#7 夢の香り
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【セント・オブ・ウーマン/夢の香り】
1992年 アメリカ映画
監督:マーティン・ブレスト 出演:アル・パチーノ クリス・オドネル ジェームズ・レブホーン
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◎
“桜ちゃんに相談したいことがあるんだけど、こんどの土曜か日曜、会えないかな?”
授業中、スマホの電源をオフにしている間に、秋彦からのDMがLINEに届いていた。
昼放課になって着信を知った桜は、すぐさま廊下へ飛び出し、誰にも覗き見されないよう窓を背にして改めて画面を眺めメッセージ内容を吟味した。
GW目前の、最後の週末。今のところ幸生からの映画の誘いはない。
――なら、だいじょうぶかな。幸生くんとは連休のときに会うことになってるし。
むしろ、そうなっている以上、映画館で幸生と“デート”するスケジュールも組まれることもない。幸生と映画を観るなら、GW。会えるときに集約させればいい。
一寸悩んだ末、桜は指を辷らせ返信をフリックした。
“うん いいよ
土曜にしません?”
“じゃあ土曜。古城公園にしようか”
“うん”
前に会ったときに「どこに住んでんの? 学校は?」みたいな話題があり、城跡や大仏の近く、と答えていた。それを憶えててくれてたのだろう。繁華街のように賑わっている場所ではないが、ちょっとしたお休み処や小さなカフェくらいなら点在している。桜にとっても散歩コースだ。
秋彦から追伸が来る。
“じゃ、大手口のほうでどうかな。銅像の前。もし雨だったときは、博物館があるから、そこ入ったとこで”
“りょーかい”
文末にハートマークを付けて桜は送信した。
あ、と思い出して追加のメッセを打つ。
“じゃ 午後の授業はじまるから、またネ”
メッセージのやり取りにひと区切りがついて、桜は振り返り窓の外を見上げた。
暖かな風が上空の雲をゆっくりと漂わせている。
穏やかな日本海側の季節も、雪を溶かし、春も通り過ぎようとしている。夏の気配が市内に訪れ始めていた。
午後の授業が始まり、桜は先生の講義を聞き流しながら秋彦のことを思っていた。
わざわざ畏まって『相談がある』と告げてきた理由は何なのだろう。
土曜日。
外出着に着替えると、桜は香水をつけた。母の遺品にあった「ミツコ」だった。桜にとっては“よそ行きの母の香り”。
たいがい、この香りのときには、母はちょっとおめかしで家を後にしたものだ。そんなことが、ふと香りとともに桜の記憶を呼び覚ました。
そんな母の華やいだ残像とも重なり、桜も好きな香りだった。
初めてつける香水。幾つかの母の持ち物の中で、この日、桜はこれを無自覚に選んでいた。
部屋を出たところで、玄関の廊下で絵笑子から「あら、きょうはお出かけ?」と声をかけられた。
「うん」
「ひょっとして、デートかな~」
訳知り顔でニコニコとしている絵笑子に見送られ、桜は笑みとともに「いってきまーす」と返辞をしたが、質問に対しては返答をしなかった。
廊下には桜の纏った「ミツコ」の残り香が漂っていた。
* * *
運よく雨は降らなかった。
雨が降れば降ったで、湿度が匂いを包み、この香水の薫りもいっそう際立ってくる。そう思えば、桜は「雨でも良かったかもな」とちょっとだけ気持ちを傾けた。
いつもそうしているように、“だいぶっつぁん”を瓦屋根の向こうに見ながら寺の脇の塀に添って歩き、古城公園へと辿り着いた。桜の家からは徒歩でも20分ほどで到着するのだが、秋彦がどの経路でやって来るのかは判らなかった。
