとうにまとめ、ビデオで上映するスペースを設けることになった。大仰な機材を揃えずとも、今時ならタブレットでも展示上映ができる。尺の短いものであれば、そのほうが見る側にも都合がいいだろう。ハイネをおもんばかった幸生からの提案だった。


 これでなんとか映画研究会としての体面はなんとかなるかな。幸生は少しそう思った。


 展示の題目も絞られたものの、それでもやや不満げな顔つきをしていたハイネに、幸生は


「来年はお前が部長だ。思いっきり好きにやれよ」


 とそっと声をかけた。



 文化祭は10月初旬。連休期間を使っての開催だ。




    *   *   *




 10月に入ると、文化祭の準備は進み、学舎全体がどこかふわふわと浮足立った雰囲気に包まれてきていた。

 前日には授業は全休となり、各クラブや参加の学級はそれぞれの教室での準備に追われていった。


 幸生たちの映画研も、ふだん部会として借りていた特別教室の半分のスペースが割り与えられ、ヘンリーの指揮で粛々とそれぞれの決めたテーマの展示を貼り出していった。

 4人の部員各々の自主研究の発表。ハイネはこれまでに創った短編をSDカードにまとめ、部屋の一角にそれぞれの作品の解説や制作意図などを書き出した模造紙とともにタブレットを並べた。ちょっとした「ハイネ・フィルモグラフィ」の仕上がりだ。


 幸生は菜津に「いっしょにやりましょうよ~」とせがまれ、二人で市内の名画座の数十年に亘る館の歴史と上映プログラムの変遷を年表にし展示した。幸生もよく通う館にお願いし、館に残っているチラシや上映案内などの資料を見せてもらいまとめたものだった。

 映画館の外観や、館内の写真も許可を得て撮らせてもらい、展示に活かした。


 あの、ロビーの壁一面に貼られている古今東西のポスターも。あれこそが、この名画座を顕す絵そのものだ、と幸生は改めて思った。

 その中で、片隅に貼られ色褪せた『シェルブールの雨傘』のポスターに、なぜか幸生は心惹かれ、残像を消し去ることができなかった。




    *   *   *




 各々の展示の概要が見えてきた頃、幸生はヘンリーのテーマに目を留めた。

 これまでヘンリーは部会でも「俺のはヒ・ミ・ツ」とばかりに他の部員に自分の展示の内容を一切告げず、黙々と独自研究に勤しんでいた。他の部員、幸生と菜津やハイネが研究テーマを開示していたのに、「部長権限だ」とか訳のわからない理屈をこねて非公開にしていた。

 だが、さすがに貼り出す段になって、隠しようもなく晒されることになったのだ。



 ヘンリーの研究テーマは、「ヘンリー・マンシーニの映画音楽」だった。


 ヘンリー・マンシーニ。言わずと知れた映画音楽の巨匠だ。

 幸生の頭の中で、彼の創った音楽の旋律が次々に浮かぶ。華麗なるヒコーキ野郎、ムーン・リバー(ティファニーで朝食を)、シャレード、ピンク・パンサー、刑事コロンボ……


「ヘンリーが、ヘンリー・マンシーニかよ……」幸生が絶句して呟く。


 自分の展示をしげしげと眺めていたヘンリーが背後に立ち竦む幸生に気付き、振り返って言葉をかけた。


「やーっぱヘンリー・マンシーニは最高だよな。お前もそう思うだろ? 『ひまわり』なんてサイコーだろ? あとなんて言っても「ムーン・リバー」だよなぁ。あのムーディな旋律がなければ、『ティファニーで朝食を』なんてただのコメディ映画だぜ」ヘンリーの口から途切れることなく薀蓄が溢れ出てくる。


 まあ、異論はないが、それをワン・アンド・オンリーにされるのはちと癪だ。

「そうか? 俺はフランシス・レイやニーノ・ロータ、エンニオ・モリコーネのほうがいいと思うけどな」

「見解の相違だな」あたりまえだ、と幸生は心の中で呆れた。

 まぁバダラメンティだのハンス・ ジマーだのと言い張るよりはマシか。


「俺のニックネーム『ヘンリー』も、もともとヘンリー・マンシーニに憧れてつけたんだよなぁ。ま、自分から名乗ったんだけどな。知らなかったのか?」


 それを初めて知り、幸生は鳩が豆鉄砲だった。


「ごめん、ちょっと――」


 そう言うと幸生は席を外し、廊下へと出ると呼吸が苦しくなるほど笑い転げた。


 幸生はその渾名を、映画『ヘンリー』の主人公に風貌が似てるから付いたものだ、と思い込んでいたのだ。





 この年、幸生と菜津が発表した市内名画座に関する展示内容の取材や実地調査が評価され、映画研究会は文化祭の最優秀賞を授かった。



    *   *   *



 文化祭の喧騒も過ぎ去り、幸生の高校にもようやくひとときの安寧がやってきた。

 気付けば空を支配していたぎらつく太陽と入道雲は去り、校庭や通学の電車の線路や駅舎をなめる涼やかな風が秋の気配を呼び込んでいた。綿毛を置いたような雲が点々と青いカンバスに雫を浮かべた。


 高く突き抜けたこの秋空のひつじの群れが冬の冷気に遮られる頃、幸生たちは大学受験のことを考えなくてはならなくなる。県下でもそれなりの進学校であるこの高校では、ほぼすべての生徒が受験組だ。

