#6 あの夏、いちばん静かな海。

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【あの夏、いちばん静かな海。】

 1991年 日本映画

 監督:北野武 出演:真木蔵人 大島弘子 河原さぶ

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         ◎


 秋彦の映画が、撮り零しのあったシーンの追撮もようやくすべて撮り終え、クランク・アップを迎えたのは、土用波も立つ8月も下旬になってからだった。


夏休みも残り一週間を切り、僅かな日数となったところで、ようやく秋彦から


「約束どおり、海に行こうか」


 と誘いが桜にきた。


「もう海もクラゲが出る季節だよぅ」


 電話口桜がむくれながら口応えする。


「ごめんごめん。けど、ポスプロっていってね、撮影したあと編集なんかの作業にとり組まなくちゃなんなかったんだ」


 秋彦の言い訳によると、その編集の更に前段階として、シーン/カット順に撮影素材を並べる作業があるという。繋いだものは『ラッシュ』と言うそうだ。


「でね、ようやくラッシュが上がったから、ひと区切りできるようになったんだ」


「ぶぅー」


 年上のせいか、桜は秋彦に対しては甘えた顔をする。

 そんなふくれっ面の桜をなだめるのも、ふたりの間のコミュニケーションとなっていた。


 幸生には見せない桜の一面だった。






 撮了以後、自分のことをかまってくれない桜は苛立ちを覚えた。


 せっかく、懇願に挫けて彼の映画に出演したのに。


 幸生との約束を後回しにして、協力したのに。


 高校2年の夏休みを、ぜんぶ彼に捧げたのに。



 秋彦の誘いは嬉しい。

 けれど、素直に頷けないジレンマに桜の心は乱れた。



 桜は、少しだけ秋彦を困らせたくなった。ちゃんと、自分のほうを向いて欲しかった。

 映画のほうにばかり気をとられている秋彦に。


 ヤキモチを妬いているのも桜は自覚していた。



――ヤキモチ。でも誰に? 何に?



 そんな自問も起きた。


 ひょっとしたら――秋彦の中では、自分は映画という存在のおおきさには太刀打ちができないんじゃないか。

 そんな漠とした不安が、桜をいっそう苛立たせる。



――所詮、あたしに声をかけたのも、映画のために過ぎなかったのかな……


  もし――もし、私と映画、どっちをとるかと詰問したら……


  そのときは……

  どちらを選んでくれるのだろう。


 

 幸生には抱いたことのない疑問が、秋彦に対しては沸き起こる。


 不安を秋彦にぶつけたくなったが、桜は胸に収めた。

 少なくとも、躰を重ね、自分に愛を囁く秋彦は、信じていたかった。


 信じよう、と、している自分が在った。



「とにかく、約束は約束なんだから。行こ。ね?」



 駄々をこねていても埒が明かない。

 桜はこの辺りが潮時と考え、首を縦に振った。


「じゃあ、明後日ね。決めたよ」


「うん」


 話がまとまり、ふたりはスマートフォンの通話をオフにした。



    *   *   *




「やっぱり、ワンピにすればよかったかなぁ……」


 海水浴場に設けられた更衣室で、新調したセパレートの水着に着替えた桜は、トップとボトムの間で露わになった自分のお腹を見下ろして独りちた。


 今年こそは泳ぎに行こうと決めていた夏に向けて、春のスイムウェアのバザールのときにターミナル駅のファッションビルで買っておいた新調の品。きょう初めて着用する、ライトベージュ地のチェック柄。ワンピースはなんだか子供っぽいと思えたので、思い切って初めてのセパレートにした。


 危うく今シーズンはこの水着も用無しになるところだった。


 けれど、いざこうして実際に着てみると、布で隠されていない腹部がやけにスースーとする。暑さで吹き出す汗がそのまま肌を伝い、てらてらと光沢を放つ皮膚が桜に恥じらいを抱かせた。ちょっとぽっこりとしていると自分でも思う白いへそ回りを眺め、こんなことならしっかりダイエットしとけばよかった、と後悔した。


