#2 夏の嵐

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【夏の嵐】

 1954年 イタリア映画

 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 出演:アリダ・ヴァリ ファーリー・グレンジャー マッシモ・ジロッティ

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         ◎


 幸生と分かれると、とたんに桜の心に秋彦の影が浮かびはじめた。

 会いたい。話がしたい。

 そう切実に気持ちがさざ波をたてる。


 自身でも説明のつかない感情に桜は押し流されていた。



 幸生への裏切りにつながるということは桜も自覚していた。

 だが、気持ちは押さえられない。


 あるいは、幸生への後ろめたさが、いっそう心を敏感にさせているのかもしれない。


 今は、

 幸生よりも、


 秋彦に会いたかった。



 シネコンのある商業施設に続く目抜き通りを、桜は駅とは反対方向に歩き始めた。


 バッグからスマホを取り出し操作する。


 改めて、秋彦のメールを確認する。

 やはり夜の回に観に来るとメッセージは報せていた。


 足取りが判ると、桜の心持ちに変化が生じた。



――会いたい。

  少しの時間でもいいから、いっしょに過ごしたい。



 シネコンのサイトを確認する。

 上映は1日2回。夜からの回が残っている。

 秋彦はその回に来るのだろう。


 県の条例では22時以降終了する回には18歳未満の者は入場できないが、この回の終了時刻は21時50分だった。


 だいじょうぶ。自分も観られる。


 それに、あとで先に観てしまったことが秋彦に判ってしまうのもばつが悪い。

 アート系寄りの作品をひとりで観にくるようなタイプでもないことは、桜本人もよく判っていた。ヘンに勘ぐられるのも困りものだろう。


 考えを纏めるよりも先に、指先が返信をフリックしていた。



“予定してた用事 なくなっちゃったんで

 これから会えますよ


 映画、もしまだ予約してなかったら

 いっしょに行っても いいですか?”



 送信を捺しながら、自分でも何をしようとしているのかが、解らなかった。



 秋彦へ送信したすぐ後に、絵笑子に夕飯の断りのメッセージを送るのは忘れなかった。



 秋彦からのレスポンスがこなければ、次の行動は決まらない。

 桜は、当て所のないままふらふらと目抜き通りをシネコン方向へと歩いた。


 ほどなくして、スマホが着信を告げた。


 着信のジングルに弾かれるように、桜の胸がドキンと鼓動した。



“いいよ

 僕の席はもうとっちゃったけど、隣の席が空いてるかすぐに見てみるから”



 数分して次のレスが入った。



“いつもの右側はもう埋まってたけど、反対の左側の席がとれたから”



 文章を目で追いながら、桜の胸は安堵と歓びに満ち溢れた。




 自身の予約はもう完了してしまっていたが、秋彦は桜から連絡を受けると即座にネット予約を取った。

 右隣は既に埋まっていたが、反対側の左の席は空いていた。



“どこで待ち合わせよっか”



 座席予約の知らせに続いて秋彦は桜にメッセージを打った。

 すぐに返信が届く。



“いま、シネコンの近くにいるんですけど”



 一瞬考えて後、秋彦がレスを返した。



“じゃ、ビルの中にCDショップがあるよね? そこでおち会おう”



 親指を立てるスタンプが返され、約束が決まった。



    *   *   *



 秋彦との待ち合わせまで少し時間があったので、シネコンへのメインストリートを戻りながら桜はウインドゥショッピングすることにした。ファストファッションを見て回り、通りに面したファンシーショップを覗く。

 ゆっくり歩き回ったつもりでも、予想よりもかなり早くシネコンの入る複合施設に戻り、テナントの大型書店からCDショップへ。新着のCDの並ぶ棚の先にはDVDのコーナー。桜の目は自然とそちらへ向いた。

 この店を選んだのは秋彦なりに桜へ時間を持て余さないようにとの配慮なんだと桜は悟った。

 幸生なら、ただ単にシネコンのベンチを待ち合わせに指定するだろう。しかも開場30分以上前に。そんなところをなんとなしに桜は想像で比べた。



 DVDコーナーへ赴き、棚に並ぶ映画ソフトの背のタイトルを眺める。

 当て所なく歩きながら、洋画のコーナーへと辿り着く。その中で、ひとつのパッケージが桜の足を留めた。


「あ……」


 『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』。そのタイトルが目に飛び込んだとたん、桜はパッケージに触れていた。