 幸生自身も、同級生たちと同様、大学へ進学することを考えてはいた。


 だが、いったい大学へ行って、何をすればいいのだろう。


 たしかに、大学へ行けば就職も安泰になる。卒業というパスがあればどこかの企業に入り込むことはできるだろう。

 だが、それでいいのだろうか。


 理系・文系、どちらへ進むかも選択できていない。学部や学科も絞り込みようがない。


 幸生は、まだ自分自身が何を成していけばいいのか、暗中模索だった。




「お前はどうすんだ? 進学」


 部活に出席しても文化祭も過ぎ特にやることもなく、だらだらと時間を過ごすだけだった頃、幸生はおもむろにヘンリーに訊ねた。

 映画専門の旬報誌を繰りながらヘンリーが応える。


「俺? んー、べつにどっかの大学へは行くだろうけどな。ま、今よりもいっぱい、何倍も映画が観れればいーや」


「それだけ?」


「あーだからできるだけ映画館の多いトコの大学に行かないとな。そうだなぁ、それならやっぱ、東京とか、大阪とか……ま、いまどきはどこの地方都市でもシネコンの2つや3つ、あるけどな」


「そんな、単純な理由なのか? たとえば大学で何を学ぶとか、サークルでがんばろうとか、そういったことって……お前にはないのか?」


「とにかく俺は毎日映画に浸かっていたいんだよ。それだけ」


 ヘンリーのあまりにもシンプルな大学選びの基準に幸生は半ば呆れた。けれど、同時に「ヘンリーらしいな」とも思った。

 きっと、その先にある就職選びにも「毎日映画が観れる職場」という希望しかないのだろうな、こいつは。



 そういえば、文化祭の準備に追われていたため、近ごろはめっきり映画館への足も遠のいていた。次の部活の無い日には、シネコンへ行ってみようか。

 幸生はそんなことを考えながら、スマートフォンのアプリでシネコンの上映スケジュールを調べ始めた。

 それを眺めていたヘンリーが、雑誌を閉じ、横から覗き込み割り込んでくる。


「いま、何上映してんだ? そういえばこのところ文化祭が忙しくって俺もぜんぜんチェックできてなかったなー」


 横から幸生のスマホ画面を覗いていたヘンリーが口を開き続ける。


「……おっ、この監督の新作なんてもう上映始まってんのかよー。やっべぇなぁー、観に行かなきゃ」


 しげしげと凝視し呟いていたヘンリーに興味を示し、菜津も覗き込んできた。狭いスマホ画面を幸生、ヘンリー、菜津の3人が眺める。

 ハイネはこの輪には加わらず、ひとり黙々と本を読み耽っている。映画技法の指南書のようだ。


 幸生の脇から菜津が、


「あ、あたしこれ観たーいっ。いっしょに行きません? センパイ」


 と、指を伸ばし幸生のスマホ画面を操作しようとする。


「お前らなぁっ、調べるなら自分のでやれよっ」


 奪うようにスマホを抱え込み、自分にだけ画面が向くように幸生はヘンリーや菜津から背けた。


「けちー」


 菜津の駄々が幸生の背中を射るが、幸生は無視した。


 シネコンのアプリ画面の横のカラムに、その館で公開される映画の幾つかのバナーが並び、その中にあまり馴染みのない広告が紛れ込んでいることに幸生は気付き、ふと目を留めた。


 幸生の頭に「?」が浮かびそのバナーを見つめていると、ヘンリーがその態度に気付き背後からふたたび画面を盗み見て、


「おっ、『C5』じゃん。そっかぁ、そろそろかぁー」


 と声をかけた。


「しー、ふぁいぶ??」


 ヘンリーの言葉をリピートすると同時に、幸生の指が無意識にバナーに触れ、クリックしてしまい『C5』のサイトに飛んだ。


“キミの才能をせろ!! ――C5、この秋開幕!”


 トップページに、ビックリマークの矢鱈やたらと多い惹句が踊る。



 あいかわらず額に『?』マークが浮かんだままの幸生に、ヘンリーが助太刀を入れた。


「ここのシネコンが開催してる、学生の自主映画の祭典だよ。お前、知らなかったの?」


「いや……ぜんぜん」


 元来幸生は自主映画には関心がない。バナーも、単なるステルス広告くらいにずっと見過ごしていたのだろう。


「毎年開催してるぜ。マジかよ」


 ヘンリーのツッコミにも戸惑うだけの幸生だった。



 ふたりの会話に、興味を抱いたハイネも開いていた雑誌を閉じ、口を挟んできた。


「もうゴールデンウィーク明けくらいからあそこのロビーに作品募集のポスターは貼られてましたね。応募じたいは先月締め切ってしまいましたけど」


 随分と詳しく喰い込んでくるハイネに何かを感じ、幸生が問い質した。


「お前、ひょっとして応募したコトとか、あんの?」


 ハイネが溜息とともに首を振り、言葉を続けた。


「ボクも応募したかったんですけど……応募の規定が『満16歳以上26歳未満の在学中の者』なんですよ、それ。つまり高校生か大学生、専門学校生でないと応募できないんです。しかもボク、早生まれなんで、来年の2月にならないと応募資格にならないんです」


 ヘンリーが言葉尻を掴む。


「ちょっと待て。つまり……ハイネ、お前、来年度はこのC5に応募できる、てコトなんだな?」


「ハイ」


 その後も言葉を継ぎ足したそうなハイネの様子にヘンリーが何かを閃いたらしく、矢庭に席から立ち上がると、部会に出席している全員に向かって(とはいっても他にその場にいるのは幸生と菜津、ハイネだけだ)部長らしく威厳を込めた態度で声をかけた。


「よしっ、いま決めたッッ。秋の部活は、“みんなでC5観賞会”だ!!」




    *   *   *



 C5観賞会の下見も兼ね――というのはタテマエだが――翌週早々、幸生はひさびさにショッピング・モールのシネコンを訪れた。

 桜に誘いの通知を入れたが、「ごめん、その映画、先にもう観ちゃった」というレスが返ってきた。



――近頃の桜はずいぶん連れなくなったな。



 なんとなくそんな感じをいだきながら、それ以上考えを巡らせることは辞めた。あれこれとよからぬ推論を導きだすことが怖かった。



 仕方なく幸生は、「連れてって~」と繰り返しゴネる菜津をお伴にし、放課後に一緒に学校を後にした。



 シネコンのロビーは、前回来館したときとは掲示も一新され、目新しい映画のポスターがずらりと並んでいた。そのラインナップをしげしげとチェックしていた幸生の目が、見過ごしていた一枚に注がれた。