「こんなの見られたら、なんだか恥ずかしいな……」


 だが、今さら躊躇ためらったところで、後の祭りだ。表では秋彦が待っているだろう。

 桜は意を決して更衣室を飛び出した。



「――待った?」


 砂浜で秋彦を見つけると、駆け寄りながら桜は秋彦を呼び止めた。

 体の正面に無造作にくるんだバスタオルを抱え時折砂につまずきながら歩く姿は、なんともおかしな姿勢で、不自然だ。


「いや――大丈夫だけど……どしたの?」


 あいかわらずぎゅうと正面に掴んでいるバスタオルを指差して、秋彦が問う。


「だって……」


 そう言うと桜はすぅと頬を桃に染め、おずおずとバスタオルを下げた。

 ビキニ姿の桜の肢体が披露する。 


「へえ……カワイイね」


 思わず感嘆の声を漏らす秋彦に、桜の顔が更に赤くなる。

 まじまじと突き刺さる秋彦の視線に堪らず、桜が制止し、


「あんまりじろじろ見ないで。恥ずかしいから」と告げる。


 それを秋彦が翻って返す。


「いつも、ホテルでは裸見られてるのに?」


「……えっち」


 恋人同士の戯言に、桜は顔だけでなく露出した胸や肩、腹部まで紅潮させ火照ってしまった。

 一気に吹き出た汗は、この陽射しのせいだけではない。桜は手に持ったタオルで流れる汗を拭うが、滝のように流れは止まらない。


「さ、せっかく海に来たのに、砂浜で立話してても勿体ないね。ひと泳ぎしようよ」


 アタフタとなってしまった桜の気を収めようと思ったのか、秋彦が促し


「さあ――」


 と桜の腕を掴んで海へと引き連れていった。


「あ、――うん」


 適当なところにバスタオルを置くと、桜は秋彦に引かれて寄せ返す波の中へといざなわれていった。


 潮の山と谷が連続して秋彦と桜を包み込む。

 この夏休みじゅう、撮影に忙殺された心と体が、ようやく緊張から解き放たれリラックスできたように桜は感じた。



    *   *   *



 海でひと時はしゃいだ後、桜は休むためにいったん海から上がった。


 秋彦に「いっしょに上がろうよ」と言ったけれど、秋彦は「もうちょっとだけ泳ぐよ」と返し、一人クロールで波に向かい出した。

 桜は「うん」と言うと、岸へ戻った。


 置いたタオルを拾い上げ、それを肩に羽織ると、砂浜に腰を降ろし海原を眺める。水平線に小さく汽船が浮かんでいるのが見える。その前景で、秋彦がゆうゆうと泳いでいる。


 シーズンの終わった砂浜には、桜たちの他には家族連れやカップルがまばらに点在しているだけだ。ひっそりとした海水浴場が、夏の暮れを知らせているようだった。


 泳ぎに飽きたのか、秋彦が浜に上がり、桜のほうへ近づいてくる。

 秋彦の胸の筋肉から海水がぽたぽたと流れ落ちる。歩いた跡の砂が足の形に濡れ黒い印を残す。

 海鳥が天をゆったりと泳いでいる。


 水平線が空と交わり、蒼いグラデーションを彩っている。



 その光景を眺めながら、桜はぼんやりと思っていた。


 この水着を買った時点では、ほんとうは秋彦に見せるつもりはなかった。

 桜の中では、見せようと――自分の水着姿を見てもらいたいと考えていたのは、別の相手だった。




 ひと夏の時間が、春に想っていた予定さえも変えてしまっていた。



    *   *   *



「痛ったぁ……」


 自分のベッドの上でうつ伏せになった桜が嘆く。


 昨日の海で日焼けし真っ赤になった背中に軟膏を塗布しながら


「日焼け止めクリーム、ちゃんと塗っといたんだけどなあ……」


 と愚痴た。


 殊に両肩の腫れがひどく、きょうは仰向けで横臥ることはできない。

 桜は呻きながら腕を捻り患部に軟膏を塗り続けた。


「絵笑子さんに手伝ってもらおうかなぁ……」


 そうも呟いたけれど、絵笑子の手を煩わせるのも申し訳ない。

 結局、桜は自力で作業をえた。


「ふう――」



