#4 LOVERS

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【LOVERS】

 2004年 中国・香港映画

 監督:張芸謀(チャン・イーモウ) 出演:劉徳華(アンディ・ラウ) 金城武 章子怡(チャン・ツィイー)

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         ◎


 大型連休が明け、日常が戻った。

 だが、桜と幸生との間の日常には、変化が訪れていた。


 桜と幸生の‘デート’のルールに変更はなかった。けれど、その互いの為し方は変質してしまっていた。

 桜は幸生と日取りと上映回を相談すると、それを秋彦に伝え、座席を秋彦がネット予約で2席ぶん確保するようになった。

 幸生もまた、その日にはシネコンへは一人で行かず、ほぼ毎回、菜津が同行した。


 約束だけが形骸化し、桜も幸生も、そのことについて相手に伝えることはなかった。



    *   *   *



 学校がね、駅前のデパートのトイレの洗面台の鏡に向かって、桜はリップグロスをつけていた。個室で着替えた制服は紙袋の中だ。

 いま通う高校は通学途中の寄り道に厳しいわけではないが、秋彦と会うなら制服では気が引けた。


 それに――そのあと行く場所を思えば、制服のままではマズいだろう。

 そんな判断だった。


 ホテルへ誘われても、もう桜は躊躇うことはなかった。

 秋彦はいつも優しくしてくれる。桜はそれが次第に忘れ難くなっていった。



    *   *   *



 事前に座席予約が可能になったので、桜と秋彦は余裕を持って待ち合わせることができるようになった。


 この日は、上映開始時刻が少し遅めだったので、コーヒーショップで落ち合った。

 紙袋を提げ、私服で現れた桜に秋彦が声をかけた。


「あれ? きょう学校じゃ、なかったの?」


 にこりと微笑んで、桜が手に提げた紙袋を掲げる。


「着替えてきちゃった」


 そう言うと悪戯っぽくぺろりと舌を出してみせた。



 一時間ほどお茶をして、ふたりは席を立った。


「じゃ、行こうか」


「うん」



 シネコンまでの途上、ふと秋彦が口を開いた。


「――そういえば、たしか一月くらいの頃は別の制服を着てなかった? ホラ、クリーム色の」


「前の高校のやつなんです、あれ」


「て言うと――転校したの?」


「ハイ」


 桜は簡単に転校の理由を説明した。


「ふーん……大変だったんだね」


「うん。でも――」その言葉の続きを言葉にはしなかった。


 でも、こうして秋彦と遭えた。そのことのほうが今の桜にとっては、大切に思えるようになっていた。



    *   *   *



 映画が終わり、桜はホテルで秋彦に抱かれた。


 ベッドでひとつになりながら、桜は秋彦の匂いに囚われた。躰から放たれる、固有の匂い。汗の香り。

 そのどれもが桜の脳幹を刺激し快楽物質ドーパミンを放出させるようだった。


 いちどでも、人の肌の感触を知ってしまえば、それを得られない寂しさは耐え難い。桜はその躰の欲求を堪えることはもうできなかった。



 ベッドの上でまどろんでいると、鞄の中からチロチロと光が漏れているのに桜は気づいた。スマホの着信を示すLEDが点滅している。

 手を伸ばし、横臥ったまま引き出したスマホを操作する。


 幸生からのDMが、


“きょうの映画は、どうだった?”


