#2 帰らざる日々
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【帰らざる日々】
1978年 日本映画
監督:藤田敏八 出演:江藤潤 永島敏行 浅野真弓
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◎
「あれ? お父さんは?」
「さっきフラッと出かけたわよ。散歩じゃないかしら」
4月最初の日曜日。
もうすぐ始まる新学期に向け、いろいろと父に相談事――主には新しいノートや文房具などのおねだりだ――をしようと画策していた桜だが、そもそもその“財務大臣”たる父が留守では、話しにならない。
「ちぇっっ。しょーがないなぁ」
「なぁに? あたしでよかったら聞くわよ?」
そうは云って呉れても、まさか絵笑子にそんなことを相談する訳にもいかず、桜は地団駄を踏んだ。
「ああ――いいのいいの。お父さんが帰ってきたら聞いておくから」
言ったあとで、この言い様は絵笑子には少し失礼だったかな、と反省した。
けどもう後の祭りだ。
「そぉ? ならいいんだけど」
絵笑子は気にしなかったのか、それとも解ってて聞き流してくれたのかは判らなかったが、ともかく言及することはなく、その場は終わった。
どうもまだ、絵笑子に対しては遠慮してしまう。
ホントは、もっともっと気兼ねすることなく、なんでも言えるようになれればいいのに。
――まだ、遠慮してるのかなぁ。
桜は自分を省みた。
これから、ゆっくりじっくり、修正していくしかないな、と思った。
小一時間ほど待っていたものの、父が帰ってくる様子は無かったので、業を煮やした桜は待つのを諦めて暇潰しをすることに決めた。
「あたしもちょっと出かけてくるね」
「どこへ?」
「さーんーぽ」
そう絵笑子に告げると、桜は玄関から外へ踏み出していった。
* * *
桜の足は‘だいぶっつぁん’へと向かっていた。
特に『どこへ行こう』と決めて外出したわけではない。けれど、自然と足はそこへと歩み続けた。
理由は桜自身も計れない。
ただ、絵笑子との出来事以来、ここが桜のお気に入りの場所となっていた。
幼い頃、父に連れられて訪れた記憶は、ただ壁画の地獄絵が怖い、という印象だった。その筈なのに、今はなぜだか懐かしさと安らぎすら憶える。ここに来ると安心する。
まるで胎内に居るかのようにも桜には思えた。
歩くうちに境内に入った。
‘だいぶっつぁん’の顔を見上げる。
安心感を与えるアルカイックスマイルが桜は好きだった。
桜はそのまま大仏の足下、回廊に踏み入った。
いつものように、市の歴史絵巻と、地獄絵図が桜を迎え入れる。
ゆっくりと進んでいったところで、桜の視線は通路の曲線の向こうの人影を捉えた。
――あれ?
お父さ、ん……?
一瞬視野に捉えた背中は、そのまま曲線の陰へと消えていった。
背中の人物に気づかれないよう、桜はそっと近づいていったが、出口まで回り切ってもあの陰はもう見えなくなっていた。
見失ったのかと思い、表に出て境内を見回す。だがあの人物はどこへ行ったのか、周囲にそれらしき姿はなかった。
桜は諦めるように空を見上げた。
あれは父だったのかもしれない。
けれど、桜にはなんだか確証が持てなかった。
――だとしたら、なんで‘だいぶっつぁん’になんか、来たのかなあ。
桜が家に戻ると、玄関の土間には父のサンダルが置かれていた。
入れ違いだったのか、桜はちょうど廊下に出てきた絵笑子に「お父さんは?」と問うた。
「ちょうどさっき帰ってきたところよ」と絵笑子は答えた。「――ああ、そういえば、何か用事があったのよね。今寝室にいるから、訊ねてみたら?」
「ありがと――うん、あとでで、いいや」
桜はちょっと躊躇ってから、そう返辞をした。
帰って早々に‘おねだり’するのは、なんだか急いているようで気が引けた。
もう少し経ってから、じっくりお願いしよう。
* * *
「桜ちゃん、今夜の夕飯の準備はしておいたんで、炊飯器のスイッチと、お鍋に火をかけて温めて食べてね」
絵笑子が桜の部屋に来てそう話すと、桜が訊き返した。
「どっか出かけるの? 絵笑子さん」
「うん――同窓会。大学の、ね」
そう告げた後、絵笑子は奥へ向かって声をかけた。
「じゃ、泰秀さん、行ってきますね。桜ちゃん、お願いね」
「はぁーい。行ってらっしゃい、絵笑子さん」
絵笑子が私用で出かけるのは、なんだか珍しく桜には思えた。
そういえば、父と水入らずになるのも、久しぶりだ。ひょっとしたらここに来て初めてかもしれない。これまでは慌ただしくて、こんな時間は作れなかった気がする。
夕刻になり桜は絵笑子に言われたとおり炊飯器のスイッチを入れ、鍋の乗ったコンロを火にかけた。
ぐつぐつと鍋の中のカレーが温まっていく。焦げないように気をつけながらオタマで中を掻き回すと、ぷわんと香ばしい匂いが部屋じゅうに漂った。
「お、いい匂いだな」
泰秀が香りに誘われてキッチンに出てきた。
「もうすぐだよ」
桜も鼻腔をくすぐられ桜も待ちきれない。匂いに刺激されお腹がぐぅと鳴る。
ここに来て最初のとき、やはり絵笑子がカレーを作ってくれた。
桜は絵笑子のカレーの味が気に入っていた。
――こんど、作り方を教わりたいな。
そう考えながら、桜は鍋の中でオタマを回していた。
「んーっ。ウマいウマい。やっぱりおいしいなァ、絵笑子さんのカレーは」
「あたしもそう思う。好き」
「おまえも、これくらいウマいカレーが作れるようになれよ、桜」
「がんばってますゥー」
そんな歓談をしながら食は進み、泰秀は2杯も食べていた。
腹が満ちて気分がいい頃合いを狙って、桜は父に無心を迫った。
「あの、ね――おねがいがあるんだけどぉ」
「何だよ、猫撫で声で」
「んっとねー、新学期でぇー、ノートとかいろいろ文房具を揃えなきゃいけないからぁ、援助していただきたいの」
「『援助』って――ナンだかいやらしい言い回しだなあ」
「へへへー」
半ばあきれながら、かわいい娘のおねだりに父は弱い。
「ちょっと待っててな」
泰秀は寝室から財布を持ってくると、桜に一万円札を1枚差し出した。
「これで揃えなさい」
「ありがとーっ、パーパ♡」
「聞き慣れない言い方ヤメろよー、背中がゾワゾワする」
「はーい」
「けど、ちゃんとお釣りは返すんだぞ。レシートもぜんぶ持ってきてな」
「厳しいなー」
泰秀は、こういうところは厳格だった。もともとが几帳面な
あべこべに母は割とこういうことにはアバウトで、残ったぶんは桜のお小遣いになった。
よくそんなふたりが夫婦でいられたなあ。桜は変なところを感心した。
――まあ、そうは云っても、10年足らずで別れちゃったわけなんだけど。
食事が済んだ頃、この家の習慣となった紅茶を淹れるためお湯を温めている間、桜は昼のことを思い出し、父に質問をした。
「そういえば、さ――お父さん、昼に‘だいぶっつぁん’へ、行った?」
「――ああ、行ってたよ」
一瞬、躊躇いながら、泰秀は娘に答えた。
その、ほんの僅かなモーメントが、桜に心の引っかかりを覚えさせた。
――何をしに、行ってたの?
