#3 フォロー・ミー

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【フォロー・ミー】

 1972年 イギリス映画

 監督:キャロル・リード 出演:ミア・ファロー トポル マイケル・ジェイストン

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         ◎


 年度が改まり、幸生は映画研究会の新入部員勧誘に駆り出されていた。


 2年生となった幸生は相変わらずどこの部活にも属さないポリシーを貫いていたが、それというのも「クラブ活動なんかに時間を取られるのなら、その合間に1本でも多くの映画を観る」べき、と考えていたからだ。


 だが三月の末日近くに、顔見知りの隣のクラスの“ヘンリー”からLINEで送られてきた『緊急の切実の頼みを聞いてくれ』とのメッセージと共に哀願され、映画研究会新入部員確保のため渋々帯同させられることになったのだった。


 映研部長である“ヘンリー”こと佐伯獏さえき・ばくとは、以前から映画好きということでたまに話をするくらいの関係だったが、三学期に入って桜が転校してしまって以後、学校で会話をする機会が増えた相手だ。


 幸生の映画好きを知ると、事ある毎にヘンリーは幸生に映研入部を薦めたが、幸生は頑なに断り続けた。もともと3人しかいなかった実働部員のうち、3年生だった二人が卒業してしまうため、実際の部員はヘンリー一人だけになってしまう。彼も部長として自分の代で廃部になることだけは免れたい。必死だった。

 幸生にしても、ディープに映画を語れる友人は大事だと考えていたが、それとこれとは別。己のポリシーを曲げたくはなかった。


 そんなヘンリーから求められた助けは、「新入部員の勧誘を手伝ってくれ」ということだった。


「なあ、マジでヤバいんだよ。お前も知ってるだろ、ウチの部の実情。いまクラスのダチにユーレイになってもらってるけど、せめてあと2人、どうしても確保しないと人数不足で同好会に格下げになっちまう。だから、な? お前しか頼れる相手、いないんだよ頼む」


 入部は固辞していたが、友人一人を助けないほど幸生は人でなしでもない。

 それに、義を見てせざるは勇無きなり、とも云う。


 映画1本分と引き換えに、幸生はポリシーをヘンリーに売った。






 入学式を終えた新入生たちが講堂の鉄扉から吐き出されてくる。

 それを待ち兼ねた各クラブの精鋭たちが、我先にと出てくる新入生らを捕獲していく。数に物を云わせる軽音研などの大所帯のクラブなどは、排出されてくる新入生を次々に取り囲むと、拉致するかのように一網打尽に拿捕していく。


「えー、映画に興味ないかナー、作るほうも見るほうも、どっちもいいよーこちらは映画研だよー」


 せっかく応援に駆り出されたのに、ヘンリーのやる気のなさそうな呼び込みに幸生も萎えてしまった。


「なあ……もう少し切羽詰まった勧誘したほうがいいんじゃないか」


 看過しきれず、思わず幸生が忠言する。

 これではどっちが正規の部員だか分からない。


 いまだ数行しか増えていない『勧誘リスト』を手に持ちぴらぴらと振りながらヘンリーが愚痴る。


「あー、でもよォ、いまどき映画の部に入ろうなんてヤツ、いんのかね? あーあ、いっそ映研じゃなくてアニメ研究会とでも名称変更しておいたほうが人集まったのかなぁ」


 と、呟くと、ヘンリーは隣にブースを設けた漫画研究会をチラと横目で見遣る。

 漫研は昨今の即売会ブームのお陰か、新入生たちがひっきりなしに説明を求めに訪れ盛況が続いている。

 幸生もその風景を眺めてはみたものの、呼び出した映画研への義理から


「なに莫迦云ってんだよ」


 と返す。

 だが、当の部長であるヘンリーがこの様では、望むべくもない。

 むしろ、今日が映研最後の日、とでも割り切っているのだろうか、とヘンリーを慮った。



 そういえば、こいつ、なんでヘンリーなんて呼ばれてるんだろう。

 いままで訊ねたこともなかったな。



 盛り下がる頭の中で、幸生はいまどうでもいい事を考える。


 いかんいかん、と頭を振ると、ブースの前で『新入部員募集 映研へ来たれ』という幟を持つヘンリーに「替わるから、こんどお前が座ってろ」と声をかけ、奪い取るように幟を引き受けた。


 今度は幸生が口上を声に出す。


「映画研究会っ! 映研はここでーすッ! 映画好きは、とりあえず寄ってって!」


 声で呼び込みはしていたものの、幸生の頭は、さっきのどうでもいい疑問を捏ねくり回していた。



 ヘンリー。

 ヘンリー……


 たぶん映画『ヘンリー』のシリアルキラーの主人公に風貌が似ているからだろう。



 そんな連想が繋がると、チラリ、と後ろのヘンリーの顔を捉える。

 ヘンリーの出張った額と奥目が、幸生の脳内でマイケル・ルーカーの面影と重なった。

 口許がニヤけるのを周囲に悟られないようにしながら、幸生は声を張り上げた。


「映画研究会ーっ。映研はこちらでーす!!」


 誰も足を停める者もない新入生の波に酔い、幸生は軽く眩暈を起こしかけた。




 次第に朦朧とし始めた幸生の横で、誰かが声を出した。


 ような気が、した。


「……ぁのぉ……」


 蚊の鳴くような弱々しい声が幸生の横でしたように思えたが、

よもや自分が呼びかけられているとは思わない幸生からは意識外に置かれ、新入生たちを勧誘する喧騒にかき消されてしまった。


「……あのっっ」


 こんどは強い声で指向性を持った意志が耳に届いた。


 自分にかけられているとようやく気づいた幸生は、声のするほうへ首を振ったが、視野には誰もいない。

 視界の下方にちょこんと出た黒い塊が人の頭だということにようやく気づき、視線を下げると、少女がひとり、赤いセルフレームの眼鏡越しにまっすぐな眼差しを自分に向けている。


 目と目が合い、一寸の後、意を決したような少女の口が開き、幸生に呼びかけた。


「あの……イザキ、さん――ですよ、ね?」



    *   *   *



 進学にあたり菜津がこの高校を選んだのは、たったひとつの理由からだった。


 本来なら菜津の学力や成績なら、もう2ランクくらい上のレベルを狙っても問題ないくらいだ。

 なのに、彼女はここを選択した。

 どうしてもこの学校に通いたかった。


 担任も、親も菜津の志望には反対した。

 けれど、菜津はその意見を悉く固辞した。


 誰が何と言おうと、自分を曲げなかった。



 すったもんだの末に願書を出し、受験をし、合格した。

 入学届は菜津自らが学校へ持参していった。

 三月初旬のまだ寒気の残る中、入学試験のときに訪れて以来2度目の校門をくぐる。下駄箱に掲げられた案内図に従い冷んやりとした学舎の廊下を進むと、入口の引き戸の脇に『入学書類受付』と貼り出された会議室へ辿り着いた。

