#4 遠雷

==================================

【遠雷】

 1981年 日本映画

 監督:根岸吉太郎 出演:永島敏行 ジョニー大倉 石田えり

==================================


         ◎


 桜にとって楽しみな日曜がやってきた。


 なにせ、桜自身のチョイスでこの日観る映画は決まったのだ。

 ふだんはたいがい幸生の好みで選んでいた。それが、今回は桜の強い希望で叶ったのだ。

 もちろん、桜に幸生の選定が嫌いなわけではない。たいがいの高校男子なら選ぶだろう、アクションものや常套のホラーなどはチョイスせず、桜と一緒の場合はちょっとした文芸寄りのものや、ややマニア向けに近いマイナーな小品を選ぶ、その幸生のセンスぶりには、桜も感心している。

 けれど、やはり桜にだって観たい映画はある。

 幸生と一緒に、観たいと思う映画がある。


 それを、今回桜は押し通した。


 実際、幸生があまりラブロマンスものが好みではないことは、桜も知っている。

 なので、幸生はいまひとつ納得いかないままのようだったが、折れてくれたのだった。


 そんな顛末もあり、だから尚更、桜にとってはこの日曜が待ち遠しかった。




「いってきまーすっ」


 弾む声でキッチンの絵笑子に声をかけ、桜は玄関から跳ね翔んだ。

 エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け降りる。

 体を動かしていないと、弾けてしまいそうだった。

 停留所で待つ間も、バスに乗っているときも、バス停からシネコンへ向かう道でも、桜の心は地上5cmに浮き上がっているようだった。



 バスに乗っている間に、幸生からDMの着信が来た。


“席、とれたよ E9”との短いメッセージ。


 あいかわらず、幸生の行動は早い。

 まだこっちは映画館に着いてもいないのに。そう思いながら、桜はメッセージを返した。


“わかった こっちもすぐにとるね”


 それだけを送信すると、桜はアプリを閉じ、シネコンのサイトを開いて、ふたつの街の劇場のタイムテーブルを何度も確認した。



――だいじょうぶ。

  おんなじ時間、おんなじくらいの広さのスクリーン。


  あとは、自分が隣の席をとれば、いい。

  E-10。ダメなら、E-8。

  彼の隣りの場所。





 シネコンのロビーには、既にかなりの客が訪れ、混雑を始めていた。

 日曜とはいえまだ午前中だが、先週・今週と話題作の封切りが続き、それを目当てに来場した人々が多かったようだ。チケットカウンターには列ができ、整列のためのパーティションロープが張られていた。3つほど折れた列の後ろに桜は付いた。


 並んでいる間、「E-10、残ってますように。とられませんようにとられませんようにとられませんように」と桜は心で祈り続けた。


 数分待機させられ、ようやくカウンターまで到着した桜は、隙かさず作品名と時間をスタッフに告げ、相手が「どの席にいたしましょうか」と句を継ぐよりも先に「E-10、おねがいしますっっ」と発した。




 座席が確保され、発券がされて、ようやく桜は安心した。

 券を受け取りカウンターから離れると、チケットの表示面を何度も確認した。


 E-10。



――よし。間違いない。



 それを財布に大事そうに仕舞うと、バッグからスマホを取り出し、幸生にメッセージを送った。



“E10とれた。”



 送信後しばらく画面を見ていたが、『既読』の表示が点かなかった。



――まあ、ちゃんととれたから、いっか。



 桜は諦めると、時間までロビーのベンチで待つことにした。


 財布の中からまた今取ったばかりの券を取り出し、両の手に包むようにしながら、しげしげと見つめる。


 桜の瞳には、掌の中の座席券しか見えなかった。

 ベンチのすぐ隣りで、誰が座り、誰が席を経とうと、まったく感知することはなかった。親子連れ。高校生のカップル。中年の男性。老夫婦。

 その中の誰かが、掌の中のものをちろちろと覗き見ていたとしても、桜はぜんぜん気付くことはなかった。




 入場時刻になり、館内に入ると、思った以上に座席は埋まっていた。



――そりゃそうか。話題作だもんね。



 桜は改めてそう実感すると、自分の取った座席を探した。

 『E-10』は、列に沿った通路の前方。やや前寄りのほうだ。

 前方寄りの席は、幸生の好みだった。「そのほうがスクリーンが視野いっぱいになるから」というのを幸生がよく話していた。どちらかといえば桜はもう少し後方のほうが好きなのだが、桜はそれに合わせていた。