 ひと夏、撮影のために陽射しを避けていたせいで、肌に耐性ができていなかった。それも火傷がひどい理由だと思った。

 あるいは、去年まで住んでいた太平洋側と、ここ日本海側では太陽光の強さが違うのかもしれない。


 じんじんと続く皮膚の痛みを感じながら、桜はそんなことを考えた。



 それでも、秋彦と短い夏を堪能できたことは、桜には悦びだった。

 ビーチはもう泳ぐ時期も過ぎ海水浴客もまばらになっていたけれど、喧騒もなくじっくりとふたりの時間を過ごせてむしろ満足していた。


 ヒリヒリとした皮膚の痛みが同時に昨日の想い出も堀り起こしてくれてもいた。



 ベッドに突っ伏したまま、窓から差し込む陽光の差す菱形が机から床へ、ベッド゜のへりへと移動する日時計を追い続ける。


 窓から漏れ聞こえる蝉の声も、盛夏とは別の音色を刻んでいる。

 夕方ともなれば、秋の虫の声も届き始めている。


 以前に住んでいた所と比べ、ここは夏が過ぎるのが早いようだった。



 何もせずただベッドに横になっていると、様々なことが頭に浮かんでは消える。気がかりになってくる。


「編集って、たいへんなのかなあ……どこまで進んでるんだろ……」


 秋彦に進捗を桜は訊ねたがったが、昨日の今日では進展も無いだろう。

 昨日の話し振りでは、「まだまだかかりそう」とのことだった。


“でも、『C5』の締切には間に合わせるよ。ぜったい”


 桜は秋彦の返事を反芻していた。


 そんな大変な時期なのに、桜の我儘に付き合って海へ連れていってくれた。

 秋彦の優しさがくすぐったかった。


 秋彦も、その作業でこれから暫くは忙しいだろう。

 少しの間、構ってもらえないのは我慢しよう。


 桜はそう思った。





 ふいに、スマートフォンの“リンゴン”という着信音が桜を現実うつつに引き戻した。ジングルがLINEメッセージだと告げていた。


 ひょっとして秋彦から――最初に浮かんだのはそんな考えだった。


 だが、画面を点けると、その予想は外れていた。




 表示されたアイコンは、幸生のものだった。


「あ――幸生、く ん  ?」


 驚きと戸惑いの混じった気持ちで桜はアイコンをクリックする。


 いつもの如く、幸生からのトークは簡潔で、


[◯月◯日] [作品名] [上映回] [スクリーンNo.]


 だけが記されていた。


 桜が状況を捉える間も無く、続けてレスが届く。



“このごろ いつもキャンセルされてたけど、

 もう夏休みも終わるから いっしょに観よう”



 この夏休みの間じゅう、幸生からの誘いを断り続けてしまっていた。正直後ろめたさもある。

 だが、この時期なら、秋彦は映画の編集で忙しい。もし、桜からシネコンに誘っても、スケジュールはもう空けられないだろう。


 ほんの僅かな時間桜は迷ったが、桜は返信を書いた。



“うん いいよ”




 背中の灼けた肌が、またヒリリと痛んだ。



    *   *   *



 シネコンのロビーで、桜は幸生からのメッセージを待っていた。

 幸生が座席をとれば、桜にその番号を通知する。幾度も繰り返されたルーティン。だが最後におこなったのはもう二か月も前だ。

 桜が秋彦の自主映画に協力することになったこの夏は、すっかりご無沙汰してしまっていた。


 手に掴んだままのスマホの鳴るのを待ちながら、随分と久々に感じるこの感覚に、桜は懐かしさを噛み締めていた。



 夏休み終盤に映画を愉しもうと考える客が多いせいか、シネコンは人で混雑し、ロビーのソファも空きが無かった。仕方なく桜はロビーから出ると館の入っているファッションビルのエスカレーター脇にあったベンチに腰を下ろし、幸生からの返信を待った。


 エスカレーターで上下していく人の流れを眺めながら、桜は昨晩のことを思い出していた。



 映画の誘いがあってから、LINEで少し幸生とのやりとりをした。


“宿題もう済んだ?”


