#1 恋恋風塵

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【恋恋風塵】

 1987年 台湾映画

 監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン) 出演:王晶文(ワン・ジンウェン) 辛樹芬(シン・シューフェン) 李天祿(リー・ティエンルー)

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         ◎


 高速バスに揺られながら、幸生は手持ち用のDパックを弄り、底のほうからキーホルダーを引っ張りだした。

 GWの直前、菜津から手渡されたものだった。フェルトでできた小さなシネコンのマスコット。菜津の言葉が頭に浮かぶ。


「これを、あたしだと思って、連休中は持っててくださいね」


 持ってくることは迷ったが、躊躇いつつもバッグの底に忍ばせることにした。

 暫く眺めてから、幸生はふたたびバッグの奥にマスコットを押し込んだ。


 桜の住む街のターミナル駅にバスが到着すると、幸生はスマホを開きLINEで桜にメッセージを入れた。


    *   *   *


 この日、朝から桜はソワソワと落ち着かなかった。

 幸生と顔を合わせるのは、ほぼ4か月ぶりだ。待ち焦がれた再会だった。


 けれど、このシチュエーションを思い描いていたとき期待していた、ウキウキとした感情は湧いてはこなかった。


 “これから幸生と会う”という事実を認識するたび、心にひと欠片の棘がチクリと触れる。

 心の痛みの原因は、自分に在る――

 桜は自覚していた。


 そんな考えを巡らせるうち、机の上のスマホが着信を報せた。

 幸生からのDMのジングルだ。画面を開く。メッセージが表れた。


“いま駅についたよ”


 桜はすぐにすぐに返信を送り、「いってきます」と廊下からリビングの絵笑子に告げると、玄関で靴を履きドアを開いた。


 外の冷気が桜の胸をキリリと締め付けた。



    *   *   *



 ターミナルの待合のベンチに腰を下ろしていた幸生の掌のスマホが震動し、トーク画面に『既読』が点きレスが追加された。


“すぐ行くね”


 反射的に顔を上げ周囲を見回す。バス停や路面電車の停車場が視界に入る。桜の姿はまだ見えない。

 幸生は傍に置いたDバッグの底をそっと触れた。柔らかい塊の感触を確認する。


 30分ほどして、桜が駅の待合室に現れた。


「ごめんごめん、待った?」


 ベンチに座る幸生を見つけた桜は、そう言いながら駆け寄った。


「いや――へーき」幸生も笑顔で返す。


 二人の、4ヶ月ぶりの再会だった。久方ぶりに聴く生の声がなんだかぎこちなく感じた。


「遅くなってごめんね。でも先に到着する時間教えてくれればよかったのに」


「スマホを入れたバッグを預けちゃったんだ。ごめん」


 嘘だった。

 スマホはDパックに入れ、車内に持ち込んでいた。

 だが、バスを降りるまで桜に連絡をすることを、幸生は躊躇っていた。


 ひととおりのやり取りが住むと、ようやく二人は「ひさしぶり」「うん」とお互いの顔を見合った。桜が「とりあえずウチに来て、荷物置いてこうか」と促す。幸生も頷いた。


「じゃ、行きましょ。ここからならあの路面電車ですぐだから」



    *   *   *



 市電を降り住宅街を歩くと、桜がマンションを指し「ここだよ」と幸生に告げた。


「ここが、桜の今の家か」


 マンションを見上げながら、幸生が「へぇー」と感嘆した。重厚そうな外観。オートロックの入口。


「うちは5階なんだ」と言うと、桜は先導して幸生をマンションのエントランスへ招き入れた。

 玄関口のポストの表札には『去多 首堂』それに真新しい『荻野』という字が並んでいる。


「ね? なんだかシェアハウスみたいでしょ」


 そう幸生に告げ、ウィンクしながら桜がエレベータの釦を押す。

 5階フロアに到着すると、桜は扉の前に立ちドアノブを回した。


「ただいまぁ」


「あら、おかえりなさい」


 奥から女性の声が迎え、声の主が廊下に出てきた。


 幸生がぺこりと小さくお辞儀をすると、女性は


「幸生くんね。はじめまして、首堂絵笑子です」と自己紹介した。


「お父さんは、いまちょっと出かけちゃってるんだ」


 桜が幸生にそう告げると、幸生は改めて絵笑子に顔を向け「はじめまして」と挨拶した。


「桜ちゃんから聞いてるわ。さ、ともかく上がってちょうだいね」


 絵笑子にそう促されると、幸生は靴を脱ぎながら「これ、母が持ってけって」と用意してきた手土産を桜に渡した。


「あら、そんな気遣いなんてしなくても。ありがとうね。幸生くん」


 桜からリレーされ紙包みを絵笑子が受け取る。

 本当は幸生が用意したのだが、そう告げたほうが面倒くさくないという幸生なりの判断だった。


 幸生が持ってきたのは、あのふたりで行った名画座の近くの洋菓子屋の包装だった。桜は紙バッグの表の見憶えのあるそのロゴマークに気付いて「あれ……」と幸生に耳打ちした。