「それに、ここまでスクリーンに近いと、あんまり前に来る客もいないしね」

 どうやら幸生はその理由のほうが大きいようだった。観賞の最中にスクリーンとの間を遮られるのを嫌ったのだ。


 座る前に客席のほうを振り返る。かなり混雑――概ね7割ほどの埋まり方をしていたが、席が埋まっているのは通路を挟んだ後方ばかりで、桜の(というか、幸生の)選んだ通路前方はぽつりぽつりと座っているくらいで、まだかなりのゆとりがあった。

 桜の座っている『E-10』も、その両側がまだ空いたままだった。というより、そのE列に座っているのは、あとは通路際の席の他には2、3席が埋まっている程度だ。


 ひと渡り客席を見遣り混み具合を確認して、桜は席に落ち着いた。



 腰を下ろしバッグを膝の上に置く。

 本編が開始して少し経てば、桜はたいがい空いている隣りの席――ふだんなら幸生が取っている席――に自分の荷物を置く。映画が始まるまでは、あるいは館内が暗くなり人が入ってこないのを見計らうまでは、隣の席に置くのはマナー違反だと桜は考えている。

 そんなことを思いながら様子をみていると、桜の右側――『E-11』に、大学生風の男性が座ってしまった。


 仕方ないなぁと思いつつ開始を待っていると、少し間の後、こんどは逆側の『E-9』にも人が来て座席を埋めた。


 桜は、両側に男性に挟まれる形となった。

 仕方なく桜はバッグを足の前に置いた。



 それにしてもこのEの列にはぽつぽつとしか客が座っていないのに、両隣が埋められてしまうなんて。

 前列Dには、左前の9番と、13番、それに少し離れて通路側にひとり。

 C列にもぱらぱらと2、3人。

 人口密度を考えれば、D列真ん中あたりのこの辺が異様な高さになっていた。

 自分のいる座席の周りだけぎゅうぎゅうな感じになり、桜はなんだか居心地が悪いよりも可笑しくなった。


 何げに桜は『E-11』にいる大学生風の男性をチラリと眺めた。



――あれ、


  このひと、たまにこの映画館で見かけたこと、あるな……



 そう心にひっかかったが、あまり気にすることもせず、開始までの時間をぼんやりと過ごした。


 よく見かける顔は、なんとなく憶えてしまうものだ。



――たしか、この前も、同じ映画で近くに座っていたなァ……






 開幕の報せがアナウンスされ、館内が徐々に暗くなった。

 桜は「あ」と思い出したようにバッグからスマホを取り出し、電源を切った。

 OFFにする前、アプリをチラ見すると、幸生からの返信はなかったが、『既読』にはなっているのを確かめ、桜は少しホッとした。



 場内が暗転していく間、なんとなく左側に座る30代くらいの男性が、自分の一連の仕草に視線を向けているような感覚を抱いたが、特に気にすることもなくすぐに忘れスクリーンに注意を向けていった。



 上映開始後、しばらくはスクリーンに意識を集中していた桜だったが、途中から或る事が意識の片隅でもぞもぞと蠢き始めた。


 右側、E-11。

 そこに座っている若い男性のほうから、チロチロと視線を感じるのだ。


 あからさまに桜のほうへ顔を向けているわけではない。ただ、何げに、気がつくと隣から見られているような感じがする。

 いや、「見る」というよりは、この右の男性は、映画そのものよりも、桜自身に注意を払っているようだ。そんな気がする。


 不審に感じながらも、桜は映画の筋を頭で追っていた。



――あれ?



 座席の右側にばかり注意を払っていたが、いつの間にか逆の側、左の肘掛けが隣の客に占領されていた。E9に座っていた男性の肘が大きくはみ出し、桜の領域を侵しかかってきていたのだ。

 映画館の客席の肘掛けはその両側席の共有部。いわば、中立地帯だ。先に獲ったもの勝ちという不文律もあるが、たいがいマナーの良い者にとっては、己の肘を添えるくらいで、ましてや大きくはみ出させるなどもってのほかだ。


 ずいぶん行儀の悪い人だなあ、と桜は思った。


 右も、左も、気を削ぐ状態。けれど、なるべく気にしないように意識を逸らせながら、桜は映画に集中しようとした。


 桜は、スクリーンに気を向け、映画の筋を追うことに注力した。



 と――その左側の肘が、こんどは大きく肘掛けの塀を越えてきたかと思うと、桜の体の部分に接触をした。


 それは、ほんの一瞬だった。


 おそらく、桜自身と、この男性しか気づかない程度だった。周囲も気にするほどの騒ぎにはならなかっただろう。

 だが、侵略してきた肘は、確かに桜の柔らかな胸の膨らみの側面に触れた。



――?!?