 と告げていた。


 傍らの秋彦の腕に抱かれ、その画面をただ黙って見詰め続けることしか桜はできなかった。


 上体を立てた桜にベッドが軋み、秋彦が目を醒ます。


「……シャワー、浴びる?」


 こくり、と桜が頷く。

 ゆっくり起き上がり浴室のお湯を出しに向かいながら、秋彦が囁く。


「ちょっと待っててね」


 浴室で蛇口の開く金属音とドボドボと水の溜まる低い振動が響く。


 ベッドで待つ桜は、秋彦が立ち去ったベッドに残る体重の沈み込みを愛おしく手で撫でた。

 顔を寄せ、その残り香を嗅ぐ。

 この匂いに抱かれているだけで、満ち足りた。


 ベッドに戻ってきた秋彦がその窪みにそのまま収まった。

 桜が秋彦の胸の上に顔を被せた。秋彦の心臓の鼓動に耳をすませると、心が安らいだ。



「お湯、張れたみたいだね。入ろっか」


 秋彦が促すと、桜が


「うん」


 と返辞をして床から起き上がった。



 浴室のタイルがんやりと足の裏に貼り付く。まだ暖まっていない空気に震える桜の強ばる肌を秋彦が優しく抱き寄せる。


「寒い?」


「ちょっと」


 頷きながら桜が答えた。


 蛇口をひねり、シャワーから流れる温かな湯を浴びる。

 桜の張りのある桃色の肌に雫が滴っていく。肢体がより艶を際立たせる。


 霧と蒸気のカーテンがふたりを覆う。



 ふたりの躰が、もう一度ひとつにとろけ合っていった。



    *   *   *



 シネコンへの通い慣れたルートを辿って、幸生は校門を出てショッピング・モール行きのバスに乗り込んだ。


 これまでとは違うのは、同行するのが桜ではなく、菜津だということだ。

 ついこの前までは夕暮れが覆っていた放課の時間も、近頃は太陽も高い位置に留まるようになり、ほんの少し体を動かしても汗ばむほどになっていた。

 今年は夏の訪れが早いのかもな。からりとした空気に包まれながら、幸生はそう感じた。


 発車時間に間に合わせるように校門からバス停まで駆けてきた幸生と菜津も、バスに乗り込んだとたんに、上がった息遣いとともにしっとりと湿った肌からそれぞれの匂いを発散させた。


「あー、あっつぅーい」


 思わずハァハァと荒い呼吸の合間に菜津が愚痴をこぼす。


「でも、間に合っただろ」


 幸生が菜津の苦しさを省みることもせずに言を継ぐ。


「もぉ一本後のにすればぁ、よかったのにぃ~。それでも映画には間に合ったんでしょぉー?」


「早く着いたほうが、いい席取れるだろ」


 愚図る菜津に悪びれる様子もなく幸生が答える。

 そんな返答に菜津がふくれっつらで返した。



 大型連休が明けて以降、幸生は菜津と一緒の時間を過ごすことが多くなった。菜津のほうから懐いてくるのもあったが、幸生は依然ほどそれを拒絶しなくなっていた。

 願ったりの状況に、菜津も甘んじることにした。


「ねーねー、こんどぉ、映画だけじゃなくってぇー、ゆーえんちとか行きましょーよー。いーでしょお~?」


「ああ」


 まったく興味も示さない生返事に、言外の心は無視して菜津が反応する。


「ほんと!? じゃ、あたしジェットコースター乗るぅ~っ。いーでしょ? センパ~イ。あーでもでもでも、フリーフォールもいーかなぁ~」


 甘えた声で菜津が言う。幸生はすんなりと受け容れる。


 菜津の途切れないトークも右から左へと抜けているが、菜津はお構いなしにそれを続けた。

 たぶん、これまでなら耐えられずに菜津を諭したところだったろう。だが、幸生はさせるがままにしておいた。


 幸生の中でどんな心的変化が遭ったのか、菜津は知る由もなかった。

 ただ、今は自分と居てくれる時間が増えた。それだけで菜津は満足だった。



    *   *   *



 海に近いショッピング・モールが迫ってくると、明け放たれた窓からバス内にふわりると潮の香りが広がった。


「あ」思わず幸生が声を上げる。


――潮風が、桜の居る場所と違う――


 太平洋側の五月の陽射しは強く、窓際にいると初夏の高くなった日照がチリチリと肌に刺さった。


「やだやだやだ、日焼けすんのやだーっ」


 と愚痴た菜津が、陽に灼けるのを避けようと幸生を壁に陰を求め、バスがカーヴを曲がるたびに体を右へ左へと泳がせる。


 幸生は菜津の為すがままに任せ目を泳がせる。差し込む太陽が幸生の瞳孔を伸縮させ、そのたびに顔をしかめる。


 窓の額縁を通過していく住宅街の風景を眺めながら、連休に訪れた日本海に面した桜の住む側の陽光とは明らかに照射の感触が違うな、と幸生は思った。


 菜津と一緒に過ごす時間が増えたとはいえ、幸生は時折物思いに耽るように黙ってしまうことがあった。

 菜津はそれが気に入らず、そのたびになんとか幸生を現実へと引き戻そうとする。


 今もぼんやりとしている幸生に気づき、菜津が声をかけた。


「ところでさでさでさぁー、せんぱぁ~い、あのねあのねあのねぇ~……」


 菜津が甘え声で幸生に何かを告げているが、幸生は聞き流し、


「ああ」


 と生返事をする。

 菜津がその態度に反応し、注意をこっちへ向けようと言葉尻を強くした。


「もうっ。ちゃんと聞いてます?」


「え?――ごめん、なに?」


「もーっっ」


 ぷくりと頬を膨らませて菜津がむくれる。


 菜津から言葉をかけられても、幸生はいまひとつ上の空だった。

 菜津の指摘で、幸生は心で再生していた、桜の記憶を打ち消した。



 バスが終点のアナウンスを告げ、15トンの車体をショッピング・モールのバスターミナルへと辷り込ませていった。




「じゃ、いいですよ、近くの公園でも……」


 ふと、ここから数分ほどの臨海公園が頭をよぎった。あの場所はこの地域でもデートスポットとして名高い。この時刻になれば湾に架かる橋や行き交う船の航行を眺め時を過ごすカップルが多く見受けられる。