【C5学生映画祭】



 それまで気にも留めなかったイベントの告知。


「あ、これですね? ブチョーが言ってたやつって」


 ポスターの文章を読んでいた幸生の脇から菜津が覗き込み割り込んでくる。


「ああ……そうみたい、だな」


 ふーん、と確認だけしたように、幸生はその告知のポスターから離れた。そのままチケットカウンターへと向かう。

「あっ……」と菜津は幸生の背中を追おうとしたが、一瞬留まり、ポスターの内容をよく見ようと少し出遅れることにした。どうせ座席は幸生がリザーブしてくれるだろう。席料はもう幸生に渡し済みだ。


 改めてポスターを詳細まで読みこむ。


 紙面には映画祭のタイトルと、ざっくりとして簡潔なイベントの主旨、それに決定した上映作品の簡単なプロフィールがその作品のアイコン画像とともに記述されている。全部でエントリは14作品、らしい。それに招待作が数点。エントリされた作品については、監督の名とともに出場の学校名と都道府県が明記されている。

 ざっと眺めたところ、出品された地域はほぼ全国を万遍なく網羅されているようだ。やはり大都市地域は多少数が目立つが、全体にバランスのいい分散だな、と菜津からみても思えた。


 改めて、紙面の下部に配されているエントリ作品のサムネイルをひとつひとつ眺めていく。

 そんな中、一葉の作品画像に、菜津の心がひっかかりを覚えた。


「あれ――これって――」



 その理由を覚るのに、菜津は少しの時間を要した。


 このシネコンが主催する、『C5学生映画祭』の告知ポスター。

 その下段に並ぶ上映作品のサムネイルの中のひとつ。

 自分とおなじくらいの年格好の、高校生ぽい少女を正面から捉えたポートレート。


 どこかの高校の、夏服だろうか。こちらの地域ではあまり見かけない、淡く空色かがった、白っぽい襟のセーラーワンピース。

 少し憂いを帯びた顔。けれど、緊張しているようにも見える。



 その姿には、どこか見憶えがあった。


 あるように、思えた。



――けれど、どこでだったろう……



 菜津は己の脳内の記憶を辿ってみたが、思い当たるイメージは引き出せなかった。

 額に人差し指を圧し付け、更に検索を試みる。


「うーん……たしかに、なにか引っかかるんだけど……」




「どうした?」


 カウンターから座席の確保が済んだ幸生が戻ってくると、考え事で視線を宙に泳がせる菜津に声をかけた。


「あ、う・うんなんでもない」


 うつつに引き戻された菜津が戸惑いながら返辞をする。

 菜津はポスターから目を外し、


「ちょっと……ぼぅっとしちゃった」


「まだ文化祭の疲れでも残ってるのか? しょうがないなあ」


「そぉじゃないけどぉー」


 そんなやりとりをしていた最中、ちょうど入場開始のアナウンスがロビーに響いた。

 自分たちの観る作品のコールを耳にした二人は、顔を見合わせると「じゃ、入るか」「うん」と簡単なやり取りを交わし、入場ゲートへ向かっていった。




 場内が暗くなり、予告編に続いて映画の本編が始まっても、菜津の中ではさっきのC5のポスターの小さなフレームの中の少女の姿がこびり付いていたが、どうしても記憶からはヒットするものが出てこない。


 やがてスクリーンの本編が進むにつれ、菜津の頭からはそんなことは霧消していった。



    *   *   *



 終映し、館内の明かりが戻ってくる。

 周囲の観客の捌け具合を見計らい、幸生が菜津に目配せをする。菜津が同意の意を示し頷くと、幸生は菜津と逆の側、左手の通路へと向かった。


「あ、待って――」


 ドリンクホルダーのカップを持つのに手間取り、出遅れてしまった。菜津は先に行く幸生を目で追う。幸生は菜津を気にすることなく先へ歩いていく。おそらく「どうせロビーでまた合流するだろう」くらいに思っているのだろう。そんな乙女心の気遣いも示せない幸生の態度をほんのちょっとだけ妬きながら、菜津もようやく座席から立ち上がった。

 前方の出口へとスロープを下る幸生の、やや後方からの姿を眺めていた菜津の脳裏に、ふいに昔のイメージがオーバーラップした。



 幸生を見初めた、あの一年前。場所は同じこの劇場。


 スクリーンも、今日と同じ――


 あの日、ようやく見つけた“彼”に、声をかけた少女。




――そうだ……あのひとって……たしか……




 菜津の中で、あの日の少女の容姿とポスターのサムネイルが重なった。



    *   *   *



 系列のシネコンを巡回しながら、C5が開幕した。

 桜と秋彦の地元地域での会期は、全国でもしんがりのほうの11月後半の予定となっている。

 既に各地での上映の反応はSNSなどで伝わり、評判となった作品の評価が拡散されているのを秋彦の目にも触れるようになってきていた。

 自作の評判も、インターネットに流れてくるぶんにはまずまずで、秋彦もひと安心といったところだった。


 撮影時には未定だった題名も、C5のエントリ時に正式に


   『SAVE THE DISGUSTING WORLD』


 と決定した。



  このクソ世界を救え。



 それは、秋彦なりのアンビバレントな心情を込めた、作品の主題そのものでもあった。




 秋彦から桜に提言があったのは、ちょうどそんな時期だった。


「ちょっと、地元じゃない場所での反応も、みてみたいな」



C5は、11月下旬から12月初旬にかけて全国の系列のシネコンを巡回する。

 秋彦の大学の学園祭は11月23~25日。地元のシネコンでは11月21日に開幕するC5のスケジュールとモロ被りしていた。



 学園祭で上映する作品は既にC5用に完成している。地元のシネコンでのC5開催までは少し間が開いているし、秋彦にも余裕が出てきていた。各地でのイベントのネットでの評判を見るにつけ、秋彦も次第に気持ちが嵩ぶってきたのだろう。


