#5 ライブテープ

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【ライブテープ】

 2009年 日本映画

 監督:松江哲明 出演:前野健太 長澤つぐみ 松江哲明

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         ◎


 秋彦の自主映画への出演が決定したら、ことは早かった。桜をサークルの会合へ招きスタッフとの顔合わせを済ませると、次々とスケジュールが組まれていった。

 なにせクランクインまで日が無い。戸惑う余裕もなく桜は秋彦に連れ回された。


 会うたびに秋彦から躰を求められることに桜は抵抗しなかった。むしろ愛されることの歓びを感じた。




 6月に入り、秋彦が「カメラテストをするから」と桜を呼び出した。


「本格的なクランクインは夏休みからになるけど、その前に撮られることに少し慣れておいたほうがいいから」


 そう言うと、秋彦は桜を連れ出し、ちょっとしたスナップのような雰囲気で自らムービーカメラを回した。


 城址公園。だいぶっつぁん。


 秋彦は桜を被写体に風景を撮り続けた。



――ホントにカメラテストなのかなぁ、これ。

  まるで、これじゃいつものデートみたい。



 桜の頭にそんなクエスチョンマークが浮かんだが、桜は為すがままに従った。


 季節の移ろいが桜の姿とともに写しとられていった。





 6月も終盤になる頃、秋彦が「これ、読んでおいて」とやや厚めのプリントを桜に手渡した。


 以前に聞かされていた自主映画のタイトルの表紙には、【決定稿】の文字が付記されていた。


「撮影日程も決まったよ。桜は、それまでに役を把握しておいて。――とはいっても、まァ桜の役はただ居るだけでいいような感じなんだけど」



 ああ、いよいよなんだ。

 桜の中で、ずしりと重しが据えられたようだった。




――まだ、幸生くんには映画のことも何も伝えてないのに。


  どうしよう……





    *   *   *



 皐月も半ばを過ぎ、暖かな日々が続くようになると、秋彦と桜の逢瀬も長くなった陽の時間とともに延びていくようになった。


 会うたびに秋彦は撮影する映画の桜の役について話をした。

 それが桜へ理解を深めてもらうためのひとつとなっているのだ、というのをやがて桜は覚った。

 同時に、秋彦のほうでも、桜をどう撮るのかというプランに想いを巡らせているようだった。


 秋彦の提示したシナリオは、桜にとっては理解が難しい内容だった。



 記憶のない少女。彼女をとりまく人々。



 彼女はいつ、どこからやってきたのか。



 彼女は何者なのか。



 謎が謎のままスシトーリーは流れ、結末になっても解決はされない。



 不思議な物語、だった。




 鳩が豆鉄砲の顔になっている桜に、秋彦はしきりに解説をした。


「これは、いわば異国で異邦人と異邦人が出逢う話、なんだ」


 端々に、たとえ話で、ニコラス・ローグ(?) だのミヒャエル・ハネケ(??) だのといった単語を挙げて秋彦はしきりに桜に力説したが、もとから予備知識のない桜自身には何のことやら、だった。