 幸生が目配せと同時に頷く。


「生菓子だと日持ちしなさそうだったし、焼き菓子にした。ホントはモンブランにしたかったんだけど――」


「ううん、そんなことないよ。ありがと」


 幸生があの洋菓子屋を憶えててくれたことに桜は嬉しかった。



    *   *   *



 幸生がダイニングに招かれると、絵笑子が手造りのレモンパイに幸生の持参したマドレーヌを添え温かなミルクティを出してくれた。


「じゃ、私は奥の部屋にいるからね」と言い、気を利かせたのか絵笑子は奥へと引っ込んでいった。

 卓の上に並べられたパイを眺め、幸生が「これ、絵笑子さんの手造り?」と桜に質問した。


 「うん。私も一緒に手伝ったけど。お菓子作りがすごく上手いんだよ、絵笑子さん」


 桜の言外に、継母とうまく行っている様子が伺えて幸生は安心した。


 ティータイムの会話の内容は、おもに互いの学校生活のことが中心となった。

 幸生は隣のクラスのヘンリーに絆されて結局映画研に入ったこと、桜のほうは新たな環境での出来事。


「で、結局桜はどの部活にも入ってないのか」


「うん。なんか、そういうのにあんまり興味ないし」


 ただ、互いの近況などを話そうにも、その程度のことはいつもLINEでやりとりしてる。時折は直接通話もする。なのに、こうして直に顔を合わせていると、互いのどこか余所余所しいさまが垣間見えてしまう。

 加えて肝心の部分は、桜も幸生もどこかで曖昧に避けている。そんなどこか歯痒いやりとりが言葉の端々に滲み出る。

 久しぶりの桜と幸生の再会は、なんだか妙にぎこちなかった。

 

 気恥ずかしさでもない。照れくささとも違う。

 この感情は何だろう、と幸生も桜も心の片隅で思った。



 テーブルの上の菓子も片付き、ひと息吐くと、桜が言葉をかけた。


「幸生くん、このあとどうしよっか」


「映画……と言いたいトコだけど、きょうは少し桜の住んでるこのあたりを見てみたいな」


「宿は?」


「夜までにチェックインすれば大丈夫」


 とは云え、あまり遠出もできそうにない。

 一寸の思案の末、桜が提案した。


「じゃあ――‘だいぶっつぁん’に行ってみよっか」


 相談の末、大仏と古城公園を見て回ることを決めた。



    *   *   *



 部屋を出ると5階の廊下から小さな大仏像が肩を出しているのがみえた。


「あれが‘だいぶっつぁん’だよ」ドアを閉めながら桜が幸生に声をかける。


 連なる瓦屋根の上に現れる、円環を背にした姿。これまで桜から聞いていた印象と比べ、思いのほか小ぶりだな、と幸生は思った。

 桜が先に立ち、ふたりは歩いて大仏の寺まで行くことにした。


 瓦の波に見え隠れするに従い次第に大仏像が迫る。時折その姿を確認するように桜は首を伸ばし、これから行く見処を幸生に語った。


「あの大仏の下に回廊があってね、この街の歴史とかがわかるようになってるの。それといっしょに、地獄の絵の壁画が描かれてて……ちいさい頃は、それが怖かったんだよねえ……」



 寺の境内に入り、漆黒の光を放つ‘だいぶっつぁん’の麓に来ると、桜が「あれ?」と頓狂な声を発した。

 いつもは開いている台座の扉が、この日に限って閉まっていたのだ。


「おかしいなぁ……いつも開いてるんだけど」


 横にある覗き窓から屋内を伺う。金網の合間から黴臭い湿気が漂うが、真っ暗で中を覗うことはできなかった。

 どこか他に入口はないかと台座をぐるりと廻ってみる。首を傾げながら先を行く桜に幸生が声をかけた。


「入れないみたいだな」


「うん……」残念そうに桜が答えた。


「いいよ。開いてないなら、仕方ないさ」


「そお……だね。ごめん」


 だが、施錠された鉄扉の前では仕方なかった。

 桜は少し恨めしそうにがっちりと嵌められた南京錠を眺めた。



――幸生くんにも、この中の壁画を見せたかったのにな。



 気を取り直して桜が告げた。


「じゃ、お城のほうへ行ってみよっか」




 境内で大仏を一周し、二人は古城公園へ足を伸ばした。


 街道を歩いて少し経つと、深い緑の塊が街道を歩く二人の視界に広がった。それを指差しながら桜が解説を加えた。


「あ、あれ。あそこが、昔お城があったんだって」


 とは言うものの、城跡らしきものは外観からは判らない。

 怪訝そうなかおをする幸生に、「中に入れば、石垣みたいなのも残ってるんだよ」と、なんだか言い訳のように桜が言葉を繋ぐ。「まあ――今はただのだだっ広い公園だけど」


 百万石と謳われた加賀藩にも隣接する北陸の海上交通の要でもあったこの地方都市は、江戸の頃には相当栄えていたと想像できる。今は天守も何も消え去ったが、よく整備された園内の景観からも僅かながら当時の土地の繁栄した雰囲気が伺えるように幸生には思えた。


 萌えたつ新緑の匂いに包まれた遊歩道を並んで歩く。時折ふたりの手の甲が擦れ合い、どちらからともなく手を繋ぎあった。肌と肌の触れ合いが体温を相手に伝え、心に安らぎをもたらした。


 木々に覆われていた視野が開け、きらきらと陽の光を反射する水面がふたりの前に現れた。穏やかな初夏の風が波を辷らせる。二人乗りの足漕ぎボートが点々と水上を漂っていた。


「ねーねー、あれ乗ってみようよ」桜が幸生に提案する。


 幸生が頷くと、桜は手を引いてボート乗り場に向かった。


 水面に浮かぶボートに踏み入れたとき、ボートがゆらりと揺らぎ桜はよろめきかけた。先に乗り込んでいた幸生が桜の体を支え受け止める。


「大丈夫?」


「うん。へーき。ありがと」


 座席に落ち着くと、ふたりは並んでペダルを漕ぎ出した。ギクシャクしていた呼吸が合い始め、ボートがリズムをとって水面を走りだした。静寂の池の上で水を掻くバタバタという音だけがふたりの耳に届く。幸生も桜も互いを見合わせ、微笑んだ。