 ぴくっ、と強張る桜の緊張が相手に伝わったか、静かな速度で肘は侵犯を下げ己の陣地へと戻った。



 偶々たまたま、偶然肘がぶつかっただけだろうか。



――そうだよね、きっと。

  たぶん、ちょっとしたアクシデントだね。



 男性が腕をすぐに引き戻したこともあり、桜はそう思うことにした。


 驚きはしたけれど、目くじらをたてても仕方ない。

 今は映画に集中したいし。


 だが、しばらくすると、また男性の肘が桜のほうへ次第に寄ってきた。

 桜は体を逸らし、「こほん」とやや小さめの咳払いをして意識を向けさせようとした。

 そのたびに男性の腕は自陣へと押し戻る。


 そんなことが数回繰り返された後、ようやく男性の腕は肘掛けの塀から降り、E-9の領地へと収まった。その気配を視界の隅で確認し、桜はようやく心を収めた。


 が。


 数分後、映画が物語の中盤へと差し掛かった頃、男性の腕が、桜の領域にふたたび忍び込んできた。

 今度は肘ではなく、手がふわりと桜の左腿に着地した。



 びくんッ。



 桜の全身が硬直し、皮膚を鳥肌が覆う。


 掌の感触がさわさわと膝から次第に脚の付け根へと辿っていく。

 桜は必死にその手を払い除けようとするが、侵入する欲望に圧し戻される。



 心は嫌悪に満ち、吐き気がこみ上げる。

 恐怖で全身は強張り、声が出てこない。


「あのッッ……やめ・て……くだ……さ……い……」


 それでも必死で呻いた声も、劇場のサウンドトラックに埋もれてしまった。


 肉欲の塊と化した掌は、桜の領域に次第次第に忍び込もうとしつつあった。


 よこしまな腕は太い筋肉を漲らせ、圧し除けようとする桜の白く細い腕を払い、脚と脚の間の深部へと辿り着こうとしていた。


 まだ、ひとりの愛しい人しか触れたことのない、その芯の部分へ、汚れた指先が届こうとしていた。


――い・や……


 既に体は硬直し、桜の心はすべての抵抗の術を喪い、絶望の縁へと追い込まれつつあった。




  ・


  ・


  ・


  ・


  ・


  ・




 ――と、





 逆側から、さッ、と伸びた白い腕が桜の視野とスクリーンの間をシャッターしたかと思うと、矢庭に左側の男の腕を掴み上げた。



「おい――なにやってんだ!?」


 痴漢から桜を助けたのは、右隣の学生風の男性だった。


「なっっ・何すんですか!?」


 右腕を掴まれた男が、驚いて素っ頓狂な声をあげる。

 学生は、それには動じずに、男の腕を掴んだまま桜に声をかけた。


「知り合い?」


 桜がぷるぷると首を振る。


 学生風の男性は、いっそう力を込めそのやましい腕をにじり上げた。


「いッ・いててッ」


 苦痛に顔を歪めた男が呻く。

 当事者でありながら、桜はただ固まって成行を見守ることしかできないでいた。


「このコ、迷惑してるでしょ。せっかく観に来たのに、不快な思いさせられて、可哀想じゃない――そう思いませんか?」