 加えて。

 秋彦をこれからどう呼ぼうか、桜は戸惑った。


「え、と――あきひこ、さん……?」


 幸生に対しては「ゆきおくん」と呼ぶのが慣れた。

 けれど、同様な呼び方の「秋彦さん」では、なんだかぎこちなさを感じる。

 年上なのに「きみ」と呼ぶのもなんだかなァ、と思う。


 少し躊躇った末、秋彦への呼びかけは「あなた」になった。




 撮影のときは「監督」だ。

 「あなた」と呼ぶのは、あくまでもふたりだけのときに限られた。






 梅雨が明け、一学期末のテストの日程が教室に貼り出される頃、

 秋彦から桜に香盤表が手渡された。


「演者のスケジュールと撮影のシーンナンバーを書いた表だよ」


 マス目の中に白丸が記入された一覧は、その日の撮影予定とロケ場所が明記されている。

 自分の列のマスの『◯』の多さに、桜は面食らった。


「こんなに、多いの……?」


「そりゃそうだよ。だって桜はメインキャストなんだから」


 あっけらかんと答える秋彦に対して、桜は反論の余地もなかった。



――仕方ない、か……

  だって、合意しちゃったんだものね……



 近隣の商業高校では、正門に臨む校舎の壁に「夏の高校野球大会甲子園出場決定」の文字が垂れ幕に踊った。

 県下では強豪校として知られた学校だ。


 高くなった太陽が白の布を眩しく輝かせ、もう、夏がすぐ目前に迫っているのを報せていた。



    *   *   *



 ホテルのベッドの上で、桜は秋彦とまどろんでいた。

 カフェかファストフードショップで待ち合わせ→映画→ホテル、という流れは、2人にとってほぼルーティンと化していた。特に言割ことわることもなく、あたりまえのように桜も秋彦に連れ従った。桜の唯一の心留めは、秋彦の目を盗んで幸生へのメールを送ることだけだった。


 もっとも、知られたところで秋彦は気に止むこともしなかったが。


 秋彦の傍らで、桜は腕枕の主の夢語りに耳を傾けた。


「ヴィターリー・カネフスキー監督の『動くな、死ね、甦れ!』『ひとりで生きる』『ぼくら、20世紀の子供たち』っていう三部作があるんだけどね。主演に抜擢した2人の子供の成長に合わせて作品が作られているんだけれど、3作目はドキュメンタリーなんだ」


 秋彦は会うたびに一度はかならず桜に映画に関する話題を述べ続けた。

 桜もその薀蓄につき合うのが嫌ではなかった。


 ほんとうに映画が好きなんだな。そう桜は思い、なんだか心がくすぐったくなった。


 映画への愛は、幸生を凌駕しているかもしれない。


 そんな秋彦の領分も、桜が惹かれる理由かもしれなかった。


「俳優の成長を長期間記録し続ける、という作品作りの手法があって、トリュフォーがジャン= ピエール・レオーを取り続けた“アントワーヌ・ドワネルもの”の連作なんかがいちばん有名だと思うんだけど、こういう作品作りするクリエイターってそんなにいないかもね。ま、じっさい思いついても作品に成るまでがタイヘンだから、数は多くないんだろうね。たとえば――最近なら、リチャード・リンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』ってシャシンがある、かな。あ、リンクレイターはイーサン・ホーク主演で『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・ サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』ていう連作もあるね」


「ふーん」


 相槌を打ちながら、桜は、宙を眺め言葉を続ける秋彦から目を離さなかった。

 ホントは、秋彦の語る内容など、2割も桜には理解できてはいない。

 それでも、熱心に映画のことを語る秋彦の熱情に染まる横顔を見詰めるのが桜は好きだった。


 秋彦の披露する映画の知識は、幸生よりも深く豊富だった。


 やはり年長ということはある。


 意識するつもりはなかったが、桜の中で、どうしても幸生と秋彦を比較してしまっていることに気付くことがあった。


 桜の見詰める間も、秋彦の言葉は途切れない。


「でもリンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』よりも、カネフスキーの三部作のほうがスゴイとボクは思うな。最後の3本目は、ドラマを越えたスゴい感動が襲ってくるんだ――あんな映画体験って、他では味わえないくらいレアなんだよ」