とりあえず、歩幅を調整しながら、桜は待ち合わせの大手口へと向かった。
うまく歩く速度をコントロールできたのか、ほぼ時間ぴったりに桜の脚は大手口の地面を踏んだ。
城跡の敷地に踏み込む。舗装された市道から表情が一変し、土の表面がそのまま剥き出しになっている。小道は木樹が覆い被さり、古城公園は森のような印象を桜に与えた。
公園に入ってすぐに、目に侍の姿の像が飛び込んできた。
小さめの銅像。目立つわけではないが、ただこの場所には他に何もないので
こんなトコで待ち合わせなんて、不思議な人だな、となんとなく桜は思った。
こんな場所、誰も待ち合わせに使ったりしないだろう……
公園に散歩に来た近所の老人たちが、通りすがりに桜をじろじろと眺めていく。
殺風景な場所に、外出着の桜はいかにも浮いて見えた。
通りに出て、やや遠い所まで眺め廻してみたが、秋彦らしき姿は見つけることはできなかった。
こんな場所で立ち竦んで待っていると、また通行人に晒しもの扱いだ。せめてどこか座れる場所はないだろうか。桜は見廻した。
銅像の向かい、細道を入ってすぐのところにベンチがある。安堵して桜はそこに座り、まずは時間を見ようとスマホを開いてみた。
待ち合わせ時刻から既に7分過ぎている。続けてアイコンを指で押し、LINEアプリを開く。
秋彦から何か連絡が来ていないかと思ったが、DMは送られて来てはいなかった。
「遅れるなら、メッセくらいくれればいいのに……」
桜は愚痴を呟きながら秋彦のページを閉じた。『友だち一覧』のページに戻る。
LINEの一覧には秋彦と並んで幸生のアカウントが並んでいる。なんとなく目が留まったが、幸生からの着信もなかった。
思えば、ここ2、3日、互いに連絡をしていない。
以前は毎日メッセージをやり取りし、3日と明けずに通話で声を聞いていたのに。
そういうもんなのだろうか。桜は頭の片隅で思った。
桜はもう一度秋彦のページを開くと、メッセージを書き込んだ。
“とうちゃくしてます 銅像のすぐ前のベンチに座ってます”
ほどなく、やや息を上げながら秋彦が現れた。
「メッセ確認したんだけど、来るほうが早いと思ったから。返信しなくてゴメン」
そう言い訳をすると、小走りで来たのか、うっすらと額に浮いた汗を手の甲で拭った。
「ううん」首を振りながら桜が微笑を返す。
「じゃ、行こうか」「うん」
同意はしたが、「どこへ?」とふと思った。
改めて問う暇もなく、秋彦はずんずんと公園の中へと進む。桜は付いていくしかなかった。少し歩を早め、秋彦と並ぶ。
肩を並べ歩き始めてすぐに、秋彦から「きょうは香水をつけてるんだね」と言われた。
「うん。初めてつけてみた」
「素敵な香りだね」
気づいてくれたことが、桜にはちょっと嬉しかった。
「あのぉ……どこに行くんです?」
黙々とただひたすら歩く秋彦に桜もさすがに気がかりになりだし、質問をした。
「少し、中を回ってみない?」
秋彦はそれしか返さない。提案に仕方なく桜は「うん」と頷いた。
城跡を巡る。秋彦は初めて訪れたらしい。かつてここに在った城のことは桜のほうがよく識っていた。
「へえー、けっこう物識りなんだね、桜ちゃんて」
「そんな――父がこの辺の出身で、いまは地元に還ってるんです」
桜自身の家庭の事情や、複雑な都合については説明を避けた。
伸びた枝が頭上を覆い、木漏れ日が穏やかに桜と秋彦を照らす。
新緑の青葉が瑞々しい気を放つ。木樹の匂いが心地良かった。
園内には、まだ花を残している桜の樹もちらほらと見受けられた。