「昔っからね、こーゆうコトしてみたかったんだぁ」


 桜の呟きに対して幸生が「そぉ?」と素っ気なく答えた。


「だって、憧れたりしない? こうして恋人どうしで、ボートに乗るのって」


「うーん……」


 実際に体験してみても、幸生にはいまいちピンとこないらしい。

 たぶん、それよりも映画のことを考えてるほうが、彼にとっては楽しいことなのだろう。桜はそう解釈した。

 黙って二人の足だけがペダルを漕ぎ続ける。


 ぼんやりと水面を漂ううち、途切れた会話を繋ごうと桜が話を振った。


「明日は、一緒に映画だね。何観よっか」


「そうだなあ……」


 少し口篭ると、幸生が言葉を続けた。どうやら幸生の中でいくつか候補があるらしい。


「先週始まったやつなんだけど、ちょっと観たいのがあるんだ」


「うん、それでいーよ」


「でも……どっちかっていうとアート系の内容だし、桜にはつまらないかもしれないよ」


「だいじょぉぶだよぉ」


「かなりマイナーな映画だよ。ひょっとしたらハズレるかも」


「へーきだよ。幸生くんが選ぶ映画なら」


 桜にそれ以上反論しなかったが、自分から提案をしたのに、幸生はいまひとつ納得いきかねる表情だった。話が途切れれば、ぱちゃぱちゃと水面を蹴るフィンがリズムを刻む。


 桜がまた会話のいとぐちを探る。


「ね、幸生くんは、これまで観た映画の中で、何がいちばん好きなの?」


「んー……」暫しの沈想の後、幸生の口が開いた。「……いっぱいあってひとつを選ぶなんてできないけど……いま頭に浮かんだのは『冒険者たち』かな」


「『冒険者たち』?」


 桜はまだ観たことがなかった。「それ、どんな映画?」


「フランスの映画。アラン・ドロンが主演してる。すっっっごくいいんだ。『日本人がいちばん好きなフランス映画』なんて言うひともいるんだよ」


「ふーん」


 『すごく』に力を込めた発言が響いた。

 ふだん、幸生がそこまで断言するからには、間違いないのだろう。きっとそう。

 幸生が付け加える。


「ホラ、一緒に行った名画座があったろ? あそこで観たんだ」


「へぇー」


 流れから、一緒に名画座へ行った記憶が桜の中で蘇る。


「名画座に行ったのが、もうずっと昔みたい」


 思えば、あれが幸生とリアルに映画に行った最後だった。


「昔のポスターがいっぱいあって、おもしろかったなぁ」


「そうだね」


 あとでその映画のことを父に訊ねてみよう。桜はそう思った。



 会話が途切れるたび、桜は話題を探して思考をフル回転させた。活性化された脳が記憶をランダムに再生する。心が形成した言葉が口から漏れた。


「はじめてだね、こういうことするの」


 桜が呟き、空を仰いだ。思えば幸生とは映画ばかりで、他の想い出を積み重ねることもなかった。そうした蓄積も得ぬまま隔てられてしまったことに改めて寂しさを憶えた。

 もちろん、映画を一緒に行くことは楽しい。けれど、たとえば遊園地や、プラネタリウムや、カラオケや、こんな公園の池のボートや、美術館や、コンサートや――もっともっともっともっと、いろんな形の想い出を作りたかった。ふとそう感じた。

 久しぶりのふたりだけの邂逅に心は満ち足りた。

 はず、だった。

 少なくとも、桜はそう思っていた。幸生と再会するまでは。


 いま、会えば会うだけ、余計に寂しさが募るのは、どうしてだろう――



 以前は、ただ一緒にいられれば、満ち足りていた。なのに今日は、沈黙を畏れ会話を繋ごう繋ごうとしている。そんな自分に気づいた瞬間、桜の中で戸惑いが走った。


 同時に、ふと、秋彦とここを訪れたときには、このボートには乗らなかったのに、と桜は想起した。



 そんなことを比べる自分に、また躊躇いを感じた。





 桜の夢想をスマホの着信音が破った。


 LINEのDMの報せだった。それを音色で判断した桜は、そのままバッグの中のスマホを放置した。


「出なくて、いいの?」


 幸生が問い質したが、桜は「うん」と返辞をした。


「たぶん、クラスの友達からだし」


 たぶん、それは嘘だ。桜は自覚していた。

 こんな連休の合間にDMを送ってくるなんて、おそらくひとりしか、いない――


 幸生と一緒のときに、“彼”のことを考えるのは避けたかった。

 桜はそんな自分の胸の思いを悟られないように素知らぬ態度をしようとしていたが、かえってギクシャクした態度になってしまった。

 恋人どうしだけが感じる、ほんの微かな訝しみに幸生は囚われたが、それを桜に見せることはしなかった。

 互いに、何かを発すれば不自然を覚られてしまう。そう心で思いながら、ただ沈黙が水面みなもを漂っている。


「学校は、どう?」


 幸生が呟く。桜はまた「うん」と曖昧に流す。

 もう、LINEのトークで幾度も繰り返してきた話題を、ただリアルで再現している。当たり障りのない話で時間を繋げようとしている。


 ほんとうは、もっともっと話すことがある。そう思う。なのに会話を次に進めることが躊躇われる。言葉にすれば、すべてが壊れてしまうかもしれない予感を桜は感じていた。

 その同一の想いは、幸生の中にも棘のように刺さり、心臓をチクリと痛ませていた。幸生もまた、学校生活のことを深く語るのは見せたくない狼狽を桜に顕わにするようで避けたいと考えていた。