 秋彦の寝物語はまだまだ続く。桜はただうんうんと頷く。

 そのリズムが変調し、秋彦が桜に正対し畏まると、っと瞳を見据えて言葉を継いだ。


「もし、できるなら――ボクは、桜でそれをやってみたい。

 これから、ずっとずっと、きみを撮り続けたい」


 愛の告白――かもしれなかった。


 桜の心は、そう捉えていた。



 桜のこうべが、ゆっくりと縦に往復した。



――そうなってほしい。


――ううん。

  そうなりたい。



 この瞬間の桜には、未来への疑いなど抱く隙間もなかった。





 列島上空に留まっていた梅雨前線を黒潮に乗った季節風がようやく押し流し、桜の住む日本海側にもようやく蝉たちが土から這い出し束の間の生を謳いあげた。


 大学生の秋彦は既に7月初旬には前期試験も終了していたが、“主演女優”である桜の試験休みに入るのを待って、撮影はクランク・インとなった。


「撮影期間中は日に焼けるのはNGだからね。」


 秋彦は“主演女優”にそうクギを刺した。


「だって、日焼けしちゃったら、シーンごとの繋がりがヘンになっちゃうでしょ?」


 たしかにその通りだった。


 桜としては、夏休みはプールだけでなく、せっかく海に近い場所に住んだのだから海水浴も楽しみたかったけれど、この夏は諦めるしかなさそうだった。


「そのかわり、撮影がクランク・アップしたら、一緒に海に連れてってあげるよ」


 やや意気消沈気味だった桜の心も、秋彦のその言葉で相殺された。




 撮影に時間をとられてしまい、幸生との“映画の約束”も、キャンセルすることが多くなった。


 なんとか桜は「友達に誘われて」などといろいろ理由をつけて幸生に詫びていたが、いつもいつも予定が埋まっている桜に対し、次第に不満を募らせていった。


「今回も、ダメなの?」


「……ゴメンね」


 一度や二度なら幸生も水に流していたが、たて続けにそれが起きると、さすがに桜に強くあたった。


「いつもいつもじゃないか」


「だから、いつも謝ってるじゃない」


 ふだんはDMで連絡をとり合っていたふたりが珍しく通話を繋いだのも、なんとか互いをなだめる気持ちがあったからだったが、余計に事態がこじれる結果となった。

 桜にしてみれば、自主映画の撮影に時間をとられていることを白状すれば、自ずと秋彦の存在も伝えなければならなくなる。ジレンマが続き、桜の中にも苛立ちが募った。

 そんな桜の葛藤も知らないまま、とうとう幸生の堪忍袋の緒が切れた。


「もう、いいよ」


 千里を飛翔してきた幸生からの声は、この直後にぷっつりと切断された。


 桜は「あ……」と小さく声を漏らしたきり、黙ってスマートフォンの『通話終了』の画面を見つめていた。



    *   *   *



 ついに幸生は桜を誘うのを諦め、最初から独りで映画に行くことにしてしまった。


 いや――1人ではなかった。

 幸生の右隣、桜のためのスペースには、別の陰が空間を埋めていた。




 幸生がLINEトークに、作品名と『○月○日 ○:○○』と開始時間だけが明記されたメッセージだけを入力し、送信する。


 桜とのトーク画面にレスされると、暫くして『既読』の文字が尻尾に付いた。


 それだけを確認すると、幸生はスマホをポケットに仕舞った。間髪を入れずに、ポケットの中のスマホが鳴動する。それが桜からの返信ではないことを幸生は感じた。

 諦めの心地を抱えながらふたたび取り出したスマホの画面を確認すると、案のじょう、着信は菜津からのものだった。


“いま ばす停につきました これから行きまーす”


 ハートマークが7つ連なった語尾を付けたメッセージがLINEのトーク画面に現れる。

 幸生が返辞を入力する前に、待ち合わせの場所に菜津がやって来る。小走りしたために息が弾んでいる。


「おまたせしましたぁ~」


 夏の盛り。ほんの少し体を動かしただけでも、額から汗が吹き出してくる。

菜津のブラウスも肌にしっとりと張り付いている。


「そんな慌てて来ることもないだろ。まだ時間たっぷりあるんだし」


「だぁってぇ~。少しでもセンパイといっしょにいたいんですぅ~」


 幸生が諭すように告げたが、菜津には柳に風だ。

 ぺろりと出した舌がいじらしさを感じさせた。


 菜津の乙女心なぞというものを窺い知る度量は幸生にはなかった。

 幸生は菜津の仕草に構う素振りも見せずに次のルーティンに移った。


「じゃ、席決めてくるから、そこでちょっと待ってて」


「うん」


 せっかくの菜津のおめかしにも感想を述べることもなく、ロビーのベンチに菜津を待たせると、幸生はチケットカウンターに並びに向かった。

 菜津は少し落胆したが、幸生のいつもの態度だからと愚痴る言葉を飲み込み矛を収め、ベンチに腰を降ろした。菜津の口から小さな溜息が漏れた。




 夏休みともなれば平日でもシネコンにはかなりの客が集まっていた。


 もともとあまり幸生から菜津を映画に誘うことはあまり積極的ではなかった。予定を問い詰められ「映画に行く」と答えてしまい、「なら一緒に行くぅ」とせがまれた場合のみ、そうするようにしてきたのだが、夏休みに入ってからは幸生のほうから誘うことも多くなった。