桜の心の声が、父に問いかけた。
けれど、意識の塊は出かかっているのに、魚の骨のように喉の途中に引っ掛かり、吐き出すことができない。
それは虫の知らせだった。
訊ねてしまうことが、何か重大な鍵を開けてしまいそうな。
沸騰した湯がしゅんしゅんとケトルを鳴かせる。
「湧いてるよ」
父に促され、桜は「あ」と声を漏らしながら、湯をポットに注いだ。
乾いた茶葉が湯の中で花を開かせ、踊る。
カップに注いだ紅茶が芳香とともに湯気を食堂のテーブルに漂わせる。
出されたカップに口を近づけ、父がひと口含み「うん、うまい」と呟いた。
「絵笑子さんほど、上手に淹れられないけど」
桜が照れなのか謙遜なのか分からないリアクションをする。
上の空の会話。
ほんとうに話すべきことを避けるような空気。
桜の心がまた問いを放つ。
――何をしに、行ってたの?
その声が届いたのか、あるいは「行ったの?」という質問の次に来る節が予想されたからか、娘に問われる前に、泰秀は独り言のように語りだした。
「むかーしね。あの‘だいぶっつぁん’の回廊で、絵笑子さんと逢ったことを、桜は憶えてる?」
意外な返しに、桜は戸惑った。
いや、ほんとうは予想していたのかもしれない。こんな会話が父から出てくるのを。
桜は落ち着いて答えた。
「……憶えてる」
紅茶をもうひと口飲み、父がカップをテーブルへ戻す。
カタン、と磁器のガラスの釉薬が音をたてる。
「あの場所は――‘だいぶっつぁん’はね――お父さんにとって、とても大事なところなんだ」
父が何か大切なことを打ち明けようとしているのを桜は予感した。
聞くべきだろうか。聞かないほうがいいんだろうか。
でも、これは父があえて娘に語ろうとしている。
なら、逃げてはいけない。桜はそう悟った。
「いや――僕と、絵笑子さんにとって、と言うほうが、正しいかな」
ぼんやりと宙を仰いだいた父の目が、娘の瞳をまっすぐに見据えた。
「お父さんは、桜に謝らなくっちゃならないことが、あるんだ。
いや……桜だけじゃない。お母さん――瑞江さんにも、僕は謝らなくっちゃいけないんだ」
父からの、思いも寄らなかった言葉に、桜は強張った。
なんて返せばいいのだろう。桜の頭は、適切な言語を繋げようとフル回転したが、フリーズした神経シナプスは処理能力を超え、回答が出てこない。
娘の内で起きているパニックを無視するように、父は続けた。
「10年前の、あの日――桜と‘だいぶっつぁん’に行って、絵笑子さんとばったり出逢ったとき……あのときから、次第に変わっていってしまったんだ。
いや……気付いてしまった、と言ったほうがいい、かな」
慎重に表現を選びながら父の語りは続く。たぶん、どう伝えればいいのか、父自身にも判断がつかないのだろう。父の言の葉はぐるぐると迷いながらダイニングを漂った。
口を開いてはみたものの、やはり娘に自分の青春を告白するのは逡巡しているようだった。
言葉に詰まった泰秀は、リビングへ行き、サイドボードからウィスキーの瓶を取り出してくるとグラスに注いだ。3分の1ほど入れられた琥珀の液体を泰秀はぐいと一気に流し込む。
たぶん、酒を入れないと娘には話しにくいのだろう。桜は父をそう思い遣った。
飲むとすぐに顔に出る性質の泰秀の頬がみるみるアルコールで紅く染まっていく。
酔いでやや滑らかになったのか、泰秀の口からまた言葉が零れだした。
「……それよりもずっと昔……そう、最初の最初から、僕は道を間違えてしまったのかもも。ホラ、電車に乗ってて初めは並んで走っている隣りのレールの車両が、先に進むにつれてだんだんに離れていく、そんなこと、あるだろ。あの感覚に近い、かな。
そうして、気付いたときには、行く筈の目的地からは遠く隔たってしまって、僕はもう、戻れなくなってた……そう思ったとき、時間はなんて残酷なんだろう、って悟るんだ」
本題を避けるように、父は抽象的な言葉を繋げた。
そんな己を嫌悪したのか、泰秀が微かに首を振る。
「けれど、それさえももう“遅すぎた後悔”なんだけど、ね」
小さく溜息を吐いて、父の口が呟く。
「いや……僕は、というより……僕たち、かな」
その“僕たち”というのが、果たして父と絵笑子のことを指しているのか、父と母のことなのか、あるいはこの3人のことを言っているのか、桜には判りかねた。
空のグラスを掴み、弄ぶ。
片手で巧みに瓶の蓋を回し開け二杯目を注ぐと、持ったグラスをぼんやりと見詰めながら、ふたたびゆっくりと語り始めた。
「どこから話しをすれば、いいかなあ……
そうだな。やっぱり、最初に僕が、絵笑子さんと出逢ったときから話そうか。
父の、長い長い回想が始まった。
* * *
冒頭の部分は、絵笑子の語った内容とほぼ同じだった。
出逢いの場面。映画研究会。
ただ、その次から、まるでレールが支線に別れるように、次第次第に絵笑子のとは風景が変わっていった。
それは父と絵笑子の視点の違い、ということもあるだろう。けれど、明らかな相違も桜に判る形で立ち現れた。
アルコールのお陰で滑らかになった父の口から零れる告白に、桜は聞き入った。
+ + + + + + + + + + +
絵笑子さんと出逢ったのは、高校の映画研だったよ。
彼女のほうが学年がひとつ上で、入学式の日、部活の新入部員勧誘で声をかけられた。それが最初かな。
初めて絵笑子さんを見て、一瞬で好きになった。――一目惚れ、っていうのかな。
本音を云うとね、研究会そのものよりも、絵笑子さんが居たから入部した。それが正直なところかなあ。
娘に自分の青臭い想い出を話すのも、なんか照れくさいけどね。
あ、映画にはもともと興味があったよ。そこまで下心だけで入ったわけじゃない。でも、彼女がいたから――それがやっぱり、いちばん大きいかな。
だから、彼女と同じ場所に居られるのが、とても楽しかった。部活ならそれを言い訳にできるし。一緒に映画に行くのも、誘いやすかったな。
もともとウマが合う、っていうのか、僕と絵笑子さんは、お互い気の置けない間柄だったと思う。でも、絵笑子さんにとっては、気兼ねしなくていい弟くらいの気持ちだったのかもしれないな。
