#6 右側に気をつけろ
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【右側に気をつけろ】
1987年 フランス/スイス映画
監督:ジャン=リュック・ゴダール 出演:ジャン=リュック・ゴダール ジャック・ヴィルレ フランソワ・ペリエ
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◎
劇場の壁に掲示された“COMING SOON”と付いたポスターの中に、見かけぬ『作品募集』という文字のプリントされた一枚が紛れ込んでいる。桜の視線はポスターを順繰りに追っていたが、ただ眺めるだけで内容は認識の外だ。
いつものシネマ・コンプレックスのロビーで、桜は時間を持て余していた。
少し早く来すぎてしまった。まだ待ち合わせまで30分もある。
フロアに設置されているモニタでは、ひっきりになしに映画の予告編が流れている。
桜はベンチに座り、繰り返されるトレーラーをぼんやりと眺めた。
バッグからスマホを取り出し、アプリを呼び出す。
LINEからの通知は、まだ幸生からの報せは届いてはいない。
だが、桜が待っているのは、別のアカウントからのメッセージだ。
数日前、こちらからDMを送ったのだが、“わかった ありがとう”と一度返辞が来たきり、それきり続報がこない。
幸生から次の映画の日取りの希望が来たのは、先週のことだ。
異論はない。日時と作品の提案を桜はすぐに承諾した。
確認のレスが来て、スケジュールが決定した。
さて。桜は考えた。
秋彦にそれを伝えるかどうか。
自問自答は、映画の日取りを伝える、ということよりも、秋彦にまた逢いたいのかどうかを己の心に確認することだった。
前回、半ば強引に押し切られてしまったとはいえ、連絡先を伝え、繋がることをなぜか桜は嫌とは思わなかった。
少し迷いはしたが、桜は秋彦に自分の観に行く日時と、作品名を、受け取っていた秋彦のLINEアカウントへDMした。そのレスポンスが先程の短文だ。
それきり。
そのままきょう、映画の当日になってしまい、桜の気持ちは曖昧な宙吊りのままこの日を迎えてしまった。
「どうなったのか、返事くらいくれればいいのに……」
桜は自分にしか聞こえない小さな声で呟いた。
休日のロビーの喧騒がそれをかき消していった。
「……こないのかな……」
DM着信を告げる音がスマホのスピーカーから鳴った。幸生からだ。
いつものように、座席がとれたことと、席番が送られてきた。相談した予定通りの場所だ。
座席番号を確認すると、桜はベンチを立ち上がり、カウンターへと向かった。
桜の希望する座席はまだ空いており、確保することができた。
けれど、幸生の場所=桜の左隣の席は、既に埋まっている。
自分の席が決めておいた場所に確保されたので、そこ=隣の席が埋まっていたとしても、「まぁ、仕方ないな」くらいの感じにしかならない。そのはずだが、なんとなく桜の中ではぽっかりと空隙ができたような感じがした。
心のどこかで、その座席に来て欲しい顔が浮かんだ。
幸生ではなく。
ぼんやりと想ううちに浮かんだそのイメージを、桜は慌てて首を軽く振り、結んだ画像を解いた。
幸生へ無事に席が取れたことを返信する。
入場の時間までまだ数分ある。桜は時間を持て余しながら、ロビーに佇んだ。
途切れることなく家族連れやカップルが桜の前を通り過ぎ、カウンターでチケットを求める。そんな一部始終を眺め、待っている時間は過ぎていった。
“……たいへんお待たせをいたしました。只今から、○時○分より開始、×スクリーンで上映の……”
場内に自分の観る作品の回の入場開始を告げる声が聞こえると、桜は諦めて歩き出した。
「どうするんだろ、あのひと……」
あと10分で予告編の上映が始まってしまうのに。
訝しみながら、桜は場内アナウンスに導かれるままに劇場の入場口で券を差し出し入っていった。
スクリーン館内に入り、ざっと客席を見廻してみたが、やはり秋彦の姿を確認することはできない。
もとより30分も前から桜はロビーにいたのだ。見逃すことはありえなかった。
桜は探すのを辞め、自分の座席に着いた。