 そう言いながら、学生はギリギリとさらに左の男の腕を捩じ上げる。銀幕の反射光が男の額に浮かんだ汗が、じっとりと鈍く光った。


 ようやく学生の腕を引き剥がした男が、「何なんだよっ。けっ……ケーサツ、呼ぶぞっっ」と震える声で凄む。が、それに学生は動じない。


「どうぞ。じゃあ、この映画が終わったら、このコと一緒に交番へ行きましょ」


 そう言い、学生はチラと桜に目配せした。

 分が悪くなった左の男は、ぐぅの音も出ずに押し黙った。




 続いて右側の学生が発した言葉は、桜に或る記憶と感情を呼び覚ました。



「少しだけ、人から愛されるように――映画、観ませんか?」




――あ。



 瞬時、桜のシナプスがある繋がりを形成した。

 脳内の情報は紐付けられ、眠る記憶を呼び覚ました。



――その……言葉、って――



 そう桜が頭で言葉を形成する間に、学生風の男が放った言の葉は、劇場の館内へ雲散していってしまった。桜は言葉を掴みそこねた。


 と、同時に、桜の左の男は学生の掴んだ腕をようやく振り解くと、黙ってそそくさと席を離れて行った。


「だいじょうぶ、だった?」


 右の学生の囁く声が桜の耳に届く。


「あ、そ・その――」


 慌てて桜が何か返辞をしようと口を開いてはみたが、どんな言葉を返せば良いのか。そんなことで戸惑っているうち、学生はチラ、と桜に目配せをし、声にならない声で促した。


(いまは、映画観ましょうよ、ね?)


 そう、学生は目で話しているようだった。


 桜は小さな頷きを返すと、この学生に従い映画に集中することにした。



――そうだよ。

  この映画を観るために、ここに座ってるんだもの。

  なら、観なくちゃ、ね。



 ひとつのトラブルで集中は削がれてしまったものの、一難は去り、桜の気持ちも次第に落ち着きを取り戻していく。


 と同時に、冷静になった脳は、先程の‘引っかかり’の意味を探り、記憶から関連を見つける作業を行っていた。




 やがて、桜の芯部から、ひとつの記憶が掘り出された。


 同時に桜の中のイメージが、幸生の顔を浮かび出す。


 あのフレーズが被さっていく。



“少しだけ、人から愛されるように、映画、観ませんか?”



 あ。



――そうだ。

  あれは、


  あのとき、


  幸生くんが言った科白――


  でも、

  どうして、彼と同じ科白を、このひとが――??





    *   *   *




 目と耳ではスクリーンの情報を追いストーリーをトレースしていたが、桜の脳の情報処理部分は、あのフレーズについての検索でフル稼働な状況だった。



 映画本編のお話そのものは、頭にインプットしてはいる。


 仕方ない。あとで記憶を反芻しよう。


 桜はそんなふうに考え、映画を観終わった。



 疑問符を抱いたままの頭では、どうにもスッキリとできない。

 左側の男を去らせてくれたこともキチンと感謝したかったが、残った右の学生に、あのフレーズのことを訊ねてみたかった。



 だが――どういうふうに??