はじめのうちは部活のグループで行ってた映画観賞会だったけど、そのうちだんだん僕と絵笑子さんのふたりでよく行くようになってったなあ。
待ち合わせは、いつもあの‘だいぶっつぁん’だった。
僕と彼女の家から近くて、ちょうど中間くらいに位置してたのもあるけど――
そうだ、新歓で逢ったあと、最初に絵笑子さんを目にしたのも、あそこだったんだ。
+ + + + + + + + + + +
「――え?」
思わず桜が問い質した。
父が記憶を確認するように言い直す。
「うん、そう。あの場所。
絵笑子さんとの想い出はあの‘だいぶっつぁん’にいつも重なってるのかも、しれない」
父の告白は続く。
+ + + + + + + + + + +
その頃は、絵笑子さんに声をかけられて映研に入部はしたけれど、まだ入ったばかりだったし、“先輩”に気易く声をかけるなんてこと、できなかった。
ちょうど桜の見頃でね。それで、学校の帰りに、花見ついでに、家から駅までは自転車で通ってたから、なんとなく駅から桜を見ながら回り道をしようかな、って気になって――散歩してるうちに、この‘だいぶっつぁん’にたどり着いたんだ。
4月も半ばくらいの時かな。日本海を通る潮流の関係なのかわからないけど、この辺りの桜は太平洋側よりも遅くてね。
桜の花びらに誘われて、何気なく境内を見たら――花吹雪の中、長い黒髪をなびかせた制服の女のコの、後ろ姿が目に飛び込んできた。
思わず見とれたよ。
‘だいぶっつぁん’を見上げる背中。桜の散る風。まるで、現実感のない景色だった。
そしたら、僕の視線に気づいたのか、彼女が振り返ったんだ。
それが――絵笑子さんだった。
目が、合ってね。「あら?」なんて言うんだ。
絵笑子さん、自分から勧誘したくせに、あんまり憶えてなかったらしい。それと、なんでだか新学期当初は、彼女はほとんど部活に顔を出さなかったと思う。なんでだったのかな? もう忘れちゃったけど。
だもんで、改めて「一年生の去多です」って自己紹介したよ。ははは。
「この近く?」って聞かれ、僕は「うん」て返事した。ホントは、ちょっと離れてるんだけど、ま、学区域で考えれば、近いっちゃ近いよ、ね。
「あたしも――すぐそばなんだ」そう言うと、続けて
「ひょっとしたら、これまでもすれ違ってたかもしんないね、ここで」なんて返事をされた。「じゃ、たまには帰りにいっしょに寄ろっか?」とも、ね。
なんか、娘にこんな話すんのも、照れちゃうけどね……
そんなことがあって、僕と絵笑子さんは、部活のあとで一緒に帰ったり、映画に行くようになった。
桜の花の散る中に座る‘だいぶっつぁん’の景色が好きだと彼女は言ってたっけ。絵笑子さんの、昔からのお気に入りの場所だった。
+ + + + + + + + + + +
――それで、か。
桜はなんとなく思い至った。
昔、父とあの‘だいぶっつぁん’を訪れたとき、なぜあそこに絵笑子がいたのか。
いや――父はむしろ、‘だいぶっつぁん’へ行けば、絵笑子と再会するかもしれないと、ひょっとしたら期待していたのかもしれない。
父本人にもその本心は解らないだろう。けれど。
桜は、幸生の姿を探してシネコンへ足を運んだ己の姿を重ね、父の心情を慮った。
――偶然じゃないんだ。
たぶん。
父が高校入学一日目で絵笑子と出逢ったこと。
‘だいぶっつぁん’の足下で幼い桜の手を引く父と絵笑子が再会したこと。
運命の糸は、途切れることがなかったのだ。
桜はそう感じた。
「ウマが合う、っていうのか、僕と絵笑子さんは、互いの波長がなんとなく合ってたみたいでね。一緒にいることが多くなっていった。だんだんと」
「でも、ね」父は続けた。
「僕たちは、恋人同士には、なれなかった――いや、‘ならなかった' んだ」
ごくり、と思わず桜が唾を飲み込んだ音が静寂の中に漏れる。
その反応には返すことはせず、父の言葉は続いた。
「それが――すべてのボタンのかけ違いだったのかもしれない。今にして思えば、ね」
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映画研に入って、一学期の終わりには、僕と絵笑子さんはずいぶん親しくなったよ。
それまでは部活の全体観賞会で部員みんなで映画館へ行っていたのが、夏休みを堺に、絵笑子さんとふたりで観に行くようになった。
まあ、さっきも話したように、お互いの家が割と近かったから、映画に誘いやすかったってのもあるかな。
待ち合わせは、たいてい‘だいぶっつぁん’だった。
そう、あの足下の、地獄巡りの回廊。あそこをよく使ったなあ。雨宿りもできるしね。
‘だいぶっつぁん’で落ち合って、すぐ目の前のバス停から映画館へ向かった。
ロードショー館も行ったけど……憶えてるのは、名画座かな。
あの頃は、この市内にも名画座があってね。絵笑子さんとふたりで、昔の名画を漁っていたよ。
当時はネットもないし、映画館だってホームページなんか作ってるところも少ないから、観に行ったときに翌月のスケジュールをもらって、それでいっしようけんめいチェックしたりしてたっけ。
そんだけいつも一緒につるんでたから、部内でもよく「お前ら、付き合ってんの?」なんて、よく勘ぐられたよ。
でもね。
断言するけど、僕達はそんな関係じゃなかった。
いや――そうは、ならなかった。
それは、僕が絵笑子さんよりも下級生だったこともひとつの要因だったのかもしれない。
でも、ほんの数ヶ月歳下なだけなんだ。ホントはね。
いちばんの原因は――
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ここで泰秀は一瞬言葉を探り、グラスの琥珀の液体で口を湿らせた。
「たぶん――恋人同士になることで、壊れることを畏れたんだと、思う」
桜が疑問を差し挟む。
「畏れる、て、何を……?」
父は噛みしめるように呟いた。
「……親友を失うことが、さ」