“まだかなり残ってる”


 などなど。どうということもない無駄話。

 それだけでもふたりには充分だった。



 夏休みの間じゅう、映画からの誘いをブッチしてしまったことを桜は謝罪した。


 けれど、自主映画のことは伝えなかった。

 幸生もあえて問い詰めることはしなかった。





 映画館の玄関には途切れることなく人々が出入りしている。

 その風景を向こう正面のベンチでぼんやりと眺めていた桜の視野に、ロビー奥の或るポスターが目に留まった。


「あ……あれ、は……」


 思わずベンチを立ち上がり、ふたたびロビーに歩み入りそのポスターに近づく。



  【学生作品募集 ――キミの才能をせろ!!】



 挑発的な惹句じゃっくが紙面に踊る。以前から秋彦が話していた『C5』の告知ポスターだった。開催は11月下旬。全国の系列シネコンで、巡回上映がされる。


 ひときわ大きなフォントで締切の期限が記されている。



  【募集締切 9/10】



 期限までもう日があまりないことに桜は少し戸惑った。


「“らっしゅ”は済んだとか言ってたけど、へーきかな……」


 秋彦の進み具合を心配した囁きが桜の口から漏れる。



――あとで、メール出しておこう……



 そんなことを考えていたときに、手の中のスマホが着信を報せた。


「あ」


 思考が途切れ、スマホの画面に目を遣る。


 メッセージには短く


“D5”


 とだけ記されていた。



――それなら、自分は『D-4』だ。



 いつものように、指定された左隣の席を目指し、桜はロビーのチケットカウンターの列の最後尾に並んだ。





 座席を確保した桜は、入場開始を告げる館内アナウンスを聞くと、一人でまっすぐに入場ゲートへと向かった。

 今回は、自主映画の編集に忙しい秋彦に連絡はしなかった。けれどそれに加え、きょうの映画は幸生と一緒に映画を過ごしたいと思った。

 最後の夏の映画を、幸生と。ふたりだけで。



 ゲートを通る直前、桜はもう一度ロビーのほうを振り向き、『C5』のポスターに目を留めた。




 本編のアバンタイトルが過ぎ、上映の最中も、桜は秋彦の進捗具合が気になって映画に集中しきれなかった。


 学生映画祭『C5』の締切には間に合わせると断言していた秋彦の顔が浮かんだ。

 自分がこうして映画を観ている時も、秋彦は編集に勤しんでいるのだろう。

 それを考えると、何も力を貸せない自分の無力さにいたたまれなくなった。



 隣の席“D-5”に幸生の影を感じながら、心の隅では秋彦のことを想ってしまう。

 アンビバレントな感情を抱えた自分が穢れた存在に思えた。


 桜の中に同時に存在する、秋彦と幸生への感情――その二者への葛藤を桜は自覚していたが、それを択一しようとは思わなかった。

 心の奥のドアを開けばどちらかが決定される。シュレーディンガーの猫の生死を見極める決断は、今の桜にはなかった。



    *   *   *



 映画がねロビーに戻ると、桜はふたたび『C5』のポスターに目を遣った。


 バッグからスマホを取り出し、電源をONにすると、すぐに幸生からの短いLINEが届いていた。



“どうだった?”



 桜は画面に指を辷らし、返信を入力した。



“うん おもしろかったよ

 幸生くんの教えてくれる映画はいつもハズレがないね”



 自分で書いてて「淡泊な感想だな」と思った。

 正直、桜は自分でこの映画が理解しきれなかった。幸生の薦める作品は少々アート系寄りだったり小難しく思索に富む内容のものが顕著で、良作ではあるが桜には馴染みきれないとも感じていた。

 対して秋彦が連れて行ってくれる作品は、恋愛ロマンスやファンタジーなど、娯楽色の強いものが多い。桜にとってはどちらかというと秋彦の選ぶ映画のほうが趣味に合っていると感じていた。