 時折、菜津の顔が幸生の脳裏に浮かぶ。幸生もまた自身の携帯を気にしていた。


――ちゃんと電源を切ったハズだけど、だいじょうぶだろうか――


 核心を避けぐるぐると巡る対話が、足下で回転するペダルとともに迷走をする。

 それは互いの思考を映しだしているようだった。



 幸生が腕時計を眺め、桜に声をかけた。


「そろそろ、ボートを返す時間だね。戻ろっか」


    *   *   *


 ボートから降りると、幸生は「ごめん、ちょっと待ってて」と告げ、近くの厠に入っていった。

 幸生の姿がトイレの入口に消えたのを確認すると、近くのベンチに腰を下ろした桜は慌ててバッグを弄り、スマホの画面を確認した。


 DMは予想通り秋彦からだった。

 着信だけを確認すると、桜は内容を読まずに急いでアプリを閉じ、慎重にサイレントモードに切り替えた。


 胸がドキドキと高鳴る。幸生が戻ってくるまでに、心が落ち着いて欲しかった。






 公衆トイレに入った幸生は、洗面台に向かうとすぐにジャケットから自分のスマホを取り出した。

 桜のスマホが鳴ったのを見て、自分のスマホが心配になった。

 ちゃんと、電源を切っていただろうか。何度もボタンを押し、画面が起動しないことを確かめポケットに仕舞い、桜の許へ戻った。


 ベンチに座って待っていた桜が、戻ってくる幸生に笑顔を返した。


「ちょっと寒くなってきたね。うちに、戻ろっか」


 GW半ばを迎えたとはいえ、ここ日本海側はまだ気温が低い。傾きかけた陽はこの一日の役割を終え大地の熱を冷ましつつあった。

 桜の言に幸生も同意し、頷いた。



    *   *   *



 市電を使い桜のマンションに戻ると、絵笑子も泰秀も姿が見えなかった。

 桜が改めてスマホを開く。絵笑子からのDMが届いていた。消音モードにしていたため気付かなかった。


“泰秀さんと食事に出るから、桜ちゃんは幸生くんとどっかでお食事してきてね”


 との伝言。


“私たちは帰りが遅くなるから、幸生くんとふたりでゆっくりしてね。テーブルに食事代のカンパ置いておくね”


 追伸に続いて記されていたように、ダイニングの食卓には軍資金として5千円が置かれていた。


「どうしよっか……」


 5千円札を拾い上げ、悪戯っぽく幸生にひらひらと示しながら、桜が問いかける。

 外は夕暮れに覆われ始めたとはいえ、まだ食事する時間には早い。

 思案していたとき、桜が何かを思いつき、


「そうだ、ちょっとここで待っててくれる?」


 と幸生に告げるといそいそと自室に入っていった。


 暫くして閉じたドアの向こうで「もーいいよ」と桜の声が届いた。

 幸生が桜の部屋のドアノブを回す。

 部屋の真ん中、オレンジに透けたカーテンを背景に、桜が見慣れぬ制服を着ていた。

 小豆色のセーラーブレザー。モスグリーンの地にチェックの入ったプリーツスカート。

 一年の三学期で転校したので、桜は三月までは以前の制服のままで登校したのだが、新学期に合わせ新調してもらった。まだまだひと月も着ていない新品だった。


「こっちの制服なの。どぉ?」


「あ……かわいいと、思う」


 お世辞ではなく本心だった。以前の高校のものよりも似合って見えた。


「ずっとずっとね、幸生くんに見て欲しかったんだ」


 そう言うと、桜はモデルのようにひらりと体を回した。プリーツがふわりと広がり、一瞬、太腿を覗かせた。

 一回転した桜の顔が正面を向く。幸生の瞳と桜の瞳が交差する。自然とそのまま互いに体を近づけていく。橙の光線が瞳を透き通らせる。その水晶の透過を見つめ合いながら、永く数百キロ隔てていたふたりの距離がようやくゼロになった。


 ひさしぶりの、くちづけだった。



 そのままベッドにふたりで横臥わる。見つめ合い、掌が互いの顔を愛撫する。

 マジック・アワーのカーテンが桜と幸生を覆い包んでいく。


 短い間、安らぎの時間が訪れた。




 桜の話では、自分に与えられた部屋を「まだぜんぜん片付いてないの」と言っていたが、幸生が想像していた以上に整理は行き届いており、思わず「ぜんぜん綺麗じゃない」と感嘆の言葉が出た。

 たしかにまだ壁際には元々の父の趣味の部屋だった品々が転がってはいたが、それもそれなりに積み方も整頓が進んでいるようにみえた。


「やだなぁ、ホントまだちらかりっぱなしなんだってぇ」


 謙遜なのか、そう照れる桜がなんだか可愛かった。


 ベットでシーツに包まれながら、幸生は桜の頬にキスをした。


「そうだ」と桜が言うと、シーツから這い出し、おもむろに壁のCDの山に積まれた上から1枚のケースを取り、デッキにディスクをかけ始めた。

 薄暗闇のカーテンを背景に透ける桜の肢体が幸生の目に捉えられる。胸の膨らみ。締まった腰。張りのある臀部。デッキを操作するため屈んだ仕草とともに下がった乳房がなまめかしさを増す。