「そんなに仲がいいなら、その……お父さんの話じゃないけど、ふたり、付き合っちゃえばよかったのに。そんなもんじゃないかなア。普通は。
どうして、そうならなかったの?」
『付き合う』という音を発することに、桜に一瞬躊躇いがあった。
もし、父が絵笑子とそうなっていれば、父は母とは一緒にならなかったかもしれない。
そうなれば、桜はこの世に存在しなかったかもしれないのだ。
自分の存在を否定する言葉を自らの身体から
その桜の感情の起伏には気付かぬままだったのか、父はゆっくりと質問に答えた。
「近すぎたのかな――何もかも」グラスをテーブルに置く。コトリと音が壁に反射する。
「だから、感情が恋愛に発展することは、なかった。特に絵笑子さんのほうはね」
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絵笑子さんは、僕との関係を「私たちはともだちだよね」と言い続けていたから。
「いちばんたいせつな、ともだち」。「親友」。
あるいは、そんな概念に、絵笑子さんだけでなく、僕のほうも縛られていってたのかもしれない。
彼女は恋愛の鍵を開けることで、「いちばんの友」を喪うことを畏れていたんだろうな。
いや、絵笑子さんだけじゃない。たぶん僕もそうだった。
それに――
自分の気持ちをぶつけることで、これまでの絵笑子さんとの関係をすべてを壊すことになるかもしれない。それが、怖かった。
たぶん、ね。
そんな、曖昧な――僕のほうからしたら、そうなんだけど、絵笑子さんのほうは違うかな――関係も、それでも満足だったなあ。僕は。
大学に進むと同時にこの地を離れて、
やがて瑞江さん――お母さんと出逢い、結婚した。
きみが生まれた。
でもね……
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長い間を置いて、重く言葉を呟いた。
「たぶん、その間も……絵笑子さんのこと、忘れたわけではなかった。そう、思う」
娘に対し、裏切りと思ったのだろう。
泰秀の口が強張っているのを桜は感じた。「ごめん……」
桜が促す。
「だいじょうぶだよ、あたしは」そう言って父に微笑む。
目を向けると、娘が父に向かって頷いた。
父は話を再開した。
+ + + + + + + + + + +
そう――あのときも、ホントは希んでいたんだ。きっと、心のどこかで。
だから、お前を連れて、あの‘だいぶっつぁん’に足を運んだ。
自覚してはいなかったけれど……ひょっとしたら、と思ってた。
あの‘だいぶっつぁん’へ行けば、また……
絵笑子さんに逢えるんじゃないか、ってね。
桜にすれば勘ぐってるかもしれないけど、あの再会は、ほんとうに偶然だったんだ。
あの日、たまたまふと思い立って足が向いただけ。まさか本当に絵笑子さんがそこに現れるとは思わなかったのも事実だけど。
でもね。嬉しかったよ。正直云って。
それと同時に、哀しかった。
だって、僕はもう結婚してて、こうして娘もいて――『ああ、もうぜったいに目の前のこの女性とは一緒になれないんだ』、そう悟った。
そのとき絵笑子さんがどう考えてたのかは、知らないんだけどね。
あの再会は、僕にとってはすべてを諦めるためだったって、そう考えた。
考えようとした。
でも、あれが、始まりだった。
何かのきっかけで停まっていた時計が動くように、僕と絵笑子さんの間にあった凍っていた海峡は、覆っていた氷が溶かされてまた流れが起こり始めた。
加えて、僕等が高校のときには存在しなかった情報伝達手段が現れていた。
あの頃は、せいぜいが固定電話。携帯電話でさえまだ高校生風情が持てるもんじゃなかった。
ネットの時代が、すべてを変えた。
絵笑子さんが、僕のことを検索して、僕を見つけた。
メールを送ってくれた。
僕の結婚依頼途絶えていた連絡を、お互いにとるようになったんだ。
最初は、他愛もないやりとりだった。仕事のこと。今の環境。
絵笑子さんは、こっちでデザイン会社に就職して、勤めていると書いてきた。
僕は、職場の愚痴や、家庭のこと。
もちろん、桜のことも書いたよ。
そんなことをしているうちにに、ずっと心の奥に仕舞い込んでいた筈の、もう動くことはないと眠らせていた想い――箱に仕舞って心の底に沈めていた感情の、鍵が開かれていった。
会いたい。
正直、そう考え始めていたよ。
でも。
たぶん、会ってしまったら、気持ちが抑えられなくなる。
僕たちは、意識してかしないか、なるだけ会わないように避けてた。
でも、そんな僕の心模様を、たぶん瑞江さんはどこか感じ取っていたんじゃないかな。
少しずつ、夫婦の間でズレが生じていったのは、それが原因なんだと思う。
+ + + + + + + + + + +
「だから」すっかり空になったグラスを掌で弄びながら、父が呟いた。
「結果からいえば――
僕はきっと、人生で、3人の女性を不幸せにしてしまったのかもしれない」
父が語ったその“3人”の中に、自分も含まれているのだろうと桜は悟った。
これが、父の物語。
絵笑子が示したのとは、別の風景。
おそらく、どちらも真実なのだろう。
淡い想いは抱いていても、それが恋へと繋がることはない。
父と絵笑子の関係はそれだった。
けれど、それが後に誤りだったことに、父は気づいた。
そして、絵笑子も。
運命。
いや。宿命だ。
「でもね、桜」
父は続けた。
「あの頃――高校時代にね。20年もあとにこんな人生が待っているなんて、思いもしなかったよ。
けど、幸せを得るためには、誰かが不幸になるんだ。
僕らは、それを悟り、この幸せを大切にしなくちゃならないんだ。不幸せにしてしまった、その誰かのぶんまで。
いいね、桜」
――覚悟の、幸せ。
桜の心に、この言葉が沁み付いた。
「だから僕は、桜に謝らなくっちゃならない――懺悔するよ」
『懺悔』という重い語調に、一瞬桜は固まったが、父はそれには配慮しないでいたようだ。
それまでの、娘の前で己を晒け出してしまったことを恥じるように、照れ臭そうに父が語調を変え桜に告げた。
「お父さん、酔っちゃったみたいだな。きょうはちょっと飲みすぎたよ。