 まだエンドロールが流れる中、気の短い観客たちがぞろぞろと出口へと向かっていく。

 桜は、右の学生が先に立ち上がらないかと、気が気ではなかった。


 だが、学生は腰を上げる気配すら見せず、黙って下から上へと消えるクレジットを目で追っている。


 よかった。

 どうやら、この学生も、エンドロールを中座するようなひとではないようだ。


 安心すると同時に、桜は妙な親近感を持った。



 クレジットが最後まで流れ、制作会社のロゴとcマークが漆黒の画面の中浮かび上がり、それもフェードアウトし館内が徐々に明るくなっていく。


それを待っていたかのように、E-11の学生は、そそくさとその場を立ち去った。


「あっっ」


 戸惑う桜の取り付く島もなく、学生の背中がどんどん遠ざかっていく。


 ここで声をかけなくちゃ、もうお礼を言う機会なんてなないかもしれない。

 そう判断した桜は、意を決して、背中を呼び止めた。



「あっ……あのォッッ!!」


 声に出したとたん、彼をどのように呼んで、声がけすればいいのか、考え及んでいない自分に気付いた。

 呼びかけの固有詞を見当たらず、桜の言葉は宙を漂った。


 けれど、思いは通じたらしい。

 学生の足がぴたりと留まり、体を反らし、顔を桜のほうへ戻した。


 桜と学生の瞳が交錯する。

 思わず愛想笑いを顕した桜へ、彼は、微笑み返したようだった。

 穏やかな口許から言の葉が零れた。


「――何?」


「え、と……さ・さっきの、その――」


 桜が口篭もる。足を留めた学生は、桜の次の言葉を待つかのように凝っと桜の表情を見ている。それを悟り、桜はますます慌て頭がまっ白になる。


「え・えぇとぉ……」


 先程不審者を撃退した、あのフレーズは何だったのか、ホントは訊ねたかった。

 けれど、問うべき言葉が思いつかない。理解してもらうには、物事を順序立てて説明しなくてはならないような気がする。そんなの立ち話の一瞬では、ムリだ。

 頭の中で内容を整理してみる。


“あのっ、あたしの友達が以前映画館でガラの悪いグループに注意したときに逆にからまれてそれで反論しようとしたときにそのさっきあなたがあのチカン相手に話したセリフとおんなじのを言ってたんですけど、それってなんなんですか? あ、その友達っていうのは前の高校で一緒だった映画好きな男の子なんですけどその彼とはそれがきっかけで話をするようになってそれでその要するにあたしと幸生くんはつきあうようになって、でもいろいろあってあたしは転校することになっちゃっていまは離ればなれでそれでこのシネコンがもともとそのあたしが幸生くんと話すきっかけになったところと同系列で上映時間が同じなのがわかっていまは離れててもそのおなじ時間におなじ映画を一緒に観ることがふたりの約束になっててきょうもそれでこの映画を観てたんですけどそしたらこんなメに遭っちゃってそんなときにあなたがアイツの腕を掴んで言ったのがその幸生くんが映画館で騒いでた連中に注意したときとおんなじセリフだったんですけどそれっていったいなんなんですかなぜなんですかおしえてください”……



――ダメダメっ。


  きっとこの人から「(゚Д゚) ハァ? (゚Д゚)」て顔される。そうにきまってる。



 桜の頭はフル速度で情報を処理しようとしていたが、かえって暴走するばかりだった。その間にもどんどん時間は過ぎていく。館内の観客はどんどん出口へ吐き出され、客席の人もまばらになる。それがかえって桜の気を焦らせる。



 桜は改めてその学生風の青年の顔を見た。

 何度かこのシネコンで見かけたことはある。けれど、話をしたことなどもちろん無い。

 まさに今の今がほんとうに初対面の相手に、助けてもらったとはいえこんな意味不明な頓狂な質問をして、ヘンに思われたりしないだろうか。


 青年はその間も黙って桜を見つめていた。

 見つめられて、桜の顔は真っ赤になった。



 そんなしどろもどろな桜に助け舟を出そうと思ったのか、彼のほうから口を開いた。


「べつに――お礼なんていいですよ。ただ、キミが困ってる様子だったから。かわいいおんなのこが困ってたら、助けてあげなくちゃ、って思うのって、あたり前でしょ?」


 そう応えると、彼はニコリと微笑んだ。笑顔の青年の右の頬にえくぼが現れた。


 なぜだか、桜の心臓がドキリとした。


「あの……ホントに、ありがとうございましたっ」


 その場の会話の流れで感謝の言葉を述べたが、桜の訊きたいことはそんなことではなかった。

 桜の口が改めて質問をトライする。


「そ・それで……その……」


 訊ねたい。

 けれど、どう説明したらいいのだろう。

 桜の脳が熱暴走する。また口篭もる。



 困っていると、学生風の青年が告げた。


「あのォ……これから、少し時間、ある?」


「??」


「もし、さっきのことで、なんかお礼を、とか思ってたり……するんなら、さ……ちょっと、一緒にお茶でも、つきあってもらえません、か?」


「え」


 ぎこちない誘いに、桜は思わずこくり、と頷いていた。



    *   *   *



 妙な展開になってしまった。

 桜はそう思っていた。


 もともと、ただあのときこの学生風の男性が言った言葉のことについて、訊ねてみたかっただけなのだ。

 痴漢から救ってくれたことはもちろん有り難かったが、べつにこの男性とお茶をしたいなんてことはまったく頭にもなかった。


 けれど、恩ある相手の誘いを断ることは、礼を欠くのではないか。

 そんなことを悩みながら戸惑ううち、なんとなく、流れに逆らえぬまま、桜はこの学生にいて行くことになった。


 助けてくれた相手を無碍むげにはできない。

 けれど、幸生に後ろめたい気持ちもある。

 ふたつのアンビバレントな良心が桜の内部で葛藤していた。


 気付けば桜はカフェテリアのテーブルでこの学生と向かい合って座っていた。



 シネコンからそう遠くない繁華街。そのアーケードの中ほどの、路をひとつ隔てたところにある、ちょっとシックで小洒落た手作りケーキの店。そのあたりは、この学生も女の子に気を使ってくれているらしい。