 ベッドに戻り幸生の待つシーツに潜り込むと同時に、天井際のスピーカーからメロディが流れ始めた。


「これ……」


 聴き憶えのある旋律に幸生が呟く。


「うん。お母さんのときに、お父さんが持ってきてかけたあの曲。あれ以来なんだか気に入っちゃって、たまに聴いてるの」


 『シェルブールの雨傘』の楽曲だった。

 桜も、幸生もまだ本編は観たことがない。


「いつか、約束したよね……」桜が呟く。


「うん」と幸生が返辞をする。


 それ以上を言わなくても、ふたりには充分だった。

 この時間は、互いを信頼できる。このひとときを大切にしたい。

 そう桜も幸生も想った。



 ふいに桜の腹部がぐぅと鳴り、桜が「きゃ」と言って恥ずかしがると、幸生は笑みを返しながら桜のお腹をさすった。

 桜も微笑みを返し、告げた。


「おなか、へっちゃったね。どっか食べに行こうか」


 幸生も頷くと、ふたりは揃って起き上がり服を着始めた。



    *   *   *



 マンションを出て桜と一緒に食事をし、幸生が宿へ入ったのはチェックイン期限ギリギリの午後10時近くだった。


 部屋に入ると、すぐにスマホの電源をONにする。

 DMが7通届いていた。すべて菜津からのものだった。

 スマホの電源をOFFにしていたのは正解だと思った。


 備え付けのベッドに腰をかけ、メッセージをチェックする。画面に収まらないほど長々と書かれた文章が2件。“あぃたぃよぅ”が2件。“さびしぃ”が3件。


 しばらく幸生はスマホを己の額に着け、ふう、とひと息吐くと、天を仰ぎ、改めてスマホに向かい返信を書き始めた。

 とはいえ、何をどう記せばいいのだろう。


 そう思っているうちに菜津から追加のDMが届いた。たぶん幸生がアプリを開いたことで『既読』になり、それに気づいてすぐに送ったのだろう。溜息が出た。


“いままでどこ行ってたんですぅ? へんし゛くれなくてさみしかったですぅ”


 その後も次々にレスが追加される。

 ともかくも何か返信しないと、この連射は収まらないだろう。慌てて幸生は“ごめん”とだけまず打ち送信した。


 ようやく会話として成り立ち始めたレスに、疲れた頭をフル稼働させ幸生は返答をしていった。 



 菜津とのやりとりは、日を跨ぎ、深夜まで続いた。



    *   *   *



 市電の停留所で幸生を見送った後、桜は車両が見えなくなるとすぐにスマホを取り出し、アプリを開きLINEを確かめた。


 秋彦からのDMは、連休が明けたらいつ会えるのか、という確認だった。

 付随して“できれば、明日いっしょに映画に行かない?”との文言が添えられていた。“ちょっとマニア向けだけど、観たいのがあるんだ”と続く次には、明日幸生と観に行く予定の作品名が記されていた。


 秋彦が行く映画館は、あのシネコンに決まっている。ということは、明日あのシネコンへ幸生と行けば、秋彦と鉢合わせないとも限らない。


 桜は焦ってしまった。

 何か方策はないか。もうひとつのシネコンへ予定を変えようか。


 だが、映画館のサイトを開いてみると、あちらでは今日一緒に観ようと予定していた作品は上映していないのが判った。

 代替案はもろくも崩れてしまった。


 考えても考えても、回避策は浮かばない。


 万事休す。


 桜に残されたのは、秋彦と鉢合わせをしないないよう祈ることだけだった。



    *   *   *



 翌朝。

 幸生は寝不足のまま床から這い出した。


 菜津とのDMのやりとりは結局空が白む頃まで断続的に続き、寝入ったところでまた返信があり……の連続で睡眠を充分にとれなかった。

 そのくせ戻ってくる内容は“さみしぃ”だの“はやくあいたい”だの“もう寝た?”だのどうでもいいことばかりで、相手をする幸生自身も疲弊してしまった。

“会ってないと しんぢゃう”とも書かれてきたが、死んでしまいそうなのはこっちだ、と幸生は独りちた。


 スマホがようやく沈黙した頃にはもう外で鳥が夜明けの囀りを始めていた。


 菜津が自分への依存を強めていることを幸生は覚っていた。

 こんな状態では、これから菜津は四六時中幸生にべったりだろう。GW明けの学校生活が思いやられた。

 溜息の後、気を取り直して幸生は顔を洗い身支度を始めた。


 きょうは、桜と映画の予定だ。待ち合わせはシネコンのロビー。

 時間は余裕がある。



    *   *   *




“ゴメンなさい 明日は友だちと会う予定があって

 だから 映画はまたの機会に


 誘ってくれて ありがとうございます”


 深夜のうちにともかくも桜は秋彦に映画の誘いに断りを入れ、送信した。


 ややあって返信が届く着信音がスマホを震わせた。


“そっかぁ、ざんねん。

 じゃあ、てきとうな時間に一人で観に行くかな”