 桜と観た映画を語り合うことを知り、独りで映画を観ることに寂しさも覚えていた。



 カウンターで自分と菜津のチケットを確保すると、菜津の座るベンチからはやや死角になる柱の陰で、幸生はその場で自分の座席番号を桜とのLINEトーク画面に入力し、送信ボタンを押した。

 自分のレスが画面に繁栄されるのを確認すると、『既読』の表示を待つことなく幸生はスマホの電源をOFFにした。


 幸生の中で、もう桜が自分との約束を厳守してくれているかどうかを思い病む徒労はしないと決めた。




 幸生にとって、長い長い夏休みが暮れようとしていた。



    *   *   *



「カットぉ!!」


 秋彦の緊迫した声が響く。

 号令の瞬間、張り詰めていた桜の体中の筋肉が弛緩する。だが神経はまだ昂ぶったままだ。


「ふぅ――」


 演じるという慣れぬ所作に身体だけでなく精神も疲弊し、ひとつの撮影が終わるたびに桜はへたり込んだ。

 秋彦の大学の構内。きょうの撮影のロケ場所だ。

 桜は、ちょうど木陰になっている近くのベンチに腰を下ろし、体を安めた。


 その間にも撮影スタッフたちはいそいそと次のカットの仕込みに入る。カメラの位置を替え、レフ板を配置し、フレームの中に余計なものが見切れないかと気を配る。容赦のない盛夏の太陽はチリチリと大学キャンパスの気温と湿度を上げ続けていたが、素人集団とはいえそれなりにてきぱきと作業する統率された動きは、さすがは映画専門のサークルなんだな、と桜に思わせた。


 だから尚更、こんな場所に自分がいていいのかという自責の念が沸き起こる。


「ハァ……」


 思わず漏れた溜息に監督である秋彦が気付き、桜に近寄り声をかけた。


「疲れた?」


「ううん――」秋彦への応えをいったん否定で返しはしたが、明らかな疲労が顔に出ているのを桜も自覚し、付け加えた。「でも、少し」


「連日だからね。それに、この暑さじゃね――ゴメンね」


「へーき」笑顔を作りながら応えるが、頭上からの強い陽射しが否応なしに汗を吹き出させる。持参したタオルで伝う汗を押さえながら、監督の秋彦に気を使わせまいと、桜はまた微笑みを作った。


 桜の体調を窺い、秋彦がスタッフに振り返ると「おーい、いったん休憩~」と声をかけ、改めて桜に向き直り、


「じゃ、いったん休憩しよっか」


 と告げると、桜もようやく緊張を解き


「うん」 


 と頷いた。


 秋彦はそれだけを告げると、スタッフたちの輪に戻りまた打ち合わせを再開した。次からの撮影の段取りを話し合っているようだ。



 次の撮影の準備まで少し時間がかかりそうだナと思った桜は、傍に置いていたバッグの中を弄り、スマートフォンを取り出した。

 撮影の合間にOFFにしていたスマートフォンの電源を入れると“リンゴン”というLINEの着信音と同時に画面に幸生からのメッセージが表示された。

 桜の指が一瞬躊躇ためらいを現したが、ブラウザ画面をクリックし、全文を表示させる。

 映画のタイトルと開始時間、それに座席番号だけが書き込まれたレス。

 それ以外の余計なことは記されていない。


 指を滑らせ、トーク画面のスレッドを遡ってみる。

 ここ数回の幸生からのレスは、ずっとそんな定型文のような書き方が続いている。

 桜も、それに対して返信は入力しなくなっていた。


 秋彦の自主映画の撮影が続き、幸生との映画の約束はもう守れなくなっている。

 当初こそ幸生は理解を示してくれてはいたが、約束をキャンセルする明確な理由を告げられない桜に次第に苛立ちが募り、曖昧な言い訳しかしない桜の話を訊くことももうしなくなっていた。


