#5 ヘンリー

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【ヘンリー】

 1986年 アメリカ映画

 監督:ジョン・マクノートン 出演:マイケル・ルーカー トム・トウルズ トレイシー・アーノルド

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         ◎


「ゆっきっおっくぅ~ん」


 廊下の後方から、気色の悪い声が幸生の背筋をざわつかせた。

 あの猫撫で声が鼓膜を震わせるときは、まず間違いなくいいことがない。

 声を無視し、教室から出てきた生徒たちの脇をすり抜け、幸生はそのままトイレへ急いだ。だいたい休み時間は10分しかない。この休憩には名画座のタイムテーブルをチェックしておきたい。またあいつの持ち込む厄介事に時間を割かれたくはない。


「ぁあ~ん、待ってくれよォ、ゆきおくぅ~ん」


 聞こえないフリをしているのに、声の主は執拗に追ってくる。けれどいったん無視した以上、ここは幸生も引き下がれない。「男子用」と表示されたドアを押し開けると、幸生はダイレクトに壁に並ぶアサガオへと直行し、制服のボトムのジップを下げた。

 幸生の体内から放出された水分がアサガオの内側に届いた瞬間、背中にドン!という衝撃が走った。

 揺られたホースからの放水は方向を失い、ターゲットから外れそうになる。慌てて幸生は軌道をコントロール、修正をする。 


「ち・ちょっとお前なぁ……ションベンしてるんだからせめてそれくらい落ち着いてちゃんとさせてくれよ」


 背後から抱きついたヘンリーが幸生の肩越しに便器の中を覗き込みながら返す。

 じょぼじょぼと音をたてて液体が白の内壁を伝っていくのを、ヘンリーは幸生と共にしげしげと眺めながら応えた。


「じゃあ、させてやるから、そのあとでちゃんと俺の相談聞いてくれる?」


「わーったわーった」


「約束よョ~ん、ユキオちゅわあ~ん♥」


 ハートマークを語尾に付け、ゾワゾワする口調でヘンリーは嘆願した。

 もう、こうなってしまっては聞くしかない。ユキオは観念した。


 言葉では従ったものの、ヘンリーはいっこう幸生から離れる気配を見せない。幸生もいいかげん耐えきれず再び口を開いた。


「お前、さ……わかったんなら離れてくれよ」


「あっ、ごめんごめん、あんまり見事なモノだったんで、つい見とれちまって」


 そう言うとようやくヘンリーは体を離し、トイレのドアを押し開けて去っていった。


「じゃ、表で待ってっから。用が済んだらヨロシクなっ――って、文字通り、か。なんてなー」


 ドアの開閉音が背に響く。

 幸生はホッと一息吐くと、膀胱に残る水分を残らず排出した。


 アサガオから半歩下がり、ボタンを押す。便器の内壁が洗い流されていく。


 まるでフランケンシュタインの怪物のような、ちょっと不気味な容貌のくせにやることがいちいちお茶目だ。そんなところが憎めず、幸生もこのヘンリーのペースにいつも振り回されてしまうのかもしれない。

 コリオリの力で渦を巻いて排水口へ消える流水を眺め、幸生はふとそんなことを思った。



 手を洗ってユキオがくりやから出てくると、ヘンリーが手に何やらメモのような用紙を持って待ち構えていた。


「よっ」


 窓を背にしたヘンリーがにこやかにメモを握る手を挙げて迎える。

 廊下を横切りつつ、幸生は話しかけヘンリーと並んで窓にもたれた。


「で? 何だよいったい」


 もちろん、用事というのがそのメモ用紙のことであるのは疑いようがない。

 だが、あえて幸生はヘンリーからの返辞を待った。


「じつは、さ――」


 と、握ったメモを開きながらヘンリーが説明を始めた。


「ちょオいとお願いが、あるんですがぁ~」


 だいたいこいつが持ってくる“おねがい”ってヤツは、碌でもないことと相場が決まっている。


 それでも聞くだけは聞いてしまう、自分自身に幸生は説明ができなかった。



――で、結局はなんのかんの言いながら、こいつのペースに嵌ってしまうんだ。



 いつものことながら、自分に対し呆れる幸生だった。


「もう、さ――ゴチャゴチャ前フリはいーから、本題話せよ、休み時間もないし」


 学校生活の潤いとはとか受験に対する構えとか、あげくに自分の家庭環境だのと、くだくだと1分20秒ほど述べ続けているヘンリーを制し、幸生が告げた。

 それに応じて、ヘンリーが語調を改め、ひと呼吸する。


「あーいやいやいや、もう単刀直入っ。井崎さぁ、

 ――ウチの部に入らね?