 暫く待機していたが、幸生からのレスはそれで途切れてしまった様子だったので、桜はスマホを仕舞いシネコンのロビーを後にした。






 帰路の電車に乗り込むと、桜は改めてスマホを取り出し秋彦とのLINEトーク画面を呼び出した。ここ数日更新は滞っており、まだ秋彦が映像編集に忙殺されているのが伺われた。



“編集、はかどってますか? がんばってくださいね”



 桜が短いレスを付けると、少しの間が空いて『既読』マークが現れた。

 それだけを確認すると、桜は窓外の流れる景色に視線を移した。


 流れ去る建物や木々の遠くに、日本海のあおが透けて見えた。



    *   *   *



 夏休みも終わり間際になり、幸生は自分の部屋で鬱々とした日々を過ごしていた。


 窓枠に切り取られた夕方の空は、オレンジの雲が浮かび、窓を明ければまだまだ日中の暑さが残る空気がエアコンの利いた部屋に濃密な湿気を伴い吹き込んでくる。

 それでも、鳴く蝉の声は盛夏を満喫するミンミンジィジィという騒ぎから、いつの間にかショワショワと夏の黄昏を告げるものに変わっていた。



 また二学期が始まれば、嫌でも菜津と毎日顔を合わせるようになるだろう。幸生が避けても菜津はぜったいに自分をロックオンする。学校に逃げ場はない。



 菜津を嫌っているわけではない。


 ただ、幸生は先日のあの“一件”があってから、どうも菜津と顔を合わせるのを避けていた。


 幸生自身も、あの日の行為が己の本心だったのか、躊躇いを抱いていた。

 ただ、菜津にほだされただけではないのか。


 ここで昔の決まり文句の“据え膳食わぬは何とやら”などという軽薄な言葉に落とし込みたくはない。

 何より、自分には桜への想いがある。


 にも拘わらす、誘惑に屈してしまったのは、菜津の中の有り余るほどの己への強烈な激情に、抗うことができなかったからだ。


 あのとき、菜津を拒めば、菜津は自身を傷つけてしまっていたかもしれない。いや、それどころか、あの観覧車のゴンドラのドアを突き破りそのまま飛び降りてしまっていただろう。

 それほどまでの迫真に、幸生は負けたのだ。



――あのとき、どうすることが最善だったのだろう――



 幸生の思考は堂々巡りを繰り返し、袋小路を彷徨った。




 桜に対する裏切りの気持ちは、幸生の心に重たい澱を留め始めていた。

 菜津から止め処無く襲来するLINEにも、3割程度しか返信を付けなかった。“夏休みの課題がまだ終わっていないから”などとてきとうな言い訳を書き送って凌いだ。


 少し、ひとりで考えたい。

 ひとりで、ゆっくり映画に浸り、心を整理したい。


 せめて、夏休みの締めくらい、幸生はひとりで息抜きがしたいと思った。


 菜津は誘わず、今回は一人で映画を観ようと決めていた。


 いや――桜といっしょに。



 その考えが頭の中で言葉に形成されるよりも早く、幸生の心はスマートフォンの画面に指を辷らせ、桜とのトークページを呼び出していた。




 なぜか近頃はいろいろと理由をつけて誘いを断られているが、それでも、幸生の指は映画のタイトルと、日付、時間をフリックし、送信ボタンを押していた。


 こんども断られるかもしれない。


 そんな不安が『送信』の動作が反映されるまで幸生の心に浮かんでは消えた。



 これまではレスを送ればぼどなく返信が付いていたが、最近は少しずつ『既読』の点灯も間が延びていた。

 それでも、今回は間を置かずに『既読』が現れた。

 幸生の中で、少しほっとした気持ちが沸いた。


 だが、それきり反応は来ない。


 幸生が仕方なくスマートフォンをベッドに放り投げると、直後にリンゴンとLINE着信のジングルが鳴った。




 幸生の高校2年の夏休み最後の映画は、桜といっしょに観ることになった。

 数千kmを隔てた、日本列島の太平洋と日本海に臨む両端で。



    *   *   *



 劇場から出て幸生がスマートフォンの電源を入れると、インターネットと交信したモバイルがすかさずLINEの着信を告げるジングル音を発した。


 桜からの映画の感想にしては早いな、と思い画面を見ると、メッセージは菜津からのものだと告げていた。



“いそがしぃですか? さみしぃですぅ”



 相変わらず他愛もない文面に少々うんざりしながら、レスもつけずに放っておくことにした。向こうの画面には『既読』が付いたから、見たことは知れるだろう。

 幸生はトーク画面を桜のページに切り替え、


“どうだった?”