 眺めていた画面がスッと消え、黒くなった面に自分の顔が映り込む。

 その姿を見詰めながら、桜から思わず呟きが漏れる。


「あたしたち、このまま終わっちゃうのか な ……」


 桜は小さな溜息を吐くと、スマホをふたたびバッグに戻した。



 桜の憂いた表情に気付いたのか、スタッフに囲まれた秋彦が怪訝そうに桜を眺めている。その視線に気付き、目の合った桜が口角を上げて応えると、心配をしたのか秋彦が歩み寄って、ふたたび声をかけた。


「どう? 少しは休めた?」


 桜は小首を傾げ、


「うーん、……」と返す。


 いまひとつ不明瞭な返事に秋彦が気持ちを悟り代弁する。


「やっぱり――疲れてる? まだ回復しない、かな?」


 苦笑いしつつ桜が答える。


「う ん……かも」


 ベンチの横に座り、秋彦の目線が桜に並ぶ。


「もう5日もブッ通しで休みなしの撮影だからね。さすがに疲労も溜まってるよ、ね」


 秋彦の気遣いに桜は尚更済まない気持ちになってしまう。


「ごめんなさい……あたし、やっぱり演技なんて……」


「それは仕方ないよ。どうしても桜にこの役を演じてほしい。そう嘆願したのは僕なんだから。だから、気にしないで」


 俯いてしまった桜に秋彦は「ちょっと待ってて」と言うと、いちばん近くの自販機まで走りポケットから出した硬貨をジャラジャラとベンターに投入すると、飲み物をふたつ抱え戻ってきた。

 そのうちのひとつを桜に差し出し


「はい」と勧めた。


「あ……りがと」


 桜がソフトドリンクの缶を受け取り、礼を返す。

 ペキン、と飲み口のタブを起こし、缶に口をつける。キンキンに冷えた炭酸飲料がシュワシュワと桜の喉の粘膜に沁みていく。

 体内から冷やされたためか、ようやく桜の疲れも少し回復する。


 隣に座った秋彦もゴクゴクとコーラを一気に飲み干すと、「ふうーっ」と一息吐き、


「明日で前半戦も終わり。だから、がんばんなきゃ、ね」と告げた。


 呟きは、秋彦自身にも言い含めるようだった。


「うん」桜が応答する。


「外ロケの撮影ももう八割かた終わってるから。来週からは屋内でセット撮影だし、あともう少しだから、がんばろうね」


「うん」



「ぜんぶクランクアップしたら、どっか連れてってあげるよ。桜は、どこがいい?」



 少し考えた後、桜が答えた。


「海」


 熱せられた地面が上昇気流を起こし、吹き上げられた空気が湾から風を招き入れ、街なかにも微かに潮の薫りが登って来始めていた。

 鼻腔を刺激したその無意識のふとした連想から、口から漏れたのかもしれない。



 ほんとうは、この夏は海へ泳ぎに行きたかった。





――けど、


  誰と?