 テーブルにやって来たちょっとメイド風の深緑の制服のウェイトレスに向かって、青年はカフェオレを注文した。


「なんでも注文して。遠慮しなくて、いいからね」


 そうは言っても、ほぼほぼ初対面の相手を前に、遠慮するなというほうが無理な話だ。桜はミルクティーを注文した。


「それだけでいいの? ここのブルーベリーパイおいしいって、ネットで評判なんだ。それ頼もうよ」


 青年はそう言うと、桜の同意も得ないうちにケーキセットに変更してしまった。

 あんまりおなか減ってないのにな、と桜は思ったが、断るタイミングもなくウェイトレスが「ではオーダー繰り返します。カフェオレひとつと、ブルーベリーパイミルクティのセットおひとつですね」注文を復唱し、厨房のほうへと引き下がっていってしまった。

 カウンター越しにウェイトレスが「ワンカフェオレ、ワンミティ、ワンブルーベリーセット」と告げている。

 それを眺めたあと、桜は青年のほうへ向き直り、「あ、なんか、スミマセン」と謝辞を述べた。

 言ったあとでその「スミマセン」は何に対しての返辞だったのだろう、と桜は自問自答した。


 それにしても。

 こんなところに、こんなこじんまりとした洒落たお店があるなんて、気づかなかった。

 桜はこのアーケード街では殆どメインストリートしか歩いたことがない。時代を重ねた脇道の風景も物珍しかった。


 桜の中では、かつて通ったシネコンの道筋にあったケーキ屋の記憶と被った。


 そんなことを心で連想している間、対面の青年は


「チェリーパイがあれば僕も頼むんだけど。アメリカンとのセットにしてね。もちろんそのときはブラックで」


 とか、


「パンプキンパイならシナモンティーだよね、あえて」


 などと、桜にはまるでチンプンカンプンな小ネタを、まるで独り言のように言った。


 桜はただ頷いたり「そうですね」や「そうですか」とか「ハァ」と相槌を打つしかなかった。だって出逢ったばかりで共有できる会話がないのだ。


 店内を見回す。時代を重ねた柱や壁の威風がこの店の歴史を語っていた。



――なんか、いいな。



 桜は心で呟いた。


 と同時に、桜の中で、ふとあの母の好きだったモンブランのお店が思い浮かんだ。

 買ってきたモンブランを、母の沸かしてくれたミルクティーと一緒に愉しむ。今はもう体験することの叶わない、至福の記憶。

 ミルクティーを頼むなら、モンブランにすればよかった、と思った。


 でも……

 あの店の味とはぜったいに違うのだ。たぶんここのモンブランもおいしいだろうけれど。

 あの、クリスタルの輝きのように、透明だが脆い、そんな大切な記憶が上書きされ壊れてしまうのも、また嫌だった。







 オーダーしたものがテーブルに並べられると、二人は互いの自己紹介をし、互いの名を識った。


学生風の男は、自分を「あきひこ」と名乗った。「四季の、はるなつあきふゆの秋に、ひこにゃんの彦。あっ、ひこにゃんはぜんぶひらがなか」

 そう言って秋彦という彼は笑った。また右頬に靨が現れた。


 元川秋彦。

 青年は、県下の私大に通う二回生ということだった。「学生ぽい」という桜の予想は当たった。

「もっとも、一浪してるから、もう二十歳なんだけど」


 そう言ってはにかむと、えくぼがまた右頬に現れた。