「ね……あそこで少し過ごして……」


 それなら許そうかな、と幸生は考えを翻したが、その矢先に


「――で、静かなところ見つけて、ふたりだけになって……あたし、いいんですよ、センパイになら……ぜんぶ、 あ げ て も ……」


 耳許で囁かれた吐息に幸生は現実に引き戻された。


「……あの、な……」


 油断は禁物だった。


「え~どぉしてですかぁー」


「あ……あったり前だろっ」


「だってだってえ~、つき会ってるならそぉゆぅことしてもふつぅじゃないですかぁ~」


「俺は、お前と付き合ったことなど――」


 幸生が言いかけたとき、ふいに背後から聞き慣れた声がかかった。


「あーやっぱりお前らかぁー?」


 突然の聞き知ったねちっこい声音に思わず幸生と菜津は目を見合わし、続いて二人一緒に声の主のいる背中を振り向いた。


「ヘンリー……」

「部長~……」


 同時に発した二人の呼びかけが混声合唱のようにロビーに反響する。

 幸生と菜津を順繰りに見回したヘンリーが言葉を続けた。


「なンだよー、観に来るなら部活で言ってくれればみんな揃って来れたのになぁ~。なんだかこれじゃハイネだけが除け者にされたみたいじゃん」


 改めて向き直った幸生が反論する。

 いや、間を置かず何か言い返さないと、こいつにヘンに勘ぐられる。幸生は脊髄反射の如く即答した。


「そういうお前だって部活に何も進言もせずに来てるじゃないか」


「俺はブチョーだから、プライベートを大切にしたいだけだ」


 えへん、と咳払いをして、あいかわらずヘンリーは訳の解らん理屈を主張して返答する。


「ブチョーもきてたの判ってたなら、席も並びにしたのにぃ~」


 菜津がいかにも取り繕うように会話の駒を進める。

 それがかえってわざとらしさを滲ませる。


「いゃいゃいゃそれには及ばぬぞよ」


 ヘンリーがおかしな調子で菜津に言葉を返す。返された菜津も苦笑いするしかない。


 二人のやりとりを見守っていた幸生が、ばつの悪そうに小さく舌打ちをした。だが菜津もヘンリーもよほど鈍感なのか気づかれることはなく、構わずにヘンリーが会話を続ける。


「俺もチラッと、なんか似たような奴が出ていくなァと見えたからさあ――ちょいと追っかけてきてみたら案のじょうってわけよ。けど、ま、せっかくのおデートを邪魔するほど俺も無粋じゃありません、てな」


