#3 さすらいの二人

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【さすらいの二人】

 1975年 イタリア・スペイン・フランス合作映画

 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ 出演:ジャック・ニコルソン マリア・シュナイダー ジェニー・ラナカー

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         ◎


 シネコンで映画を観たあと桜と別れたのち、幸生は心に引っかかりを残したまま宿泊先へと戻った。



 宿でひと休みしたら、明日どうするか相談しよう――


 そう言葉を交わした幸生だったが、心中では日程を変更するほうへと傾き始めていた。


 夜中になり、幸生は桜にLINEを使って“予定変わった 明日帰ることにする”とメッセージを送った。

 間を置かず、持ったままのスマホの振動が相手からの戸惑いと嘆きを代弁していた。


“え? どしてどして?”


 桜から幸生の予想通りのレスポンスが返ってきた。


直接通話で話そうかとも考えたが、それは躊躇った。


 もし、このときに幸生が翻意して桜に通電したらどうなっていたのか――

 歯車は一気に回っていたのかもしれない。



 言い訳を慎重に考えつつ、幸生が指先をスマホ画面にフリックする。


“連休明けまでにやっとかなくちゃいけないことがぜんぜん進んでなくて、

 だから、ごめん”


 送信後、ほどなくして返信が着いた。


“わかった それならしかたないね”


 いやにあっさりとした納得の返辞だな、と幸生は思った。


 だが、これで無用な説明やそれに伴うゴタゴタは避けられる。

 幸生の中でほっとした心地が湧いた。


“ともかく 明日また駅で会おう”


 時間を指定して、送信ボタンをクリックした。


“うん”


 やけに淡白な返信が届いたのを確認して、幸生はスマホから手を離した。

 この夜のやりとりは、これで終いになった。


 幸生も、桜も、お互いの心の変化に気付くことは、なかった。



    *    *    *



 桜にDMを送ってから、幸生は鬱々とした心地で宿を過ごした。


 本当は、午後まで居るつもりだった。

 だが、予定を変え、午前で帰ることにした。

 きょう、会っているときも、なんとなく、桜が「心ここに在らず」な雰囲気を見せていた。幸生はそれを肌で感じとった。


 桜にメッセージを送るときにテーブルの上に放り出したマスコットキーホルダーを幸生はまた拾い上げた。

 左手でそれを弄びながら、右でスマホをまた操作する。


 LINEの「トーク一覧」で桜の画面から菜津に切り替え、少し躊躇った後、指が文字を打ち始めた。


“明日帰る”と短いメッセージを送信した。


 菜津からは間を置かずすぐにレスが戻ってきたが、付き合うとまた夜明けまで眠れなくなってしまうと思い、“悪いけどきょうは寝させてくれ”とだけ返してあとは無視することにした。


 就寝前に“じゃ 明日会えますネ♥”と返辞が来たことだけは確認した。



    *   *   *



 朝イチでホテルをチェックアウトした幸生は、ターミナル駅に向かった。到着すると、既にチラホラと乗客が行き交っている。


 切符売場へ行き、昼前の新幹線の席がとれた。

 切符が確保できたことでひと息つき、駅のコンコースに掲げられた時計を見上げる。桜との待ち合わせの時間まであと1時間もある。いつものことだが、早め早めに行動する幸生の几帳面さが持て余す時間を作った。