 しゅんしゅんとストーヴの作動音だけが聞こえる何もない部屋の真ん中に据え置かれた机と椅子に備品のように張り付いていた職員が、事務的に書類をチェックし、ぽん、ぽん、ぽん、と必要箇所にハンコを捺すと、「はい、受理しました。お疲れさま」と告げ、菜津にとっての人生の一大イベントはものの数十秒であっけなく完了した。




 四月。

 新調の制服に袖を通し、菜津は地に足が着かない思いだった。

 購入した店で配布された学校制服の見本チラシを見る。

 モデルの男女が制服を着用し、並んでポーズをとり微笑んでいる写真が紙面に踊る。


 男子モデルの着ているブレザー。それは、紛れもなくあのときに菜津が目にしたものと同一のものだ。

 その男子とお揃いの女子の制服。並ぶ姿は当然の如くお似合いのカップルそのものだ。



 制服の男女モデルの顔をあの“彼”と自分に挿げ替えた姿を想像し、菜津は新学期からの高校生活を空想し悦に浸った。




    *   *   *




 入学式の日。

 退屈な式典が終わると、菜津は講堂から各クラブの新入部員勧誘でごったがえす中庭へと飛び出した。

「陸上部で青春の汗を流そう!」「軽音研でみんなで演奏を……」「動物好きの人は生物部に~マウスの世話をしてみよう~……」等々の声が怒涛となって矢継ぎ早に菜津を襲う。

 勧誘をする各部員たちに腕を取られ、足に躓きながら、菜津の視線はたったひとりの男子学生を求めて彷徨った。



 確証はない。

 “彼”がこの高校の生徒だということだけは保証できるが、何年生なのか、果たしてどの部活に属しているのかなど、すべては暗中だ。


 ただひとつの確かな証拠。この学校の制服を着ていたことが、菜津をこの場へと駆り立て、辿り着いた。


 菜津は、自分のすべての衝動の源である、その“彼”を追い求めた。


 探索の瞳は、彷徨の果て、網膜にひとりの男子学生の背中を映しだした。

 何か、が脳の検索条件と一致した。

 菜津の体は全身を目にして集中させ確認を急ぐ。



 『映画研究会』の幟を抱えたその男子学生がやや俯いた姿勢を戻し、勧誘の声を張り上げる。


「映画研究会っ。映研はこちらですーっ」


 呼び込みの最中に横顔がチラリと見えた瞬間、菜津の脊髄を電流が走り抜ける。



――いた。

  ついに、見つけた。



 心臓が早鐘を打つ。

 全身を巡るすべての血管が拡張し血流を増大させる。

 頬が紅潮する。

 汗が背中を伝ってゆく。

 胃が、腸が緊縮するのを感じる。



 『制服』という、たったひとつの手掛かりから、この高校を志望し、すべての反対を押し切って入学した。


 たったひとりの、“彼”に出遭うために。



 思わず涙が零れそうになるのを必死で堪え、がくがくと震える足で彼の背中に近づいてゆく。


 一歩。二歩。三歩。


 歩むたび、歩幅37センチメートルのぶんずつ、“彼”が菜津の視野に充ちていく。


 ついに菜津の見える世界が“彼”で満たされたとき、逸る鼓動が心臓を体外に圧し出そうかという勢いを抑え、菜津は声を出した。


「――――」


 聞こえない。

 喉に息が詰まって、うまく声が出てこない。


「あ……ぁのぉ……」


 届かない。

 菜津の声帯の震えは微かすぎて、“彼”の鼓膜を共振させなかったのか。


 斜め後方の背中にいた菜津は少し位置を移動すると“彼”の横に面し、いったん深く深呼吸をした。


 もう一度。今度は、もっともっと大きな声で。


 彼に届け、とばかりに。


「あ・あのっ――

……イザキ、さん――ですよね?」


 “彼”が振り向く。


 身長の低い菜津を捉えられず、一瞬目を泳がせたが、存在に気付いたのか顔とともに視線を俯かせていく。眼差しを感じたのか、“彼”の瞳がこちらに焦点を合わせていく。


 菜津の眼と、幸生の眼が交錯した。



 菜津の中の芯が、痺れた。



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(3)


「イザキ、さ  ん――」


「?」


 突然自分の名を呼びかけられ、当初幸生は幻聴か聞き間違いかと疑った。

 声と気配のしたほうへ首を振っても、それらしき姿は認められない。

 だが、視野の下方で蠢く黒い物体が、幸生の意識を留まらせた。

 視線を下ろすと、まだ着慣れない新品の制服の、いかにも新入生と思しき少女が、まっすぐに自分を見つめていた。


「……え……」


 目が合った瞬間、少女の頬は紅潮し、続いて突然ぽろぽろと瞳からこぼれた涙がその頬の火照りを伝わり落下していった。


「……え!? えっ??」


 正面で相い対していた幸生も、映研ブースに座っていたヘンリーも、この新入生の唐突な落涙に戸惑った。

 呆気にとられる二人の間で、少女は涙を拭いながら呟いた。


「あ――ご・ごめんなさいぃ。ちょっと、花粉症なもんで……」


 と、言うと、その少女は「へぷちっっ」とわざとらしいくしゃみをひとつした。



 咄嗟の言い訳は、もちろん、菜津の誤魔化しだ。

 だが、本心を悟られたくはなかった。

 まだ。


「あ、キミ、映画に興味なんか、あるの?」


 横からヘンリーが幸生と菜津の空間に割り込んだ。

 たぶん、部活の勧誘というよりも、この美少女に声をかけたかったのだろう。幸生はヘンリーの動機をそう判断した。


 やや鬱陶しそうな気を一瞬だけかおに表したが、即座に胸に引っ込め、菜津が応対する。


「え・ええ……まぁ……」


 ようやく捜し当てた幸生と対話ができると思ったのに。

 ヘンリーに横槍を入れられ、菜津はちょっと志気を削がれた。けれどヘンリーにあからさまな不快を示すのは控えた。

 幸生に自分の印象を悪く与えたくない。


 とりあえず、このブサイク顔の男と、"イザキさん"との関係が判らない。

 下手に横柄な態度をとってしまうと、幸生に嫌な女だというイメージを持たれてしまうかもしれない。

 せっかく出遭えたのに。

 菜津の頭脳は瞬時にそう判断し、この声がけしてきたブサ男を適当に相手せざるを得なくなった。


 けれど、このブサ顔のお陰で、幸生に自分の心持ちを悟られることはなくなったようだった。

 菜津はやや助かったという気も抱いた。



 そんな気苦労など露知らず、ヘンリーがここぞとばかりに矢継ぎ早に話を繋いでゆく。


「あ、俺この映画研究会のブチョー、佐伯。こいつは井崎っつうの。ヨロシクねっ」


「あ・ハ、ハァ、初めまして」


 菜津はあえてヘンリーにではなく正面にいる幸生へお辞儀をして挨拶を告げた。



――あれ?