 あいかわらずヘタな江戸口調で続けるヘンリーに菜津はてきとうに相槌を打っている。幸生は呆れて眺めるだけだ。


 会話が弾んでると勘違いしたヘンリーが調子に乗って更に踏み込んできた。


「なになに、やっぱお前ら、つきあってんの?」


 思わず幸生が絶句した。


「いゃ――」


 幸生が口篭り否定するより早く、菜津の口が


「そーなんですよぉー」


 と即答していた。


「なら邪魔すんのも野暮じゃーん」


 ヘンリーが訳知り顔で返答し、勝手に既成事実として上書きした。

 しどろもどろの幸生には気を留めず、更にヘンリーが会話を続ける。


「で? お前らなにこんなロビーで口論してるわけ?」


 幸生が「あー……」と口を開くよりも早く菜津が答えた。


「センパイがぁー、いっしょにホテルにいこぉーって」


「おまっっ……な・なに言ってんだヨっっ」


 口を塞ごうとした幸生の手をするりと除け、菜津が言い切ってしまうと、幸生の腕に絡み付いてきた。


「おっおい――」


 ふり解こうにも菜津が更にがっしりとしがみ付く。抵抗すると尚更目立ってしまうことに幸生が気付き、解くのは諦めてしまった。


 一連のドタバタを眺めていたヘンリーが茶々を入れる。


「まーまー、痴話喧嘩もほどほどに、だな」


「そンなんじゃねーよ」


 幸生が弁明するも、もはやヘンリーの脳内には幸生と菜津をそう認識されている。変更は拒否された。


「ま、ンなことなら邪魔は辞めとくよ。YOUたちお二人でゆっくり、これからどこにシケ込むか相談してねー」


 と、どっかの芸能事務所の偉い人のようなヘンテコな口調でヘンリーが混ぜっかえすと、踵を返しそそくさと去っていってしまった。


「おい――」


 ヘンリーの背中に呼びかけようとしたが、菜津が腕を引き遮ってしまった。

 幸生は、出口へと消えていくヘンリーの姿を見送るしかなかった。


 たしかに、傍からみれば高校生カップルの痴話喧嘩に見えたことだろう。幸生はそう思った。

 ここでじたばたとした態度をとれば、かえってヘンリーの記憶を上塗りしてしまうだけの徒労だ。

 幸生は小さく溜息を吐いた。


 呆然と佇む幸生の傍で菜津が呟いた。


「これで、また、ふたりきりになりましたね……」


 頷くこともせず、幸生は沈黙のまま事実を受容した。


「……どうしましょっか、これから」


 菜津が甘えた声で囁く。


「あたし、ホントにいいんですよ……このまま、……行っても……」


 菜津の科白に『どこへ』との言及はなかったが、幸生は理解していた。


 返答は避けた。



 それよりも。

 早く桜に映画観賞後の通知を送らねばならない。



    *   *   *



――困ったな。



  こう菜津にべったりと取り付かれたままでは、桜にLINEで連絡をとるどころか、スマホを取り出すことすらもできない。



 ショッピング・モールのシネコンにいちばん近いファストフードに飛び込みとりあえず二人分のドリンクを注文した幸生は、先に行かせた菜津の待つテーブルへドリンクの乗ったトレイを両手で支えて歩きながら、どうやって菜津の目を盗んで桜にLINEを送ろうかと思案していた。


 上映開始前にも菜津の目を盗んでスマホで桜へDMを送信するのはかなり難儀した。菜津が幸生を寸時も離さなかったからだ。仕様がないので「ちょっとトイレ」と告げようやく離れたが、僅かでも中座が長いとまた勘ぐられるのはいつものこととなっていた。


 少し離れた一時にスマホを弄ろうかとも思ったが、菜津の瞳は幸生をロックオンし続け一瞬も幸生を逃すまいと凝視し続けている。一切の隙さえもない。

 詰将棋のような思考実験を続けるうちに幸生の足は卓に到着してしまった。


「おっそぉ~いぃ~」


 余りにもゆっくりと歩いていたので菜津が幸生に愚痴る。


「あー、ごめん、ちょっと考えごとしてたから」


「何をです?」


 すぐに切り替えされて「しまった」と幸生は思った。


「あー……、さっきの映画のことを、さ。……あ、ホラ、主人公に付きまとう、ちょっとお節介なヤツがいたろ? あの登場人物ってストーリーに何の関わりもないと思うのに、どうして作り手はあんなのを入れたのかな、って……」


 なんとか適当にその場を取り繕う。


「ふーん、そんなことも考えながら映画観てるんですね、センパイって」


 菜津にあっさりと聞き流され、幸生はホッとした。

 じっさいのところ映画論だの細かなストーリー構成など、菜津はいつも無関心だ。うまく逃げられたことに幸生は心中でガッツポーズした。


「あ、そういえばぁ、さっきのヘンリー部長さん――」


 菜津が思いつくままに口から言葉を漏らし続ける。

 菜津との会話はいつもとりとめがない。コンビニの棚に新商品が並んだとか、アイドルの娘が出てるCMの化粧品のネットの評判など……正直幸生にはほとんど関心のないことばかりだが、そんな話題も幸生は黙ってうんうんと頷くのがいつものこととなっていた。