 棚から引き出し、裏面の解説を読む。メインキャストのアル・パチーノは知っている。あとは……



 ふいに、バッグの中のスマホがコールと振動を伝えた。着信は秋彦からの通話を求めている。


「――もしもし?」


 秋彦の声が届き、桜は体の芯に熱が灯るのを自覚した。

 胎内の血流が速まる。


「あ、桜ちゃん? 思ったよりも早く着いたんだけど――いま、どこかな?」


「あ――ビルの、CDショップ。そこのDVD売場にいます」


「じゃ、そこに行くから、待ってて」


 そう言うと通話は切れ、数分後にエスカレーターを昇ってくる秋彦が姿を現した。


 桜は持っていたDVDを棚に戻すと、早足で秋彦に近寄っていった。


「待った?」


「ううん。ぜんぜん」


 秋彦の問いかけに対し、桜はすぐに応えを返した。

 目と目が合う。ほんの僅かな時間だが、心の交感を桜は感じた。


 腕時計を眺め、秋彦が促した。


「まだちょっと時間があるね。少しどっかで休もっか」


「うん」と桜も頷き、ふたりはエスカレーターを降りていった。


 階下のアトリウムに面したカフェテリアで、桜はアイスティーラテを、秋彦はアイスコーヒーを注文した。セルフサービスのカウンターでドリンクを受け取ると、二人はオープンスペースの席に向かい合って腰を下ろした。