  やっぱり、初対面か。



 幸生は菜津の返辞を眺め、そう思いこんだ。

 もとより、過去の菜津との遭遇など、殆ど記憶に残っていないのだ。


「とりあえずサ、クラスと名前だけでも書いてって。――あ、べつにこれで入部決まり、とかいうワケじゃゼンッゼンないし。ともかく、と・り・あ・え・ず、だから」


 ヘンリーは菜津にそう言うと、映研のブースに引き寄せ、強引に菜津の右手に鉛筆を握らせた。

 考える間も与えずに「入部希望者リスト」と書かれたフリップを目の前に差し出された菜津は、選択の余地無く自分の氏名を書かされてしまった。


「ありがーとーっ。ま、正式入部するかどうかは、GWの後でいいからサ。とりあえず仮入部ってことで」


「は・ハァ……」


 ヘンリーの話を聞き流しながら、チラ、と菜津は目線を泳がせた。

 ほんの数メートルの距離に、"彼"がいる。

 自分の視野に、ずっと幸生を捉えていたかった。


 ぼんやりと『映画研究会 部員募集』の幟を抱えて立つ幸生がいる。

 その姿を、菜津の熱い視線は一瞬たりとも逃すまいと追い続けた。



――そっか。

  映研なんだ。


  やっぱり、映画が好きなんだ。




 まだ説明を続けているヘンリーの声も、雑踏も、右から左へ流れ、やがて心はそれ以外の情報の処理を遮断し、ひとつの影像だけをすべてのメモリに収めようと菜津の全身が稼働した。

 血が滾り、駆け巡る。

 躰も、心も、すべてが熱く火照っていた。




 ようやく、遭えた。


 もう、見失ったりしない。



 ぜったい。



    *   *   *



 近ごろ幸生は、学校に居る間じゅう、視線を感じていた。


 誰かに見詰められている気がする。

 漠とした感覚だったが、常にそれを幸生の神経は捉えていた。

 原因が判らないまま、この数日を校内で過ごしていた。




「井崎センパぁイ!!」


 休み時間ふいに呼び留められ、幸生は声のするほうを見遣った。廊下の先に一年生の女子がこちらに手を振っている。

 映研の新勧で声をかけた顔だった。幸生の頭は彼女に関するデータを引き出そうと試みたが、詳細を思い出すことはできなかった。

 声をかけた菜津はそんな幸生のうろ覚えな表情など構わずに破顔してかけ寄ってくる。幸生は脊髄反射的に愛想笑いを返した。


 授業と授業の合間とはいえ、ここはニ年生の棟だ。特別教室はこの階はおろか二年生棟じたいには無い。新入生がここに来ることじたい稀だった。

 そんな頭の片隅に湧いた「?」を己の内で検証する間もなく、菜津が質問を継いできた。


「井崎センパイ、ぜんぜん映研に顔出してきませんよねぇ? どぉーしたんですかぁ??」


 無邪気に問いかける菜津に幸生は答えに窮した。あの日はただヘンリーに雇われて新勧を手伝っただけだ、とは言い難い雰囲気を菜津に感じた。「あー、その……まぁ……」と曖昧に誤魔化すことしかできなかった。


 ヘンリーから映研に関しての現状は耳にしていた。

 入学式の勧誘で新入生数人が活動日に遣って来たが、実情で部員がヘンリー部長一人ということと、それでは部活動そのものも満足に運営が困難だというのを知り、部活に来る者も一気に減っている、ということだった。

 友人としてヘンリーのことは慮るが、幸生自身にはどうしようもないことだった。

 これ以上部活に深入りすれば、自分の映画観賞の時間も削られる。耐え難いことだ。

 

「えっと……なに? 次、移動教室なの?」


 まだ相対している新入生女子の名を思い出せぬことを悟られぬように幸生は会話を続けた。


「えー、そうじゃないんですけどぉ、向こうからセンパイの姿が見えたから、挨拶しようかなって」


「あ、そう」幸生は心在らずな相槌を返した。10分の休憩時間はすぐに終わり、区切りのチャイムが天井のスピーカーから鳴り響くと、菜津は「あ、じゃああたし教室に戻りますねっっ」と告げ駆け足でリノリウムの床を蹴っていった。


「部活で待ってますからっ」


 去り際に菜津から投げられた台詞を、だが幸生は相槌つことはできなかった。



――いや俺部員じゃねーし。




 菜津の背中を中途に、だらだらとチャイムが鳴る間に教室へと戻る同級生の流れに乗り、幸生も自分の席へと着いた。

 先生の来る前、まだ何も書かれていない黒板を幸生は机に肘を付きぼんやりと眺めた。


 数分遅れて先生が入室し教壇に立った。ぼそぼそと呟くように講義する教師の声をBGMに幸生の意識は別のところに飛んでいた。

 頭の中は来月の計画を練っていた。



 今夜、桜に電話で話してみよう。

 喜んでくれるだろうか。


 きっと、びっくりするだろうな。



    *   *   *



 自分の教室のある一年生棟に戻りながら、幸生になかなか会えない菜津は苛立っていた。


 せっかく同じ学校にいるのに。

 同じ敷地内、同じ学舎の屋根の下。同じ揃いの制服、同じ上履き、同じ机と椅子……

 なのに、どうして同じ時間を共有できないのだろう。

 一瞬でも、あのひとを見失いたくないのに。




 菜津にはなんとはなしの確信ともいえる期待があった。



 次の日曜が、チャンスだ。



    *   *   *



「ちょっと、相談したいことがあるんだけど――」


 夜、幸生のほうから珍しく「直接話したい」というメッセージを受け取り、桜はすぐ「うん、いいよ」と返信をした。メッセージを送ったとたんスマホがブルルルと震え、即座に通話をONにした。

 開口一番の幸生からの発言に、桜はやや戸惑いを覚えた。


「どしたの? 幸生くんからなんて、珍しいね」


「そう?」普段から愛想のない幸生には自覚がないようだ。桜はもう慣れっこだった。


「日曜のこと?」


 心当たりといえば約束していた映画デートのことか、と桜は連想した。「やっぱり、恋愛ものはイヤ?」


「あー、そうじゃないんだけど」幸生が間髪入れず否定する。よかった、と桜は心で安堵した。

 だが、幸生が続けた内容は、それ以上に予想外なことだった。


「ゴールデンウィークにさ、そっちに行こうかと思ってるんだ」


「え??」


 一瞬、幸生が何を言っているのか、桜の脳は混乱した。


「――何しに?」


「映画、一緒に観ようと思って、さ」


 話が見えない。幸生の言葉は桜の中の会話の流れを予測するシステムからは超越し、処理するのに時間がかかった。頭にかかった靄が晴れてくると、幸生が何を伝えているのかが判ってきた。