「でね――ちょうど次の週末は、桜の前に住んでた地区での開催日程になってるんだ。だから――行ってみようと思う」


「え?」


 切り出された桜は、戸惑いの表情を露わにした。


「ち・ちちちちちょっとまって!? なななななんであぁぁああたしの……??」


 賺さず秋彦が返答する。


「だって――桜の住んでいた街も、見てみたいなァと思ったんだ」


「え――け・けど、ゲスト申請、してないよね」桜が問い返した。


 事前に主催に申請すれば、ゲストとして登壇し挨拶もできる。

 だが、秋彦は地元のシネコンにしかその希望を出していなかった。


「だから、お忍びで、ね」


 そこまで言われてしまうと、桜も反対する理由を見い出せなかった。


「ウチの作品の上映は土曜だし――桜も、よかったら一緒に行く?」


 と、同行の誘いを秋彦は申し入れたが、桜は即座に首を振った。


「あたしは……いい。勉強、遅れてるし……週明けに、提出する課題もあるし……」


「そっかぁ……。じゃ、ボクだけで行ってこようかな」


 残念そうな秋彦の表情をみて、桜はすまない気持ちになった。


 少し学校での成績が落ちてるのは確かだ。

 けれど、それよりも重要なことが、桜の心にくさびを刺した。



 秋彦は、知らないのだ。



 あの場所には、幸生がいて――

 そのシネコンによく通っているということを。





 桜が何より恐れたのは、秋彦ともし一緒にかつてのあの場に行き、そこで幸生と鉢合わせしてしまったら……ということだった。


 そんな事情も露知らぬ秋彦は、予定通りその週末・土曜日、かつて桜がよく通っていたシネコンのエントランス前にある広場に立っていた。


「へえー。ここが……」


 日本海側にある秋彦たちの県から、日本の屋根を超えて太平洋側へ。街並みだけではなく、漂う空気すらまったくの異国を肌に感じる。秋彦はゆっくりと一度深呼吸をした。

 吸い込んだ鼻腔に、潮の香り匂う。シネコンのあるショッピング・モールのすぐ背後には海が迫り、耳をすませば時折水面が波消ブロックを打つ音が聞こえてくる。


 事前にバス経由のほうがシネコンの正面に到着するという情報を調べていた秋彦は、それに倣いターミナル駅で列車を降りバスに乗り換えるルートを選択し、到着した。


 自分の作品の上映まではまだかなり時間がある。秋彦はそれまで周囲を散策することにした。

 眼の前のバス停広場を隙かして海が広がっているのが見える。

 クリスマスの時期には中央に大きなツリーが聳える円形の広場の縁をぐるりと周回し、海の見渡せる堤の上に立つ。

 秋彦にとって、大学の位置する地区に臨む日本海は見慣れた風景だったが、太平洋は海原の色さえ違って明るく見える。射してくる光源のせいなのだろうか。

 何より海の表面がそのまま空へと溶け込むように繋がる青のグラデーションに秋彦は暫し目を奪われた。

 両の手を互い違いに合わせ、人差し指と親指でできた四角のフレームから覗き込む。

 近隣の港から出入りする大小の船がゆっくりと通り過ぎていく。


「いいなあ……この景色」


 ムービーカメラを持参してこなかったことを少し後悔した。


 周囲にはぽつぽつとカップルや家族連れが散歩したりベンチにたむろしている。

 その中に、中学生のような少年が普通の家庭用よりはやや上位機種の民生機のビデオカメラを抱え、ファインダを覗き込んでいるのに秋彦は気づいた。


 近付いた秋彦は


「こんにちは」と声をかけてみる。


 ふいに自分に投げられた言葉にやや戸惑った仕草を表すと、その少年が「こんちは」と返した。


「けっこういいの使ってるね。これ、4K?」


「はい。いちおう」


「へぇー」しげしげと少年の手の中のカメラを眺めながら秋彦が返す。


「でもオモチャですよ、こんなの」


 照れ隠しなのか、その少年が素っ気なく応えた。


「いやいや、中学生でこれを持っるのは、けっこうスゴいよ」


 秋彦の返した言葉にややむっつりとして少年が返答する。


「高校生です、一応」


「あ、ゴメン。てっきり中学生かと……」


 秋彦が間違いを謝罪すると、続けて


「高1ですから……半年前は、中学生でした」


 と、その少年は応じた。


「そっか」


 攻守が変わったように、こんどは少年のほうから秋彦に問いかけた。


「映画、撮るんですか?」


「ん? ま・まァ、ね」やや戸惑いを込めて秋彦。


「ひょっとして――あなたも、C5観に来たんですか?」


「あー……そ・そうなんだ」


 図星を突かれ、秋彦がやや外す。


「いいですよね……ボクもいつか、あれにエントリできたらな、って思うんです」


 少年の頬を紅潮させ語る姿に「そっかぁ……」と秋彦が曖昧に相槌を返す。


 こんなところで映画少年と出逢ったことに少しだけくすぐったさを感じながら、秋彦は少年の傍から離れず暫く佇んでいた。



 そんな秋彦には頓着せずにカメラを回していた少年が、思い出したようにカメラをふと時計を見て、


「あ、そろそろ行かないと」


 と秋彦に告げた。

 いや――彼の独白だったのかもしれない。その言葉に対し秋彦が受け、


「ああ――なんかごめんな、撮影の邪魔しちゃったみたいで」と継いだ。


「いえ。ただ実景撮ってただけですから」


 そう言うと彼はカメラを鞄に仕舞い、


「じゃ、また」


 と秋彦に告げ、そそくさとシネコンのエントランスへと向かっていった。


 秋彦も


「ああ」


 と少年の背中に声をかけた。


 秋彦は、少年の姿がシネコンのロビーへと消えると、ふたたび海を目指して歩いていった。



    *   *   *



「おっそいなぁ……ナニやってんだろ、あいつ」


 菜津が不満を露わに愚痴る。


「もーこのままあいつ残して先に席とっちゃいましょーよーっ」