 いつの回に行くのか、とか具体的なことは含まれていなかった。

 「明日は行かない」とも書かれていない。ということは、やはり秋彦は明日シネコンに現れる。件の映画は次の金曜までで上映終了だ。別の日に繰り越す可能性も薄いだろう。


 今更「何時くらいに行くんですか?」と探りを入れては、かえって変に疑われるかもしれない。

 桜は秋彦に問い詰めるのは諦めた。


 ともかくも、明日は秋彦の姿を見かけないか、細心の注意を払わなければならない。

 桜は腹を括った。



    *   *   *



 幸生とひさびさの映画デートだというのに、桜は朝から気が気でなかった。

 目覚めてからも、テーブルでトーストと紅茶を摂っているときも、洗面所で歯を磨いているときも、常に気がかりは石のように体の芯につかえていた。

 玄関を出るときも、胸騒ぎがして落ち着かない。


「いってきます」


 遅めの朝食をとっている泰秀と絵笑子に声をかけ、桜は家を後にした。


 市電を使いターミナル駅で乗り換え、シネコンのある駅へ向かう。

 電車の中で吊り革を掴みながら、桜はスマホを操作しアプリを確認する。

 LINEのトークページには幸生が宿を出てシネコンへ向かっている通知が記されている。秋彦からは何も来ていない。


 少しだけホッとする。


 前の席がちょうど空いたので、桜はそこに座り、気持ちを落ち着けようと車窓を開けた。

 春の暖かな空気が車内にそよぎ込み、吊り広告を舞わせる。

 入り込む風に乗って桜のつけている「ミツコ」の香りも車内を踊った。



    *   *   *



 昨夕、桜と申し合わせたとおり、幸生はシネコンのロビーで桜を待った。

 桜に“到着したよ ロビーで待ってる”とメッセージを入れると、幸生はロビーのベンチに腰を下ろした。


 黒で統一された装飾。暗めの紺の間接照明。同系列の劇場らしく、デザインの基調は幸生がよく行く地元のシネコンと同じだった。一瞬、自分が地元にいるのかという錯覚も覚えた。


 今日は先にチケットを買う必要はない。幸生は桜が来るまで待つことにした。


 ほどなく「待った?」と言いながら桜が現れ、早足で駆け寄ってきた。

 近づくやいなや、幸生の腕を掴み


「さ、さ、はやくはやくっ。席取ろ席」


 と、急かし幸生をベンチから立ち上がらせた。


「そんなに慌てなくても、まだかなり時間があるよ」


 と幸生は桜を落ち着かせようとしたが、桜は


「ゴールデンウィークなんだし混むじゃないっ。早く席取らないといいトコなくなっちゃうヨ」


 と幸生を急き立て、なかなか腰を上げない幸生を残してまだ混雑もしていないチケットカウンターに行き先にカウンター前に立った。

 幸生も黙って従うしかなかった。


 席は2割ほど埋まっていたが、ほぼ希望の場所を取ることができた。


 カウンターの上部には混雑状況が表示されている。ぽつぽつと『満席』という赤の表示が目立ってきていた。これからふたりで観る作品・上映回はまだ『残席僅か』さえも掲示されておらず、青文字の『余裕あり』が点灯している。

 それを眺めて幸生が桜に言った。


「やっぱり、かなりマイナーな作品だもんな。他のヒット作はもう埋まってるのが多いけど」


 が、桜は余所見をしながら「え? う・うん――そだね」と生返辞をするだけだった。その態度に幸生はなんとなく違和を感じた。


 入場開始まであと30分はある。ふたりはロビーのベンチに腰を下ろした。


 時間と共に、ロビーには徐々に人が増え始めた。それに伴って桜が辺りに目を配り続ける。玄関からロビーに人が入ってくるたびにいちいち目を向け確認する。

 そんな桜の姿に幸生は疑念を抱き、問い質してみた。


「さっきから、どうしたの?」


「えっ?? な・なにが?」


「なんか、キョロキョロして――誰かを探してるみたい」


 問い詰められた焦りを覚られまいと桜は早口で


「あ・あぁ~。学校の友達が、ひょっとしたら来てたりしてないかなァ……とか思っちゃって」


 と、言葉を濁した。「幸生くんとふたりでいるトコ、見っかったら、なんか……」


「いいじゃん。そんなの気にすんなよ」幸生が諭す。


「……そだね。ゴメン」


 そう言って桜は舌をペロリと出してみせた。


 桜は幸生から顔を逸らすと、首こそあまり目立たず動かさないようになったが、眼は必死で周囲を注視し続けた。




『たいへんお待たせをいたしました。ただいまから、……』


 観賞する上映回の入場を促すアナウンスがロビーに流れると、その終わりを待たずにそそくさとベンチを立ち上がり「さ、入ろっか」と幸生を腕を掴み入口へ引っ張っていった。


「お、おい――」


 幸生は桜に引き摺られながら、ただ呆気にとられるだけだった。


 フロアに入り指定した隣同士の席に座った瞬間、幸生はこれまでとは違った香りが、ふわり、と鼻腔をくすぐるのに気付いた。

 桜の体から放たれた「ミツコ」の匂いだった。


「あれ――」


 思わず声を上げた幸生と桜が目を合わせ「なぁに? どしたの?」と問い返す。

 戸惑いながら幸生が言い返した。


「いや――なんでもない」


「ヘンなのォ」


 と返す桜に、幸生は



――ヘンなのはお前だろ。



 と心で思った。



 上映中も、桜が身を動かすたびに、「ミツコ」の芳香が幸生の嗅覚を刺激した。そのたびに幸生は映画の世界から客席に座る自分自身に引き戻された。隣の桜の存在を意識させられた。


 幸生は、いつも石鹸やシャンプーの匂いをさせていた桜が好きだった。

 なのに、どうしたのだろう。

 べつに匂いなんて変わったところで、何も違わないはずなのに。


 昨日から漠然と感じていた違和が、映画の120分余の尺の間に幸生の中で顕わとなりつつあった。



    *   *   *



 上映が終わると桜は「ちょっとお手洗い」と幸生に言い残しそそくさとフロアを後にしてしまった。


「ロビーで待っててね」


 そそくさと女子トイレに飛び込むと、桜はバッグからスマホを取り出し隙かさず電源をONにした。


 何も新着のメッセージはない。


――よかった。


 桜は胸を撫で下ろすと、個室のドアを押した。





 告げられたままにひとりロビーに出た幸生は、時間を持て余すと公開作グッズの並ぶ売店のコーナーへ立ち寄った。何とはなしに陳列棚を眺め渡る中、このシネコンのオリジナルグッズの一角に目が留まった。