 と短いレスを送った。

 画面をそのままキープして待っていると、少しの間を置いて返信が現れた。

“うん おもしろかったよ

 幸生くんの教えてくれる映画はいつもハズレがないね”



 幸生はそれだけを確認すると、『了解』の意味を表すスタンプを返し画面をOFFにした。


 スマホを尻ポケットに仕舞ったとたん、また新たなメッセージが届いた。なんだろうと思いまたスマホを取り出すと、こんどは映画研のグループトークだ。

 この夏休みの間ほとんどこのページが利用されることなどなかった。何かと思い開いてみると、ヘンリーからのトークが追加されていた。



“9月のさいしょの活動日は1日だよーん

 始業式のあと部室に来てにょ 部会だよ! 全員集合ヨロ”



 部長としての権威も何も窺えない、なんとも間の抜けた書き方だ。

 呆れつつも『OK』スタンプを付ける。そのスタンプに『既読』が付くとすぐに『イイネ』を意味するスタンプが菜津から付けられた。


 続いて即座に菜津のトークにレスが追加される。画面を開くと、ハートマークのいっぱい付いたスタンプが続いたあと、一文が続いていた。



“来週からは また学校で 毎日会えますね”



 幸生は画面の明かりが暗転するまでそのトークを見つめていた。



    *   *   *



 モスグリーン地のチェック柄の制服スカートをハンガーに吊るし、クリーニングから戻ってきたときの畳み皺を伸ばしながら、桜は独り言を呟いた。


「えーっと、制服は準備したし……あしたは始業式だけだから……鉛筆だけ持ってけば、いいかな」


 自分の作業を確認するように桜はペンケースと学生手帳を通学鞄の中に放り込んだ。


 8月の終わり。夏休み最後の日。

 午後。桜は明日からの準備を整えていた。



 撮影のため遅れていた学校の夏休みの課題もなんとか昨日までに済ませ、授業には間に合いそうだった。

 完了したものは既に机の上に積んである。


 この夏はいろいろ忙しかったが、桜は充実していた。

 なによりも、撮影を通じて秋彦と濃密な日々を過ごせたことに満足した。



 窓を開けると、甍の波を越えて海からの風が部屋に吹き込んだ。

 潮の香りを涼やかな空気が運び、日本海側の列島の背に秋の気配をもたらしている。窓から顔を出し、桜はその向かい風を吸い込んだ。


「きもちいい……」


 心地よさに桜はそのまま窓を開け放しておくことにした。



 ひと通り作業が済んだ頃、机の課題の束の上に置いていたスマホがリンゴンと桜を呼んだ。

 画面を開く。秋彦からのLINEメッセージだ。


 桜の胸が高鳴る。



“ようやく編集が終わったよ。C5に応募した”



 編集作業を終えたということは、秋彦にも時間ができたということだ。

 桜は逸る心を抑えられずに、すぐに返信を書き送った。



“おつかれさま”



 続けてレスを加える。



“いつ会える?”