 急かす菜津をヘンリーがなだめる。


「まーまー、もう少し待ってあげようぜ」


「でもぉー」


「新・部長が来て仕切らないことには部活動の体をなさないだろ? とにかく待とう」


 幸生もヘンリーに同意する。


「もーっっ」


 菜津はあからさまに不満げだ。


 映画研のメンバーたち――幸生に菜津、それにヘンリーは既に揃い、まだ来ていないハイネをシネコンのロビーで待っていた。


 と――やや早足でバスターミナルのほうの入り口からハイネが現れたのを、待っていた3人が確認した。


「おっそぉーい、ハイネぇーっ」


 ハイネを見つけた菜津がいち早く文句の言葉を投げかける。


「……スイマセンっっ。ちょっと、ついでに撮影してたら、時間忘れちゃって……」


 少し歩を早めながら、ハイネが近付きながら謝罪の言葉を3人へ告げる。


「もー、新部長なんだから、ちゃんとしてよネっっ」


 菜津がぷりぷりしながらハイネを責めたてる。

 それに対してハイネはひたすら平謝りだ。


「ホントにホントにスミマセンっっ」


 いつまでも収まらない菜津を鎮めるために幸生が割り込んだ。


「まーまー、とにかく、まずは券買おうぜ」


 ヘンリーもうんうんと同意し、それに頷いたハイネは全員から代金を預かりチケットカウンターへ向かった。


「ったくぅ。先輩たち、あいつに甘すぎますよっ」


 まだ怒りの収まらない菜津が愚痴を吐き続けていた。



    *   *   *



 カウンターに着いたハイネは、そそくさと握った紙幣をテーブルに差し出しながら、受付のスタッフに注文を告げた。


「えぇっと……C5の……『SAVE THE DISGUSTING WORLD』を、4枚……」




    *   *   *




「そろそろ戻るかな」


 スマホで時間を確認すると、秋彦は今来たルートをショッピング・モールのほうへ戻り始めた。

 海浜公園まで足を伸ばしてみたものの、それなりに広いこの公園の端までは辿り着けそうにない。奥へ行けば映画の開始時間に間に合わなくなると思い、引き返すことに決めた。


 秋彦は既にインターネット予約で事前に席を確保している。ロビーの端末で券を出力するだけだ。




 そういえば、さっきの少年は、どのプログラムを観に来たのだろうか。


 遊歩道を歩きながら、秋彦は先ほど会話を交わした、ムービーカメラの少年のことが気になっていた。




 道を戻るにつれ、視野にショッビング・モールの全景が迫ってくる。

 バスターミナルと広場を手前に、正面に目的のシネマコンプレックスの入口が秋彦を迎え入れる。


「これが、桜が通っていた劇場かあ……」


 いったん立ち止まると、秋彦は改めてシネコンの外観を見上げ、桜のこの地での生活に思いを馳せた。






 観客の反応を見たいので、座席はいちばん後ろの隅にした。


 着席して客席をぐるりと見廻す。



 3割ほどの座席が埋まっている。「映画祭」と銘打ってるとはいえ、学生の自主映画のイベントとしては、まずまずいいほうだろう。



――そういえば、桜はいつもこのシネコンの、どのあたりに座ってたのかなあ……



 秋彦は、そんなことを頭に浮かべながら、自分の座席の番号を探した。



 幸生たち映画研のグループは先に入場し着席していたが、同席していた先程会話をした少年――ハイネの姿を秋彦が認めることはできなかった。






 開幕のジングルが場内に響いた後、


“ただいまより、C5《シー・ファイブ》学生映画祭・Bプログラムを上映します。エントリ上映作品は、……”


 監督名とタイトルが順番に読み上げられ、秋彦は2番目にコールされた。中短編がメインのイベントなので、上映プログラムは幾つかの組に分けられ、数本をまとめたプログラムとしてタイムテーブルが組まれている。


 10分ほどの尺の1本目の作品が終わり、秋彦の映画『SAVE THE DISGUSTING WORLD』が始まった。



 幸生の隣席に座っていた菜津は、プログラム2本目の作品のアバンタイトルが始まると、不安で胸を圧し潰されそうになった。

 画面よりも幸生の横顔が気になる。

 体の芯のざわめきを、なんとか幸生に覚られないように必死で体を強張らせた。



 上映開始直前、菜津は映画祭のチラシをもう一度確認した。



 2本目の作品紹介のサムネイル。メインビジュアルの少女。





――まちがいない。



  このひとは――




 物語が進み、鍵となる少女の登場する場面となる。


 カメラが少女の足元を捉え、そこからゆっくりと姿に沿って上へ昇っていく。

 足首、腰、胸、首、顎――

 画面が少女の顔を大写しで捉えたとき、菜津は思わず固く眼を閉じてしまった。

 眼を瞑っていても、微かに触れた肩に、緊張の気配が伝わってきた。

 ゆっくりと瞳を開く。

 横顔からは、幸生の表情は伺いしれない。ましてや上映中の館内だ。だが、触れ合う袖口の筋肉の震えは、桜にも伝播した。


 眼を逸しスクリーンを見遣れば、あの少女が画面で動いている。

 いつか、この劇場で見かけた、あの少女――


 笑顔。仕草。歩み。指の動き。


 すべてが、生々しくスクリーンから迫ってくる。


 その画面の熱量を、隣の幸生はどんな想いで受け留めているのだろう。


 それを慮ると、菜津の心は鉛を飲んだように沈んだ。


 思わず菜津は肘掛の幸生の手の甲に自分の手を添えた。汗の浮き出た皮膚がじとりと菜津の掌に触れた。



    *   *   *



 上映が終わり館内の明かりが点き、このプログラムで上映された監督やスタッフ、出演者たちが壇上に呼ばれた。全作品に登壇者がいるわけではなく、中には都合で関係者が来場していないものもある。主にはこの地元や近隣地域からのやや遠隔地の制作作品から登壇する者はほぼ皆無の状況だった。