だが樹木の間を駆け抜ける風は湿気を帯び、夏の靴音が確かに聞こえていた。
遊歩道は濠の脇道に出た。水の上を二人乗りの足漕ぎボートが点々と浮かんでいる。
この公園の賑わいのデートスポットのようだ。昼近くになり、週末なのでふだんよりも人も増えてきている。
「ボート、乗ってみる?」
ちょっとだけ考えてから桜が返辞をした。
「きょうは、いいや」
小一時間ほど園内を散策した後、秋彦が「喉も乾いたよね? どっかで食事しながらひと休みしよっか」と言った。
ちょうど昼時だ。公園の入口から少し出たところに小さなカフェがある。ふたりはそこに入り休んだ。ランチタイムだったが、早めに店内に入ったせいかまだ席は空いていたが、桜たちが注文を頼む頃にはもう満席に近くなっていた。
オーダーを済ませると、秋彦は
「じゃあ、改めて本題なんだけど……」
そう言うと、鞄の中からクリアファイルに挟まれた紙束を取り出し、テーブルにどさりと置いた。
「――きょうは、新しいお願いがあるんだ……
じつは、ね――前回話そうと思ってて、できなかったことがあって――きょうは、それをキチンと相談したいな、と思って……」
この日呼び出された本来の目的は、“相談ごとがある”ということだった。
ここに来るまで一切そのことは言の葉に上らなかったが、桜もあえて問い質すことはしなかった。
桜もまた、秋彦と過ごす時間を大切にしたいスーヴェニアと感じた。むしろ、このひとときがずっと続いて欲しいとも思い始めていた。心地よい空間に包まれているような安心感。久しく感じたことのない感覚。心が満たされていた。
秋彦からようやく今日の本題が切り出されたことは、その時間が断ち切られることでもあった。
差し出されたクリアファイルから紙束を取り出してみる。
片側が2箇所バインダークリップで留められている。
何やらタイトルらしきものと、『企画書』という文字が表紙に書かれている。
「これ、は……?」
「いまウチのサークルで作ってる映画の企画書。と、シナリオ。」
ページを捲ってみる。冒頭のスタッフの欄に、『監督/元川秋彦』の文字の並びがある。
キャストの欄は配役名はあるが、空白のままだ。
映画制作についてはほぼ詳しくない桜だったが、パラパラとシナリオを捲ってみた雰囲気からすると、30~40分ほどに収まる中編のようだ。
「へぇー、ちゃんとやってるんですね」
桜が社交辞令的な相槌をする。秋彦の振ったこの話題が単なる雑談だと桜は思った。
肝心の相談事ってなんだろう。頭ではそんなことを思っていたので、耳からの情報は吟味せずにすり抜けた。
秋彦の言が続く。
「こんど、僕が初めて監督とオリジナル脚本を任されることになって、いまこの映画に出てくれる役者を探してるところなんだ」
「へえ……」
桜にはあまり興味がない話だ。
それでも、秋彦が熱心に語るので、「これは彼がすごく熱を上げて取り組んでることなんだな」と聞いてあげる風を装った。そんなことには気にも留めず、秋彦は語りを続ける。ざっとしたあらすじや、予算がどれくらいかかりそうだとか、撮影期間はどの程度の予想か、とか。桜も卓上の企画書をぱらぱらと捲り、聞く態度を保った。話が右から左へ抜けていても。
店員が会話に割り込み「お待たせしました」と告げ、注文したパスタがテーブルに並べられる。
話はいったん中断し、桜はシナリオを脇の椅子の上に置いた。「とりあえず、食べよっか」秋彦がフォークを取り桜も従う。二人は食事を始めた。
少しして、パスタをフォークに絡めながら、秋彦が話の続きを再開した。
「――“C5”って、知ってる?」