桜の左の席――幸生の場所は、まだ空席のままだった。
けれど、チケットカウンターで確認したときにはもう埋まっていたので、誰かが来ることは確かだ。逆側の、桜の右側の席もまだ空いている。ひょっとしたら秋彦はここに来るのだろうか。
念のため、桜は秋彦へ今の自分の座席番号をDMで伝えた。
“荻野です。中にはいってます E-7にいます”
送信ボタンをクリックし終わると、桜はスマホの電源をオフにした。
間もなく開始の案内放送がある。そのタイミングで、やや慌て気味で入場してきた数人の中、見憶えのある顔があるのをようやく桜は認めた。
どこに座るのだろう? と気になった矢先、秋彦のほうが桜の姿を見つけ、笑顔を返してきた。桜も笑顔を向ける。目と目が合ったまま、秋彦はスロープを登ってきて桜の座る列へ――そのまま左隣、E-8に着席した。
着席と同時に“お待たせをいたしました。CMと予告に引き続き本編を上映致します……”とアナウンスが流れ始めた。
「いやぁ、間に合ったあ。よかったよかった」
やや汗を滲ませながら上着を脱ぐ秋彦を眺めながら、桜は手で彼の顔を扇いであげながら言を返した。
「来ないのかと思った」
シャツを通した秋彦の肌から蒸発した汗の匂いが、ふわりと桜の鼻に届いた。
桜はすぐに疑問を思い出した。
「でも、この座席――」
桜が座席を取ったときにはもう埋まっていた。いつ秋彦はこの席を取ったのだろう。
二人の会話の最中に場内は次第に暗転していき、スクリーンではCMや『ご鑑賞のおねがい』が流れ始めていた。
質問を言い了える前に、秋彦が疑問を覚り答えを返す。
「ああ――きみからのメッセもらってすぐに、ネットで予約したんだ」
そう言うと、秋彦は握っていた半券をチラと桜に掲げ、「ね?」と口角を上げて示してみせた。まるで自分の用意周到さを母親に褒めてもらいたい子のような表現に、桜はちょっと苦笑した。
――このひと、思ったよりも子供っぽいのかも。
券にしても、すっかり暗くなってしまった館内では座席番号なんて確認しようがない。それでも桜に見せた所作は、ちょっと可愛かった。
「ありがと、教えてくれて」
チケットを財布に仕舞いながら、予告が始まったのでやや声を落として桜の耳元へ顔を近付け、秋彦が囁いた。
「本当に知らせてくれるか、心配だったけれど――少しは、僕のこと信用してもらえたの、かな?」
チラ、と桜が横を見遣ると、秋彦が顔を離し背凭れに落ち着き、軽くウインクしてみせた。
桜の側を向いた右の頬に靨が浮かぶ。
そんなひとつひとつが発見されるたびに、桜の中に親近感が増した。
予告編が終わり、映画会社のロゴ映像が映し出される。本編のアバンタイトルがスタートした。
* * *
映画が終了し、桜と秋彦は申し合わせたわけでもないが連れ立ってシネコンを後にし、カフェを訪れた。前回と同じく路地を入った、小じんまりとした隠れ家のような趣きのある処。秋彦はカフェ・オレ、桜はモンブランとダージリンのケーキセットを注文した。
注文を了えると桜は秋彦の視線を気にしながらバッグのスマホに電源を入れ、画面をフリックしLINEで幸生にDMで今の映画の感想の短文を送信した。
「――彼氏?」
秋彦の問いに桜は視線を上げたが、肯定も否定もせずにスマホをテーブル置いた。
「続けていいよ。遠慮しないで」
「いいの。もう送ったし、平気」
置かれたスマホに視線を落としながら秋彦がつ続けた。
「きみくらいの頃なら、もう誰かつきあってる人とかもいるんだろうな」
あまり広げられたくない話題を逸らそうと、桜はややきつめに言い返す。
「それ以上追及すると、セクハラですよ」
持ちかけたコーヒーカップをソーサーに下ろした秋彦が顔を上げ桜の瞳を見返した。カップが更にぶつかり、カチャリと音をたてる。
「恋愛するのも、難しい世の中になっちゃったなあ」
「恋愛、ですか」
「そ」短い返答をし、ふう、と息を吐き秋彦が笑顔を返した。
からかわれているような気分になり、桜がむっつりとする。秋彦がそれを眺めてまたしたり顔を見せる。向かい合い、ふたりが表情で対話する。
桜はふと今の会話を反芻する。
――誰に対して? 誰と誰の恋??