 てか、入ってくんね??」


 一瞬、相手が何を言っているのか、幸生の脳は処理が滞った。

 数テンポ遅れて回路が働いたとき、それがまるで理解し難いものであるとの認識が次に幸生の心に現出した。




「――――はぁ??」


「いや、何を言ってるのかわからねェと思うが俺もわからねぇんだ――とにかくいま起こっていることをありのままに話すぜ」


 と、ヘンリーはどこかのネット掲示板に書かれているような決まり文句の口調を述べて持っていたメモを差し出した。

 幸生の目の前に示されたのは、新勧のときに新入生に書かせた、「入部希望」のリスト。

 既に入部が(仮)確定している者には○、辞退者には×がついているらしい。一覧のうち2、3人には○がつけられている。このリストにはおそらくヘンリーの期待度も加味されているのだろう。



――まぁ、廃部寸前のこの部にしては、上出来だろうな。

  こいつも部長の椅子に座って、いろいろがんばってるんじゃん。



 幸生はそんなことを思いながらメモの一覧を眺めた。


 その中の一行にヘンリーの人差し指が留まった。


「この、新入生だが――入部を希望してる」


 クラス・氏名の記入欄の次に、「性別/女』の項。脇には赤ペンで◎のマーク。

 要するに、「入部確定」という意味なのだろう。幸生はそう受け取った。


「入部希望なら、いいコトじゃないか――二重丸ってコトは、もう“決まり”ってわけなんだろ?」


 ヘンリーはチッチッ、と演技じみて指を左右に動かした。


「いや――まだ確定じゃないんだ。入部を迷ってる。というか、渋ってる。入部するには条件がある、と、部長の俺に取引を持ちかけてきた」


「……それと俺と、何の関係がある?」


 なんとなく、イヤーな汗が幸生の背中を伝っていく。


「そう、問題はそこからだ――彼女の入部の条件っていうのがあってな――“井崎センパイが部活に出ること”なんだ」


 幸生の思考が一瞬停まる。いや、体内時間では一世紀も過ぎた気分だ。

 意識が我に帰ったとき、ヘンリーのニヤけた面が視界に存在しているのを認識し、幸生はその醜い物体に向かって阿鼻叫喚の声をぶつけた。


「は? ハッ?? ――はァア???」


 鳩が豆鉄砲を食らう、とはまさに今の幸生のことを言うのだろう。


「ち・ちちちちょっと待てっ。この女生徒の入部と、俺とどういう関連があるんだヨ!?」


 激昂する幸生とは裏腹に、ヘンリーはあくまで冷静だ。

 それがまたかえって幸生を苛つかせる。


「いやいや、これが話せば長い話でな――映画の台詞で云えば“イッツァ・ロング・ストーリー”ってやつナンだが……聞くか?」


「あたり前だろ。ちゃんと説明しろ」


「説明したら、正式入部してくれるか?」


「だからその理由を訊いてると言ってるだろぉが。その前にお前に小一時間説教垂れてやりたいんだが俺は」


「それもタイヘンだなぁ~。でも小一時間黙ってお前の説教聞いたら、入部するか?」


「だーかーらぁー」


 暖簾に腕押しとはこのことだ。ヘンリーの対応に幸生はこんな諺を連想していた。

 のらりくらりとした押問答に時間だけが浪費され、休み時間の終了を告げるチャイムが廊下に響いた。


「あっ、とりあえず、積もる話はまた次の休み時間にっ。じゃなー」


「おいっ……」


 呆然と立ち竦む幸生を尻目に、ヘンリーは自分の教室へとそそくさと戻って行ってしまった。次の科目の教師が廊下を近づいてくるのを認め、ようやく幸生はフラフラと教室後方のドアから入っていった。


 教師が黒板を背に出欠を確認している。その間も幸生の頭はカッカと逆上していた。


 予想の斜め上をいくヘンリーの(というよりも、その新入生の)提言は、幸生の思いもつかないことをしでかしてくれたようだ。

 だが、そんな妄言にシビれも憧れもするわきゃない。あたり前だ。


 授業を聞きながら、幸生の脳回路はフル回転していた。今ここにある危機をどのように回避するか。

 だが……


 ――ヘンリーの話っぷりでは、どうやら俺に選択の余地は与えられてはいないようだ。



 とにかく、詳細はまたヘンリーに会わなくてはならない。



――いや――それよりも、

  あいつ―――その新入生に、直接問い質すことだ。



 幸生はヘンリーのメモにあった氏名を反芻した。



――緋色――菜津――



    *   *   *



 「次の休み時間に」と自分から言ったにも拘らず、ヘンリーは3限と4限の間の休憩時間に幸生の教室には顔を出さなかった。

 昼放課も、待ってはみたもののやはり姿を見せないままだった。幸生は待ち惚けを喰ってしまった。

 業を煮やした幸生は、昼食を済ませると、ヘンリーのクラスまで赴くことにした。逃げているのだろうか。もうこうなったらこっちから攻めに転じてやらねば。幸生はそう決断した。