 もともと菜津も、ただ幸生と一緒の時間を過ごせることだけに愉しみを感じている。幸生の視線を受け止めているだけで、菜津は満足だった。


「あ、ちょっとお手洗い、行ってきますね」


 飲み干したドリンクのカップをトレイに戻した菜津が、幸生にそう告げて立ち上がった。

 幸生が軽く頷くのを確認すると、菜津は自分のバッグを抱え洗面所のほうへと消えていった。


 菜津の姿が見えなくなるのを確認すると、幸生は自分の鞄からスマホを取り出し電源を入れ、LINEのアプリを立ち上げた。


 桜からのDMは来ていない。


 幸生は急いで簡単な映画の感想をフリック入力すると、送信ボタンを捺した。



 少し画面を見ていたが、「既読」は点かなかった。



 そろそろ菜津も戻ってくるだろう。桜の返信も待ちたかったが、スマホを開いているだけでも菜津はいろいろと勘ぐってくる。問い詰められるのも面倒だ。

 諦めた幸生は、サイレントモードに直したスマホを鞄に仕舞った。



 菜津のカップに残っていた氷が、カランと音を鳴らして溶けた。




「あたしの話、聞いてます? センパイ」


 ふいに、菜津の声で幸生は現実に引き戻された。


「――あぁゴメンゴメン、……なに?」


「もぉーっっ。 だからぁ――こ・れ・か・ら・ど・ぉ・す・る・ん・で・す・か・?」


 菜津が甘えた声で幸生にねだる。“なにを”という具体は省かれていたが、幸生はその意味を覚った。


 んやりしていたのは、桜からの返信に気を配っていたからだ。

 だが菜津にそれを覚られては面倒だ。幸生は菜津の関心がそこへ向かないようにそらした。


「どぅするっていったってなあ……お前、何か考えあるのか?」


「でぇ~すぅ~かぁ~らぁぁ~~」


 菜津が何を期待しているのか、なんとなくは判る。

 だが、幸生は話題がそちらへ向かないようにはぐらかした。


「いや、俺、明日出さなきゃいけないレポートがあるから、さ。」


「む~~~~~~っっ」


 ぷく、と菜津が頬を膨らます。

 自分の思い通りにいかないときの、彼女の癖だ。


「……じゃ、しかたないですぅ~~」


 しばらくむくれていたが、肩で大きくひと呼吸すると、菜津はようやく諦めたようだった。




 俯く菜津にやや見せ示すように幸生は腕時計を眺め、


「そろそろ、出るか」


 と菜津に告げた。


「うん」


 菜津も頷き、二人は揃って店を後にした。



 通りに出ると、やや前を歩いていた幸生に菜津が追いつき、腕を絡めてきた。


「もうちょっとだけ……いっしょにいたいな……」


 新たな試練を課せられ幸生はまた戸惑ったが、ここでまた拒絶すれば菜津はまた愚図るだろう。


「じゃあ、ホントにちょっとだけだぞ」


「わーいっ」


 破顔すると、菜津がいっそう強く幸生を引き寄せてきた。


「じゃ、菜津、海岸のほうへ行きたいナ」


 珍しく、己自身のことを『菜津』と言うと、掴んだ幸生の腕を引き、海浜公園へと二人の陰は移動していった。



    *   *   *



 海辺沿いのデッキを、手を繋いだ男女のシルエットが歩く。

 カフェを出たときにはまだだいだいに射していた陽も次第次第に西に傾き、海が目に入る頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。


「ここで休みましょっか――」


 デッキのベンチを見つけた菜津は、幸生を促し並んで座った。

 さりげなく菜津の右側に座った幸生は、左側の相手にさとられないように右ポケットの中を覗き込んだ。

 目立たないように気を配りながらポケットの中のスマホ画面を弄る。ポゥッと灯ったポケットの中を覗く。緑色の画面がかろうじて隙間から見えた。だがLINEのトーク画面には桜からの新規の更新は届いていない。

 幸生は諦めてポケットから右手を引いた。


「――どうしました?」


 菜津が不審を感じ幸生を見詰める。


「いや、別に――」



――まずい。

  緋色コイツに覚られると、いろいろと面倒になる。



 幸生は平静を装おうとした。


 その瞬時、幸生を見る菜津の瞳が次第に潤み、求めるように唇が動いた――


「キス……しません、か……」


 周囲には誰もいない。

 森閑としたデッキには、幸生と菜津だけだった。



 一瞬、幸生は躊躇ったが、改めてその考えを翻した。



――このまま緋色の要望に従えば、

  ポケットのスマホも勘ぐられることは、ないな――

 