「一緒に、って――いつもの"でーと"じゃなく、ちゃんと、隣に座って、てコト?」


「まさかそっちに行ってまでバーチャルデートしないだろ」


「うそ……」


「ともかく、細かいことはまた話すとして――いいかな?」


 5月の大型連休を利用して、桜の住む処を訪ねる。

 春休みに入ってから幸生がずっと考えていた計画だった。


 打ち明けられた桜は答えに窮し狼狽した。

 別々の場所に離れることになって以後、電話やDMで繋がってはいたが、やはり直接顔を合わせられないのは寂しい。手を繋いでいたい。触れ合いたい。

 それは偽りない心だ。


 けれど、提案があまりにも唐突で急で、事態を咀嚼しきれまいまま返事をすることに躊躇いがある。


「……うん、いい、けど……」


「じゃ、何日に会うかとか、どのくらいそっちに滞在できるか、とか、後で相談しよう」


「うん……」


「でさ、次の日曜だけど――」


 会話は週末に行く映画のことへ移った。

 なんとなく、話題が逸れてほっとしている自分に桜は気付いた。



 とりとめのない会話が続いてから、幸生が最近の学校の話題を口にした。


「なんか、近頃妙な視線を感じて、さ……」


「もう受験ノイローゼなの?」


 疑問は茶化されたが、幸生は真面目だ。


「そんなコトないけど、さ――なんだか近頃ヘンなんだよ。いつもいつも、誰かに監視されてるみたいな、とか」


「気のせいだよぉ。そうでなきゃ、ホントに心配だよ。何か不安なコトでも、あるの?」


「うーん……」少しの間が空いて、幸生が続けた。「強いて言えば、桜が傍にいないこと、かも」


「もうっ」


 話はどうでもいい内容へと流れ着くと帰結し、それきりになった。

 潮時という雰囲気がお互いの間に漂い、どちらからともなく終了を告げた。


「じゃ、日曜は、いつものようにね」「うん」「席取れたら、すぐにメッセ送るから」


 通話が切れた後、桜は暫くの間黙ってベッドの上にしゃがみこんでいた。

 ゴールデンウィークに幸生と会える。

 嬉しいのに、素直に受け容れられない自分に、むしろ戸惑いを覚えた。


 それが、幸生のどこかいつもと違う雰囲気から来ていたことを桜は自覚することもなかった。



 それだけでは、ないことも。




    *   *   *



 スマホの通話ボタンを切った後、暫く幸生は物思いに耽っていた。


 学校での“不自然な視線”について桜と話すうち、その原因について漠然とした考えを幸生の脳裏は固めつつあった。

 自分の予測は、合っているかもしれない。


 だが、確信には至らない。静観するしかない。


 モヤモヤとした心地のまま、幸生は床についた。




――悩んでも仕方ないことは、悩まないようにしよう。


  いずれにせよ、朝になればまた学校へ行くことになるのだから。



    *   *   *



 昼放課になったとたん、廊下から教室に向けてヘンリーの顔が現れた。


「おーいっ。井崎くゥ~んっっ」


 いつも馴れ馴れしい態度のヘンリーだが、今回はいつにも増して馴れ馴れし過ぎる。幸生は嫌な予感がして声に気づかぬフリをした。

 奴のあんなときは、たいがいいい報せを持ってこないものだ。


鞄に教科書とノートを仕舞い込むと、幸生は視線を逸らせて別のドアへと向かっていった。それを見逃さずに、廊下へ出ようとするクラスメートたちの波を掻き分け、ヘンリーが近づいてきた。


「おぉ~い、イザキちゅわぁ~ん、せっかくマブダチが会いに来たんだからぁ~、無視しないでよお~」



――誰がお前のマブダチだ。



 逃げられないと悟った幸生は遁走を諦めヘンリーに視線を向けた。


「悪いけど、購買で昼メシ確保しに行くとこなんだ。早く行かないと売り切れちまう」


 やや睨み気味にヘンリーを見返したが、彼はどこ吹く風だ。意にも介さない。

 もともとそんな気の利く輩でもない。


 そんな筈のヘンリーだが、珍しくやや口篭るような雰囲気で幸生に言葉を告げた。


「あのー、さ。きょう映研の部活なんだけど、ちぃーと顔、出すつもり、ない?」


「は?? なんで俺が」


 ヘンリーの進言を、幸生は意味が解らない、という態度で返した。


「い・いやいやいや、ホラこないだの新歓手伝ってくれたし、井崎が声かけた新入部員もいるわけだし、さ」


「入部希望者、いたのか?」


 やや意外という気が幸生にはした。

 正直、こんな廃部寸前のクラブなんて、俺なら入らない。


「あー……その件なんだけど、さ」


 今日のヘンリーは妙に奥歯に物が挟まり続けている。

 こんなのに付き合ってると、購買のパンを買いそ損ねてしまう。

 愚図愚図は止めだ。幸生は話を切り上げた。


「わりぃ、俺急ぐから。話があるなら、また後でな」


 そう言うと、幸生はヘンリーを後に残しそそくさと購買への最短ルートを辿っていった。



 取り残されたヘンリーは廊下の角を曲がり階段へと消えていく幸生の姿を黙って見送った。

 言うべきことがあったのに、言いそびれてしまった。


 幸生が頑固者だということは知ってる。

 だから、幸生に膝を交えた話をするのは時を選ばなければならない。今日はうまくいかなかったようだ。


 ヘンリーには、どうしても幸生に伝えなければならないことがあったのだが。




    *   *   *




 教室へ戻ればまたヘンリーと鉢合わせするかもしれないと思い、幸生は購買で昼食を確保するとそれを胃袋に押し込む場所を探し求めた末、校庭花壇脇のベンチに安息の地を定めた。

 コロッケパンを頬張りながら、校庭でサッカーもどきの遊びに興じる男子連中や空いているネットを使いバレーで遊ぶ女子たちの姿を眺めた。

 校舎のほうへ目を移すと、バルコニーの手摺りに凭れスマホをいじる生徒たちが、なぜか等間隔で並んでいる。たぶんプライベートエリアがそのまま開けた距離となってあんなふうに整然とした風景になるのだろう。無意識の生む規則性。その按配が妙でなんだか可笑しくなった。