 秋彦の『既読』が付き、桜は返事が来るまで画面を閉じずに待っていた。


 早く早く、秋彦の顔が見たい。

 会いたい、と熱望する自分がいた。






 明日から二学期が始まる。



    *   *   *



 二学期が始まり最初の日曜、桜は久しぶりに秋彦と顔を合わせた。

 ほんとうは始業式が済んだその日に会いたかったが、秋彦の都合がつかず桜は諦めた。

 久しぶりといっても、前に会ったのは10日ほど前だ。それでも、桜にとっては待ち焦がれた時間だった。


 秋彦と知り合った頃に待ち合わせた古城公園の入口で、桜は秋彦と待ち合わせた。


 きょうは映画に行く予定はない。

 もちろん秋彦に誘われれば断る気はなかったが、きょうくらいはゆっくり過ごしたい。人混みの中に居るのは嫌だった。


 暑さも緩み、市に接する湾から流れ込む穏やかになった風の感触が、北陸の早い秋の訪れを感じさせた。


「――待った?」


 先に到着していた秋彦を見つけた桜は、待ち合わせ場所でスマホを眺めていて自分に気づかないでいた秋彦にそっと近づくと、ぽん、と肩を叩いて声をかけた。


「あ、ごめんぜんぜん気づかなかった」「フフフ」


 顔を見合わせるとふたりはどちらが提案するともなくそのまま公園の奥へと歩いていった。


 遊歩道は両端に並木が覆い、木陰に入ると少し風がひんやりと感じる。あれほど騒々しかった蝉たちの合唱も聞こえない。


 もう、夏も去ってしまったんだな。桜は歩きながらそう思った。



 公園の中心部にある池のほとりに出ると、水上に点々と手漕ぎボートが浮かんでいるのが見えた。


「あれ、乗ってみたいな」


 桜がねだると、秋彦は頷き、ボート乗り場へと足を向けた。はしけの裾の小屋で料金を払い、桜に手を添えて一緒に乗り込む。

 ボートがゆっくりと池の水面を滑り出す。


「きもちいいなあ……」


 池の面にさざ波を立てる微風を受け、桜が呟く。


 秋彦と共に居ることが、桜にとって安らぐ時間となっていた。

 いつからそんな気持ちを抱くようになっていたのだろう。


 撮影という濃密な時が、桜の心に深い印象を刻んだのかもしれない。

 それ以上の何かが、桜の秋彦への想いを重ねていた。


 会わないでいると、その切なさを感じた。


 会っているだけで、言葉を交わさなくても満ち足りていた。


「きょうは、これからどうしよっか」


 ボートの進行方向に背を向けオールをゆっくりと漕ぐ秋彦が桜に訊いた。


「んー……どうしよう?」


 答えにならない答えを返して、桜は手を水面に放る。ちゃぷん、という音と共に桜の掌がゆらゆらと池の水を揺らす。ボートの傍らからもうひとつの小さな航跡が伸びていく。


「そういえば、慌てて応募しちゃったから、まともに試写もやってないね。桜にも観てもらってないや」


「そうですよー。いちおう主演だったのに、観せてもくれないなんて、ひどぉい」


「ごめんごめん」


 秋彦が水面からオールを持ち上げると、ボートは惰性でゆっくりと動き続けた。

 ぽつりぽつりと繋がるだけの言葉でも、桜と秋彦の間には充分だった。互いを理解した、気のおけない会話。

 大地と隔絶された時が池の上でゆるやかに流れる。




「――そうだ、」秋彦が思いついたように桜に提案した。


「DVDには焼いてあるから――もしよければ、これからウチの下宿まで来る? 観せてあげるよ」


 と告げた。


「えっ? ……」


 唐突な誘いに、桜は一瞬戸惑いを見せた。

 そういえば、まだ秋彦の部屋には行ったことがない。


 迷うより早く、桜の口が返辞を発していた。


「うん――いいですよ」


 桜が同意する。


 ボートを降りると、ふたりはそのまま公園を出て、ちょうど停留所にやって来た市電へと揃って乗り込んだ。




 男性の部屋を訪ねたのは、初めてだった。


 2階建ての木賃アパート。カンカンと音のする鉄の階段を登った奥の、2Kの間取り。

 低いテーブルだけの部屋に招き入れられ、雑然と雑誌や撮影の道具が散らかった床を見回し、座る場所に困った桜はベッドの上に腰を下ろした。


「何か飲む?」


「ううん」と首を振る桜に、秋彦は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出すとテーブルの上にコトリと2つ置いた。

 そのテーブルに積まれたDVDの束の中から、プラケースに入ったひとつをデッキに差し込むと、ヴーンというモーターの呻りとともにこの部屋には不釣り合いなほどの大きさの80インチはあると思われるTVに画面が映しだされた。