 迫る菜津を拒み続けるのも、なんだか億劫にも感じていた。

 それに、キスならもう既にしてしまっている。



――キスくらいならしてもいいか。



 幸生の中で、そんな妥協が生じていた。


 そう思うと、幸生は菜津の差し出した唇を自分の唇でそっと包みこんだ。

 菜津の柔らかな感触が幸生の口唇の肉に伝わる。

 桜とは違う触覚に、なぜか幸生は心地良さを覚えた。


 静かな波の音だけが、二人の陰の周りを包んだ。



 やがては、口吻だけでは終わらなくなるだろうことは、幸生の中で思い及ぶことはなかった。



    *   *   *



 躰に纏ったシャワーの雫を拭いながら、桜はバス・ルームにいる秋彦を待った。

 洗面台の前に立ち、ふと正面の大きな鏡に映った自分の肢体を眺める。

 薄紅色に火照った肌にしたたる水滴が蒸気となって室内に漂い、鏡の視界を曇らせる。


 バスタオルをはだけ、自分の乳房にそっと触れる。



――これから、あの腕に抱かれるんだ。また。



 そんな連想が、桜の皮膚をいっそう紅潮させていく。

 彼とひとつになる快感を夢想し、これから過ごす時を待ちかねる自分に迷いの無いことに、少しだけ心が狼狽えるが、すぐに期待と希みが打ち克ち、心中を染めていく。


 シャワーの音が消え、浴室とベッドルームを隔てるガラスのドアが開く。体を拭くのももどかしいように秋彦の腕が桜の背中に伸び、桜のか細い肢体を包みこんだ。


「きゃ」と一瞬緊張が体内を駆けたが、桜はその心地に委ねた。


 まだ湯気と汗に包まれた秋彦の体が、桜を包み込む。


 桜に巻かれたバスタオルがそっと解かれると、一糸纏わぬ少女の裸体が秋彦の腕に包まれ、しっとりとした艶のある桜の背中が秋彦の大胸筋に密着した。

 大人の躯体に包まれることの安心感を桜は噛みしめていた。


 桜のうなじに、秋彦の唇が這う。


「……あ……」


 桜の小さな吐息が部屋の静寂に沁みていく。




――抱かれたい。

  早く。


  この人の腕に。


  彼を満足させたい。



 そんな気持ちが身体をはやらせ、桜のほうから唇を求める。桜の腕が秋彦の首に絡み付く。互いの舌がぬめり合い、体液が混じり合う。


 桜をベッドに横臥えると、秋彦はふたたび桜を腕に包んだ。

 唇から首筋へ、胸の膨らみを伝い、桜の大切な部分へと秋彦の舌が這っていく。


 快感が桜の胎内に満ちていく。


「あ……」


 馴れた動作で、秋彦が桜の奥へと侵入していく。桜の全身が痺れ、内部から多幸感が湧き上がる。

 身体は緊張しているが、心は安らいでいる。


 桜のなかで、安堵の感情が沸き起こった。

 戸惑いながらも、その安心感に身を委ねる自分がいた。


 秋彦の腕の中に包まれる感覚が、桜の体の中に沁みついていた。



 秋彦とひとつになりながら、心のどこかが置き去りになっているのを桜は感じていた。その理由が判ってはいたが、秋彦が満ち足りるまではその心は置き去りにしたかった。


 秋彦が、自分のなかで満ちるまでは――



    *   *   *



「――どうしたの?」


 行為の過ぎた後、ベッドの中、うかないかおをしたままの桜を抱き寄せ、耳許で秋彦が呟いた。


「ううん――なんでもない」


 だが、桜の心には一抹の棘が刺さっていた。


 快楽に全身が委ねられた後で、ふと桜の中で幸生のことが浮かんだ。



――そういえば、きょうの映画のこと、伝えてないや……



 幸生への返信がまだなことに、桜は危惧を持った。だが秋彦を目の前にしてスマホを開くのは気が引ける。うしろめたさが桜を襲った。


 けれど……


 この後ろめたさは、どちらへ向けての気持ちだろう?