 1年と2年の棟を結ぶ渡り廊下で、例の映研の新人――緋色菜津、といったか、確か入部希望者リストにそんな字を記入していた――が、キョロキョロと辺りを見回しながら小走りに、時に立ち止まり右往左往している姿を幸生の視野は捉えた。

 反射的に幸生は花壇の植え込みに身を隠し、菜津から自分の姿を見られるのを防いだ。


 幸生は、咄嗟の自分の行動に戸惑った。なぜ彼女から身を隠そうとしたのだろう。

 けれど、頭ではなく、本能的な所作だ。


 同時に、幸生の脳裏では、漠漠とした疑念の解くヒントをひとつ発見したようなイメージも湧いた。



    *   *   *



 日曜が訪れた。

 幸生は予定どおり、いつものシネコンへと足を向けた。


 歩を進めながら、幸生の足取りはやや重かった。

 今日は桜のリクエストで恋愛ロマンス映画を観る。


 幸生とて、恋愛映画をまったく観ないわけではない。事実、名画座で『追憶』や『男と女』や『卒業』なんかはしっかりと観賞している。

 だが、今回の桜のチョイスは、現在大ヒット中のロマンスものだ。TVでも盛んに公開初日から“大ヒット上映中”だの“本年度恋愛映画ベストワン”だのと喧伝され、例の(映画ファンは唾棄するほど悪名高い)観客たちの「感動しました」だの「泣いちゃいますぅ」だの、あげくには「○○、大好きー!!」と白々しく合唱させるCMまでひっきりなしにタレ流され続けている類いの代物だ。

 映画そのものはどうかは知らないが、幸生はあのテの宣伝が苦手だった。


 正直、ああいう宣伝をする映画を観ることは、なんだかそれに乗せられているような気もして、遠慮したい。自分一人ならそうするだろう。きっと。

 だが、これは桜のリクエストなのだ。


 気が進まなかったがバスは時刻表通りにショッピング・モールの停留所に到着する。足を踏み出せばその一歩一歩、歩幅のぶんだけ63cmずつ、シネコンの玄関に近づいていく。


 ロビーに入り、少し立ち止まったが、幸生は覚悟を決め、おそらく殆どの列の客がこの映画目当てなのであろう、チケットカウンターへと並んだ。




 映画館に入ったときから背後から付いてきていた影が、カウンター列で自分のすぐ後ろに並んだことを幸生は気づかなかった。



 ようやく幸生の順番になり、カウンターで映画のタイトルと時間を告げる。

 もともと人気作で混んでいるとみた幸生は、観賞予定の回の1時間以上も前に到着し券を買う予定でいたのだが、座席は既にかなり埋まっている。


「E-9を」


 それでもいつもの座席番号を受付に告げると、ちょうど運良く空席となっており、幸生はひと安心した。


「ご一緒の方と、隣どうしでよろしいですか?」


「は??」


 一人で観に来たので、連れなど勿論いない。言われた意味が判らない。


「いや、ひとりなんですけd――」


 幸生が受付スタッフの進言を否定しようとした言葉が終わらぬうちに、それに被さるように後ろから声が飛んできた。


「はいっっ。と・な・り、でおねがいしまーす」


「え??」


 豆鉄砲を喰らった鳩の如く、頓狂な顔になった幸生は声のほうに顔を向けた。つい最近自分のメモリに保存されたばかりの少女の顔が幸生の横に並びにこりと微笑んだ。と同時に、その少女の顔の上に“緋色菜津”という文字のバルーンが幸生の脳内で浮き上がった。

 幸生にしっかりと届くように「となり」という言葉を強調した菜津は、スタッフに促されるまま座席を選びはじめる。スタッフが「隣り」の席を指し示す。


「お・おいっ。お前――」


 狼狽える幸生の声を遮るように、更にはきはきとした声で「はいっ」と返辞をすると、幸生に向けて軽くウィンクをした。


「そこでおねがいしまーすっ」


 座席表のモニタに示された空席が青に変わり、席が確保されたことが示された。


「お。おいっっ」


 菜津は幸生の戸惑いを吾知らぬかのように、自分の座席を確保してしまった。


 E-10。


 そこは、数百キロ彼方のシネコンで、桜が座っているはずの場所だった。



 スタッフが発券をしている間に、菜津が幸生の耳元で


「ここは、センパイが出しといてくださいネっ。割り勘なんて、カッコ悪いことしたら、センパイに恥かかせちゃいますよネー」


 と囁くと、幸生の呼び留めるよりも早く


「あ、じゃあー、あたしちょっと売店行ってきますからぁ」


 そう言うと、スタッフが差し出したチケットの1枚を引っ掴んだ。



 残った自分の分のチケットを受け取ると、幸生はロビーのベンチに座り、いま起きた一連の事を呆然と反芻した。


 なぜ、あの映画研の新入生がここにいるのか。


 なぜ、自分の隣の席――桜の場所――を取ったのか。


 なぜ、受付列のすぐ後ろに並んでいたのか……


 疑問は次々に湧いてきたが、どれも解答を見出すことはできなかった。





 幸生の悩みも知らぬまま、菜津は物販コーナーにいた。

 上映作品の関連グッズが棚を飾っている。

 カウンターの後ろには、パンフレットの表紙が額縁の絵のように並べられている。


 特に買う目的がなくても、菜津はこの物販コーナーが好きだった。

 ここは、映画の夢の匂いがした。



 握ったままの観賞チケットを、菜津は改めて眺めた。

 何せ幸生がどの映画を観るのかもまったく知らないでいたのだ。

 作品名と上映開始時刻を見て、菜津はびっくりした。



――開始まで一時間半もあるじゃない。



 それまでどうやって幸生は時間を潰すのだろうか。

 いや、幸生だけではなく、自分も。



――いっか。

  センパイと合流して、どうするのか聞いてみよっと。


  一緒に、近くのファストフードに入って、お話しできれば、いーな。




 さっきの代金の支払いについては、菜津は先延ばしすることを当初から考えていた。

 おそらく顔を合わせたら(隣の席なのでそうなって当然だが)幸生は代金のことを問い詰めるだろう。

 けれど、その件については、のらりくらりと返答することを決めていた。


 もちろん、これは菜津の作戦だった。

 “立て替えてもらった代金を渡す”という口実で、また幸生と接触できるのだ。


 菜津はしたたかだった。




 チケットを大事そうに財布に仕舞うと、菜津は物販されている商品を見回りはじめた。



 その物販コーナーの片隅に、このシネコンチェーンのオリジナルマスコットキャラクターの商品が並べられた一角があった。

 2体のキャラが“ウリ”のここのシネコンは、グッズ展開にも力を入れている。

 菜津は、商品の中のキーホルダーに目を留めた。

 個々のキャラが小さなフェルトのぬいぐるみで作られたそれを手に取る。

 愛くるしさを感じた。

 そのまま2種類のキーホルダーを掴むと、菜津はレジへと足を向けた。



――ひとつは、自分。


  で、もうひとつは……




    *   *   *



「あれ?」


 物販コーナーを眺めた菜津が戻ってくると、ロビーに幸生の姿が消えていた。休日なのでロビーはかなり混雑しており、昼に近づくに従い人の密度が高くなっている。それでも、その中から幸生を発見することはできない。