 そう思い廊下へと出たとたん、幸生の背中で弾んだ声が背中を突いた。


「センパイ!!」


 菜津だ。


「ちょうどよかったぁ~。井崎センパイを探しに、こっちの上級生棟まで遠征してきたトコなんですよォ」


 そう言うと、菜津は人目も憚らずに腕をからませてきた。


「おっ・おいッッ」


「いーじゃないですかぁー、周りに見られたって」


「俺は困るんだよっっ」


 菜津はますます体を密着させる。少女にしてはやや大きめの胸の膨らみの、柔らかな感触が、制服の生地を抜け幸生の肘に伝播する。

 幸生は無理矢理菜津の腕を振り解くと、菜津から半歩下がって、チラ、と今しがたまで自分の体に触れていた菜津の胸部を斜め視した。

 視線を上げると、菜津の物足りなさそうな瞳が幸生の顔を射ていた。


「どぉーしてですかぁー」


 そのあっけらかんとした態度に後退たじろぎながらも、幸生が返辞をした。


「あったり前だろ。クラスのれん中に見られたら、どうすんだよ」


「いーじゃないですかぁー」菜津がふくれっ顔になり続ける。「何が困るんです?」


「そ、それは、だな……」


 一瞬、幸生は答えに窮した。

 心に桜の姿が浮かび、フェードアウトしていった。



 凝っとこちらを見詰める菜津の背景で、階段から降りたヘンリーの横切る姿が幸生のフレームにインしてきた。


「おいっっ」


 菜津を超えて幸生がヘンリーに声をかける。気付いたヘンリーがこちらを向き、朗らかに手を振った。

 その反応が、幸生の燻っていた怒りをまた点火させた。


「よぉ――」


 呑気に手を掲げて近づいてくるヘンリーに、幸生は胸ぐらに掴みかかるかという勢いで迫っていった。


「てめ――」


 訳も知らぬ菜津が「あ、ブチョー」とヘンリーに挨拶していた横をシャッターして幸生がヘンリーを捉える。ヘンリーは幸生に構わず「よおっ、菜っちゃん、ゲンキ~?」などと菜津に笑顔を交わす。「はいっっ」と溌剌な菜津の返辞が幸生の鼓膜を震わせる。

 そこに幸生が割って入った。


「おい、……この状況をちゃんと説明しろ……いや説明じゃない、キチンと訂正しろ」


 幸生に捕縛されたヘンリーがチラと菜津の顔を伺う。菜津は状況が判らずにキョトンとしている。それを察したヘンリーが素早く反応した。


「まァまァ、ここじゃなンだし――」ヘンリーは幸生から菜津に顔を向き替え「あ、菜っちゃん、ブチョーはこれから井崎部員と話、あるからサ、ちょっとこいつ、借りるねー」と言うと、そのまま幸生の手首を掴み、階段のほうへと後退あとずさっていった。


「あ、放課後は部活だからネ、こいつも出るからヨロシクねー」


 ひと塊になったヘンリーと幸生が揉み合いながら菜津の前から遠ざかっていく。


 幸生が何やら「お前、まだ……」とヘンリーに言いかけていたようだったが、ヘンリーが口に手を抑え、幸生の言葉を封じてしまった。ヘンリーが菜津にウィンクしながら階段へと消えていった。


 菜津は狐につままれたような貌でその塊を眺めた。


「……? ヘンなセンパイたち――」




    *   *   *




「……スマンっっ!!」


 階段を登りきり屋上入口の踊り場まで幸生を引っ張ってきたヘンリーがようやく腕を解くと、振り向きざま両手を顔の前に合わせ拝むように頭を下げた。


「謝る前にせつめーしろ」


 憮然とした顔で幸生が問い質す。


「あーだからですなぁー、お前が黙ってウチに入部してるコトにしてくれればすべてまるっと収まるってわけで」


「それは説明じゃないだろ。いわゆる“落としどころ”ってやつだ。どうしてそういうコトになるのかの説明をまずしろと言ってる」


「い・いやいやだから……要するに、だ」


 ヘンリーが制服の内ポケットを弄り、胸からA4のメモを取り出した。さっきの休み時間に見せた例の「入部希望者リスト」だ。


 ヘンリーが改めて赤丸の箇所を指し示した。


「緋色菜津――このコがさ、条件つきで入部してもいいって言ってんだヨ」


「それはさっき聞いた。で、なんで俺がそこで出て来るのか、ってのを尋ねてる」


 珍しく真顔に変わったヘンリーがまじまじと幸生の目を見据えて口を開いた。


「そうそう、そこなんだ――

 その条件っていうのがさ……」


 ひと呼吸置いて、幸生の注目を引くようにヘンリーが言葉を継いだ。


「おまえが部にいることなんだ」


「……あのな……」


 どうも話がぐるぐると回っているだけでてんで原因と結果が結びつかない。そんな気がする。


「だから……そもそも、なんで、どうして俺が映研に入ってるってことと、あの新人が入部することに因果関係があるんだよ!?」


「あー、それは俺もよくわからんのヨ」


「てめー……」


 あまりにもあっさりと即答したヘンリーに更に怒りが増した幸生である。


「たださ、要は、お前さんがウチの部に――てか、部室に出入りしててくれりゃ、あのコも晴れて正式の部員になってくれる、ってこういうわけ」


「あのな」


 間髪入れずヘンリーが言を継ぐ。


「どぉもさぁー、新勧のとき、お前に手伝ってもらったじゃん? そンときにあのコ、幸生が部員なんだって思い違いしちゃったみたいでな……んで、部活のたんびに『井崎センパイはどうしたんですか~』『井崎センパイ、きょうは来ますよね?』と迫られっちゃうのよ」