 行きがかり上、桜も自己紹介をせざるを得ない。市内の高校二年ということを告げた。


「へえー、桜さん、て言うのかあ。じゃ、三月か四月生まれなのかな?」


「あ、四月、です。 今年になって、引っ越してきて。……まだ、あんまりここのこと、よくわかんなくて……」


「一月に越してきたの? じゃあ、雪に驚いたでしょ。こっち、日本海側は、積雪がハンパないからねぇ」


「ええ……」


 青年は、桜の興味を惹こうと思っているのか、会話を途切れさせないよう一所懸命に話題を吐き出しているようだった。


 なんだか、それを見ている桜も、次第にこの秋彦という青年への警戒心が薄らいでいった。



 ひと通り自己紹介の話が了わると、秋彦と名乗る青年は何か意を決したような表情になり黙り込み、コーヒーカップの残りをぐいと飲み干した。

 カップがソーサーにゆっくりと触れる音がカチャリとテーブルに伝わり、桜の胸を刺す。


 今までとは打って変わって思い詰めた貌になった秋彦が、突然両の手をテーブルにバン、と着き、頭を下げた。


「……ゴメンッッ」


「え??」


 訳の分からぬ謝罪をされた桜は、目が点になってしまった。

 秋彦のこうべは尚も垂れ続け、ついには額が卓の表面を擦るかというほどに下げる。

 呆気にとられた桜に構わず、秋彦が口を吐いた。



「初めてじゃ、ないんだ――ホントを云うと、ね――キミのこと、ときどきあの映画館で、見かけてたんだ」


「え!?」


 いったい、きょうは何度驚かされるのだろう。


 驚嘆の声さえも今度ばかりは喉の途中で詰まってしまった。

 呆気にとられる桜の態度に気付かないのか、あるいはそれを見ぬふりをしているのか、目の前の秋彦は謝罪の言葉を続けた。

「2月くらい、かな――あのシネコンで、ある女のコの姿をよく目にするようになって……で、だんだん、気になっていって……」



――あたしの、こと?



 桜の心が呟いた.

 瞬間、対面する秋彦が顔を上げ、目が合う。

 桜の心の言葉が伝わったかのように、秋彦がこくりと頷いた。


 どきり、とした。


 ときめきを見透かされなかったろうか。緊張した背中を電気が疾る。


 秋彦が、目を逸らしてふたたび口を開いた。

 青年の頬はうっすらと紅に染まっているように見えた。


「……見てるうちに、キミが、いつも同じ席に座るのに気がついて――それで、いつか、きみの隣の席に座ろうって、思ってたんだ。

 それで、きょう、ようやくその決心ができたんだけど――もう、キミの隣りの席はとられちゃってたよ。それで、仕方ないから、最初に考えていたのとは逆の側――キミの右側の席に座った。

 ――ホントは、きみの左側に座るつもりだったんだけど」


 桜から見ての左側の席は、まさしく幸生のためのスペースだ。

 この秋彦という人物は、そのことを知っているのだろうか。


 そんな筈はないのだけれど。



 桜の頭の中では疑問と推測とがぐるぐると目まぐるしく転回していた。

 そんなパニックの間にも、秋彦の告白は続いた。


「でも、結局こんなことがキッカケになって、きみとこうして話ができる糸口ができて――いや、こうやって、お茶しながら、きみを正面から見つめることができるなんて……わかんないよなあ、人生って」