  私は、誰を思い浮かべたんだろう……




 一瞬イメージがよぎった顔は、幸生だったのか。それとも、秋彦だったのか。


 もう、桜自身にも、判らなくなってしまった。



「そっかぁ……じゃ、約束。ぶじ撮了したら、海にいっしょに行こう」


 秋彦の答えに、ぼんやりと考えに耽っていた桜の意識が現実に引き戻される。


「え?」


「だから、海」


「あ……うん。いいね、海」


 つい相槌を打ったが、戸惑ったのは逆に秋彦のほうだった。


「なんだよ、桜が言ったんじゃないか」


「あ……ゴメン」


「やっぱ疲れてるのかなァ、桜」


「ううん、もうへーき、ホントに」


 そう言うと、桜は缶に残ったドリンクをこくんと飲み干した。

 それを合図と診て、秋彦が腰を上げ、


「準備ももういいみたいだし――そろそろ再開しよっか」


「うん」桜が合意する。


 桜をベンチに残し、秋彦がスタッフ達のほうに戻っていく。

 その背中を目で追いながら、桜はまた肌に吹き出てきた汗をタオルで拭うと、「よしっ」と小さく気合を入れた。


「がんばんなくっちゃ。監督ががんばってるんだから」



    *   *   *



 『既読』だけの付いた自分のレスを幸生は確認して、画面を閉じた。


 何も返信の付かないときは、桜はキャンセルということだ。

 説明されなくとも、もう幸生はそう考えることにしていた。


 桜のほうで、何があるのか、理由は判らない。

 けれど、幸生はあえて問い質そうともしなかった。



 桜も、それにこまめにレスを返すことが次第に減っていった。




 夏休み最後の週。

 幸生は菜津にせがまれて、県下のテーマパークに赴いた。


「だってぇ~、いっつも映画館ばっかじゃ、つまんないじゃないですかぁ~」


「俺は別につまんないとか思ったことないけど」


「もぉ~~~~っっ」とぷくりと頬を膨らませ菜津がむくれる。


 幸生としては気乗りしないが、辞めれば菜津はますます不機嫌になるだろう。

 たまにはいっか、と幸生は渋々了承した。


 幸生が首を縦に振るのを見て、菜津は「わぁい」と喜んだ。

 そんな菜津の姿を、ふと可愛いとも感じた。



    *   *   *



「絶叫系とか苦手なんですか? センパイ」


 ループコースターから降りた幸生が真っ青な顔をしているのを見て、菜津が心配そうに言い寄った。


「一緒に乗った私なんてぜーんぜん大丈夫ですよ。ホラッ」


 夏休み終了間際だからか、菜津と訪れたテーマパークは予想していたよりも混雑していた。慣れぬ絶叫マシンに半ば強制的に付き合わされた幸生は、渋々ながらライドに乗り込んだものの、下級生である菜津に虚勢を張るのははしり出すときまでだった。

 やはり苦手なものは苦手のままだ。


「怖ーいホラー映画とかへーきな顔して観るくせに、へんー」


 菜津が幸生の思わぬ弱点を見つけて囃す。

 すぐ近くのベンチに腰を下ろし、息を整えてようやく幸生が口を開いた。


「映画は座ってる場所が動いたりしないだろっ。物理的に加速度がつくのが苦手な体質なんだ」


 菜津が即座に言い返す。


「そんなロンリ的に考えるんなら、あーいう乗り物だって安全なのくらい判るじゃないですかぁ」


 心配と優越感の混在した顔を幸生に向けながら、菜津がへたり込んだ幸生の正面に回りその項垂うなだれた頭を見下ろしている。


 だが、論理と生理は相容れないこともある。頭と心は別物だ。


「あーあっ。せっかくゆーえんちに来たのにいっしょにジェットコースターものれないなんてぇー」


「いーよ、ひとりで乗ってくれば」


「やーだー、センパイといっしょがいいのォー」


 菜津が駄々をこねる。


「…………」幸生は二の句が告げず、絶句してしまう。

 弱みを掴まれた幸生は分が悪い。


「あーあっ。つまんなぁーいいっ。どーしよっかなァー」


 菜津がそっぽを向いて幸生を挑発する。

 だが、幸生は自分から提案する策を失ってしまっていた。


 それを悟ってか、菜津は更に幸生を追い詰めていく。


「つまんないつまんない、つ ま ん な ー い」


 幸生としても、せっかく来たテーマパークを楽しめずに終わってしまっては済まないと思ってはいる。だが菜津に更に絶叫マシンに同乗してくれ、とイワれたなら、同意する勇気はなかった。