 不安を抱え菜津は辺りを目を皿のように探したが、いっこうに幸生の気配すら見受けられなかった。


「どこ、行ったんだろ……センパイ」


 それでも、座席は確保しているし、時間になればやって来るだろう。

 つい今しがた買ったキーホルダーマスコットの入ったシネコンのロゴ入りの袋を握り締め、諦め半分で、菜津はロビーをうろついていた。





 シネコンの出口とショッピング・モールを繋ぐ円形の広場には、停留所に到着した路線バスから続々と人々が吐き出されていた。

 幼い子どもの家族連れ。中学生くらいの男女5、6人ほどのグループ。高校生や大学生のカップル。

 人の群れを眺めながら、幸生はロビーから出てショッピング・モールの正面にあるベンチに腰を下ろしていた。


 広場を通り抜ける人々の殆どが誰かと連れ立っている。ひとりで歩いている者は見つけるほうが難しそうだ。

 休日にわざわざこんな商業施設にひとりで来る酔狂なんて、自分みたいな奴くらいだろうな。そんなことをふと幸生は思った。


 座っているベンチは、つい数ヶ月前、桜と一緒に寄り添っていた場所だった。

 あの大晦日の夜。

 あれから、まだほんの少ししか時計の針は進んでいないのに、なんだかだいぶん時が経ってしまったように、幸生は感じた。


「――そうだ。桜にDM送らなくちゃ」


 シネコンに来てから菜津の介入もあって慌ただしく、つい桜への連絡を忘れてしまっていた。幸生は独り言つと、鞄からスマホを取り出し桜宛てにメッセージを送った。


“席、とれたよ E-9”


 すぐに返信が届く。


“わかった こっちもすぐにとるね”


 何も無い画面を少し眺めていたが、座席確保の確認を待たずに、幸生はスマホをバッグに戻した。


 視線をふたたび前方に向ける。

 あいかわらずバス停から客がショッピング・モールの入口へ、シネコンへと呑み込まれていく。


 いったい、この街のどこからこんなに人が集まってくるのだろう。

 ぼんやりと眺めながら、幸生はそんなことを思った。



 遠くでゴロゴロと雷鳴が聞こえてきていた。


 音の方を見上げると、晴れていた空の彼方で灰色の雲が広がり始めていた。


 ちょうど、あの方角の、更に向こうには、桜が同じようにシネコンで同じ映画を観るために座席を取っている頃だ。

 幸生はそんな想像をした。



 だが、今日、これから隣に座るのは、幻の桜ではないのだ。





 春の嵐の訪れを、幸生の五感は感じていた。




    *   *   *




 劇場スクリーンの入り口で、幸生は待ち兼ねていた菜津と鉢合わせた。

 幸生の姿を見付けた菜津が駆け寄ってきて、息を弾ませながら、


「どこ言ってたんですかぁー、探したんですよぉ」


「べつに、俺お前と一緒に観に来たわけじゃないだろ」


 ぶっきらぼうに返辞をした幸生に、菜津が続ける。


「そんなぁー、照れなくってもいいんデスよ、セ・ン・パ・イ」


 言葉の語尾にハートマークが加わっていた。

 それが、幸生は更に気に喰わなかった。



――なんなんだよ……



 そんな幸生の不快など気付かないのか、あるいはあえて無視しているのか、菜津はあくまでマイ・ペースでコトを進めていく。

 それがまた幸生のリズムを狂わせていく。


「あ、じゃああたし、ちょっと何か買ってきますから」


 そう言うと、菜津はそそくさと『FOODS & DRINKS』と掲げられているカウンターへと駆け去っていってしまった。


「またあとでっっ」


 呆然と立ち竦む幸生の口から困惑の息が漏れる。


「なんなんだよ……あいつ……」


 待つ必要もないと判断した幸生は、チケットをスタッフに手渡し、も切りを済ませるとひとりで劇場へと進んでいった。



 『ただいまより、○時○分より上映の、『××』の入場を開始いたします……』


 作品名を告げた場内アナウンスがロビーに流れ、それまで佇んでいた人の群が一斉にスクリーン入口のゲートへと集まっていく。混雑する中へ菜津が戻ると、ドリンクを買いにほんのちょっと目を離した隙に、幸生の姿はまたどこかへ消えてしまっていた。



 また置いてけぼりを喰ってしまった。



――もうっっ。



 地団太を踏みながら、ポップコーンとドリンクを確保した菜津もその流れに乗りチケットをスタッフに示すと、ゲートをくぐった。


 エントランスから暗い通路を過ぎると、壁いっぱいに広がったスクリーンが菜津の眼前に現れた。封切りして間もない話題作もあって、キャパのある館がこの作品に割り当てられているようだ。


「えーっと、E-10は……」


 広い客席に呑まれそうになりながら、菜津は自分の持っているチケットの番号と座席を照合して空間を見回した。

 番号を見つけるよりも先に、既に着席している幸生が菜津の目に飛び込んだ。

 見つけると同時に、こちらを見た幸生と目が合った。


 菜津は駆け足で幸生に近づいていった。


「ひっどぉーい、待っててくれるかと思ったのにぃ~」


 ぷりぷりと頬を膨らました菜津が「E-10」の座席に腰を下ろしながら幸生に愚痴った。抱えていた大きなポップコーンのバケツとソフトドリンクのカップ2つの乗ったトレイを座席の間にある肘掛けのドリンクホルダーに挟み込む。それを目に留め、幸生はちょっと顔をしかめた。