 桜自身の中にも、明確な解はなかった。


 まだ、しばらくは肌を重ねる温もりに沈っていたい、というのも本音だった。


「そんな、くよくよした顔、みせないで」


 気がかりな心持ちの桜を心配しているのかいないのか、秋彦が桜の髪を梳きながら囁いた。


「少しだけで、いいから。……そう、映画館にいるときの、きみみたいに――ネ?」


「うん……ごめんなさい」


「謝ることなんかないよ。ただ、ぼくは桜が浮かない顔をしてるから。キミに、笑いかけてほしいんだよ、ぼくは」


「――うん」


 そう返すと、桜は笑顔を作り秋彦の胸に顔を埋めた。

 秋彦がとりとめのない言葉を続ける。桜の気を紛らせるように。


「映画を観てるときも、ね――時折桜は、物憂げな顔をするよ」


「……そう、なの?」


「ああ――そんな桜の横顔、見たくないな。いつでもまっすぐ、正面でぼくに微笑んでくれる桜が好きだ」


「……うん」


「ね? だから――映画を観てるときも、ぼくの好きな桜でいてほしい……そう、“人から愛されるように、映画、観ませんか?”」


 ハッ、と断片が繋がった桜が秋彦に向き直り、その瞳を見詰めた。


「それ――」


「ん?」


「前に、ほかの人も言ってたのを聞いたの。その言い回し。――何かの引用なんですか?」


 秋彦が仰向けになり桜に説明を始めた。


「ああ――これはね、むかーしの映画の中のセリフなんだ」



 桜の中でニューロンがリンクを繋ぎ、どこかで答えが輝く。



――嗚呼ああ……



 滲む涙を見られたくなくて、桜はベッドの中で秋彦の胸の中に蹲った。


「どうしたの?」


「なんでもない……なんでも、ないの……」


 涙声になった桜は、弱々しく秋彦に唇を重ねた。


 桜を映画へといざなったのは、幸生のあの言葉だった。

 それは、桜にとって魔法の呪文だった。あの台詞からはじまった。すべてが。


 魔法の呪文は、いま、この瞬間に、秋彦に移ったのだ。



 顔を晒すまいと、肩に顔をうずめる桜を優しく愛撫すると、少し間を置いて秋彦は口を開いた。


「あの、ね――」


 もどかしく言葉を選ぶ秋彦を促すように桜が繋ぐ。


「……なに?」


「え、と……そろそろ、もうひとつの返事も、ほしいんだ、けど……」


 『何の』という目的語は、秋彦の言の葉には続かなかった。


 けれど、何のことを話しているのか、桜には伝わった。


 桜は黙ってこくり、と頷いた。


「――いいよ。

 あなたが……そう望むのなら」



 桜が言い了えると、秋彦がそっと抱き寄せ頬に口づけをした。


 秋彦とひとつになったベッドの中で、桜は幸福と安堵に包まれていた。



――彼の望むことなら、いてあげる。


  すべて。




    *   *   *



 ショッピング・モールの終端、シネコンのエントランス正面のバスターミナルで、海浜公園から戻ってきた幸生と菜津はバスの到着を待っていた。

 停留所に辷り込んだバスから乗客が全員降車すると、くるくると機械の音とともに昔ながらのロール式の行先案内が替わり、菜津の乗る系統の表示で留まった。

 乗車を待つ短い列が途切れ、暫くの間も菜津はバスに乗り込むのを躊躇っていたが、幸生が軽く背中を押すとそれに促されるようにドアに歩を進めた。


「じゃ、センパイ――また明日、学校で」


 菜津が名残惜しそうにステップで振り返り、幸生に小さく手を振る。


「ああ」


 幸生も軽く右手を挙げ、儀礼的に反応を返す。

 素っ気ない返辞を気にするふうでもなく、菜津は幸生の姿が小さく見えなくなるまで発車したバスの窓から手を振り続けていた。


 バスが道の角を曲がり消えると、幸生は、ふう、とやや深い息を吐き、ショッピング・モールを逆方向へと歩き出し、反対側の鉄道駅へと向かった。



 ショッピング・モールに隣接する駅から乗った電車の中で、幸生はもう一度スマホを確認した。

 見返してみても、いつまでも桜からのレスは来なかった。


 次第次第に、桜からの返信レスは間隔が開くようになっていた。

 幸生はそれに気付いていたが、理由を問うことはしなかった。


 返信の来ない画面を眺めるのを諦め、顔を上げた。夜の黒が窓を駆け抜けた。

 時おり建物の合間から覗く海が、月明かりを照らしてきらきらと波打つのが見えた。



――まあ、帰ってから、夜にでも電話してみよう――



 それを眺めながら、こう思った幸生は、微かに微笑むと画面の消えたスマホを胸ポケットに収めた。


 どこかから車内に漂ってきた潮の香りに、なぜだか幸生は、今しがた別れたばかりの菜津の髪の薫りを想い起していた。



    *   *   *



 玄関口で桜がドアを閉めると、その音に気付いたか奥から絵笑子の声が届いた。


「桜ちゃん? おかえりなさい――遅かったのね」


「うん――」


 それだけを告げ桜はそそくさと靴を脱ぎ自分の部屋へ向かった。

 玄関の靴の数で父がまだ帰宅していないのが知れた。できれば今は絵笑子と顔を合わせたくない。帰宅が遅れた理由や寄り道の場所など、ヘンに言い訳をすれば更にそれを上塗りしてしまう。桜は無用な言及を避けたかった。


 廊下を渡るとき、ダイニングで何か片付けをしている絵笑子の後ろ姿が目に入った。絵笑子が振り返るのを待たずに通り過ぎがてら、


「お風呂、入るね」


 とだけその背中に声をかけ、自室に鞄を放り込むと急いで脱衣所へと飛び込んだ。


 慌てるように脱いだ衣類をランドリーボックスに押し込むと、浴室に入りシャワーの栓をひねる。まだ温まっていない水がシャワーから吹き出すが、桜は構わずに全身にそれを浴び体を流した。