「正直に云えばいーじゃん。俺はただヘルプに来てただけだって」


「ところがそうもいかなくなっててな」


「は?」


 そう言うと、ヘンリーは入部希望者リストを胸に仕舞いながら話し続けた。


「実は、さ……俺、言っちゃたのよ。『井崎先輩は、他のクラブと兼部してるからあんまり来てないけど、もうすぐそっちも大会が終わってヒマになるから、そしたら出て来るようになる』、ってな。『俺が保証する。来週からしっかり連れてきてやる』って。いやー、あの娘、喜んでなぁ~。『あたしもがんばって部を盛り上げます!!』なーんて言ってくれちゃうから、俺も思わず、なぁ……」



「ハァ!? お前、それでOKしたの?」


「うん」


 あまりにもあっさりと頷くヘンリーを見て幸生は呆れた。

 いや、呆れるというよりも、呆然となった。



――ただのばかだ、こいつ。



「そこでだ」


 そう言うや、絶句している幸生の目の前で、ヘンリーはその場で突っ伏し、土下座を披露してみせた。



「幸生――頼むっ。我が映画研究会に、入籍、じゃない、入部してくれっ」


「あーのーなー」と怒りを言葉にしようとした幸生の機先を制し、ヘンリーは続けた。


「ウチの部の事情、お前も判ってるだろ? このまんまじゃ在籍部員不足で、部活動として条件を満たさずに自動的に廃部になっちゃうんだよ……なぁ~、頼む頼む頼む、頼むからぁ~」


 こんどは泣き落としである。



 正直、幸生としてはもともとたいした活動もしていない映画研なんて廃部になろうがなるまいが知ったこっちゃない。


 黙って眺めている幸生に、ヘンリーは顔を上げると、


「――いやいや最悪入部しなくっててもいーからサ、部室に毎回、来てくんね??」


 と、片手を顔の前でゴメンと会釈のポーズを見せる。


「おんなじコトだろ、バカ」


 幸生はこのムーヴには付き合わないで、目を逸らした。

 やっぱり、たぶんこいつはなーんにも考えてない。


 ヘンリーは更に残ったほうの手も顔の前に出し、両の掌を合わせ祈るポーズになり、


「頼むっっ。親友を助けると思って」と訴えた。


 呆れ果てて幸生が言葉を投げ捨てる。


「誰が親友だよ。いつからお前とそんな関係になったんだよ」


「たった今」


 開いた口が塞がらなかった。



 疫病神め。



    *   *   *




「セーンパイっ!」


 後方から声が届く。次の瞬間、ドン、と幸生の背に衝撃が到達する。

 幸生を見つけた菜津が、駆け寄る勢いのまま体を当ててきたのだ。


 放課後の渡り廊下、幸生は帰宅の準備をして玄関へと向かっていた。そこへ菜津が追いつき、幸生を掴まえたのだ。甘い匂いとともに、幸生の肩甲骨にぷるるんと菜津の膨らみがぶつかる。

 ぎゅむぅと腕にしがみつきながら菜津が上目づかいで幸生に問いかける。


「センパイも、部室に行くところですかぁ?」


 思わず菜津の胸の感触に怯んだが、菜津はお構いなしでますます体を密着させてくる。


「いや――」


 幸生は返辞に窮したが、思い留まった。

 そういえばこのルートはちょうど映研の部室へと繋がっている。


 本当は直帰する予定だったのだが、捉えられてしまった以上、仕方がない。幸生はこのまま菜津に捕縛された状態で部室へ同行することにした。


「……ああ、行くよ、今日は」


「ホントですかぁ? うれしぃーっ」


 そう言うと、菜津は更に力を込めてぎゅむむと抱きついた。


「一緒に行くから、その……もう少し、離れてくんないか」


「えー」


 菜津はちょっとぷくりと頬を膨らませたが、幸生が睨み返すと「はぁーい」とおずおずと腕を解いた。

 幸生は菜津と並んで、映画研の部室へ続く廊下を歩いた。




 すったもんだがあったが、幸生は映画研究会に籍を置くことになった。

 結局、ヘンリーに根負けし、幸生はシネコンのギフト観賞券6回ぶんで買収された。当初ヘンリーは「4回分」と交渉したが、幸生は「いや10回分だ」とはねつけた。双方の妥協の上この数で決着した。商談が成立した瞬間、「また魂を売ってしまったか……」と幸生は独り言ちた。