「割と埋まり始めてたけど、僕の隣の席、とれたよ」


 秋彦が改めて劇場の座席のことを告げる。「でも、いつもの右側じゃなく、逆の左側だったけど」


「構いませんよ」桜が返した。


 以前に聞いた、己の右側に桜を配置する秋彦の考えを桜は思い出していた。


 連想を秋彦の言が断ち切った。


「あ、と――」


「? なんですか?」


「言わなかったけどね」


 思わせ振りな秋彦にじれったさを感じながら桜が身を寄せると、秋彦は囁くように次の句を継いだ。


「じつは、ね――僕は左利きなんだ」


「えっ」


 思わず桜の頬が桃色に染まる。


「なんて、ね――冗談」そう言いながら秋彦がぺろりと舌を出した。


「もうっっ。からかわないでください」


 ぷくり、と膨れ顔をする桜をなだめるように秋彦が返す。


「ごめんごめん」


 子供扱いする秋彦の態度に桜の心がくすぐったくなった。

 動揺を鎮めようとひとつ深呼吸する。ストローを口に付けた後、ぽつりと桜の唇から言の葉が漏れた。


「でも――」


「――なぁに?」桜の無意識な呟きに秋彦が反応する。


 一瞬の躊躇いの間の後、桜が言葉を続けた。


「あ――ううん。なんでもないです」


 桜はこの会話を途切れさせたかった。

 でないと、本心が顕わになってしまいそうだから。



――触れられてもいい。



 桜の心がそう呟いていた。


 想いはさらに強く、桜の中で膨らみつつあった。




――ううん。そうじゃない。


  触れてほしい――




 訪れた沈黙を破ろうと、秋彦が話題を変えた。


「それで――どう?」


「どう、って――」


 桜はそれ以上問わなかった。

 秋彦もまた、質問の詳細を改めない。


 問われる内容はひとつしかない。


 以前より、秋彦は桜に「自分の作る自主映画に出演して欲しい」と懇願していた。桜は演技なんてできないと断り続けていたが、秋彦は諦めなかった。


「返事は、GWが終わる頃でいいから」と結論を先延ばしにされた。


 秋彦の論に従えば、その期限は明日だ。

 けれど、会う時間を鑑みれば、今日に回答を求められるのは必然だった。


 アイスティーラテのストローを弄んだ後、桜が言葉を返した。


「……答えは、映画のあとで」


 秋彦も同意した。


 だが。

 桜の中では、答えは既に決まっていた。



 秋彦が腕時計に目を落とし、桜に告げた。上階のシネコンへ向かうにはちょうどいい時間だ。


「じゃ、そろそろ行こうか」


 言われて桜も席を立った。


「うん」



    *   *   *




――同じ映画を1日に2度も観るなんて、莫迦ばかみたい。



 そうも思ったが、難解な内容も2度目の観賞となると、桜にも理解できるようになってきていた。


 張られた伏線や、暗喩。アイロニー。

 幸生が何をこの映画で観ていたのかが、解るように思えた。



 スクリーンに集中していると、右の袖に触れていた存在がそっと動くのを桜は感じた。

 意識を向ける。手の甲に秋彦の指先が触れる。

 抗わずに力を抜くと、指と指の間に秋彦の指が辷り込んだ。

 絡ませた指から互いの体温が交わるのを桜は感じた。


 指先から昇り来る安堵にも似た心地良さが、桜の体幹を満たしていった。




 映画が終わりシネコンのある商業施設から出た桜と秋彦は、特に当て所も決めずに街を漂うように歩いた。


 「どこへ寄ろう」とか「これからどうしようか」などといったようなことは、それぞれの口端から漏れることはなかった。

 ただ、なんとなく、互いに別れ難かった。


 ふたりの影がシネコンから駅へと続く繁華街の中心から徐々に遠のき、次第に店も少なくなり始めると、秋彦が沈黙を破った。


「そろそろ、返事聞かせて欲しいんだけど、な」


「……」桜の口が言葉を発するのを躊躇う。


「約束の期限、明日で終わっちゃうんだけど」


「うん……」


 秋彦と桜との間の約束とは、もちろんひとつしかない。

 映画への誘いを受けるのか。辞退するのか。

 このGWが終わるまでに、結論を出さねばならなかった。


 けれど。

 頷いてしまえば、言葉にしてしまえば、

 もう引き返せなくなる。そんな予感があった。


 それが、映画のことだけに収まらなくなってしまうのを、桜に予感させていた。


 その思いが桜に迷いを起こさせる。




 答えを探すようにふたりは歩き続けた。


 不知不知しらずしらずのうちに、足取りは繁華街からやや外れ、喧騒とは隔てられたビルの谷間にふたりは迷い込んだ。

 距離を置いた街灯がまるで行き交う者達の顔や姿を隠すかのように通りを闇で包む。

 気づけば、歓楽街と背中合わせの、ホテルの連なる一角を秋彦と桜は歩いていた。


 ひっそりとした薄暗闇の中ぽつりぽつりと灯るネオンがぼんやりと地面を照らし出している。


 秋彦が故意にその道を選んだのか、偶然なのか桜には知れなかった。それでも、桜に動揺はなかった。自身も不思議なほどに。

 あるいは、互いにどこか意識の底でこの道を選んでいったのだろうか。漂流する足は引き返すこともなく彷徨い続けた。


 桜はぼんやりと点滅するネオンの群れを見上げた。

 星々の煌きを背景に地上の星座がジリジリと唸りを呟きながらふたりの後ろへ流れていく。流れ去るたびに、また次のネオンが横を過ぎていく。

 このまま沈黙を続けることはできないとふたりは悟った。


 桜が話題をはぐらかすように問いかけた。


「訊いても、いいですか?」


「なに?」


「もし、私とつき合うのと、私が映画に出るのの――どっちかしか選べないとしたら――どっちを選びますか?」


 長い長い時間沈黙の末、秋彦が桜の瞳を見据え答えた。


「――両方、かな」