「さっさと先に行っちゃうなんて、センパイ女心が判ってないですねっっ」


 ぷんぷんとしながら菜津がドリンクをとれいから持ち上げ、飲む。

 ガサガサとポップコーンを掴み口に投げ込む。

 苦々しげに眺める幸生に気付き、菜津はドリンクカップのひとつを差し出した。


「ハイ、センパイのぶんも買っておきましたよ」


 胸の前に突き出されたカップを、反射的に幸生が掴むと、


「これはあたしのオゴリ」


 と言い、菜津は下手なウィンクをして見せた。

 カップに口をつけずに、幸生はそっとトレイにドリンクを戻した。


 そんな所作には気にも留めずに、菜津はばくばくとポップコーンを頬張り、ストローを啜った。


「ずいぶん前のほう取ったんですねぇー。センパイ、首痛くなりません?」


 菜津の唐突な質問に幸生は答えようもない。


 幸生は、やや前寄りのほうが好みだった。そのほうが視野いっぱいにスクリーンが広がり、より映画に集中できると思っている。

 桜もそんな幸生に付き従い、幸生の好みに合わせてきた。


 だが、菜津はそうは思っていなかった。

 菜津の不満は自然だが、別に幸生がそれを強いたつもりはない。後方が好きなら後方に座ればいい。

 勝手に隣を指定したのは、菜津なのだ。


 そんなことを連想していくと、更に幸生は苛ついた。


 先の質問の答えを待たずに、菜津が次の質問を口にする。


「センパイってぇー、いつもひとりで観に来るんですか?」


 ざくざくとポップコーンをバケツから口に運ぶ菜津を見て、幸生は苦々しげに言った。


「言っとくが、俺はポップコーン喰いながら映画観る奴は、キライなんだ」


 質問の回答ではなかった。

 気にするふうでもなく、菜津は言を継いだ。


「なら、これから好きにさせちゃおっかなーっと」


 やんわりとした拒否をものともせずに菜津はあいかわらずポップコーンを口に運ぶ。それどころか「はいっ」とポップコーンをひとつ、幸生の口の前に差し出した。


「なんだよ」「いいからぁ」


 菜津に無理矢理口にポップコーンを捩じ込まれ、幸生は体内に収めるしかなかった。

 咀嚼し、喉を通過する刹那、一瞬、幸生の中では、その欠片が菜津の一部のようなイメージが浮かび、消えた。





 唐突に自分を覆った観念を吹き飛ばすように、幸生はバッグからスマホを取り出し、画面を確認した。

 トップ画面に桜からDMの着信の報せが表示されている。


“E10とれた。”


 幸生はそれを確認すると、スマホの電源をOFFにした。


 スマホをバッグに戻しながら、


「……せめて、本編上映中は自重してくれ」


 と菜津に促した。


「はーいっ。それがお互いの緩衝地帯、DMZ、ですね」


「ナンだそれ……」


 頓珍漢な返答に幸生は絶句したが、それ以上突っ込むとまた会話が進展してしまうので放置を決めた。

 あいかわらず菜津はばくばくとポップコーンを口に放り込む。


「それにしても――センパイも、こーゆうの観るんですねー。ラブロマンスものなんて。センパイって、もっとこう、固くてマジメなのが好みなのかと思いました」


 会話の途切れたのを気にしてか、菜津が質問を振ってきた。

 何気なく幸生が反応し、言葉を返す。


「俺の趣味じゃないけどな」


「え??」


 ブザーが場内に響き渡り、会話はそれきりになってしまった。

 暗転する。スクリーンに予告が流れる。


 幸生としては、ただ菜津との会話が億劫で、早く終わらせるために冗長な答えを避けた結果、つい本質が出てしまった。

 だが、それが菜津に引っかかりを残した。



――自分の趣味じゃないっ、て……

  じゃあ、誰の好みなんだろう……




 予告編に続き、スクリーンに本編のアバンタイトルが流れ始めた。


 直前に抱えてしまった菜津の心のモヤモヤはそれきり宙に取り残されることとなった。

 菜津は疑問符を頭の上に浮かべたまま、始まった本編を観続けた。


 話しかけることもせず、黙って幸生の傍でスクリーンを凝視した。



 いちおう、菜津は幸生からの申し出による、ポップコーンに関するルールは守った。


 これ以上大胆になり過ぎると、嫌われると思ったから。


 なによりも、幸生にとって、映画を観賞している時間がかけがえのないものなのだ。

 菜津もさすがにそこだけは理解していた。



 あせりは禁物。

 菜津の心の声が省みていた。



    *   *   *



 画面が徐々にフェード・アウトし、下からエンドロールがせり上がってくる。


 そのロールもスクリーンの上に流れ去り、館内が明るくなると、すぐに幸生は菜津に声をかけることもなく早々に館を出ていってしまった。


「あっ、センパぃ――」


 慌てて幸生の背を追おうとした菜津だったが、持ち込んだトレイに乗ったカップやポップコーンのバケツ屑の片付けに間取り、その上出口への渋滞に阻まれ、席から通路へ出たときは幸生の姿はもう見えなくなってしまっていた。

 人垣を掻き分け、ようやく幸生をふたたび発見した菜津は、見失うまいと必死で追い付いた。

 息が上がっている菜津が横に並んでも、幸生は構わずに自分のペースで歩き続ける。

 遅れぎみになりながら、やや早足でさっさと歩く幸生の斜め後方をちょこちょこと菜津が付いて来る。


「あぁ~んっ、待ってくださいよぉ~」


 ようやっとふたたび追いついた菜津が、幸生の腕に自分の腕を絡ませた。


「おっ・おいっっ」


 反射的に自分の腕を引こうとする幸生だが、菜津がしっかりと腕をロックしていて離れない。


「ちょっとっ。困るんだケド」


 抗う幸生。菜津が応える。


「やーだー、離さないもん」


 菜津は更にぎゅっと強く幸生の腕を自分に引き寄せる。菜津の、ついこの前までは中学生だったにしては発達している胸の柔らかな膨らみが幸生の肘に当たる。


「おい……」


 わざと胸を圧しつけてくる菜津に、幸生も抵抗しきることが難しくなってしまった。何より、無理に引き剥がそうとすれば、かえって菜津のその膨らみを圧してしまうことになってしまう。