 ヘンリーは「入部した暁には副部長の椅子を用意するから」と行ったが、それはひややかにきっぱりと丁重に断った。

 これ以上こんがらがった事態にさせられるのは避けたかったからだ。



 ゆらゆらと擦れる菜津の胸を肘に感じなから、幸生は溜息を吐いた。


 なんなんだ。この腐れ縁は。



 幸生は自問したが、いくら考えても納得いく回答は出てはこなかった。



 どうも、ヘンリーと相対すると、ついついこいつのペースに嵌ってしまう。

 幸生自身も理解できない力学がここには働いているようだった。



――いや。

  それはこいつもおんなじかもしれないな。


 と、ふと隣にいる少女の横顔を眺め、幸生はまた嘆息する。

 視線に気付き、菜津が「?」という表情を返す。


「どぉしたんですぅ? センパーイ」


「なんでもねぇよ」


 二進も三進もいかぬなら、ともかくこの現状に逆らわないほうが懸命かもしれない。

 無駄な努力は疲れを招くだけだろう。

 そんな諦念にも似た想いを抱きながら、幸生は菜津に引き摺られ映画研の部室へと歩を進めていった。


「ところで、さ――」


「? なんですかセンパイ」


「いや……やっぱり、いい」


 思い立った問いを言葉に出しかけたところで、幸生は引っ込めた。


 訊ねてみたところで、この新人に判るわけもないのだ。



 あいつがどうして“ヘンリー”なんてヘンテコな渾名で呼ばれているのかなんて――





 部室のドアを開けると、そのヘンリーが二人を出迎えた。


「よっ、お揃いで登場か? お似合いだねェー君たち」


 問われて菜津がぽっ、と頬を紅に染める。


「やだぁ~、ブチョーったらぁ」


 ヘンリーと菜津のやりとりを聞きながら、幸生は腹の中で思っていた。



――こいつら、いつか殴ってやりたい。



    *   *   *




「――よしっっ。んじゃあ新学期も落ち着いて、部の面子もだいたい定まったんで、きょうは部会やるよ」


 ヘンリーの号令一下、映画研究会の月例部会が始まった。

 月例と云うからには、当然毎月開催しなければいけないのだが、前年度までは真っ当な部員がヘンリー1人しかいなかったのは幸生も知っている。ヘタをしたらヘンリーや幸生が入学してから映画研が部会を開いたのは初めてかもしれない。

 それくらい、このクラブは崖っぷちの“限界サークル”だったのだ。


 そうは言うものの、今この畳二畳もない狭い部室――部室というより実質的には倉庫だが――にいるのは、部長のヘンリーと幸生、それと新入生の菜津、もう一人の新入生の眼鏡をかけたいかにも映画オタクな雰囲気を醸す男子生徒の4人しかいない。一応ヘンリーのクラスの奴が2人、在籍していることにはなっているが、ただ廃部を免れるための数合わせなので、彼らはまったく部には出てはこなかった。幸生でさえその2名が誰なのか顔も知らない。

 だが、かろうじて生徒会の規約、「在籍の2/3の出席」という喫水線は超えている。これで本部会が正式なものとのお墨付きになっている。部の沈没は免れたわけだ。


 この日、部会で議題に出たのは、年間計画と月毎の活動予定。

 高校の部活なのだから、一年間の周期は文化祭が最大の節目となる。幸生たちの高校の文化祭は毎年九月の下旬。


「そのときまでに、我々も自主映画を1本制作したいんだが、どうかな」


 ヘンリーが部長らしい発言をする。思わず幸生が制した。残りが新入生なので、ここにはヘンリーに意見できる者が幸生しかいない。


「おいおい、ちょっと待てよ――この現状をまず認識しろ。たったの4人で、何ができるってんだ?」


「なんか、やろうと思えばやれんじゃね??」無責任にヘンリーが続ける。「それより――『4人』てことは、しっかりと自分もメンバーに入ってるんだネ、井崎クゥ~ん」


「あ」


 語るに落ちる、とはこのことだ。幸生は己の発言をしくじった、と思った。

 だが、もう遅い。


「いや……そもそも、この部にカメラも何も、機材なんてないだろ」


「いまどきスマホでもムービーが撮れる時代だぜ。なんとかなるさ」


 あいかわらず暖簾に腕押しなヘンリーである。


 不毛なやり取りをしていると、それまでずっと黙って座っていた新人がおずおずと手を挙げた。菜津と一緒に入部したもうひとりの一年男子。梯映日かけはし・はいねという、無理繰りな当て字のキラキラネームを親からつけられた新入部員。


「あの……ボク、カメラ持ってます」


 瞬間、ヘンリーと幸生が顔を見合わせた。ヘンリーがガッツポーズをする。


「きみィ、え、と――」


「梯です」


 ヘンリーが即座に机上の入部者メモを眺め応えた。


「あー変わった名前のか。ナンて読むんだっけ、これ」


「ハイネ、です」


「そーそーハイネハイネ。――で? カメラって、どんなの持ってんの?」


「ハイ。いちおう、ミラーレス一眼ですけど、4Kにも対応してます」


 パチン、と指を鳴らし、そそくさとヘンリーが梯の隣に寄り肩を抱く。


「梯くんっっ――いや、きょうから“ハイネ”と呼ばせてくれっ。きょう、たった今から俺たちは親友だっっ――な? な? いいだろぉ? ハイネくぅ~ん」


 唐突な変わり身に梯――ハイネは眼をぐりぐりと廻している。菜津もキョトンと一連の行動を眺めるだけだ。


 眺めながら、幸生は思った。



――こいつにとって、利用できるヤツはすべて“親友”なんだな……




「いや――いやいやいや、カメラは確保できたかもしらんけど、そもそも、だ。話――脚本がまず無いとどーにもならんだろ。誰が書くんだよ。ハードがあったってソフトが無けりゃ、ハコモノ行政みたいなもんでスっカスカになっちまうぞ」