 青と赤の二種のキャラクターのキーホルダー。先日、菜津が手渡したのと同じものだった。

 ふと、あいつは今時分なにをしているのだろうか、と考えがよぎった。


 売店を離れ、ひと渡り見回しベンチに空きがないのを知り、仕方なくぽつねんと立ったまま桜を待つことにした。

 桜の姿がまだ見えないのを確認し、ポケットから取り出したスマホの電源を入れた。

 画面にはLINEの着信があったことが表示されている。


“菜津さんからのメッセージが4件あります”とも。


 アプリを開いて確かめることもせず、幸生はふたたび端末をシャットダウンした。


 スマホを仕舞いかけたとき、「お待たせ」と言いながら桜が合流した。スマホをいじっていたことを訝しがられると思ったが、桜は間髪入れずに幸生の腕を掴み、

「じゃ、行こっか」とすぐに劇場から連れ出した。


「おいっ……なんか、慌ただしいな」


「だからぁ~、ガッコの顔見知りに見られたら面倒なのぉ」


 そう言うとずんずんと幸生を引き摺っていく。


 シネコンから表へと出て、繁華街に踏み入れたとき、幸生はようやく桜に声をかけた。


「――で、これからどうするんだよ」


 幸生の問いかけに桜は「んーとねぇ……」と曖昧に返辞をした。

 桜自身も、行動を決めているわけではなかった。

 ただ、一刻も早くここから移動したかった。


 秋彦と鉢合わせしないために。



 大型連休の混んだ雑踏の中心で、桜はぐるりと繁華街の看板を見回すと、考えを纏めたかのように幸生に幸生に向き直り、告げた。


「そうだっ。カラオケいこっ。カ・ラ・オ・ケ」


「は???」




 桜に人混みの中を引き摺られながら、幸生の中では、軋みの音が響いていた。




    *   *   *



 桜に腕を掴まれたまま、幸生はカラオケ店へと連れ込まれた。

 密室に引っ込んでしまえば、ひと安心だ。ここなら秋彦と鉢合わせることもない。よしんば秋彦が々映画を観に来るにせよ、次回の上映回は夜だ。それまでにこの場を離れればいい。

 桜の策略だった。


「なんで、カラオケ……?」


 戸惑う幸生に桜が答える。


「だってぇー、あたしたち、いっつも映画ばっかで、それ以外の場所でデートなんてぜぇんっっぜんしたことないよネ?? ね? ね? 

――だからぁー、きょうはあたしがずぅ~~~~~っとしてみたかったコトすんのっ」


 桜はいかにもな理屈で幸生をやり込めた。幸生ももうそれ以上追及することはなかったので、桜は安心した。

 幸生の中ではまだしっくりとはしていなかったが、桜の為すがままにした。


 言い了えると、桜は卓にあったリモコンをポチポチと操作し出し、曲を選択した。狙ってそうしたのか偶然か、モニタ画面にはデュエット曲が表示されスピーカーから前奏が流れだした。


「さ、歌お」


 と言って、桜は幸生にマイクを差し出した。幸生も成り行き上受けるしかなかった。



 3時間、カラオケで潰した。


 桜に付き合いながら幸生の中では「これならこの時間もう1本観れたのにな」との思いが掠めていった。


 幸生がマイクを握っている最中、桜はバッグからスマホを取り出し、さりげなくアプリを開いてみた。

 LINEには、秋彦からと、絵笑子からの新着メッセージが示されていた。


 なんだろう? と思い絵笑子のトーク画面を開いてみる。


『夕飯は、幸生くんも一緒におうちで食べなさいね』とのメッセージが入っていた。『ごちそうするわ』


 ちょうど歌い終わった幸生に絵笑子からの誘いを告げると、幸生は


「でも、悪いよ」


 と遠慮の言葉を返した。


「だいじょうぶよぉ。それに、メッセ送ってくるってことは、絵笑子さんもう準備始めてると思うよ」


 そう言われてしまうと、幸生も断るわけにはいかない。


「じゃ、OKって送っとくね」


 桜は画面をフリックし絵笑子に返信しようとしたが、ふと思い直し、その前に、幸生に覚られないよう、何気ないふりをして秋彦のトーク画面を開いた。

 秋彦からは“これから映画を観にシネコンへ行こうと思ってるんだけど”との報告が入っていた。


“もし、気が変わってたら 一緒に観ない?”