秋彦は明言しない。桜の中の勝手な妄想が積み重なっていく。
こんな会話をすると、秋彦がやはり歳上なんだな、ということを実感する。
掌の上で踊らされている感覚に囚われる。
秋彦を目の前にしながら、桜の網膜には別の顔が浮かんでは消える。
こんなふうに、このひととお茶をしていていいのだろうか。
桜はほんのちょっとだけ後ろめたくなった。
躊躇いの心と、「これからどうなるんだろう」という浮遊感が桜を支配していく。
首を振り振り、頭の邪念を追い払う。
違う。彼――このひととは、そんな気持ちでいるんじゃない。
桜の心は葛藤し、必死で自分の浮かぶ想いと抗った。
――これは、前回、危ういところを救ってくれた、感謝でこうしてお茶に付き合ってる。それだけ。
同時に、桜の中でこんな呟きが形となり現れる。
――彼といるのは、ただ楽しいから。
それだけ。ただ、それだけ。
浮かんではそれを押し込める。芽生えはじめた感情のことを、桜は自分の理性に向けて言い訳をしていた。
「あの――」
言葉を出しかけて、正面に座っているこの若者をどう呼べばいいのか戸惑った。
秋彦の瞳が桜の心に侵入し、言葉を引っ込める。
「?」
「いえ……なんでもありません……」
「元川さん」と姓で呼ぶべきなのか、それとももっと親しみを込めて「秋彦さん」なのか。まだ、心は決め兼ねている。桜は戸惑いつつ秋彦への興味が深まっていっているのを知った。
少し経って、ブブブとテーブルを呻らせて桜のスマホが着信を告げた。
桜は気づいたが、確認せずに放置する。
「いいの? メッセ来たんじゃない?」
秋彦が「自分は構わないから」と促す。だが桜は軽く首を振って笑みを返し、秋彦との時間を続けるほうを選んだ。
「うん」
桜はそう言うとモンブランを一切れ掬い、頬ばった。甘い栗の薫りが口に広がった。
一連の所作を秋彦がじっと見つめる。
味わいながら、桜はDMの内容を想像していた。
近頃、幸生からの映画の感想はやや間を置いて来るようになった。けれどそれは桜も似たようなものだ。互いに気にしなければ、どうということもない。最初のうちは違和感があっても、状況に馴れていくだけだ。
前回の幸生との約束のとき――桜は、映画のあとほんとうは秋彦とお茶をしていた。
それを幸生には告げなかった。
痴漢から助けられ、桜は秋彦の誘いを断りきれなかった。それもある。
きょうは、次の機会に会うことを強引に決められてしまった。それも断りきれなかった。
だが。
それは、ただ秋彦が強引で、積極的すぎただけのせいだろうか。
外的要因にはし切れない内省が心を覆う。
桜は己の心の深部に答えを探したが、納得のいく言語は導きだせなかった。
「あ」
唐突に桜の口から声が漏れた。
咀嚼の刺激が桜の脳に別の疑問符を再生させた、そのスィッチの音だった。
「あの――そういえば、どうして私の座る場所、判ったんですか?」
質問の答えは、秋彦からすぐに返された。
「キミが、いつも同じ席に座ってるのを見てた、って話したよね」
そういえば、そんなことを前回聞いていたような気がする。
けれど、今日のようにここまでピンポイントで隣の席に座れるものだろうか。しかも、席を取ったのは秋彦のほうが先。数日前にネット予約しているという。
「え、でも……」
たしかに、桜の取る席番は幸生の指定する場所に従っているので、幸生の好みと判断で決められていて、彼の頑固な嗜好はこのシネコンに10あまりあるすべてのスクリーン各々に定められたシート番号が存在する。だが、その全部を秋彦が把握しているとは思えない。
もちろんそれぞれの観客が好みの場所というのもあるし、特に名画座などの劇場によってたまに見かける常連なら、たいがい同じ場所に座っているのを見ることもある。だが、これほどの規模のシネコンでは、さすがに特定の人が厳密に同じスクリーンのときに同じ席番号のシートに座るということまでは、気付かないのではないか。