――付き合わせてしまったね。ごめんな、桜」
桜は「ううん」と首を振った。
「絵笑子さんを待ってるつもりだったけど――早めに寝るよ」
そう娘に告げ、空になったグラスをシンクに置くと、泰秀は寝室へと足を向けた。
桜は「うん。おやすみ」と声をかけた。
* * *
寝室へと去っていった父の背を見送り、桜はダイニングのテーブルにぽつねんと佇んでいた。
深閑とした静寂が肌に伝わってくる。シンクの蛇口から、ポタン、ポタンと雫がゆっくりとしたリズムを刻み続け、その水滴を受け留める、空だったグラスの底に残った琥珀の滓をふたたび湿らせていく。
それをぼんやりと眺めながら、桜は網膜に
おそらく――
実の娘に、ふつうの父親なら、こんな話を膝を交え語るようなことはしないだろう。
桜と泰秀は、およそ10年の間別々に生きてきた。
その10年という隔たりが鍵となり、父の心の扉を開かせたのかもしれない。
桜は、漠然とそんな感慨を抱いた。
よく『異性間での友情は成立するのか』という問いがされることがある。
小説やコミックなんかでよく扱われるテーマ。それだけ人々の内で沁みている問題なのだろう。
けれど、実際そんなことが成り立つのか、桜には実感が沸かなかった。
父と絵笑子は、そんな永遠の命題を実証実験しようと試みていたのか。
父の云った、20年という時間を想像する。
父と絵笑子と出遭ってから、この場所――いま桜自身も暮らしている、この境遇――に辿り着くのに、20年。
桜には、途方もない時に思えた。
20年。
20年経って、こんな人生が待っているなんて。
父も絵笑子も、想像もしなかっただろう。
自分はできるだろうか。待てるだろうか。
想いを巡らせるほど、桜には途轍もなく悠久のよう感じられた。
これが真実なら、赦すしかないじゃないか。
すべてを。あらゆることを。
桜の心の中は震えていた。
父の独白を反芻しながら、桜の心にあった棘が抜けていくような気がした。
ふと、母の生前の言葉が、桜の心の奥から再生された。
“人生では、どうしようもないこと、どうにもならないことも、それを受け容れて生きてかなくちゃならないの――”
――受け容れる――
そうだ。
受容だ。これは。
己の人生を、すべて。
受け留める。
父は、それを実践したんだ。
そして、絵笑子さんも。
そして――おそらくは、母も。
父との関係は、こうなるしかなかった。
だから、それを認め、受け容れた。
父も母も、同じ思考論理をしていた。
ただ、その結果互いに一緒に居ることができなくなったのだ。
桜は、そんなふたりの娘になれたことを幸せに思う。
* * *
ふたたび、桜の脳内でさっきのことがリフレインされる。
父がダイニングを後にする際、語りの終わりに父が付け加えた、その言葉を桜は噛み締めた。
+ + + + + + + + + + +
そうそう、ふたりでよく行った名画座でね、ある日『シェルブールの雨傘』がかかったんだ。
あれも、一緒に観に行った。
2本立てだったから、併映があったんだけど……何と一緒だったか、忘れちゃったなあ。同じジャック・ドゥミ監督の何かだったかな。あるいは別のミュージカル作品か。
とにかく、『シェルブール』は、あそこで観た。絵笑子さんと一緒に。
哀しい、けれどいい映画だよ。
桜もいつか観るといい。
+ + + + + + + + + + +
* * *
“少し、話がしたいんだけど、いい?”
父の去ったダイニングから部屋に戻った桜は、LINEで幸生にDMを送った。
特に話したいことや、理由があるわけではなかった。
ただ、幸生の声が聞きたかった。無性に。
ほどなく掌のスマホがバイブの振動とともにジングルが部屋の空気を震わせた。
幸生からの着信を桜は画面で確認する暇もなく受けると、スピーカーをすぐに耳元へと当て口を開いた。
「ごめんね。まだ起きてた?」
もう午前0時を回っている。謝りぎみに桜が通話を始めると、
「うん。大丈夫」
と幸生の声が数百キロの隔たりを縮め、即答した。「どうしたの?」
「あ、ううん――べつに、話とかはなかったんだけど……迷惑だった、かな」
遠慮がちに会話を始めた桜に気を遣ったのか、幸生が「へいきだよ」と応えた。
「僕も、まだ起きてたとこだったから」
と、続いたものの、桜のほうでも特に続ける話題を備えていたわけでもない。
途切れたキャッチボールに幸生のほうが緒を作ってボールを桜に渡した。
「こっちでは、もう桜が咲き始めたよ。そっちはどう?」
一瞬だけ、『さくら』という音が自分のことなのかと混乱したが、すぐに樹木のことだと判り、「ううん、まだ」と返答をした。「こっちの桜はね、そっちの――太平洋側よりも、遅いんだって」
「対流の影響なのかな」と、幸生がボールを繋ぐ。桜がまた返す。「かもね」
話のボールが弾み始める。
会話の続く中で、今夜の父とのことも話そうか、という考えもなりかけたが、桜は思い留めた。
なんとなく、幸生とこのことを話すには、まだ桜自身の中で熟成が必要だ。
そんな気がした。
とりとめもない、けれど恋人同士にとっては大事な時間が過ぎていく。
互いの声がデジタル信号となって太平洋側と日本海側を往き来する。
父の若い時分には、固定電話がメインの通話手段で、学生が個人の回線を持つことなんてまだまだ先のことだったろう。
もしあの頃にこんなことができたなら、父は絵笑子と途切れずに繋がっていたのだろうか。
幸生との会話を続けながら、桜の頭の片隅ではそんな連想が浮かんでいた。
――でも。
もしそうなっていたら、
あたしはこの世に生まれていないんだな……
桜の中で、自己矛盾が生じていた。
「どしたの?」
相槌が途切れた通話相手に幸生が言葉を投げる。「眠くなっちゃったかな?」
「あ、――ごめんね、ちょっとぼんやりしちゃったから」
「もう、止めとこうか?」優しさから発したつもりだったが、その後の空いた間を察し、ちょっと冷たい言い方になったと幸生は後悔した。
もう少し話がしたい。
そう思う桜は頭を巡らせた末、