「ま、作ってんの、みんな学生だからなあ。紹介されるだけのためにわざわざ遠くまで出張ってこないよなぁ」


 ヘンリーが誰にともなく呟くと、


「そうですね」とハイネが相槌を打つ。


 並んで座っていた菜津は、視線を泳がせていたが、2作目にメインで出演していた少女の姿が壇上にないことを確認すると、少し安堵の表情を浮かべた。


 続いてふと隣の幸生が気になり横目で窺う。だが、固く口を結ぶその表情は己の動揺が漏れ出ることを抑えているようだった。

 ただ無言で正面を見据える幸生に、菜津は声をかけるいとまも見出だせなかった。



 ひと通りのセレモニーが終了し、まずはヘンリーが席から立ち上がる。


「あーっ、終わったかぁ~。自主映画って、あんなもんなんだな」


「でも、なかなかよく出来てましたよ。学生の作品にしてはレベルが高いほうですよ」


 ハイネが応えた。


「へえーっ、さすがユーチューバーさんの批評は辛辣ですねぇー、ナニその上から目線」


「ボっ・ぼくは、ただ素直な感想を言っただけですよっっ。……それに、ボク、ユーチューバーじゃありませんから」


「へいへい」


 ヘンリーに誂われてややむくれるハイネが、そのままヘンリーの背中を追って客席から出口へ向かう。

 けれど、幸生はまだ凝っと席に座ったままだ。

 いや、うずくまる、というほうが正しかった。


 席を立ったものの、少しの間、幸生の様子を見ていた菜津が、見かねて声をかけた。


「ねぇ、映画終わったよ。……出ようよ」


「……ああ……」


 促されて、それでもやや間を置いて、ようやく幸生が重い腰を上げた。


 のろのろと歩き項垂れたようにも見える幸生の背を追いながら、菜津は思った。



――知らなかったんだ……

  なにも、知らされていなかったんだ――



 幸生を思う気持ち。桜へのいかり。

 菜津の心が、キリキリと痛んだ。




 本来なら上映後に監督やスタッフ、配役などが壇上に上がりイベントを盛り上げるのだが、事前申請をしていないお忍び観覧の秋彦は客席からその光景を眺めるだけになった。


 次回の地元開催では、自分もあのステージの上に立つのか――


 秋彦は、そんな感慨に耽りながら、ライムライトに包まれた壇上を見つめていた。



    *   *   *



 イベントが閉幕し、秋彦がロビーへ出てみると、先ほど開始前に外の広場でカメラを持っていた少年の姿を発見した。


「あ、さっきの……」


 と口に漏らしたのとほぼ同時に向こうの少年のほうも秋彦に気付き、目が合うとぺこりと軽く会釈を返してきた。

 少年の周囲には3人ほどの同年代らしい高校生風の男女がおり、少年の仕草につられて皆が秋彦のほうへ顔を向けた。

 そのまま去ろうかと思いかけるいとまもなく、少年が秋彦のほうへ小走りに近付いてきて、


「あ、やっぱり観てたんですか、今の」と声をかけた。


「う・うん。まぁ、ね――」


 秋彦が曖昧な受け答えをする。


 少年の連れのグループも、彼の動きにつられて秋彦のほうへ寄ってきた。うちの一人が彼の背後からぽん、と肩をつつくと、


「知り合い?」


 と訊ねた。


「さっき、実景を撮ってたら声かけられて――」


 少年が関係をどう説明すればいいのかと一寸戸惑ってから、もごもごと説明を始めた。

 秋彦が少年の途切れた言葉を継いで話しはじめる。


「あー、ちょっと珍しかったからね。ムービーカメラ抱えてるなんて」


 その年齢の割には不釣り合いな……と言いかけたが、それは止めておいた。

 翻り話題を逸らす。


「キミたち、地元の高校?」


「ハイッ。きょうは部活のみんなで、C5を観に……」


 秋彦が少年の言葉尻を捉え繋いだ。


「え、ひょっとして、キミたち、映画系のクラブ、的な?」


 賺さず少年が答えた。


「はいっ。高校の映画研です。もっとも、自主映画は撮れないんですけど……」


 ちょっと引っかかる答え方をされたので、秋彦が問い質す。


「撮れない? どうして??」


 少年が答えに口籠ったとき、少年を囲んでいたメンバーで唯一の女生徒が割り込み、


「ちょっと、ハイネっっ」


 と遮った。



――はいね? 変わった名前だな……渾名かな? ……



 少年と女生徒のやり取りを眺めながら、秋彦の頭に微かな疑問がよぎった。


 何かを揉めている雰囲気が双方のアイコンタクトで交わされている。それがどんな内容なのか秋彦が窺い知ることはできなかった。




 そこに踏み込むのは憚られそうだと感じ、秋彦が話を替えた。


「そうそう、さっきの映画――どうだった?」


 言ってしまってから、つい軽い気持ちで質問してしまったことをすぐ後悔した。だが後の祭りだ。

 ‘ハイネ’と呼ばれたその少年が間を置かずに返しはじめた。


「そうですね……1本目のは、よくあるワンアイデアの短編で、それなりに楽しめました。2本目のは……ちょっと形而上学ぽいというか、観念的なとこもある割に、キャッチーな枠に嵌め込んでたりして……それなりに楽しめたです。でも他の観客はどうだったのかなあってちょっと思いました。いまひとつ難解かな、って。