「ずるい、そんなの」


 桜の言葉が終わらぬうちに、秋彦が桜の視野を遮り、唇を奪った。

 抗うことは、しなかった。そっと秋彦の背に腕を回し、桜は自らに引き寄せた。


 互いに望む気持ちは同じだと覚った。



 寄り添い合いながらひとつの塊となったふたりは、ネオンの灯り始めたホテルのひとつへと踏み入れた。


 入口で一瞬足を留めたが、桜の覚悟したかおを読み取ると、そのまま自動ドアの中へと消えていった。



    *   *   *



 ホテルの一室の天井に浮かぶテキスタイルの軌跡を桜の瞳は追っていた。


「はじめてじゃ、ないんだね」


 すべてが終わったとき、秋彦が桜の耳許で囁いた。


 僅かの間が空いて桜が口を開いた。


「……ごめんなさい……」


 言葉にした瞬間、謝るのはなんだかそぐわない、とも思った。

 けれど、そう返す以外のことを、今は思いつかなかった。


「いや、別に謝ることなんてないよ。きみくらいの年頃なら、そういう経験だってあるだろうと思うし……」


「でも……」


「平気だよ、ボクは」


 そう言うと、秋彦は唇を重ね、桜を抱擁した。

 数十秒前まで繋がっていた、その肌を眺め、肉体の膨らみや窪みを確かめるように掌を這わせた。

 十代の張りのある躰に漂う、男を既に知ったことからくる艶やかさが色気を纏わせ、発汗でしっとりと湿る緋色の皮膚に魅力を増幅させていた。


「これまでも大好きだったけど、ますます好きになった」


 秋彦が呟く。その響きが桜を満ち足らせた。



 同時に、桜の心は自責の念にさいなまれた。


 昨晩、幸生と躰を重ねたばかりなのに、いま秋彦とこうしている自分の行動を桜は説明がつかなかった。


 自分という存在が、ふしだらで、どうしようもなくけがらわしく思えた。




 秋彦の愛撫に溺れながら、戻ることのできない路に踏み込んだことを桜の全身が悟った。

 その足下はいばらなのか、柔らかな草か暖かな藁なのか。


 17年の人生で経験のない領域に漂う怯えを感じた。



――なぜ、彼に躰を許したのだろう――



 桜の中はその問いに対する答えを求め続けた。


 導かれた最適解――


 いつも優しくしてくれる彼への感謝の気持ちから、ということがいちばんの理由だった。

 それで自分を納得させるしかなかった。



 そんな葛藤を超えて、もう離れ難いという気持ちが上回る。

 ほんの半時ほど前には、こんなにも強い感情は自分の中にはなかった。


 芽生えた想いの深さに桜自身も戸惑っていた。



 混乱した思考が整理されると、桜は秋彦の胸に顔を埋めた。

 受け容れるように秋彦の両腕がそれを包み込む。

 肉体だけではない、心もすべて委ねられる安堵感に桜は満たされた。


 もう、彼という存在が無しではいられない。自分の生のピースのひとカケラ。彼が欠けることなど、想像もできない。

 そんな想いが桜の心をたし、溢れだす。


 同時に頭では幸生のことが浮かぶ。


 桜の中では矛盾と自己憐憫がせめぎ合う。

 秋彦の体から発する汗の匂いが、桜の混乱を和らげていた。



 包まれた静寂を秋彦が解き放つ。


「で、さ……映画の話、なんだけど」


「……うん……」


 桜は未だ答えかねていた。

 気持ちの上では、決めている。


 だが。


 ふたりの間では、出演の結論はまだ出ていない。

 ちゃんと、ハッキリとした返事をするまで、保留ボタンは押され続けたままだった。



 桜が答えに惑っていたとき、ふいにスマホのジングルが狭い部屋に響いた。


 自分のスマホから発せられた音だというのが桜にはすぐに判った。

 しかも、このメロディは――



 慌ててベッドから這い出した桜は、ソファに放り出してあったバッグからそれを取り出し画面を見た。ダイレクトメールの着信を告げる表示。



――幸生くん、

  か ら――



 露わになった胸の膨らみが緊張し上を向く。

 桜の瞳が弁解するように秋彦へと注がれる。



 うっかりスマホをONにしてたことを桜がアイコンタクトで詫びると、秋彦は「いいよ」と目で返した。

 ばつ悪そうに、桜が改めて画面を確認する。


 幸生からのDMの文章がディスプレイに現れる。


 冒頭を読んで、桜の視線が泳いだ。

 狼狽うろたえ、救いを求めるように秋彦を見詰める。


 只ならぬ気配を察した秋彦は、


「なんか急なことみたいだし、返事すれば」と返した。


 桜はそれに従い頷くと、改めて画面に指を辷らせ文字をフリックし始めた。


 返信を送信し了えると、タイミングを見計らって秋彦が声をかけた。


「彼氏、から……?」


 桜はこくりと頷き、もどかしげに返辞をした。


「……ごめんなさい……」


 手の中のスマホをぎゅっと握る。

 その謝罪の呟きが、果たして秋彦にだったのか、それとも幸生に対してだったのか――

 桜自身にも判らなかった。



 桜は、小さな溜息をひとつ吐くと、瞳を宙に漂わせながら秋彦に応えた。


「……午後……」


「え?」


「明日の、午後なら、たぶんまた、予定、空いてるから……」


「だから?」


「明日、また会っても――いいですよ」


「え……」


 一瞬、返す言葉を喪った秋彦に、桜が言を繋げた。


「答えは……そのときに」


 そう言うと、桜はまたベッドに戻り、秋彦の腕の中へと収まった。

 秋彦も桜を黙って受け留めた。



 桜の返事は、明日になれば判る。

 秋彦はあえて今答えを欲しようとはしなかった。



 本当は、もう訊ね返す必要はなかった。

 ただ――


 少しでも、一緒にいたかった。


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