パスタを頬張りながら桜が秋彦へ顔を上げ(言葉が出せなかったので)大きく首を振る。
「あそこのシネコンで開催する学生の自主映画のコンテストなんだけど。これも、そいつに応募しようと思ってるんだ。ホラちょうど今、募集の告知が出始めたよね」
そういえば、そんなポスターが貼られてたっけ。
桜はシネコンのロビーの風景を思い出してみたが、この告知ポスターは霞がかったように朧げだった。
「ふぅーん」
桜は自分にあまり関係の無い話と思い聞き流す。
食事のほうが気を取られている。
秋彦の話が何処へ決着しようとしているのか桜には見えず、相変わらず心中では「それより、きょうの話の本題は……」というセリフがぐるぐると渦を巻いていた。
秋彦の口からまったく想定外の単語が出てきたのは、桜がすっかり油断している瞬間だった。
「でね――この映画に、桜ちゃんに出て欲しいな、って、思ってるんだけど……」
「!?」
秋彦の発言に、桜は思わず、ごふっ、と咳き込み、パスタが喉に詰まりかけた。
“自動運転モード”だった脳が一気に活性化し、それまでの秋彦の発言をドライヴレコーダーのように即時再生する。咀嚼が停まり、皿にあった視線を上げ、見開いた瞳で秋彦の顔を凝視する。
戸惑う桜に、続けて放たれた秋彦の言葉が追い打ちをかけた。
「できたら、このGWから撮影に入りたいんだけど……」
――ち・ちち ち ち ち、ちょっと待って!?
「だっっっっっダメダメダメダメだめですよォっ」
秋彦が次の句を発するよりも先にと桜は慌てて口内のパスタを噛まずに呑み下し、一気に捲し立てた。
あまりに意表を突かれ言葉がしどろもどろで
「だいたい、ああああたしなんてそんな演技なんてできないできっこないしそもそもやったこともないし」
桜の狼狽も想定内だったのか、秋彦が極めて冷静に次の駒を盤上に置く。波状的な秋彦の言葉が攻める。桜は守ることもできない。
「その辺はだいじょうぶ」
「でも」
「心配しないで」
「ムリですって絶対」
「考えてる役はほとんどしゃべらないし」
「演技がぁ」
「ほぼ無表情だし」
「だからム」
「役柄的にもセリフだって棒読みでいいんだ」
「――リだって」
「桜ちゃんは、ぜんぶ僕に任せてくれればいいから――ぜったいに、きみが必要なんだ」
ついには殺し文句だ。
なにをどう反論しようと、桜に逃げ道を作ってはくれなかった。
本音を云えば、そうして必要としてくれることは、嬉しいとさえ思えた。
けれど。
大型連休はもう来週に迫っている。あまりに急な話だ。
幸生と会う約束もある。時間は空きがない。
桜は最後の切り札を出した。
「……GWは……もう予定があって……」
秋彦のマシンガンのような口撃も、それでようやく収まった。
前のめり気味だった姿勢がどさりと背凭れに返り、溜息とともに秋彦が呟く。
「……やっぱ、そうだよね……」
がくりと肩を落とす。
はぁぁ、と時間をかけてもう一度大きな息を吐くと、秋彦がまた口を開いた。
「もっともっと、早くにきみに声かけとけばよかったなあ……」
悔やむように秋彦が呟く。桜にではなく、自分自身を責めるように。
あのときこうすればあのときこうすれば……そう
「映画館では、1月くらいから、もうきみを見つけてたのに――」
1月といえば、桜がこの地に来てまだ間もない頃だ。
そんなに早くから、自分のことを気になってくれてたのか。
桜の胸がキュンと締まった。
空になった皿が片付けられ、食後のドリンクが運ばれてきた。
桜はミルクティー、秋彦はカフェオレ。
少しの間、ふたりに会話はなく沈黙が続いた。
テーブルの静寂を破ったのは、やはり秋彦だ。
「じゃあ、夏休み。それならいい?」