 あさってのようを向いていた菜津が「あ」と何かを見つけたように声を漏らした。

 その視線を追うと、丘の上に巨大な円環が揺れているのが現れた。


「あれなら、いーでしょ? ね? セ・ン・パ・イ」


 そう言うと、菜津はこのテーマパークのアイコンとなっている大観覧車を指差した。


「ま……まあ、な……」


 幸生も観覧車くらいなら問題ない。

 菜津としても、これ以上幸生のプライドを傷つけるのは控えたいのだろう。

 物事には引き際が肝腎だ。


「じゃ、アレ乗りましょ、セーンパイっ」


 言い終わらぬうちに、菜津は幸生の腕を掴み、ベンチから引き起こすと有無を言わさず目的の遊具へと駆け出していった。




 観覧車のゴンドラに菜津と幸生が乗り込むと、鉄の扉にガチャリと外からかんぬきが架けられた。

 円弧に沿ってゴンドラはぐんぐんと上昇し、視界が広がっていく。

 テーマパークの遊具が下方に追いやられ、空が開ける。彼方には海が臨み、遠望の船がゆったりと航行している。



 “高い所に登ると、心が優しくなる”――



 ふと、風景を眺めながら、幸生はそんな昔の映画の台詞を思い出した。



「きれいですね……」


 窓外に目を遣っていた菜津が溜息とともに感想を漏らす。


「そうだな」幸生も相槌を打つ。


 次第にゴンドラが頂上に近づいてくると、前後のゴンドラも視野から逸れ、窓枠には空の青だけが切り取られ


 向かいに座っていた菜津が、幸生の隣に座り直し、手を重ねると


「……ね……」


 と甘え声を寄せ、瞳を瞑り唇を近づけてきた。

 一瞬の戸惑いを抱き身を引いた幸生だったが、菜津が一度瞼を開き改めて瞳でねだると、幸生は一旦ゴンドラの窓を確認した上で、その唇に自分の唇を重ねた。

 菜津が腕を幸生の首に絡ませ、より強く圧しつけてくる。

 密着した体から発した汗が蒸気となって幸生の鼻腔を刺激する。

 桜の『ミツコ』の混じった香りと違い、とろけるような甘い体臭。


 ずっとそれを嗅いでいたい。ふと幸生にそんな感情が湧いた。



 唇を離しても、菜津は幸生をぎゅっと抱きしめたままだった。

 ゴンドラは下りに入り、ふたたびテーマパークの敷地へと着地しようとしている。


「このまま、ここにいても、センパイつまんないですよね……」


 テーマパークの遊具は悉くジェットコースターなどの絶叫系がメインだ。幸生が楽しめるものはあまり多くない。菜津はそういうことを言っているのだと思った。

 だが、続く句に幸生の心は揺れた。


「ふたりだけになれるところ、行こうよ……」


 “いいのか?”と、幸生は訊き返しそうになった。


 だが、っと幸生を見詰める菜津の瞳を見ると、幸生は何も返辞ができなくなった。


「……あたしの、はじめてを奪ってください……」


 菜津の重い唇から、恥じらいの先にある覚悟の言葉が呟かれた。





 ゴンドラが最下端に達し、係員が外から閂を外す。開いた鉄扉から外気がひゅうと入り込む。


 一周を終えた密閉されたゴンドラの狭い空間に菜津の甘い体臭が充満しているように幸生には感じられた。



 観覧車を降りたあとのふたりは、無言だった。

 ただ、繋いだ手が、心を感応させていた。


 テーマパークを出て、ターミナル駅まで戻ると、駅前のインターネットカフェの二人用の部屋に幸生と菜津は入った。


 ふたりで二畳ほどのネットカフェの狭いスペースに収まると、物理的な距離を縮めざるを得なくなる。


 吐息が頬にかかり、産毛が波立つ。


 菜津の躰から発せられる甘くかぐわしい薫りに、幸生の自制は効かなかった。


 口吻くちづけを交わす。これまでよりも激しく菜津が唇を求める。

 そのまま、幸生の引き倒す。汗を含んだシャツの背中を搾るように菜津の掌が握り締める。


「おぃ――」


 何か言おうとした幸生の口を菜津の唇が塞いだ。

 菜津の温かな舌が侵入し、幸生の口腔をくねり、絡ませる。

 言葉だけでなく息さえもできないほど、菜津が強く抱擁する。


 狭いコンパートメントに2人では互いに体の位置も変えるのももどかしく、

 衣服を乱したままの状態で菜津と幸生は互いに触れ合った。


「――ぁ――」


 声が漏れそうになる菜津を幸生が制した。瞳を見合わせ、“聴こえちゃうだろ”と合図する。菜津が自分の口を掌で覆う。


 幸生の両手もろてが、露わになった菜津の胸の膨らみを包む。

 その手を肌に沿って下方へと辷らせていく。菜津が声を押し殺そうと必死で自分の口を押さえているが、紅潮した頬からはフゥフゥという喘ぎが漏れ出し、新たな部分に幸生が触れるたび、そのリズムが次第に早さを増していく。