 それに加え、こんなシチュエーションでは幸生もやはり男の本能には抗えなかった。


 恰もカップルのように寄り添うふたりに時折小学生がジロジロと視線を送る。

 ますますバツが悪くなる幸生だが、菜津はいっこう構わず尚も胸を圧し当てて密着してきていた。


 より近くなった距離で、菜津が幸生に囁いた。


「もうちょっと、こうしててください……」


 逆らいきれぬまま、幸生は菜津の赴く方向へと導かれていった。




 幸生の向かうバス停とは真反対だったが、菜津に引きずられて駅まで連れていかれてしまった。


「おい……どこまで連れてく気だよ」


 そう幸生に告げられ、菜津はやや力を緩めたが、絡めた腕はまだ解こうとはしない。


「あと、もうちょっとで、いいですから……ホラ、あそこの改札まで」


 仕方なく、幸生は菜津に従った。さすがにそこまで行けば介抱してくれるだろう。それまでの我慢だ。


 ようやく改札の前まで来ると、菜津は名残惜しそうにもういちど腕に力を※、幸生の腕を抱き寄せた。

 僅かの間の停止。その後に、幸生の胸に顔を埋めるようにし、小さな声で囁いた。


「離しませんからね……もう……」


「え?」


 菜津の声はくぐもり幸生の耳にはよく聞き取れなかった。


「おいっ。いま何て――」


 確認しようと訊ね返した幸生を、こんどは菜津が振り払うように改札へと向かい、駆け抜けていった。


「部活で会いましょうねーっ」


 振り返り際、そう言うと、菜津はホームへの階段を駆け抜けていった。



 ようやく解放された安堵とともに、どこかで幸生の心の中で未練が残っていた。



 幸生の衣服に、菜津の残した香りが漂っていた。

 それは、桜のとは別の感触だった。


「だから……俺、部員じゃないっつうの……」


姿の見えなくなっ菜津の残影にそう呟くと、幸生は踵を返しショッピング・モールの道を戻っていった。


 ゆるゆると歩くうち、幸生の足はまたシネコンの玄関へと導いていった。

 バス停にも通ずる正面の広場に出ると、幸生は空いているベンチのひとつに腰を下ろした。



 ようやくひとりになって、思い出したように幸生はバッグを弄り、取り出したスマホの電源を入れた。

 映画が終わってから、もう4,50分は過ぎている。ふだんはすぐにDMが来るのだが、桜から新規のメッセージは何も入っていなかった。


 着信がなかったことに、なぜか幸生は安心した。だがその感情に気付き、複雑な思いに囚われた。


 と同時に、即座に幸生は、気付いたように“メッセージを書く”と表示されたアイコンをクリックし、記述画面を開いた。

 指が早い動きで画面をフリックする。


“映画 終わったよ

 そっちは?


 どうだった?”


――送信。



 DMを送ったが、反応はかえってこない。「既読」にもにならなかった。

 暫くベンチで待っていた幸生だっが、ここでこうしていても埒が明かないと、腰を上げた。



 バス停へ向かう途中で、彼方で微かにまた遠雷が聞こえていた。




    *   *   *




 夕方。家に辿り着くと、ちょうど桜からのレスが返ってきた。



“ごめんね――ちょっとボゥッとしてて、メッセ見のがしちゃった


 映画はおもしろかったよ。

 たまにはああいうのも、いーよね”



 画面を確認すると、幸生は返信することもなくそっと画面を閉じた。

 返信はあとで書けばいい。そんな気持ちが幸生の内部を支配していた。


 そう決めると、幸生はどさりと自分の学習机の椅子に腰を落とした。



 普段なら、桜は映画が終わると、間を置かずにDMを送信してきた。

 待つことが耐えられないような速さだった。


 なのに、きょうはそれとは違い、かなりの時間が空いての送信だった。



 ――そんなこともあるさ、くらいにしか幸生は感じなかった。






 

 その不自然さを見落としたのは、幸生もまた自身どこかしら後ろめたさを抱いていたのかもしれない。




 肘には、まだふくよかな感触と温もりの名残を感じていた。



    *   *   *



 道端で幸生へのDMを送ったあと、桜はとぼとぼと地面を眺めながら、ひとり路上を歩いていた。

 桜の視界に、アスファルトの上に散り落ちた桜の花びらの残影が瘡蓋かさぶたのように連なっている。

 その瘡蓋をぼんやりと目で追っていると、ふいに握ったままのスマホが振動し、着信音をがなり立てた。意表を突かれ思わずスマホが掌からこぼれ落ちそうになるのを留め、桜は画面を見た。


 "幸生”の表示とともに、通話アイコンが点滅している。桜は画面に指を滑らせ電話を受けた。


「――もしもし?」


 耳元であの透明なテノールが響いた。 


「――あ、悪い。いま平気?」


「あ、うん……」


 訝るのと同時に、己の中で戸惑いがあるのを桜は自覚した。

 唐突な所為だけではなく。


 自分のその気持が電波となって向こうに届かないよう、桜は会話を続けた。


「えと……どうしたの?」


「メッセ書くのめんどくなったから、電話した」


「そ・そう――」


「迷惑?」


「そんなことないけど……どうしたのかな、と思って」


「いや……べつに、用があるわけじゃないんだけどさ」


「あ……そう……」


 ほんの僅かな沈黙が、桜は怖かった。別の話題に移りたかった。何かないかと、桜は頭の中をサーチした。


「――そうだ、きょうの映画、どうだった?」


「どう、って――」


 やや口籠る幸生に桜が畳み掛ける。うまく会話が逸れた、と心の中が呟く。


「幸生くんは、楽しめなかったの?」


「いや、そんなわけじゃないけど……ま、桜のリクエストで選んだ映画だから」


「気に入らなかった、てコト?」


「だから、そんなことじゃなくて」


「そんなことじゃない」


 桜の選んだものに不満があるわけではない。うまく伝えられない自分に幸生は地団太を踏んでいた。


「ただ、さ――ああいうラブロマンスものは、あんまり観たりしないから」


「じゃ、良かったでしょ。自分じゃ行かないのを、私となら観れて。これも経験値上げるひとつだよ」


「うぅーん……」


 納得いかぬ返辞が通話口で漂う。桜が言葉尻を捉える。


「だいたい、いっつも幸生くんの趣味に合わせるの、おかしいよ。たまには私の観たいものも、一緒に観に行って欲しい」


「……」


「お互いの好みや、趣味は認め合って、共有しなきゃ。それが、付き合うってことなんじゃ、ないのかな」


「そう、か……」


「そだよ。ね?」



 桜に言い包められ、いまひとつ納得しきれていないような幸生だった。


 桜は、頭で別のことを考えていた。


 幸生に覚られたろうか。




 だが幸生はそのまま会話を続けた。


「車の音がするけど――まだ帰ってないの?」


 車の往来の多い通り。エンジン音が桜の脇を通過する。それを電話が拾っていた。


「うん――まだ外。ちょっと買い物してて」



「そっか――メッセ来ないんで、ちょっと気になってたから」


「ゴメンネ」


 真実は、告げなかった。




 その後、どうでもいい中身の話を続け、会話は仕舞いにした。


「じゃ、ね」


「うん。じゃ」


 お互いにそう告げると、通話を切った。


 GWの話題は、出なかった。




 スマホの画面が操作停止の状態から自動でOFFになった。

 まっ黒い四角の板面を見つめながら、桜はひとつ溜息を吐いた。






 嘘を、ついた。

 桜は、幸生には今日のほんとうの理由を言えなかった。






 朽ちた後の花びらが焼き付けた瘡蓋。

 アスファルトに連なるその幾多の赤茶色の疵痕を、桜はじっと見つめた。






 遥か遠くの空で、雷の音がこだましていた。

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