 憮然とした声音で幸生が口を挟んだ。応えるようにヘンリーが何かを言いかけたが、それを制して幸生は続けた。


「それに、演出部と撮影部はどうにかなったとしても、俳優部はどーすんだよ。役者がいなきゃ、映画なんかできねーぞ」


 幸生が言い終わらないうちに言葉尻に重ねてヘンリーが言葉を返した。


「判ったっ。役者は演劇部に協力を要請しよ」


 その場を取り繕う頭の回転だけは早い。だが幸生も引き下がらない。


演部エンブだって事情はおんなじだろ。あっちも文化祭に向けて準備してんだから。たといこっちの撮影を夏休みでやるにしても、むこうさんだって、夏は練習でいっぱいいっぱいじゃん」


「そこはこれから考える」


 場当たりすぎる。幸生は呆れ果てた。


 ばかか。

 あいかわらずのばかだ。なーんにも考えずに口だけが先走る。


 実際、まずは年間活動計画だってまともに決まってない。

 正直、それを生徒会に提出しないと活動していないと見做され、学校から活動費予算も降りてこない。だが、その計画書が目に余るほどいい加減すぎても、やはり審議対象になる。食えない餅だけ絵に描いても仕様がないのだ。


 幸生にしても、映画を創る、いうことにまったく関心が無いわけではない。もともとが映画が好きなのだから、制作だってもしチャンスがあれば、とは思う。

 だが、この無謀な中で実現させることじゃない。


 これからの一年、こいつの思いつきや口車に振り回されるのかと考えると、先が思いやられた。


「いや、そんなことよりも、もっとこう現実的なプランを提示しろよ。まず映画制作はムリだ。ソフトソフトと言うが、ハードが固まってなくちゃソフトも作りようがないだろ。まずは既定の映画とか、監督に絞った研究発表とかだな……」


 と、いう幸生の老婆心の籠ったアドバイスにはまったく耳を貸さず、ヘンリーは持論をまくし立てた。


「それとな――自主映画作るなら、もうひとつ考えてるコトがあるんだ」


「は?」


 考えてる、じゃないだろ。ぜったいに今思いついただけにきまってる。

 そういうやつだ、ヘンリーは。


 と考える間もなく、ヘンリーが次の句を継いだ。


「シー・ファイヴ。知ってっか?」


 思わず幸生が問い質した。


「しー、ふぁいぶ??」


 梯=ハイネが黙って手を挙げた。ヘンリーがドヤ顔で「はい、梯クン」と指す。


「シー・ファイヴ。あそこのシネコンが主催してる、自主制作デジタルシネマのコンペティションですよね」


「ご名答~」ニタリと口角を持ち上げてヘンリーが頷く。


「それに、エントリするんですか?」


「ご名答~。だーいせーいかーい」


 続けてのハイネの問いにヘンリーが即答した。



 ハイネとヘンリーのやり取りを横目で見ながら、幸生は記憶を掘り起こしてした。


 そういえば、幸生もその掲示をあのシネコンで目にしたことがあった。

 CCCCC。略して「C5」。シー・ファイヴ。

 正式名称『シネマコンプレックスキャンパスシネマコンペティション』

(Cinema Complex Campas Cinema Competition)。


 ハイネの言うとおり、シネコン主導のアマチュア映像作家の登竜門だ。まだ始まってから歴史が浅いが、『キャンパス』と銘打ってるとおり学生からのエントリが中心で、中には高校生だけでなく中学生の出品作もある。


 自主映画のコンペというと歴史あるPFFや川口のDシネマ、TAMA映画祭などの有名どころがあるが、近年それらに追随するものとして若手映像作家たちが注目しているコンペのひとつだ。何よりエントリ作品はこのシネコンの全国のチェーン館で上映される。それが最大の魅力だった。


「でも、あの映画祭って、応募規定がたしか『20分以上85分以内』だったと思うんですけど」己が発言しただけで出来た気になり悦に浸るヘンリーを現実うつつに引き戻すようにハイネが更に付け足した。「その尺って、けっこう難しいんじゃないかと」


 聞く耳持たず、という感じでヘンリーが切り返す。


「なんとかなんじゃね??」




――あぁん?



 そこまでの発言を聞いていて、さすがに幸生も呆れた。


「ち・ちょっと待てよ――」


 だが幸生以上にハイネが冷静であった。即座に反論する。


「いえ、さっきの井崎先輩の発言のとおり、今からだと期間が無さすぎます。C5の応募期限は8月末日です。それに間に合わせるのは、物理的に不可能かと思います。それに、文化祭も9月ですよね。おんなじものを出品するにせよ、二兎を追うとどっちも中途半端なものしか出せません」


 そこまでハイネの説得を聞いて、ヘンリーも作戦を変えた。


「んじゃーさ、梯クンのこれまでの作品を、とりあえず今年のC5には出す、ってコトでお茶濁さね? エントリはウチの映画研の名前で、さ」



――お ま え な ……



 他人の褌で相撲するつもりか、こいつは。

 『恥』という文字はこいつの辞書にはないのか。





 なんだかんだで今年度映画研究部の初部会は終わり、大筋では年間計画も決まった。

 結局、C5のエントリについては保留。だがともかくも今年は後学のため上映にはできるかぎり足を運ぼう、ということにした。

 文化祭の参加内容についても、幸生が提案した、『ひとつの作品の掘り下げ』や『ひとりの監督にフォーカスを絞っての研究発表』などの展示を中心に行おう、ということになった。