 べつについさっきホテルでシャワーは済ませてきたので、体は汚れていない。

 けれど、入らないでいるのは、絵笑子にヘンに勘ぐられてしまうかもしれない。家で普段使っている石鹸とも違うボディソープの香りを漂わせているのを気付かれてしまうかも。桜は早くホテルの痕跡を洗い流したかった。



 ざぶりと湯船に浸かり、ようやく桜はひと呼吸ついた。

 小一時間ほど前の出来事を思い出す。

 まだ、自分の胎内に残る秋彦の感触を桜は反芻しては奥から沸き起こる快楽に沈んだ。


 秋彦が自分の中に侵入していたときの記憶が思い起こされ、桜の芯が火照りだす。


 ぬるくなった湯船よりも、自分のうちのほうが熱くなっているのを桜は感じた。




 だが、桜には気がかりがひとつあった。


 帰り途中で、スマホに幸生からのLINE着信があったのを確認していた。

 いつもの、映画の感想を伝え合う他愛のないやり取りだ。

 いつもなら、簡単な感想を添えて返信をクリックするだけだ。

 そのはずだった。これまでは。


 ものつもりで、返事を入力し、送信ボタンをおそうとした。

 けれど――

 親指は『送信』の文字に触れるのを躊躇した。


 秋彦に同意した、映画の出演のことが頭に浮かんだ。



――幸生くんに、説明、しなくちゃ――



 さっきまで秋彦との逢瀬に心奪われていた自分が、幸生に心を砕いている。


 桜には、いま在る幸生への気持ちと、急激に押し寄せてきている秋彦への想いを、どう折り合いをつけていけばいいのか、自身にも解らなかった。



    *   *   *



 風呂から出ても、桜は髪を乾かすこともなく、暫くボゥとベッドの縁に座り込んでいた。しっとりと濡れた髪の尖端が冷え、頬や肩に触れるたびに思考はぐるぐると振り出しに戻り、また同じ行程を辿った。


 そんな時を費やしていると、鞄の中のスマートフォンが着信音を告げ、桜を促した。登録されたジングル音。幸生からのものだとすぐに判った。


 画面には「通話」のアイコンが表示されている。

 一瞬、間を置き桜は指を画面に辷らせた。


 スピーカーから馴染んだ声が発せられた。


「――ああ、桜?」


 名乗らなくても、誰だかは自明だ。桜はただ「うん」とだけ答え、句を継いだ。


「どうしたの?」


 言葉に出してから、なんだか空々しさを自分で感じた。それに気付いたのかは分らないが、幸生は話を続けた。


「いや――特に話もないんだけど……

その、どうしてるかな、と思って――」


「そう――」


 やや素っ気の無さすぎる桜の返答に、幸生は何かを感じただろうか。

 日本アルプスを越えて往来するデジタル信号からは、感情のあやまでは届かなかったかもしれない。

 幸生が言葉を重ねる。


「きょう、感想も返ってこなかったし――」


「――ああ、ごめんなさい……映画が終わってから、なんか疲れちゃって……携帯、電源切ったままだった」


「そう、か……ならいいんだけど」


 ゴールデンウィークに桜に逢いに行ってからそれほど日が過ぎているわけではない。LINEでのDMだって、近々こそ少し隔たってはいるが、それまではほぼ毎日のように交わしていた。


 なのに――どこかで溝のようなものが生じていることを、幸生は感じ始めていた。


 桜もまた、同じ心地を抱いていた。


「きょうの映画、どうだった?」


「えっと、ね――」


 会話は続くが、どこか“会話のための会話”をしているような白々しさがあった。

 桜も幸生も、そんな印象を抱くような時間が過ぎていった。

 通話を辞めることだけが躊躇われた。


 太平洋から日本海側へと達したデジタル信号は音声パルスへと変換され、桜の鼓膜を震動させた。


 けれど、すぐ耳許で聴こえていても、ふたりの距離はあまりにも隔たりがあった。




 ドライヤーをかけなくちゃ。

 そう思っていた髪は、もうすっかり乾いてしまっていた。



 ほんとうは。言わなければならないことが、あるのに。


 会話を続けながら、桜の心の隅には、ずっとそんな後ろめたさが澱となり積もっていた。



――伝えなくちゃ。

  せめて。やっぱり。



 意を決して桜が切り出す。


「あ……あの、ね――」


「――なぁに?」


 少しの間の沈黙が本州の両端を飛翔する。


「えっと、ね……」


 自主映画に出ることを告げれば、秋彦のことを話さなくてはならなくなる。



 …………



















 言えなかった。





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