ダメ押しだった。
桜は拒絶し切るわけにはいかない。先延ばしされては、断り切る方便が浮かばない。
「……」即答ができない桜だった。
食事の手も停まり、俯向く。桜の体が全身で回答を導こうと強張る。
二人の間に淀んだ空気が漂う。
已む無く秋彦が会話を打ち切りにする。
「ともかく、この話しはひとまず保留ってことで。ね?」
この一言で、いったんは桜も胸を撫で下ろしたが、解決したわけではない。
棚上げとなっただけだ、というのは桜にも理解できた。
決断の猶予は与えられたが、秋彦は桜を断念するつもりは毛頭無さそうだった。
どうすればいいだろう。返事を後回しにすれば、たぶん映画の撮影準備はどんどん進んでってしまうだろう。後になればなるほど断りにくくなる。真綿で首を絞められるようなものかもしれない。
――けれど……
ぜったいに断りきる気持ちにも、どうしてもならなかった。
それにしても、どうして秋彦はそこまで自分に拘るのだろう。
いくら考えてみても、解らなかった。
秋彦が更に追言した。
「――答えは、GWが明けてからで、いいから。じっくり考えてみて」
* * *
カフェを出て、「せっかくだから」というので古城公園内にある博物館へ行こう、と秋彦が提案した。
公園からほど近いところには、この地出身の有名な漫画家を記念したギャラリーも隣接する美術館もあるが、このカフェからはやや距離があるということでこちらを選んだ。なにしろ入場無料だ。
そんなところがいかにも貧乏学生ぽくて、桜は好感を持った。
展示を廻りながら、桜は思考を巡らせていた。
幸生と一緒にいるときの、どこか少し緊張した雰囲気とは違い、秋彦の傍らは安心感を抱かせた。
歳上だから落ち着きを感じるせいだろうか。彼のこの、飾らない気さくさなのか。
それだけではないようにも思う。
ただ、彼の近くにいて、彼の匂いを感じていると、なぜだか心が安まるように思えた。
そう。
匂いだ。
彼の匂いが、安心を抱かせる。
博物館内を散策して外に出ると、もう夕暮れが迫りつつあった。
「きみの家は、どっちのほう?」
「あ――大仏の先のほう」
「ああ、“だいぶっつぁん”だね」そう応えると秋彦はニコリとした。
地元ではあのこじんまりとした大仏を“だいぶっつぁん”と呼び親しんでいる。
他県から出てきて下宿する大学生の秋彦にとっては、物珍し気に聞こえるのかもしれない。
「じゃ、そこまでつきあうよ」と秋彦が言う。「僕はその先の停留所で、市電に乗るから」
「うん」
ふたりは並んで歩きだした。
公園を出て少し歩くと、住宅の上に黒い像の姿がにょっきりと首を出してきた。
「あれだね」秋彦が指差して桜に確認する。
「うん」と桜も頷いた。
傾きかけた夕陽を映し、光沢のある大仏がオレンジ色に変わっている。
「ついでだし、ちょっと中を見ていこうか」
「うんっ」
二人は境内に踏み入った。
日暮れ時の寺はひっそりとして、ひと気も無かった。
誰もいない大仏の胡座の下の回廊の扉はまだ開いている。
「ちょっと、入ってみたいな」
興味津津の秋彦が桜に「いっしょに入って、みる?」と訊ね、桜も同意した。
「うん、いいよ」
陽の届かない回廊は冷んやりとして、肌寒さを感じた。
桜が体を縮ませる。
「寒っ……」
秋彦が桜の肩をそっと寄せる。桜は抵抗せず受け容れた。桜の付けた「ミツコ」の香りが桜の衣服を抜けて秋彦に届いた。
桜にとっては、この回廊の壁画はもう見慣れた光景だ。
この地に来てから、何度ここを訪れたことだろう。
初めて訪問する秋彦に、桜は展示の説明をした。
「――この地獄絵図、ちぃさい頃に観たときは、怖かったんだ」