 これで定常の部活出席の目的もできる。だらだらと無為な時間を部室で過ごすのを避けたかった幸生は溜飲を下げた。


「んじゃー、文化祭の展示については、言い出しっぺだし井崎に責任者任せるわ」


 ヘンリーの鶴の一声で強引に幸生が文化祭担当にされてしまった。4人しかいない部会、しかもうち2人が一年生では、当の幸生以外誰も反論のしようがない。極めて民主的な多数決で採択された。


 観賞券6枚で買収された幸生はそれ以上抵抗できなかった。 



 ともあれ、昨年までは自前のDVDを勝手に持ち寄って上映してた(もちろん著作権などは無視だ)ので、余程ましな船出だ。


 ただ、それでもヘンリーは自主映画の制作にまだ未練があるらしい。

 懸案事項として『映画の制作・発表』も議事録に付記されることになった。

して発表することが明記された。


「最悪、文化祭では梯の過去作品を上映すればいーじゃん。な?」


 このヘンリーの発言には幸生だけではなくさすがにハイネも菜津も呆れた表情を隠さなかった。


 新勧のときといい、まったく他人任せなヤツだ。


「頼んまっせ、ユーチューバーハイネく~ん」


 ヘンリーの返しを聞いて、とたんに物静かなハイネが不機嫌になった。


「あんなのと一緒にいないでください。Youtubeに動画をアップしてるけど、僕はユーチューバーじゃありませんから」


「じゃ何?」


 ヘンリーからの問いに、ひと呼吸置いてハイネが答えた。


「映像作家、です」


 ものの是非や彼のレベルはともかく、そう宣言したハイネの心根に幸生は感嘆した。

 あとで、彼のアップした動画を観てみたい。幸生の中で、ハイネへの俄然興味が湧いてきた。


「梯、アカウントは本名でやってんの?」


 そう幸生が訊ねると、ハイネは「いえ、そうじゃないですけど」と返答した。


「じゃ、あとでアカウント名教えてくれ」


「はァ」


「あたしも知りたーい。教えて、ハイネくん」菜津が追随する。


「あ……わかりました」


 幸生の要請には曖昧だったハイネが、顔を赤くしながら頷いた。





 閉会後もヘンリーは勝手な演説を続けた。


「んーまァ、とりあえずだナ、今年はムリかもしんないけど、次のために勉強として我々もC5には行ってみようか、と思うんだ」


「いやだから、今年はムリだって。今さっき話し合いでそういう結論になっただろ」


「だから次のためにさ」


「次ってなんだよ。来年になるなら、俺もヘンリーも3年で部活引退しちゃうじゃん」


「まぁまぁ、そのヘンは深く考えずに」


「いや考えろって」


 あいかわらずのヘンリーのその場その場の取り繕いに幸生も辟易だった。


 いい加減に部会を締めろ、と幸生に圧され、ヘンリーが一声挙げた。


「じゃぁあー、ほかに議題ないかぁ~?」


「ハイ」との声とともにおもむろにハイネが挙手した。


「はい、梯クン」


 ヘンリーが指すと、ハイネが挙げた腕を下げながら訊ねた。


「佐伯部長って、どうしてヘンリーなんておかしな名前で呼ばれてるんですか?」


 ハイネの発言に幸生も思わず身を乗り出した。



――それは俺も訊いてみたかったゾ。




「あー、……」


 問われてヘンリーが今更思い出したような顔をした。



 ヘンリーはフルネームを『佐伯獏さえき・ばく』という。『獏』なんて、たしかに、めったにない名前だ。夢枕獏くらいしか思いつかない。

(けどあれもペン・ネームだが)

 だが、それがどうして“ヘンリー”なんてガイジンみたいなヘンテコな渾名が付いているのか、幸生も気にはなっていた。


 『獏』がどこをどう転じて“ヘンリー”に成るというのだろう。


 いっとき、ヘンリーの視線が何かを脳内で検索するように宙を彷徨い、考えがまとまったのか、口を開いた。



「それはだな――いや俺の名前って、“ばく”じゃんっ」


「は?」


 声を出したのは幸生だ。だが、この部室にいるハイネも菜津も、話の飛躍に面食らっていた。

 ――だから、“ばく”がどうして“ヘンリー”に転じるのか、それを聞いているのだ。


 部室内の戸惑いの空気に構わずに、ヘンリーは続けた。


「バクばくばくバク言われっと、なんか、カッコ悪いじゃん。どっかの動物みたいで」



――いや、動物だろ、お前の字は。



 幸生が思わず心でツッコミを入れた。

 ヘンリーが続ける。


「だからなンか別のがいいな、と思って」



――“ヘンリー”よりも“ばく”のほうがカッコいいと思うが。

  こいつの美意識は、理解できん。



「だから?」菜津が相槌を入れた。ハイネも幸生も頭の上に『?』を冠してしたが黙ってはいたのを代弁してくれているようだった。


「マンシーニ、知ってっか?」


「……は?」


 なんだか益々話が迷宮に迷い込みそうだ。マンシーニ?