そんな危惧を覚ったのか、秋彦は訳知り顔をすると、
「桜ちゃんが不審がるのも、仕方ないか……」
と話しながら、秋彦はスマホを取り出し、アプリを開き桜に示した。
メモ機能の画面には、箇条書きでスクリーンナンバーと、座席番号が克明に記されている。
「これ――」
すべて、これまで桜が座っていた場所だ。
「え、これって――」
戸惑う桜に秋彦が言い訳するように説明を続けた。
「そう。以前から、きみのことが気になってて――あの映画館で眺めてるうちに、きみが座る場所をいつも決めているのがわかってきたんだ」
普通なら。ストーカー扱いになって気味悪がられるところだ。
だが、桜は秋彦のそんないじましさに心を動かされた。
幸生と離ればなれになって以後、どこかで離れなかったひとりぽっちの寂しさが、見つめられていると感じられたことで氷解した。
桜の感動を知らず、秋彦が続ける。
「でね、いつか、きみの座るその左隣を狙おうと思ってたんだ。それで、意を決したのがこないだ。ところが、あんなハプニングがあって……まァ僕としてはこうしてきみと話ができる、一緒にお茶できる口実にもなって、タナボタみたいなコトになったんだけど、ね」
そう言うと秋彦は悪戯っぽくウィンクをしてみせた。桜の心も和んだ。
コーヒーをひと口飲んだあと、秋彦が問いかけた。
「むしろ、どうしていつもおんなじ座席なのか、知りたいな、って思うんだけど……聞いても、いいかな」
「……それは……」
桜が口籠る。
なんとなく、今は秋彦に幸生のことを話したくはなかった。
幸生のことが脳内でぐるぐるとランダムに再生される。最初の出逢い、一緒に映画を観に行くようになったこと。離れてしまって、それでも同時刻に同じ映画を観る、という“デート”を続けていること……
同時に、いま向き合っている秋彦に、なんとかはぐらかそうと思案を巡らせる。『保留』のフォルダから、とあるファイルが導きだされた。
秋彦の今の言葉の中の単語にひっかかりを覚えていたことが、モヤモヤとした疑問と繋がった。
桜が話題を変えた。
「……ひだり……」
「え?」
秋彦が聞き質す。桜が逆に質問した。
「――どうして、私の“左側”なんですか?」
――幸生くんも、おんなじように私の“左側”に座ってた。
でも、
どうして??
秋彦も、幸生と同じく座席は桜から見ての『左側』を指定した。
幸生とのことだけなら、ただ単に彼の好みの問題なのだろうとさして疑問に思うこともなかったろう。だが、まったく繋がりのないふたりがともに桜を自身の“右側”に置くように座る、となると、疑問が沸いてくる。
桜はそのことを質問したかった。それが、思わず声となって桜の口が呟いた。
それに対して秋彦がひと呼吸置き回答した。
「それは、きみに悪さするヤツを隣に座らせないためだよ。――ホラ、こないだみたいなコトがあると……」
それでも桜は合点しない。もともと桜の“左の席”は、幸生の座る場所だ。
それを知るはずのない秋彦が、なぜ同じ側が指定できたのか。
「え、でも、どうして、左――?」
「チカンは利き手を使うからさ」
「は?」
すぐに切り替えされた秋彦の返答の意味が解りかね。桜の判断が停止する。利き手? 右利きとか左利きの? それと座る位置と何の関係があるのだろう。
桜の表情を覚ったのか、秋彦が説明を続けた。
「ホラ、たいがいの人って、右利きだろ。人間って、無意識的にふだん使い慣れてるほうの手をメインで使うものなんだ。たとえば、何かものを拾うとか、ふいに投げられたボールなんかを掴むのも、利き手のほう。細かい作業なんかするときは、ぜったいに利き手じゃなきゃ上手くいかないよね――チカンしようとするヤツなんかも、悪さをするときは利き手を使うんだ」