ま、ぼくはけっこう、好みですけど」


 唐突に饒舌になった少年に面食らったが、なかなか深く読み込んでいるな、とも秋彦は思った。

 まだ高1なのに。やや青臭い言い回しはするものの、彼の見識は確かかもしれない。

 秋彦は自作を評価してくれたという理由以上に、この少年の映画を理解する能力の高さを見直した。


 ‘ハイネ’少年と一緒にいたグループの中の、やや後方で眺めていた一人が会話に割り込んできた。


「え、と……あなたも、映画サークル関係者なんですか?」


 突然、図星を当てられて秋彦は慌てた。


「い・いやっ……ボ・ボクは――」


「ですよねェー、いまどき自主映画なんてダッサいっすよねぇ~。俺らはあくまでも観賞専門の部活でぇー……」


 男生徒が矢継ぎ早に言葉を繰り出す。秋彦が答えに窮していると、脇にいた先ほどの女生徒が男生徒に肘鉄を加えた。


「ちょおっとぉー、ブチョー、不躾に失礼でしょっっ」


「いっ・いテテテテっ」


 女生徒に肘鉄を喰らった“ブチョー”と呼ばれた男生徒が悶絶する。

 ショートカットに、ワインレッドのセルフレームの眼鏡の奥から藪睨みするクリクリとした瞳が印象的な少女だ。

 止まった息を整えながら、その男生徒が言い訳を女生徒に返した。


「いや、なんかいかにもそんなふうかなー、とか見えたからサ」



――いかにも、か……。



 対面の少年たちの会話を眺めながら、秋彦は自分が外からは‘そんなふう’に見えているのか、と少し狼狽えた。


 そんな秋彦の心情などには馳せることもなく、彼らのやり取りは流れていく。


「なにプリプリしてんたよ、緋色~」


「べっつに、プリプリなんてしてませんよっ」


 “ブチョー”の弁明にも、女生徒=緋色菜津は眉ひとつ動かさず無視した。

 彼女の苛立ちは実際はそんなところになかったからだ。


 事態を見守る秋彦の視線に気付き、目が合った菜津は秋彦に軽く会釈をした。その所作に釣られるように、秋彦の矛先が菜津へと向かい、


「いま観た映画、どうだった?」


 と質問した。


 予想していなかった秋彦からの問いかけに戸惑いつつも、菜津は


「うーん……自分には、わかんなかったです。なんか、あーゆう自主映画っていうの? あんまり興味、なくって」と応じた。


「そっかぁ。ありがと」


 菜津が答え終える間髪を入れずに、隣にいた“ブチョー”と呼ばれていた男生徒が割り込んできて口を挟みはじめた。


「あー、まぁ、書きたいことはわかるんですけどぉー、なんていうのかなァ低予算の短編ゆえのチープさっつうか。やっぱ学生の自主映画でえすえふ? って、難しいっスよね」


 目の前にいるのがその作品の監督本人だというのも知らず、ずけずけと辛辣な感想を繰り述べる“ブチョー”に、秋彦は「そ・そうかぁ……そうだよねえ……」と絶句するしかなかった。


 まだまだ自説を捲し立てる“ブチョー”に、ずっと黙っていた最後の一人の男生徒が「おい、ヘンリーっ」と遮った。

 どうやらその“ブチョー”は‘ヘンリー’と呼ばれているらしい。



――‘ハイネ’に‘ヘンリー’……みんな渾名で呼んでるのかな。

  おかしな連中だな。



 連想を繋げて秋彦は思わず頬が緩んだ。


 秋彦の視線が、‘ヘンリー’に横槍を入れるまで少女=菜津の背中でずっと俯いたまま黙っていた、そのもう一人の男生徒に注がれた。つい今さっきまでまるで気配を圧し殺すような姿勢でいたのが気になりながら、


「きみは?」と会話を振ってみた。


 問われて秋彦と目が合った男生徒=井崎幸生は、ふたたび視線を逸らすと、何かを言いたげに――あるいは言いたくなさそうに――口を結んでしまった。

 固まってしまったその場の空気を破ろうと、秋彦が同じ質問を被せる。


「きみは、どうだった?」


 黙っていた幸生も、重ねて訊ねられては何か答えるしかなく、仕方なしに口を開いた。


「おっ……ボ、ボクは……」


 『俺』と言いかけて、相手が年上だということを配慮し『僕』と言い直したのだろう。

 だが、次の句がうまく継げない。言葉に詰まる。

 それは、感想を言語変換するのに時間をかけているだけではなかった。時間が凍る。



 会話の途切れの間を埋めるように菜津が言葉を差し挟んだ。


「あ、そうそう、あたし3つ目のヤツ、けっこう好き、かも」


 菜津はあえて話の中心になっている作品ではなく、その後に上映されたコメディものに話題を逸らした。


 秋彦が会話に乗る。


「あ~、アレおもしろかったよね。テンポがよくって。カットの流れとかもよかったよなぁ~」


「ですよね~。ああいうのなら、あたしにも楽しめるんだけどなぁ」


 うんうん、と秋彦が頷く。ほんのちょっと、心の底で、自作の評価がスルーされたことを残念に思いながら。


 秋彦と菜津の会話にハイネも加わり品評で盛り上がる囲いを側目に、会話の輪から外れた幸生は暇を持て余してスマホを弄んでいたヘンリーに目配せをすると「そろそろ行かないか」と小声で告げた。

 ヘンリーもスマホ画面で時間を確認し「おっ、そうだな」と同意すると、ハイネと菜津に「んじゃ、そろそろ行くかー?」と号令をかけた。


 ヘンリー部長の掛け声に気付いたハイネは、改めて秋彦に向き直ると「じゃ、失礼します」と告げ、声のほうへと去っていく。菜津もぺこりと頭を下げ、ハイネを追うように秋彦から離れた。


「ああ、話できて楽しかったよ」と、秋彦はハイネと菜津の背中へ向けて声をかけた。菜津がそれに応じるようにもう一度振り向き、ふたたび会釈をし去っていった。


 高校生の4人のグループが集まると、ショッピング・モールのコンコースへと歩きだした。その後姿を秋彦は暫く見送った。




 ショッピング・モールのコンコースを歩きながら、映画研のメンバーはいま観たばかりの作品をあれこれと評していた。とはいえ主にハイネとヘンリーとの間でのやり取りで、幸生と菜津はただその議論を傍観しているだけだ。