 時間を潰すのにてきとうな場所はないかと見廻すと、ちょうどベンチの並ぶ一角を見つけた。幸生はプラスチック製の硬い椅子に腰を下ろすと、脇の席にディパックを置いた。


 行き来の列車の中で読もうと持ってきていた文庫本を取り出そうとバッグの中を弄る。と、手に柔らかな物体が触れた。

 バッグから引き抜いてみると、掌大の青いぬいぐるみが幸生の手に握られていた。旅行前にバッグに押し込んだ、菜津から渡されたマスコットキーホルダーだった。


 しばらくっと見つめたあと、幸生はそっと鞄の底へとそれを再び押し込んだ。


 何気なしに発着表示の掲示板を見上げる。電光の表示が時折入れ替わり、新幹線が発車していったことを知らせている。

 数台の新幹線が出発するのを見届けた後、ほどなくコンコースに桜が現れた。ふだんは時間ぴったりで来ることが通常だが、この日は20分ほど早く現れた。


「びっくりしちゃうじゃない。いきなり『帰る』だなんて言い出して」


 ベンチの幸生の姿を発見するとやや歩を早め、目の前に来るなり桜が責めたてる。

 捲し立てる桜をなだめつつ幸生が返す。


「ごめん。連休明けに提出する課題が遅れてるんだ。それに、夕方から映研が緊急ミーティングをやるって連絡が来て。今から戻ればそれにも出れるから」


 てきとうな理由をつけて幸生は桜に謝った。


 映画研のミーティングがあるのは嘘ではない。けれど、もともとそれに出るつもりは幸生にはなかった。

 夕方までに戻っても、参加するかどうかは決めかねている。



――たぶん、出るつもりはないだろう。



「うん、わかった」


 桜も無理に引き留めはしなかった。


「悪い」


 幸生が重ねて謝る。

 謝罪が連なったことが桜に何か勘ぐられるのではないかと一瞬幸生は戸惑ったが、杞憂となった。


「――いいよ。そンなら仕方ないし」



 もっとゴネられるかと思ったが、桜はあっさりと引き下がった。


 そこにまた違和を微かに幸生は感じたが、追求はしなかった。




 幸生の乗る便を確認すると、発車時刻までまだ間がある。「どうしよっか」と桜が訊ねると、幸生が「朝食、まだなんだ」と言うので、ふたりは駅ナカのカフェに入ることにした。


「じゃ、行こっか」と先行する桜に付いて幸生がベンチから腰を上げる。桜の移動した後影に、ふわりと「ミツコ」の薫りが漂った。



「どしたの?」


 瞬間立ち留まり歩が遅れた幸生に気付き、桜が振り向いてただす。


「いや――なんでもない」


「じゃ、行こ」


 桜が再び駅ナカのモールへと歩き出す。

 付き従いながら、幸生は覚った。



――ああ。

  自分が、これまでの桜とは違う、と感じていたのは、この薫りだ。





 まだ昼まで時間があるせいか、カフェの客はまばらだった。

 幸生と桜は店内に入ると窓際のテーブルに席をとった。


 ウェイトレスがメニューを持って来てテーブルに置く。桜がそれを開きしげしげと眺め、「まだモーニングセットの時間だね」と幸生を促す。「じゃ、それにしようかな」と幸生は同意を示し、モーニングをオーダーした。