「そういえば、そろそろ新学期だね」
と繋げた。
幸生がそれに応える。
「うん、こっちはちょうど明日から“しんかん”」
「え? “しんかん”って、部活の新入生の勧誘のこと?」
「そう」
その返辞に桜が疑問を畳み掛けた。
「だって幸生くん、部活はやってなかったよね」
「だったんだけど――最近よく学校で話す隣のクラスのヤツが映画研の部長になっちゃって。俺、部員じゃないんだけど、成り行きで新入生の勧誘、手伝わされる羽目になってさ」
「そうなんだ~。じゃあ、幸生くんも4月から映研に入るの?」
「いやいや、俺はただ人が足りないからって手を貸すだけ。ロードショー1本分が報酬」
「そういえば、ウチの映研、人数不足で廃部の瀬戸際だったよね」
かつての母校のことを思い出し、会話に花が咲く。
寂しかった想いも満ち足りたところで、気持ちのいいままで通話を終了しよう。
互いの心地が電気信号となって通い合ったのか、どちらともなく「じゃそろそろにしようね」「うん」と告げ合った。
「おやすみ」「おやすみ」
通話が終わり、心が暖かに昇華した桜だったが、ベッドに潜り込んでもまだ眼が冴えて眠りにつくことができなかった。
それでもしばらくは横になっていたが、ふと思い立ち子守唄代わりに音楽でもかけようか、という気持ちを抱くと、むくりと起き上がり携帯プレーヤーを操作したものの、飽きるほどにパワープレイしているメモリ内のコンテンツはどうも聴く気が起きない。
ふと部屋にあるCDプレーヤーに目が留まった桜は、機械の上に預けられたままのCDケースを持ち上げてジャケットを眺めた。
ジャケットの文字が部屋の闇の中で浮かび上がる。
“Les Parapluies de Cherbourg”。
ふと、これを聴きたいな、と思った桜は、ディスクをセットしPLAYボタンに触れた。タッチセンサーが桜の指に反応し、スピーカーからサウンドが流れ出す。
深夜なので音を絞り、桜は布団に潜り込んだ。
悲しげな旋律が静寂の部屋を揺らし染み渡ってゆく。
その心地良さに桜は包まれた。
廊下の奥のドアが開き、床をスリッパが叩く。続いて台所で水を注ぐ音。桜の意識が音源から逸らされる。
酔いがようやく醒めたのか、父が水を飲みに這い出してきたようだ。
キッチンを出た足音は奥の父の部屋へ行かず、こちらへと近づいてくると、桜の部屋のドアをそっと開いた。
気配を感じた桜が首をドアのほうへ向け、そこにいる父のシルエットを確認した。
「あ、ごめん、音大きかった?」
桜が謝りかけると、父の影は「いや」と答えた。「そのCD……気に入ったのかな」
頓狂な問いに戸惑いながら、どう応えていいやらと思った桜はその場で思いついた質問をしてしまった。
「やっぱり、返そうか? このCD」
自分でもチグハグだったかもと思った桜だったが、ほんの一瞬の間の後、父は答えた。
「いや、いいよ――それに、これから桜が、必要になるかもしれないから」
桜が答えを探す間に、父は「おやすみ」と告げドアを閉めていった。
パタパタとスリッパの底が廊下を奥へ去っていく。
CDの曲が流れる中、桜は父の言葉を反芻していた。
必要。
そう父は云った。
この語をどうして父があえて選んだのか、桜が気づくのはずっとずっと後になってからのことだった。
* * *
「あれ? お父さんは?」
翌朝、起きて食卓に上がると、絵笑子だけがテーブルにいて焼き上がったばかりのトーストを桜に差し出しながら返辞をした。
「もう出かけたわ。今日はお得意さん回りがあるからって、車で」
「ふーん」
父が既に出勤してしまった、というのを聞いて、正直桜は少しほっとした。
本音をいえば、昨日の今日で、父とどんなふうに顔を合わせたらいいのか、桜の仲で判りかねていたからだ。
やっぱり、少し照れ臭い。
「どしたの? トースト、焼けたわよ」
食卓に促す絵笑子に挨拶を微笑で返しながら、「ううん、なんでもない」と言って桜は自分の定席に座った。
香ばしいトーストの匂いと淹れたてコーヒーの薫りが桜の胃を刺激し、空腹感が沸き起こる。「いただきます」と言いトーストを頬張ると、がりりという音とともにふわりと温かな香気が鼻腔を満たした。
もふもふと顎を動かすリズムが脳を覚ましていく。
「そういえば、桜ちゃん、学校は?」コーヒーのおかわりを注ぎながら絵笑子が訊ねた。
「うん、うちは明後日が始業式」
「新学期ね。がんばってね」「うんっ」
こんな家族の会話が自然にできることが、こそばゆくもあった。
心がくすぐったい。
――いいな。こういうの。
思わず見つめられていたことに気づいた絵笑子が「なぁに?」と問い返す。
「ううん。なんでもない」照れ隠しに交わした視線を逸らす。
差し込む朝陽に誘われ窓を見遣ると、街路の桜の枝に蕾が膨らみかけているのが見えた。
数日前に父が
「こっち、日本海側の桜はね、桜の住んでた太平洋側よりも遅咲きなんだ」
と桜に語っていたのを思い出す。
母と住んだ幼い頃から育ったかつての街では、自分の誕生日の頃にはもう桜の花が散ってしまっていた。
この地方では、これからが満開なのだ。
父が言う。
「誕生日の頃には、ちょうど見頃だよ」
自分の名が“桜”と名付けられたのは、この、父の生地の桜の満開の頃に産まれたためなのかと、桜はこの春に初めてなんとなく実感した。
そんなことを思い出しながら、トーストをコーヒーで流し込んだ。
思わず顔がにやけてしまったのを、絵笑子に見られてしまわなかったか、桜は心配になった。
――きっと、誕生日の頃には、この辺りの桜も満開だろうな。
芽吹きかけの桜の樹を眺めながら、桜は考えた。
夕方になったら、また幸生と連絡しよう。
そしたら、そのとき改めて言う。宣言する。
幸生くん。
あたしね、お父さんを許そうと思う。
あたしは、不幸せだなんて思ってないよ。
だって、いまはこんなに素敵なひとと、一緒に朝食を食べてるんだもの。
たぶん、絵笑子さんだって、不幸せだったなんて考えてないよ。
だから。
それに、お母さんも。
だって、誰かを好きになるって、止められないことだもの――ね?