 幸生は会話の輪には加わらず、少し後ろから付いて行くだけだった。


 集団から下がってしまった幸生を気にして、菜津がちらちらと振り返る。だが幸生はそんな菜津さえ気に留める様子もなく、ひたすら自分の中に籠っているようだった。


 あの大学生と別れたあと、幸生の表情は沈んでいた。


 菜津やハイネが中心になり映画の感想を交わしていたが、幸生は問われれば相槌を打つだけで、進んで会話に加わることはなかった。


 幸生がいま何を考え思いを巡らせているのか。菜津はそれに気付いていたが、幸生に言葉をかけることができなかった。


 幸生の中で、先ほどのスクリーンに映った見憶えのある顔が浮かんでいた。そのイメージが心を占め、上映の間じゅう、映画の内容は頭に入ってこなかった。


 白いセーラータイプの高校制服――のような衣裳――に身を包んだ少女。


 着ている制服は見慣れないものだったが、その姿そのものは、鮮明に記憶されている。


 つい、半年ほど前。ゴールデンウィークに逢い、会話を交わした相手。


 今も、顔を思い出せば鼻腔の奥で彼女の躰を纏う甘い薫りの記憶が漂う。


――その桜が、どうしてスクリーンにいて、こちらを向いているのだろうか。


  それに――


  どうして、自分にそのことを伝えてくれかなったのだろう……


 彼女の笑顔がフラッシュバックする。


 ぐるぐる、ぐるぐると思考は同じ円環を巡り、墜ちた迷路からの出口は見つかるはずもなかった。


    *   *   *


 週明けに映画研の部会が開かれ、この日、正式にハイネが新部長となった。


 必然的に、菜津が副部長と会計という三役のうち二役を任されることになった。


「どして? なんで、あたしが副部長なんですかぁ?」


「しゃーねーじゃん、部員は他にお前しかいないんだから」


 文句を言う菜津を元・部長のヘンリーが諭す。


 菜津はぶちぶちと不満を呟き続けたが、選択肢は無い。ここは矛を納めるしかなかった。


「ま、副部長や会計なんて、人数合わせでいてくれりゃーいいんだよ。要はクラブの存続のために提出する書類に不備がなけりゃいーんだから」


「ぶー」


 まあ、他に部員は菜津しかいないのだから、ハイネが部長になるのは至極当然の成り行きだった。


 菜津は副部長と会計を兼任することになった。


 残る問題は、ふたたび襲来した部員不足だ。


 現在の部員は、2年のヘンリーと幸生、1年はハイネと菜津の4人。部活の用件を満たす5人には1名不足となる。来年度になれば3年になるヘンリーと幸生は実質メンバーから抜ける。部の存続は更に困難になるだろう。


「ハイネはともかく……緋色と二人だけで、だいじょうぶかよ、来年……」


 危惧の言葉を吐いた幸生に、ハイネが答えた。


「来年には、ボクの中学から何人かがここに入ってくるハズですから……顔見知りの後輩に頼んで、入部してもらうようにします」


 それでも不安は残るが、幸生は頷くしかなかった。


「頼んだぞ、ハイネ」


 とヘンリーがポンとハイネの肩を叩いて言った。


――お前が言うな。


 幸生は心で思わずツッコミを入れていた。


 ただ。


 ハイネなら、よしんば独りでも、何かを撮るだろう。


 幸生には、漠然とした、確信にも似た予感があった。 


 ハイネの心の中では、創作の種火がちろちろと燃えはじめていた。


 やがて、それは大きな炎となるだろう。


 新体制が整い、区切りのついた部活ではハイネと菜津がこれからのこの部のありようについて議論を続けている。


 それを眺め、幸生はなんだか安堵の心地もした。


 だが。


 部活で仲間たちとはしゃいでいても、ふとした瞬間に幸生の腹の奥にずしんとした重しがのしかかる。


 そんな、ふと見せる幸生の苦悩の表情を、菜津は見逃さなかった。


 菜津は思っていた。


――あの映画に出てたあのひと――


  やっぱり、そうだったんだ……


 同時に、あの日に遭遇した大学生風の男性にも、菜津は引っかかりを覚えていた。


 “地元の”と、あの人は発した。


 地元。土地の人間ならそんな言い回しはしないだろう。


 なら――


 あの人は、どこか他府県からわざわざこのイベントを観るために訪れたのだろうか。


 菜津の頭の中で幾つもの疑問が立ち上がり、思考を集中させることができない。


 新部長・ハイネとの議論も、そのためにいまひとつ真剣には気持ちが向かない。


 ハイネはひとり来年度のプランに熱中し、菜津には構わずに持論を述べ続けている。


「……来年の4月にはボクの後輩たちが入学してくるんで、そいつらと自主映画を撮ろうと思うんですよ……キャメラはボクのを使えばいいし。じつはプロットももう練ってあって……で、そのとき、ぜひ緋色さんにヒロインを……」


 ハイネの熱弁も菜津の耳には右から左へ通り過ぎる。ウンウンと相槌を打つが、他の考えに頭がいっぱいで、内容を聴いてはいない。


 溜息をひとつすると、菜津は熱暴走し始めた頭を冷ますため、視線を逸した。


 部室で何気なくテーブルに放り出されていた、週末に皆で観賞したC5のフライヤーに目が留まった。菜津はそれを手に取ると、発言に熱中するハイルを傍目に、フライヤーの文字を目で追い、見るともなしに眺めた。


 全国の上映スケジュール表がフライヤーの裏面に印刷されている。


 その日程を目で追うと、あの問題の作品の制作された地区での上映は、ちょうどこの週末に催されるのが判った。


 そこでなら、きっとキャストとして‘あのひと’がステージに立つかもしれない――


 ふと、菜津にそんな考えが浮かんだ。


 菜津の中で、抑えられない衝動が沸き立ち始めていた。

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