 「桜は?」幸生が返すと、「あたしは、うちで食べてきてるから」と、ミルクティーだけを頼んだ。


 カフェで朝食を済ませながら、幸生は桜ととりとめもない会話を続けた。お互いの学校でのこと。受験についての悩み。進路。

 2年生ともなると、次第にそんなことに頭を悩ませなければならなくなる。


「そろそろ遊んでもいらんないのかなぁ」


「そうだ、な」


 独白のように桜が呟いたのを幸生が相槌を打つ。


 ふたりの間に会話のキャッチボールは続いている。

 けれど、どことなく、故意に話題を作り、ただ沈黙を避けるだけの行為をしているように幸生には感じられた。


 互いを目の前にしながら、これまでとは違う感情が湧いてきていることを各々がどこかで覚り始めていた。


 桜は秋彦とのことが心にあって上の空だった。


 幸生もまた、桜に相対しながら、菜津のことが気になっていた。


 一緒にいて、どこか息苦しさを感じていたのかもしれないと、幸生も桜も思った。


 けれど――。

 互いに、本当のことは言い出せなかった。



――ほんとうは、映画のこと、幸生くんに伝えるべきなのかな……



 心の隅にそんな気持ちも湧いていたが、桜はそれを封印した。

 伝えてしまえば、秋彦のことも会話の端に出てしまう。

 昨晩の彼との一夜を幸生に覚られずにやり過ごすことは、桜にはできそうになかった。



 空疎に続く会話が途切れ、幸生が腕時計を眺めた。


「時間?」尋ねた桜に幸生が短く返す。


「うん」


「じゃ、もう行かなきゃ、ね」


 改札を通る幸生に付いて、桜も入場券を買って駅構内へと入った。


「いいよ、ここで」と幸生は気を配ったが、「ううん。見送らせて」と桜は云い、そのまま発着のプラットホームへと向かった。

 ホームには幸生の乗る車両がもう到着していて、二人がホームに出てほどなくドアが開き、待っていた乗客たちが車両に入っていった。

 乗車の列が途切れたところで、幸生が乗り込む。振り返ると桜が微笑み返しながら手を振った。


「また、会おうね」


 口角を持ち上げ幸生が返す。


「こんどは夏休み、来れたら来るから――あ、桜がこっちに来てもいいな」


「うん、そうする」


 発車を告げるベルが鳴り響く。プシュンとドアが閉まり、幸生を乗せた新幹線がホームから遠ざかっていく。

 それを見届けると、桜はスマホを取り出し画面を確認した。


 秋彦からの着信が入っていた。


“何時くらいに待ち合わせよっか?”


 改札を出ると、一瞬躊躇いはしたものの、桜は秋彦にLINEを送った。


“時間、できたから これから会ってもいいですよ”



    *   *   *



 車内の座席に辿り着くと、幸生は網棚にバッグを載せ、シートに腰を下ろしスマホの電源を入れた。


 画面が起動するまでの間、鼻腔の奥に、まだ桜のつけていた「ミツコ」の残り香が薫っているのを感じた。


 桜とのLINE画面を確認する。新規のメッセージがついてないのを見ると、画面を戻し『ともだち一覧』のいちばん上に並ぶ菜津のアカウントを開いた。


 メッセージは今朝確認してから更に5件追加されていた。

 指定席のシートに沈みながら、幸生はその最新のメッセージを画面の点灯が消えるまでぼんやりと眺めた。


“こんどはいつ、いっしょに映画に行きましょうか?”



    *   *   *



 午後。

 桜は秋彦と会っていた。


 午前中に幸生の新幹線に乗るのを見送ったその日のうちに秋彦と約束をするのはほんの少し気が引けたが、GWは今日が最後の1日だった。

「映画に行こうか」との誘いも受けたが、昨日の今日だ。遠慮した。


“じゃ、どっかでお茶でもしようか”


 秋彦からのDMに“それならいいですよ”とレスを返し、午後に落ち合うことにした。



 待ち合わせは、シネコンの入るビルのCDショップ。そこのDVDソフトのコーナーにした。

 「どこにしよっか」という秋彦の問いに対し、場所を申し出たのは桜の方だった。

 特にその店に意味があるわけではない。ただ、シネコンのある複合ビルならお互い馴染みがあるし、指定も、し易かった。


 いや――

 意味はあったのかもしれない。桜にとっては。



 店内に着くと桜はまず秋彦にLINEでメッセージを送った。


“少しはやくついちゃった てきとぅに見てまわってます”


 相変わらず、数分待っても秋彦からの返信はない。



 そんな彼の人となりにだんだんに慣れてきている自分を鑑みると、なんだか胸がくすぐったくなる。



――どうせ、来たらみつけてくれるだろうな。



 そう思った桜は、気兼ねなく店内のウィンドゥショッピングをきめこむことにした。


 洋画コーナーの棚を端から順番にゆっくりと眺める。

 しばらく行くと、桜の足が停まり、棚にあるパッケージのひとつに手が伸びた。


「セント・オブ・ウーマン……夢の香り――」


 パッケージの文字を読む唇が、思わず小さく動く。


 桜がここを選んだ理由。それはこのDVDを確認したかったのかもしれなかった。



 商品を手に持ちながらジャケットをしげしげと眺めていると、右肩にぽん、と掌の置かれた感触。と同時に、昨夜覚えた体温を感じた。


「よっ」


 これまでとは違い、馴れ馴れしい口調が桜を迎える。


「来たんだ」


 桜も釣られて親しげな応答をする。

 秋彦が桜の手の中のソフトに気付き、覗き込む。


「あ、これ――」


「うん――たしか、持ってるって言ってたね」


「そうだよ」


 以前にこの映画のことがふたりの話題に上ったときはやんわりと誤魔化したが、こんどは桜のほうから話を振っていった。


「ね――こんど、観に行っても、いいかな」


「うん、いーよ」


「じゃ、約束ね」


 やや素っ気ない返辞に、桜は満面の笑みを浮かべ頷いた。



 短い会話を了えると、ふたつの影はひとつに寄り添い、ショップの床面を出口へと移動していった。




「どこ行こうか」と問いかけることもなく、秋彦は絡ませた桜の手を引いて繁華街から逸れた通りを入り、立ち並ぶホテルの中のひとつのゲートをくぐった。

 桜も抗うことはしなかった。


 フロントの写真つきの表示版は、まだ午後の陽のあるこの時間にも拘わらずかなり埋まっている。大型連休最後の一日をふたりきりで過ごしたい恋人たちが壁に並ぶ部屋の写真のバックライトを消し、互いの呼吸を確かめあっている。