 秋彦と行き違いになったことにホッとすると同時に、更なる映画への誘いに、桜の心が揺らいだ。


 思わず顔を上げた瞬間、幸生と瞳が合った。


「ん?」という表情を返す幸生に、桜は作り笑いを浮かべ応え、スマホの画面を消した。


「どしたの?」


 んやりとしている桜に幸生が声をかけた。


「えっっ」


「さっきから、なんか――ホラ、桜の番」


 幸生がリモコンを渡す。

 手渡しながら、幸生が問いかけた。


「どうだった?」


「え?」


「だから、さっきの映画」


 一瞬、何のことなのか判らず狐につままれた桜だったが、幸生の追言にようやく理解をした。が、感想を求められても桜は「えっとぉ……」と苦笑いするしかなかった。


 やたらと難解な内容もあり、秋彦のこともあり気が気でなかった桜には映画の内容はぜんぜん頭に入ってこなかった。


「まあ、ハリウッド映画みたいに解りやすい内容でもなかったしな」


「ハハハ」


 桜は気の抜けた笑いで返した。

 幸生も桜の戸惑いを察してくれたか、これ以上感想を求めることはしなかった。



 だがそれよりも気になっていたのは、さっきの秋彦からのメッセージだ。

 秋彦の足取りが判り、鉢合わせる心配は減じたが、安心がかえって思慕を募らせた。

 すぐ近くにいる、ということを感じると、尚更気持ちが惹かれた。


 会いたい。そう心が訴える。


 幸生の歌う順番の間、桜は胸につかえができたように浮かない顔を続けた。


 ふいに自分でも予測の外の考えが頭の中で構成され、それが次第に願望へと膨らんでいく。言葉にしたらどうなってしまうのか。そんなことは考えに至らなかった。

 桜は、卓の上に並べられているピザやフライドポテトの欠片の残る皿を眺めながら、ぽつりと呟いた。


「あの、さ……けっこういっぱい食べちゃってるから、お腹、あんまり、減らないよ、ね……」


「えっ」


 1曲歌い終えたところで桜に言葉をかけられた幸生は、ついさっきまでとは180度違う桜の翻意に戸惑いを覚えた。


「え、と……やっぱり、うちのお父さんや絵笑子さんと食事するの、窮屈、かな……と思って、さ」


「どしたの急に」どう応えていいのか窮しながら幸生が続ける。「疲れちゃった?」


「ううん、そうじゃないんだけどぉ……なんか、幸生くんもあんまり気乗りしてないみたいだし……」


「うーん……それはまぁ、事実だけど……」


 桜のほうから言い出したことなのにな、と幸生は訝ったが、口には出さずに桜を見詰めた。

 たしかに両親(厳密には保護者と言うべきかもしれないが)を前に恋人と席を並べるのは、肩身が狭い。特に男子にとって。

 いくら父親と絵笑子さんが理解のある人柄だとは云え、相手も緊張してしまうだろう。

 幸生は想像しただけで息が詰まりそうになった。


 だが、じっさい気乗りしていないのは、桜のほうなのは明らかだった。

 幸生にはその理由は知るべくもなかったが。


 ふたりが黙って時間を過ごすうち、カラオケルームに周りの部屋の喧騒が流れてくる。

 数分の間が過ぎた後、幸生が助け舟を出した。


「とりあえず、ここを出るときにまた考えよっか」


「うん」


 桜がこくりと頷く。ひと呼吸置いてリモコンを手にとると、ぱちぱちと釦を押しはじめた。


 だが、口に出してしまった以上、桜の心は更に大きく傾いてしまっていた。



 よしんば今日これから秋彦と会う時間がとれなくても、明日、昼には幸生は帰路に着く。

 それなら、明日会えばいい。


 だが――


 桜の心は、明日まで待つのが耐えられなくなっていた。




 カラオケ屋のサービス料金の時間を使い果たし、桜と幸生は店を後にすることにした。

 夕刻にさしかかったとはいえ、皐月の空はまだまだ陽も明るい。昼とは変わりやや涼しくなった風だけが、時の経過を感じさせた。


 狭い空間から外に出たことで体が緩むのを求めたのか、桜が両腕を上に「んーっ」と大きく伸びをした。


 空を見上げる。どこかからか飛来した、飛行機の航跡の雲が青のキャンバスをまっすぐに切り裂いている。


「どうする? これから」


 桜が呟く。

 幸生への問いかけというよりも、己に向けて決断を迫っているようだった。


 幸生は察していた。

 桜の一言は、暗に「きょうはもうここでお終いにしよっか」と告げているのを感じた。


 桜の気持ちが翻ったのは、明らかだった。

 桜は幸生からの一手を待っている。それを覚った。


「まあ――昨日今日で、あちこち行ってるし、きょうは少し宿で休むかな」


 先に駒を進めてやったのは、幸生のほうだった。

 なぜかは解らない。けれど、桜がいまは幸生から離れたがっているのは感じる。

 幸生は、それ以上追及することはせず、桜の意に従うことを選んだ。


 どちらにせよ、また明日会うのだから。


「桜も、疲れちゃっただろ」


「うん……ごめんネ」


 流れが決まった。きょうはここでお開きだ。


「じゃあ、駅まで一緒に行こうか」


 と幸生が促すと、桜は躊躇いをみせ次の句を告げた。


「あ~~、あたし、ちょっと買い物思い出しちゃった。だから、幸生くん先に駅行っちゃっていいよ」


「え、でも……いいよ、それならそれくらいつきあっても」


 提言した幸生に被せるように桜が返す。


「あっ、いーのいーの、あたし買い物に時間がかかるしぃ。それに幸生くんも、旅先だし疲れちゃってるでしょ? 明日も会うし、きょうは宿で休んでよ」


「でも」


 一瞬、瞳を踊らせ、視線を逸らして桜が続けた。


「肌、着……」


「え?」


「おんなのこの、肌着の店に行きたいの。そんなトコ幸生くんに付いてきてもらうのも……ね」


 幸生がそれを聞き顔を赤らめた。


「あ……わ・わかった」


「ゴメンネ」


 こんなやりとりを交わし、ふたりの本日のデートはお開きとなった。

 繁華街の路上で、幸生は駅へ、桜はその反対方向へと足を向けた。


「じゃ、また明日ね」「ああ」


 幸生の後ろ姿を見送り、姿が雑踏に見えなくなると、桜は踵を返しつつスマホを取り出し急いで秋彦のトーク画面を呼び出した。


 アプリが開く時間がもどかしく感じる。



 まだ、だいじょうぶだろうか。


 画面が開くと、急いで指をフリックし、桜はすぐに秋彦にメッセージを送った。



 さっきまで、あんなに遭遇してしまうことを畏れていたのに、

 今は、会いたくて仕方なくなっていた。



 さっきまで直線を描いていた飛行機雲が、風に流され蛇行し、空の藍に滲み消え始めていた。

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