 そう言って、秋彦というその学生は笑った。


 こんな些細なことを「人生」に例えるなんて、なんて大袈裟な人なんだろう。桜はなんだかおかしくなった。


「そう……です、か……」


 絶句していた桜の口がようやく開いた。

 秋彦の舌が一旦区切りがつき、少しの間ができたための相槌だったが、継いだあとで要らぬ発言だったな、と少し悔やんだ。


「こんなコト告白して……オレのこと、キモいと、思う?」


 桜は口角を上げて「ううん。そんなことないです」と返した。


 それを確認して、秋彦はほっと安堵したようだった。



 カップを持ち上げた秋彦は、冷めてしまったコーヒーを飲み干し、ふたたび口を開いた。

 置かれたカップの底に焦茶色の円環が浮かんだのが桜の目に留まった。


「せっかくだから、もうひとつ、お願いして、みようかな、と思うんだけど……」


「?」



 こんどは、いったいどんなことを告げて、驚かされるのだろうか。

 カップの底の丸に気をとられていた桜の心が、また喫茶店のテーブルに引き戻された。


「もし、嫌でなければ――ホントに、できれば、で、いいんだけど――これから、あの映画館で観るときは、きみの隣に座っても、いいかな」


「え?」


「あ・あのホラ――きょうみたいなコトがまたあったら、困るだろうし、さ……キミの隣、左側に、僕が座って、桜ちゃんを守ってあげるよ」


 戸惑いをみせ瞳を泳がせる桜に、秋彦は返辞を迫ることなく、句を継いだ。


「もちろん、ダメなら仕方ないんだ……あ、だから、今すぐに答えなくってもいいよ。

 ……ボクのアカ教えとくからサ」


 そう言うと秋彦は財布から名刺を取り出し桜に差し出した。テーブルにそっと置かれたそれを桜は拾い上げた。

 横書きで書かれた『元川秋彦』という文字の下に、メアドと、LINEのアカウントが添えられている。

 しげしげと文字を目で追う桜に、秋彦の声が耳に届いた。


「こんどまた、あそこで映画観るときは……連絡してくれると、嬉しい」



「……………………はぁ…………」


 少しの間を置いて、桜はゆっくり小さく頷いた。





    *   *   *



 カフェでの対話は終わり、桜は秋彦と別れ駅へと向かった。

 別れ際、振り返った秋彦が叫んだ。


「ねえ――ホントに、また会えるかな?」


「たぶん――映画館で、ね」


 桜はそう言葉を返し、自分の乗るホームへと降りていった。




 電車に揺られているときも、改札を出ても、きょう起きた諸々の出来事が頭から離れず、桜の心で反芻された。


 いつもならバスに乗り継ぎ家まで帰るのだが、今はそんな気分になれず、桜は歩いていくことにした。


 ひとりで考えたい。そんな心持ちだった。




 歩いているうち、劇場で上映開始前に電源を切ったスマートフォンがそのままだったことに気づいた。

 きっと幸生から着信があっただろう。慌てて電源をONにする。

 


 予想通り、幸生からLINEのメッセージが届いていた。

 桜は指先をフリックし文章を入力、すぐに“送信”ボタンを押した。

 画面に操作が反映されるのが、えらく遅く感じる。


 ようやくスレッドに桜の描いたメッセージが表示される。



“ごめんね――ちょっとボゥッとしてて、メッセ見のがしちゃった


 映画はおもしろかったよ。

 たまにはああいうのも、いーよね”


 暫く画面を見詰めていたが、“既読”のマークは点かなかった。


 諦めてスマホを握ったまま桜はまた街道の歩道を歩きだした。

 桜の傍を大小のトラックが通り過ぎていく。排気ガスの匂いが桜の顔にかかり、思わず手で扇いだ。


 遠くからゴロゴロと轟きが聞こえてきたような気がして、桜は空を見上げた。

 彼方に暗雲が覆い、時折稲光が瞬いている。その光のリズムに合わせ、数秒を隔てて雷鳴が桜の体の芯を揺らした。


 ぼんやりと黒雲の動きを眺めていると、桜の掌の中でブルブルと四角い塊が自己主張をした。


 握っていたスマホを持ち上げると、画面に通話の着信の報せが表示され、“幸生くん”という文字が踊っている。

 桜は通話をONに切り替えスマホを耳元へ寄せた。


「――もしもし?」


 ややくぐもった音で、懐かしい声が届いた。


「あ、悪い。いま平気?」


「あ、うん……」


 なぜだろう。

 大好きな幸生の声が、いまは嬉しいと思えなかった。


「えと……どうしたの?」


 言葉が零れてから、桜はなんだか幸生につっけんどんで済まない気持ちになった。


 そんな桜の心模様を覚られなかったのか、幸生は会話を続けた。


「メッセ書くのめんどくなったから、電話した」


「そ・そう――」


「迷惑?」


「そんなことないけど――」


 幸生の声が届くたびに桜は返していたが、なんだかそれはただおざなりにラリーを続けるだけのような感じだった。



 桜の横を大型のトラックが過ぎていく。その音が聞こえたのか、幸生が「車の音がする」と反応した。「まだ帰ってないの?」



「う・うん――まだ外」どきりとして桜は取り繕った。


「ちょっと……買い物してて」


 言葉にしながら、さっきまで相対していた秋彦の靨が頭に浮かんだ。


 それからも会話は続いたが、桜の頭には内容が留まることがなかった。



    *   *   *



「じゃ、ね」


「うん。じゃ」


 幸生との電話を了えると、桜はぼんやりと消えゆくスマホの待受画面を眺めていた。

 黒い液晶に、桜の顔が映った。


 物思いに耽ったままで、桜はとぼとぼと街道を歩き続けた。



 まだ家までは遠い。

 思い立つと、桜は握ったままのスマホをまた顔のほうに持ち上げた。

 ボタンを捺し、ふたたび操作画面が現れる。

 LINEのアプリを呼び出すと、さっき喫茶店のテーブルで受け取ったメモをバッグから取り出した。

 書かれていたアカウントを検索し、「ともだち登録」をクリックした。




 聞こえていた天の雷鳴が、次第に近づいてきている。

 蠢く雲の動きを桜は見上げ続けた。









――嘘を、


  ついた――




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る