 躰の興奮とは別に、幸生の脳は、なぜか冷静だった。


 人と人の交わりは、原子核に似ている。一定の距離に迫れば反動で離れていくが、その境界を越えて踏み込むと、ひとつに融合する。

 なぜだか、そんな連想が幸生の琴線をよぎった。あるいは神経の昂ぶりがそんな不可解な理屈を繰り出していたのだろうか。





 隣接した部屋に音が漏れぬよう、細心の気を払いながら、ゆっくりとふたりは体を重ねていった。



 菜津を激痛が貫く。これまでに体験のないいかづちが内臓を駆け抜ける。


 痛みと同時に――いや、それを凌駕する満ち足りた心地を、菜津の中に広がっていった。


「い―――――」



 必死で声を殺しても抗うことのできない激情が溢れ出る。そのたびに菜津は自ら口を塞ぎ耐える。それに抗い、痛みと快楽が同時に押し寄せた声が押さえた両手の指の間から漏れていく。

 その姿を見ながら、幸生はこれまでに感じなかった愛おしさが内部で沸き起こった。









 幸生が果てると、覆い被さったその躰を下から両のかいなが包み込んだ。



「センパイ……もう、あたしのものよ……あたしの」


 上からかかる幸生の荷重は、菜津の幸福の重さだった。





 戻れない河を越えてしまったのに、幸生はなぜか不思議に安堵を感じた。



    *   *   *



 カフェを出るともう陽は西に傾きかけていた。オレンジ色の風景が幸生と菜津を包んだ。


「わぁ、きれーぃ」


 菜津が長い時間夕陽を見つめている。店を出てから、幸生の手をずっと握ったまま一瞬たりとも離さない。


 バス停の脇の木立の中からは、ヒグラシがショワショワとセッションを奏でている。



 やがてバスが停留所に来ると、ふたりは揃って乗り込んだ。


 まだ帰宅ピークには早いのか、車内は空いていた。

 奥の2人席を見つけると、菜津が窓際に座り「センパイこっちこっち」と幸生を誘い入れた。

 座ると菜津は幸生に腕を絡ませてきた。


 幸生はされるがままに任せた。






 バスに揺られ少し経つと、疲れが押し寄せたのか、菜津は横でスヤスヤと寝息をたて始めた。

 幸生が寝顔を確認する。熟睡してしまった菜津の様子を診て、幸生は音をたてないように脱いだズボンの尻ポケットをそっと弄り、スマートフォンを取り出した。

 画面を点けると、菜津と合流する前に操作していた静音モードになっている。バイブレーションも切っていた。

 着信の表示は何もない。なぜか安心した。



 寝ている菜津から隠れるように画面の角度に気を配り、LINEのアプリを開いてみる。


 桜のトーク画面に最後にレスをつけたのは先週だった。ここ最近そうしているように、ただ映画のタイトルと開始時間だけの入力。


 『既読』の印だけが追加されたそのスレッドを幸生はただ見詰めていた。



「う……ん」と隣で菜津が寝返りを打った。髪が幸生の顔に触れる。菜津が幸生の肩に頭を預け、またうたた寝を続けた。

 動くたびに菜津の髪が幸生の顔に撫でていく。菜津の甘い薫りが幸生の鼻をくすぐる。

 それを眺めながら、幸生は微かに微笑むと、スマホをそっと閉じた。




 バスが何か段差を乗り越えたのか、ガタン、という振動に呼応して菜津が瞼を開けた。


「あ……寝ちゃったぁ~~。ふぁあ……あ」


 郊外の国道を走るバスの窓からは、通りに沿って点々と連なっているホテルが現れては後方に過ぎ去っていく。

 次々に流れていくホテルの群れを目で追っていた菜津が口を漏らした。


「こんどはね……あっちで、もっとながく、休んでいきたい、な……」


「莫迦言うなよ」幸生が諭す。


「てへへ」


 握った手を口元へ寄せると、菜津はそっと幸生の甲に口吻キスをし、眼差しを相手に向けた。



 幸生に向いた菜津のその瞳には、自信と安心に満ちた光がともっていた。




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