きっと、そう。
ぜったい。
今はここが、私の家だから。
* * *
市内の幹線道路を走る車内で、泰秀は渋滞に巻き込まれながらノロノロとオフィス街を抜けていた。
本当はもう少し遅く出ても間に合うのだが、早目に家を出た。
一晩寝て起きたら、昨晩の気恥ずかしさもあり、今朝は娘と顔を合わせたくなかった。きっとばつが悪い。
絵笑子も頭に『?』を出しながら見送ってくれた。
持て余しついでにスイッチを入れたカーラジオが男女の掛け合いのてきとうなトーク番組を流している。
懐メロのコーナーらしい。女性のパーソナリティの声が「つぎのリクエストは、村下孝蔵の……」と告げると、その説明に被りイントロが流れはじめた。
湿度の高いメロディとねっとりとした歌唱が車内に満ちていく。
学生時代に流れた流行歌のひとつ。
音楽は、ときとして聴いていた頃の記憶も再生させる。泰秀のメモリがあの頃の記憶を呼び覚まし、高校時代の絵笑子との想い出や、瑞江との結婚までの日々を再生させた。
ぐるぐるとイメージが変転し、目眩にも似たゆらぎを感じた。
ふいに泰秀の涙腺が緩み、すっと頬を雫が伝う。
――ちくしょう。
なんで、涙が出てくるんだよ……
潤んだ視野に注意しながら、スピードを調整しつつハンドルを握る。
一旦停止しようかとも思ったが、タイミングが合わせられず、車の流れから逃れることができない。
一直線の道路に転々と連なる信号は、消失点の向こうまですべて青になっている。
青、青、青。
街の看板も、巨大な広告の背景も、電柱に括り付けられた捨てカンの色も、すべてが青に染まっている。
雲ひとつない空も。
待っていても、赤にはならない。
停まれない。
戻れない。
沸き起こる哀しみの中で、泰秀の心は呻いていた。
人生は一方通行で、
間違いをしたりケームオーバーになっても、
RPGのようにリセットしたりセーブポイントまで戻って再開することはできない。
“ふっかつのじゅもん”は、使えない。
* * *
周囲の家屋よりも頭ひとつ伸びた遮るもののない桜の住居のマンションの窓へ、夕刻を告げる商店街の放送が届く。
冬の間はこの放送が聞こえてくる頃にはもう陽は瓦の波頭の刈り取るスカイラインに隠れるくらいだったが、4月ともなると、まだまだ日没までは余裕を持ち始めていた。
――まだ、少し早いかなぁ。
幸生はそろそろ帰宅したころだろうか。
桜はDMを送るタイミングを見計らっていた。
幸生が新入部員勧誘をする、ということにも興味があり結果を聞きたかったが、それに加え昨日の夜に起きた父とのことで、話をしたかった。
でも。
ホントは、理由なんで何だっていい。
ただ、彼と話がしたい。
声が聞きたい。
いちばんはそれだった。
夕暮れのBGMを合図に、そろそろいいかな、と待ちかねていた桜はそそくさと送信ボタンをタッチし、幸生のLINEアカウントへあらかじめ書いていたメッセを送った。
“きょうは、どうだった?”
少しの間を置いて、幸生からのレスポンスが届いた。
“いろいろタイヘンだった”
慣れないことをしている幸生の姿を思い浮かべ、桜はくすりとしながらフリックの指をせわしなく動かす。
“話、いい? 少しだけしたい”
“いいよ”
“待ってるね”
桜のレスの末尾に"既読"の表示が点いた直後、着信音が響き、「幸生」と画面表示が出た。
「――はい?」
弾む声で電話に出る。いつもの声に心が安らぐ。
「どうだった? 新勧は」
「どうも何も、ただ『新入部員募集』っていう立て看掲げて、ブースに座ってただけだからね。もともと映研なんて興味あるヤツ、いまどきそんなにいないよ」
「言っちゃっていいの? そんなコト」
「構わないよ。べつに部員じゃないし」
珍しく幸生がぶっちゃけたトークをするのを聞きながら、自分と接するのとは違う男同志の気の置けない関係に桜は少し妬けた。
どうしても、女は男の友情の間へは踏み込めない。
友人など殆どいない幸生だからこそ、この映研部長のことを話す幸生には尚更の実感が伴った。
「例の部長のクラスの奴で、あいつから『どうしても』って頼まれて部員名簿に名を連ねてるのが二人いるけど、そいつらだって完全に幽霊だし。実質あいつが独りで映研名乗ってるようなもんさ。でも先輩が2人卒業してっちゃったから、どうしてもその減ったメンツの分を確保しないと、廃部対象になるんだって」
幸生の学校――桜も去年まで通っていた――の部活の規約では、最低5人の部員がいることが部としての条件となっている。それ以下になると、同好会へ格下げとなり、生徒自治会から予算が下りなくなってしまう。
なので、この条件を満たすために弱小のクラブは涙ぐましい努力と不正まがいのあらゆる手を尽くす。
件の映画研も、そんなひとつだ。
「じゃ、幸生くんも入部するの?」
「俺は入らないよ。しつっっっっこく誘われてるけど」
「フフフ」
話を聞きながら、やっぱり、と桜は思い吹いた。
「あ、でも――」
「なに?」
「ああ、やっぱいいや」言いかけて幸生が開いた口を閉じる。「たいしたコトじゃないから」
桜が疑問を沸かせるよりも先に、幸生が別の話を振った。
「次、映画は何を観に行こうか」
話を逸らす意図を桜には悟られないように、幸生が細心の注意で頭を回転させていたのを電話の向こうの相手は気づかなかった。
たぶん、面と向かい合っていれば、悟られたかもしれないけれど。
幸生が続けた。「何か、リクエストある?」
電話で隔たった会話は電波というフィルタで機微を濾し取られたか、桜はむしろまた“秘密のデート”を相談されることに心が
「んーとね……
じゃあ、恋愛ものが観たい」
自分で振っておきながら、桜のリクエストにやや抵抗を感じながら、幸生が反論する。
「えっ……俺、ひとりで券買って行くの? お・男が、ひとりで、ベタベタのロマンスものを……?」
「ひとりじゃないよう。
――“いっしょ”、でしょ? あたし、と……」
ルールを振りかざす桜のほうが正論だった。
選択の余地を与えない言いっぷりに、幸生は「……うん」と同意するほかなかった。
桜に一本とられてしまった。
幸生は思った。
つきあうしかないな。
* * *
“デート”の日取りを決めた桜は満ち足りた心地で「じゃあね」と言い通話を切った。
「うん。じゃ、また」幸生が応えると、そっと通話ボタンをオフにする相手の気配を桜は耳許に感じた。
多幸感が落ち着くと、桜は電話の本来の目的だった内容をようやく思い出した。
――あ。
話そうとしてたこと、言いそびれちゃった。
まぁいっか。
今夜か、明日にでもまた電話しよう。
* * *
夜。
既に午前0時を回り、
幸生はそっとカーテンを掴むと、隙間から窓外に見える家々の陰を眺めた。
まだ所々の窓から明かりが漏れてはいるが、煌々と照らす街灯や、信号の赤の点滅がアスファルトを映すばかりで、風景は闇が覆っていた。
視界にマンホールが点々と連なる。
その黒光りする円の数を数えながら、幸生はこの日の学校でのことを網膜に再生させていた。
桜に告げないままにしたこと。
なんとなく、後ろめたい気もした。
この気持が、話さなかった行為についてなのか、話さないでいた内容についてなのかも判りかねた。
自分でも、どうして桜に言わずにいようとしたのか、判らない。
何か制動が心の中でかかり、喉から言葉が出るのを引っ込めた。
どうしてだったんだろう。
幸生は、己の心の深部を探った。
あのとき、ある種の予感が幸生の中を支配した。
なんとなく、だが、桜に知られるのは――
――と、突然LINEの着信音が部屋の空間を揺らした。
画面は桜からのDMを告げている。
夕方に話をしたのに、また何だろう。
“起きてる?”