 まだ点灯している部屋の中から、秋彦はいちばん安い部屋のボタンを押し、バックライトを消すと、フロントの小さい窓からルームキーを受け取り桜に目配せし、すぐに開いたエレベーターに揃って入りこんだ。

 ホテルのロビーに入るまでは微かな躊躇いもあった桜だったが、エレベーターが開くのを見た瞬間、すぅっと気持ちが落ち着き、もう迷いはなくなっていた。

 『定員5名』と書かれたエレベーターの狭い空間に押し込められたふたりは、扉が閉まるとすぐにどちらから誘うともなく唇を重ね、熱い抱擁を交わした。


 エレベーターの箱が目的の階に着くと、開いた扉の前方に小さな照明の点滅しているドアが見えた。

 持っていたルームキーの番号とドアのナンバーを秋彦が照合すると「ここだね」と桜に告げノブを回した。秋彦の背中に桜も付き従った。


 薄暗い間接照明に照らされた、白いダブルベッドが桜の視界に飛び込む。秋彦のルームキーを卓に置くカチャリという音が妙に大きく聞こえた。

 背中の荷物を椅子に置く秋彦の背を見詰めながら、桜がぽつりと呟いた。


「あの……あたし、……あたし、その……」


 何かを言いかけた桜に気付き秋彦がこちらを向く。


「なに?」


「イヤじゃ、ないです、か……?」


「なにが?」


「だから、その……あなたが、はじめてじゃない、ってことが……」


 なんだか己が淫らな存在に思えて、桜は秋彦に弁明をしたくなった。

 これからふたたび繋がる相手に、赦しを得たかった。


「気にしてないよ、ぼくは」


 秋彦がゆっくりと言葉を返す。


「でも――」


 言いかけて、桜の言葉が詰まる。


 秋彦がその口に蓋をするように、口吻くちづけをした。


 謝罪する必要など、ないことだった。

 それはお互いに判っていた。

 けれど、桜は謝りの言葉を口端に出さずにはいられなかった。


 秋彦に向けてなのか。

 それとも――

 幸生に対しての後ろめたさだったのか。


 桜にも自身の心の底に澱む感情のみなもとは、計りかねた。

 ただ、言葉に出さなければ、自分が赦せなかった。


 そう思いはしたものの、言葉を発したことが更に自分を苛んだ。


「いいんだよ。いま、きみがこうして一緒にいてくれれば、それで」


 秋彦の手が桜を包み、柔らかな動きでブラウスのボタンを順に外していく。


「……あ……」


 背中に回った掌がもどかしく動くのを感じる。圧迫していた下着のワイヤから胸が開放される。

 肌を這う指先が、やがて桜の胸の先端を撫で、いちばん敏感な部分に触れる。


 幸生とは別の、年上の、大人の男が纏う匂いに桜の鼻腔が眩惑する。

 そのまま全身の力が抜けるのを秋彦の太い腕が包み、優しく純白のシーツに横臥える。


 相手のするがままに体を任せることに桜は安堵を感じた。


 桜を覆っていたすべての布が秋彦によって剥ぎ取られ、曝け出されていく。

 とくとくと脈打つ鼓動が自身の耳殻に届くのを聴きながら、桜はゆっくりと秋彦を迎え入れた。



    *   *   *



「シャワー、準備してくるね」


 荘厳おごそかな儀式にも似た愛の行為をえたとき、

 しっとりと濡れた若い肌に唇を這わせながら、秋彦が桜に耳許で囁いた。


 ベッドの土台を軋ませ秋彦が浴室へと向かう。

 その背中を眺めながら、今さっきまで包んでいた筋肉の隆起を桜は反芻していた。


 まだ、胎内にのこる秋彦の感触が桜の心を満たした。



 バスルームから浴槽に注がれる湯の音が響く。

 半睡から次第にうつつに戻った桜が、上体を起こし、ベッドに戻ってきた秋彦を抱き寄せた。

 顔を秋彦の胸に押し充てる。男の汗の匂いが、桜の肺深く届く。


 秋彦の腕が、それに応えるように桜を包み込む。



――もうすこしだけ、こうしていたい――