大仏の胎内を一歩一歩進むとともに桜の想い出が巡る。
だいぶっつぁん。回廊。
なぜか、幼い日のあの風景――絵笑子と遭遇したときが想起された。
あのときの、絵笑子の表情。物哀しい瞳。
それは桜の内で再構成された記憶なのかもしれない。
気付けば、ふたりの歩は停まり、回廊の途中で佇んでいた。
秋彦の思い詰めたような顔が桜の傍に見える。
「どうし――」
秋彦の態度に違和を覚え、桜が声をかけようとした刹那――
秋彦が桜の肩に置いていた掌に力が篭った。ぎゅ、という強張った感触に気付き、桜が秋彦の顔を覗き込んだ。
「もうひとつ、話したいことが、あるんだけど――」
言い了えると同時、秋彦が桜を抱き寄せた。体が触れ合い、身に付けた匂いがふわっと鼻腔に届く。「ミツコ」の香りの中に、桜と、秋彦の匂いが包まれ混ざり合う。秋彦が、背に回した手を持ち上げ、指が桜の髪の間を
「……匂い……」
「え?」
「きみの、髪の匂い……きみの隣に座ったとき、感じた……この匂いが、好きだ」
秋彦の腕の中で、桜の心は落ち着いていた。
秋彦の口がゆっくりと語りだすのを桜は感じた。顎の動作。肺から吐き出される呼気の音。秋彦の所作すべてが伝わってくるようだった。
「きょうは……もうひとつ……
訊ねても、いいかな……」
もどかしく、口籠りながら秋彦が言葉を繋いでいく。
言葉にしなくても、桜にはこれから彼が何を伝えようとしているのかが解っていた。
そう。
わかっていたのだ。もう。
秋彦が桜の背に手を添え、互いの体を引き寄せる。
桜の頬に秋彦の頬の温度が伝わってくる。産毛の擦れる感触を覚る。
桜の耳に触れるほどに秋彦が顔を添えた。秋彦の息づかいを感じる。
耳元で秋彦の唇が震え言葉を囁く。
「きみのこと、
好きになっても、いいかい……」
あまりにも、遠慮がちな告白だった。
桜は瞳を伏せた。
秋彦が続けた。
「きみの中に、いつも誰かがいるのは、判ってる。なんとなくそれは感じてる……けど、誰かがいても、構わない。僕のことを好きになってくれとは言わない。――ただ、好きでいることを、許してほしい……ただ、許していてくれれば、いいから――」
「……」
何も、言えなかった。
たぶん。
言葉に出されなくても、わかってた。
もう、知っていた。そう思う。
彼の気持ちをうすうすは感じながら、過ごす時間は嬉しく、安らいだ。
踏み込まれるのを怖れ、距離を保とうとしてはいた。
けれど、その距離が、もう5センチから3センチへ、気づけば数ミリしか残っていなくなっていた。
ずっとずっとずっとずっと、自分をそっと見続け、見守っていてくれたことを知ったとき、心がくすぐったくなった。
嬉しくて仕方がなかった。
それが本当の気持ちだ。
秋彦の顔が桜の頬を伝い、鼻と鼻が擦れ合った。桜は抵抗しない。
そのまま向かい合う。顔が近づく。互いの息が相手にかかる。
唇がそっと、優しく触れ合う。
触れ合う瞬間、桜のほうから唇を寄せていったことに、桜自身も無自覚だった。
桜の心に、3日前カフェで聴いた「ポル・ウナ・カベーサ」の力強くも物哀しい旋律が浮かび流れた。
口づけを了え、瞳を開く。
秋彦の瞳の中に桜の自身の姿が映っていた。
秋彦からの恋愛の告白。
それに対して「ごめんなさい」と言うべきか、「ありがとう」と言うべきなのか、
もう、桜には答えが出せなかった。
ただ、
寂しかった。
ずっと。
心の隅で、微かな叫びが聞こえた。
――そんなに想ってくれているのなら、
奪えば、いいのに。
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