「……あ……」
桜の中でパズルのピースが次第にはめられていく。
「――だから、さ――あんなふうに、女の子と映画を観るときには、誰か悪いヤツが来ないように……きみからみて左側に並ぶように座るんだよ」
秋彦の説明を聞き、心の中で絡まっていた疑問の結び目がほどけていく。
はじめて解った。
幸生がどうしていつも桜の左側の席をとっていたのかを。
――幸生くんが、いつもいつも必ず自分の右に私を座らせていたのは、そんな理由があったんだ……
ぶっきらぼうに見えて、
ちゃんと考えて、くれてたんだ……
いろんなことを――
幸生はたぶん、桜のまだ気づいていないところで、いっぱい桜を守り気遣ってくれているのだろう。
そんな来がした。
桜は今更ながら幸生のさりげない思いやりに感謝した。
秋彦は、桜のそんな心の変化は知る由もなく、話を続けた。
「――でも、僕がきみの左側に座る、てコトは、こんどは僕が右側にいるきみに右手を伸ばせるってわけだよね」
悪戯っぽく笑う秋彦に桜は一瞬キョトンとし、すぐに意味を理解し顔を赤く染めた。
「…………え? え? えっ!?」
みるみるうちにまっ赤になった桜の顔を見ていた秋彦の顔に靨が現れた。桜はそのアイコンを睨みつけるような眼で凝視した。
「――ごめんごめん、冗談だよ」
「からかうの、やめてくださいよぉ」
まだ火照った頬を両掌で冷ましながら、桜が応える。
一転、秋彦の顔が真面目モードになり、桜の瞳を見据える。
「でも、僕はこれからはいつでも、映画を観ているときは、自分の右側に気を向けているよ」秋彦が言葉を続ける。「たとえ桜ちゃんと一緒じゃないときでも、きみがそこにいる、って思いながら、観るだろうな」
ここまでくるとさすがの桜もクドキ文句だというのが判る。
けれど、桜ははぐらかそうという気にはならなかった。
「……許しますよ。それくらいなら」
返辞の代わりに秋彦がへへーっと頭を下げた。
有線のBGMなのか、店内にタンゴの曲調が響いてきた。優しい流れが転調し、情熱的な旋律へと変化する。ふと桜が心を留め耳をすます。
「――これ、聴いたことある……」
「『ポル・ウナ・カベーサ』だね」秋彦が言った。「よく映画にも使われるよね。有名なやつだと、アル・パチーノが出た『セント・オブ・ウーマン』とか」
「へえ……そのうち観てみたいなあ……」
秋彦が桜の言を掴んだ。
「DVDなら持ってるよ。そのうち一緒に観る? 僕の部屋で」
慌てて桜が否定する。
「それはまだ早いですっ。」そう言うと、ぷん、と眉にシワを寄せる。
隙かさず秋彦が揚げ足を取る。
「じゃあ、もっと親しくなったら、そうしてくれる?」
「あ……」
言葉尻を捉えられ、しまった、と思ったが後の祭りだ。
掌で踊らされた。
やっぱり、歳上なんだな、と桜は秋彦を思った。
桜はあえて答えずに――イエスかノーかという二択を迫られたなら、どちらを答えるだろう?――眼を伏せると、スプーンでティーカップをかき廻した。
カチャカチャと金属と陶器の触れ合う音がやけに沁みた。
店内の音楽はまだ『ポル・ウナ・カベーサ』が続いている。
哀しみを帯びた旋律に、桜の心が共震し揺れていた。
* * *
カフェを出て、駅で別れてから、桜は電車に揺られながら黙々としていた。様々な思惟が浮かび消える。
己の心の中の、幸生が占めていたはずの部分の一部に知らぬ間に風穴ができていて、そこへ彼が入り込もうとしているのを確実に自覚した。
秋彦から、映画の誘い以外で連絡が来たのは、その2日後のことだった。
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