 秋彦が桜の横に腰掛け、二人並んで開始した映像を視聴した。

 TV画面に窓からの反射が映り込み見づらいと考えたのか、秋彦がカーテンを引き部屋を暗くする。秋彦がペキンと缶コーヒーを開け口を付けると、桜もそれに従った。


 30分の短編。映画を観終わると、シナリオの時点のイメージからして、ややあっけない印象を桜は受けた。

 いまひとつ煮え切らない反応の桜に、言い訳するように秋彦が言う。


「応募の規定がね、『30分以内』って決まってるんだ。じつはもうちょっと尺が長いんだけどね、応募するために少し切った」


「そう、なんだ……」


 自分も関わった作品。自分の未熟な演技。それに辟易しながら、それでも、作った側からは物足りなくても、初めて観る人には充分なのかな、と思えた。


「うん、いいと思う……よかった」


「ありがとう。嘘でも桜がそう言ってくれると、嬉しい」


「そんな……」


 感想に嘘偽りはない。桜が反論しようと擦ると、秋彦は「わかってる」といった顔を桜に返した。

 ふたりの間には、もう会話がなくても、表情だけで解り合う通じ合いが生まれていた。



 秋彦の話では、「じつは完全版のバージョンがある」という。


「そっちは学祭で上映するつもり。けどとりあえず、C5にはこのバージョンで出したんだ。あとは入選するか、天に任せるだけ」


 そう言い明かりを点けた秋彦は「何か観たいもの、ある?」と云うと壁際の棚を指し示した。

 促された桜が棚に近寄る。映画のDVDが洋・邦画問わず整然と並べられている。よく見ると、監督別に並んでいるようだ。

 テーブルや床に比べ、綺麗に整頓された映画の棚に感心しながら背表紙の作品名を眺めている中で、桜の知っているタイトルもいくつかある。それを見つけるたびに、桜の中でその映画のシーンの記憶がリフレインする。


 イメージを愉しみながらしげしげと棚のタイトルを目で追っていると、秋彦が近づき背中に寄り添いながらひとつのタイトルを引き出した。


 『シェルブールの雨傘』だ。


 そのパッケージを桜に手渡しながら、秋彦が桜に訊ねる。


「観る?」


 少し考えに耽った桜だったが、優しく首を振った。


「――いい。……約束が、あるから……」


 その返事を追及することなく、秋彦は黙ってパッケージを棚に戻した。


 桜は改めて棚の背表紙の続きを眺め始めた。


 ふと桜の目があるタイトルに留まり、パッケージを引き出した。


 『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』。


「これ……」


 桜がパッケージをしげしげと眺めていると、秋彦が背中から「観る?」訊ねてきた。


 桜がこくりと頷き、秋彦に手渡す。


 秋彦はパッケージの表を見て「『セント・オブ・ウーマン』かぁ」と一言云うと、デッキのディスクを差し替えた。暗転したTV画面に映画会社のロゴが浮かび、アバンタイトルが流れ始めた。



    *   *   *



 映画が終わる頃、秋彦は桜の腰に手を回し、いっそうふたりの距離は接近していた。


 リモコンでTVの画面をOFFにすると、秋彦が桜の頬に口づけをした。

 そのまま顔を髪に寄せ、桜の顔を撫で始めた。

 桜は抗うことなく、秋彦を受け容れる。


 秋彦の唇が髪から桜の耳許へ、さらに首筋へと這い降りていく。

 同時に秋彦の手が桜のブラウスのボタンを順々に外していき、そのまま手が服と肌の間に侵入していく。


「……あ……」


 桜が思わず喘ぎ声を漏らす。

 次第に息が激しくなっていく桜に、ふと秋彦が耳許で囁いた。


「そういえば、この香り……」


 目を見合わせた秋彦に、桜が


「“ミツコ”だよ……」


 と言うと、秋彦の唇を求めた。

 短くも深い口吻のあと、秋彦が呟く。


「そう、なんだ……この香りが、“ミツコ”か……」


 いま観たばかりの映画の中で薫っていた匂いが、秋彦の部屋に満ちている。


 ベッドシーツに、桜の素肌に染み付いた“ミツコ”の香りが移っていった。


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