 だが、ヘンリーはここから一気に結論に持っていった。


「ヘンリー・マンシーニ。はい知ってるひとぉ~」


 そう言いつつヘンリーが挙手を促す。おずおずとハイネが手を掲げた。


「えと……作曲家の、ですか?」


「ビンゴぉーっ」


 満面の笑顔でヘンリーが頷く。

 どうやらここからが本題のようだ。


「えーっと、あの『ティファニー』の、ヘンリー・マンシーニか?」


 幸生の言う『ティファニー』とは、『ティファニーで朝食を』のことだ。オードリー・ヘプバーンの代表作。ヘンリー・マンシーニはその『ティファニー』で劇伴を担当し、この映画のアイコニックなホリー=ヘプバーンの歌う主題歌「ムーン・リバー」はアカデミー歌曲賞を獲っている。

 以下、ヘンリーの薀蓄語りに説明は任せよう。


「やーっぱヘンリー・マンシーニは最高だよな。ベスト映画音楽家。『ひまわり』なんてサイコーだろ。もーたまんねーよなあの哀切に満ち満ちた旋律。映画史の中でも五指に入る名曲だぜ? 俺にとっちゃ『ティファニーで朝食を』の「ムーン・リバー」は人生の主題歌だ」


 その後も、ヘンリーはヘンリー・マンシーニがいかに優れた作曲家かをまくし立てた。刑事コロンボ、華麗なるヒコーキ野郎、ピーター・ガン、ビクター/ビクトリア、etc、etc……

 メロディーを口真似を交えながら熱く語った。



 熱弁を眺めながら、幸生は思っていた。

 まあ、ヘンリー・マンシーニが名作曲家であることに異論はないが、それをワン・アンド・オンリーにされるのはちと癪だ。

 幸生はやや斜に構えて異論を挟んだ。


「そうか? 俺はフランシス・レイやニーノ・ロータ、エンニオ・モリコーネのほうがいいと思うけどな。それに、ミシェル・ルグランとか」


 加えてレナード・バーンスタイン、バート・バカラック。日本映画なら早坂文雄、芥川也寸志、黛敏郎、武満徹……。声には出さなかったが幸生の頭にいくつかのスコアが映画のシーンとともに浮かんだ。


「見解の相違だな」ヘンリーがヘヘンとドヤ顔を突きつける。あたりまえだ、と幸生は呆れた。

 まぁバダラメンティだのハンス・ ジマーだのと言い張るよりはマシか。


 上級生二人のやり取りに時折ハイネがウンウンと頷く。

 テーブルのひと隅で菜津だけがキョトンとしている。



――まァ、ピンクパンサーのテーマ曲なら、こいつにはお似合いかもしれない。いやむしろそれ以上に『ハタリ』の「仔象の行進」か。



 思わず幸生はそんなことを連想していた。




    *   *   *




 部会も終わり、部室から出ていく幸生の後ろを菜津がトコトコと従いてきて追い付いた。


「いっしょに帰りましょー、セーンパイ」


 幸生と並ぶと、菜津が愛らしく言い寄ってきた。


「ああ」と幸生がぶっきらぼうに答える。


「よかったですねー、センパイの提案が通って」


「そうだな」


「これから毎月、部活動としていっしょに映画にいけますネ」


 そう言いながら菜津が幸生の腕に手を廻し絡ませてきた。


 幸生にとってはただ映画が観られることだけが事実だ。

 対して、菜津の考えとしては、否でも応でも堂々と幸生と並んで映画が観れる、そのことがいちばん大事なのだ。


 ただ、これからは映画研の観賞会と、桜と観るものとをうまく振り分けていかなければならない。幸生は傍らの菜津に構わずそのことで頭がいっぱいだった。

 もっとも、そうなると、今年は更に観賞数が多くなるのかもしれない。


「なに、考えてるんですか?」


 ぼんやりと物思いに耽る幸生を引き戻すように菜津が声をかけた。


「いや――別に」


「センパイって、ときどき自分の世界に入りこんじゃう――もうっっ」


 そう言うと菜津の頬がぷくりと膨らんだ。

 幸生はただ黙って菜津を見返した。



 校門を出てからも、ふたりはそのまま寄り添って駅への道を歩き続けた。


「自主映画、どうすんでしょうね、ヘンリー部長……」


 菜津がぽつりと呟いた。「本気なのかなぁ……」


「さあ、な……」


 あいつの言葉は出任せばかりで信用おけないからな。

 喉まで出かかったが、それは飲み込んでおいた。


 菜津の瞳が幸生の前を覆い、まっすぐに幸生を射る。


「あたし――井崎センパイが監督すんのなら、主演女優になりたいなぁ」


「俺はそんな気はないよ」幸生は即座に否定した。「やるなら梯だろ。あいつ、自分でも作ってたって言ってたし。来年度は梯が監督で、お前が主演で作るんだな」


「えーやだやだそんなのォ~。来年もいっしょにいましょーよォ~」


 菜津の絡めた腕に力がこもるのを感じる。

 幸生は菜津の問いに肯定も否定もしなかった。


「あたし……センパイといっしょがいいんです……」


 菜津が更に腕を引き寄せてくる。


 菜津の胸の柔らかな感触が幸生の腕に添って伝わる。


 幸生は抗うのももう面倒だと思ったのか、そのままさせるに任せていた。


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