 桜の心を読むかのように、秋彦のかいなが桜の肢体を引き寄せる。二人の肌が密着する。

 幸生の行為とは明らかに違う、濃密な、年上の男性の抱擁。それに身を委ねる安堵。


 こうしている瞬間、秋彦のことだけを想っていられる。

 この、満たされた心が欠けることは耐え難かった。



――ううん。

  ずっと、ずっと……



 秋彦に躰を任せれば任せるほどに、幸生との関係が次第に掠れ往くのを桜は心のどこかで悟っていた。



 浴槽から湯が溢れ、床に零れはじめたのをバスルームから漏れる音が報せている。


「そろそろ、お湯、止めないと――」


 秋彦が告げる。桜が答える。


「もうちょっと、こうしていて……」


 秋彦は暫し従うことにした。



 少しの間の後、浴室のことが気になったのもあり、秋彦がまどろみを破り口を開いた。


「えっ、と……さ。あの、……」


 映画出演のことを改めてどう切り出そうか。そう思い、秋彦が口篭る。

 その意味が届いたか、桜がこくこくと数度頷いた。躰を通じたどうしだけの以心伝心だった。


「……わかってる、から……」


 桜の短いセンテンスが、すべてを伝えていた。

 秋彦が言葉を返す。


「……ありがとう」


 承諾は、もう、返事をするまでもなく、答えは判っていた。

 ふたたび唇を重ねると、ベッドの上でふたりは躰を交わらせた。



 混じり合ったふたりの汗と躰の匂いが、白いシーツに沁み込んでいった。

 ‘ミツコ’の仄かな薫りを重ねて――。



    *   *   *



 名古屋で予定通り幸生は新幹線を降り高速バスに乗り継いだ。


 昼前のせいか、連休とはいえ座席はちらほらと空席がある。幸生の後部もまだ誰も座っていなかった。



 幸生の指定された座席は外側、窓に接した左の隅だった。通路側の席は空いている。

 バスのシートに座ると、幸生はバッグからスマホを取り出した。

 スマホに紛れ、バッグから何かが隣の空席に零れ落ちた。幸生の腿の横に、青い塊が転がっている。拾い上げると、菜津のくれたシネコンのマスコットキャラクターだった。


 少しの間マスコットをじっと見つめた後、スマホをONにしアプリを確かめる。あいかわらず菜津からの大量のDMが着信していた。


 指でスワイプし順番にメッセージを繰っていく。「さみしぃ」「はやくぁいたぃ」「まてないよぉ」といった寂しさを募らせる言葉ばかりが並び続けている。


 幸生はバスが走り出したのを確認すると、後部席に誰もいないのを幸いにシートをリクライニングさせ体を沈めた。隣席は誰も来なかった。幸生は安堵してバッグを脇のシートに置いた。


 エンジンの震動を感じながら、軽いひと呼吸を置くと、幸生の指が画面をフリックし返信を書き始めた。


 文字を入力し終わると、無意識に眼を休める行為を体が求めたのか、視線を窓の外に向けた。


 疾走はしるビルの林立を追っていると、この旅での出来事がランダムに脳の中でイメージを結ぶ。明日からはまた日常へと還ることをなんとはなしに意識した。


 そういえば、桜の家の人――父親と絵笑子さんに挨拶をせずに立ち去ってしまったな、と幸生は改めて思い出した。



――仕方ないか。

  この次行ったとき、このことをお詫びしよう。



 掌のスマホが震え、菜津からの返信が届くのを報せる。幸生はそれに眼を落とし、また窓に視線を移す。


 街々の風景は後方へと流れ去り、郊外の空気から高速道の無機質なフェンスが視界を覆う。窓枠で区切られた景色をぼんやりと眺めながら、幸生は桜と交わした会話を反芻していた。



 別れ際の約束は、果たされることがなかったことにやがてなるのを、このときのふたりは知る由もなかった。


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