短文のメッセージに幸生は完結に答えた。
“なに?”
それが“既読”になった直後、間を置かずに音声着信を報せるジングルがスマホを震わせた。1コールで通話をONにする。
「あ、ごめんね……」
耳元のスピーカーに、桜の申し訳なさそうな声が届いた。
「どしたの? 夕方に電話したばっかなのに」
「迷惑?」幸生の戸惑い気味な口調を察したのか、桜が先手を置いた。
「いやそうじゃないけど、なんだろうな、って」
思わずいまさっきぼんやりと考えていたことを見透かされたのではないかと勘ぐってしまい、不躾に返してしまったことを幸生は後悔した。
「ごめん――」
桜が電話の先で平謝りするのを聞き、自分の態度が悪かったな、と思い改める。
「平気だよ。で、なぁに?」
口調を落ち着けた幸生にようやく桜は安心したのか、緊張の解れる空気が伝わった。
「やっぱ話したくて――」
桜が口重たく続ける。
「あのね……ホントは、夕方に電話したのもね、話したいことが別にあったからなんだけど話し損ねちゃって――ううん、夕方っていうか、ホ・ホントは昨日の夜だって話したかったんだけどでもなんて話しをすればいいかあたしわかんなくてそんなうちに時間だけ過ぎちゃったからでもやっぱり幸生くんに話しておきたくてでもやっぱりどう話せばいいのかもわかんないままだしそもそもなんでこのことを幸生くんに話したいって思うのかもわかんないし――」
桜の脳の処理能力を越えた暴走がそのまま言葉として伝播する。
桜自身どうやら頭の中が整理できていないようだ。混乱した説明を鎮めるために、幸生は言葉を挟む。
「頭に浮かぶ順に話していいよ。うまく説明できなくてもいいから」
少しの沈黙の後、桜はぽつりぽつりと心に散らばる言葉を拾い始めた。
昨晩の父の告白のことについて桜は話し始めた。
いや、父のそれは告悔だった。
桜への懺悔。
その意味を、桜は考えていた。
一晩明けてみても、桜の中では消化できなかった。
幸生に話したかったが、どう伝えればいいのか躊躇った。
うまくまとまらない。
そのまま話せばいいのだろうか。
そう決意したから、すべて含めて伝えようと思う。
そんなことを、桜は正直に話した。
自身が抱えきれずにいることも、素直に話す。
そんな桜がいじましくも思えた。
ひと通りの話を了えると、桜が続けた。
「あのあと、ずっと考えてるんだ。
お父さんは、どうして私に、あんなことを打ち明けたんだろう、って」
言葉を選び幸生が答える。
「桜を、ちゃんとした一人の個人としてみている証しじゃないかな。そう思うけど」
「そっか……そうなのかな」
「たぶん、ね」
「けどね。
あたしいま、とっても、しあわせ」
「なんで?」
「説明できないけど……でも、なんか、はっぴー。そんな気持ちでいっぱい」
幸生が言葉の真意を図っていると、桜のほうからひとつの回答を示した。
「お母さんはいなくなっちゃったけれど――それでも、今のあたしは、幸せだよ。
だって、お父さんと絵笑子さんと、こんなすてきな家族に巡り遭えたんだもの」
幸生が同意する。
「きっと、お母さんが導いてくれたんだろうな」
「うん。そう思う」
それでいいじゃないか。幸生も思った。
幸生が提言する。
「桜は、いま、どうしたいのかな」
「うん……いまね、あたしとっても、お父さんと話がしたい。今のことを。これからのことを。じっくり」
「そっか。いいと思う」
「うん」
桜の返辞は、心の決断に聞こえた。
なんとなく連想が浮かび、幸生はそれを言の葉にした。
「昔読んだ本にね、『人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く』っていう言葉があったんだ」
不意を突く内容に桜は狐につままれた。
「なにそれ」
「いや……ごめん、ただ思い出しただけだから」
音として出してしまってから、幸生は今の会話にはふさわしくなかった、と悔やんだ。
会話が続かなくなったことをなんとなくお互いが悟り、潮時かな、という雰囲気がお互いに伝わった。
桜のほうから終了の言葉をかける。
「遅くなっちゃったね。付き合わせて、ごめんね」
「いや。平気だよ」
幸生が締めの言葉をかけた。
「桜も明日から学校だろ。新学期、がんばれよ」
「うん。幸生くんもね」
「おやすみ」
「おやすみ」
静かにOFFボタンをタッチし、音声が切れる。
スマホを握りながら、幸生は今しがたの自分の失言を反省しその意味を思った。
幸生自身、どうしてこの流れでそんなことを連想し桜に話したのか、判らなかった。
幸生はふたたび窓外に目を移した。
信号の赤の点滅は、電話の前と同じようにアスファルトのマンホールの列を照らしている。
点滅のリズムに合わせ、幸生の連想のコマが刻み続ける。
ヒトのシナプスというのは、過去から未来へ向かう時間の流れとは別の物理法則が成立しているのだろうか。
過去を想起させるフラッシュ・バックだけでなく、時としてフラッシュ・フォワードも生じさせるのかもしれない。
人はそれを“直感”とか“第六感”と呼ぶ。
そんなふうに呼ばれているものが、幸生の中の情報を無自覚的に導き出しあの言葉を口にさたのかもしれない。
それに気付くのは、そう遠いことではなかった。
* * *
電話を切った後、やっぱり幸生に話して良かった、と桜は思った。
少なくとも、今の心の混沌を、少し軽減できた。
それだけでも充分だった。
幸生が己の言に悔やんでいたことなど、露も知らない。
数日後。
桜の住む街並みにも、サクラが咲き始めた。
満開となった界隈の街路樹に遅かった春の風が流れ込み、穏やかで暖かな大気が市内を覆う。
休日の午後、桜は
「いっしょに花見しようよ」
と父と絵笑子に告げ、三人で連れ立って近くを散策した。
歩みは自然とこの辺りのランドマークである“だいぶっつぁん”へと向かった。
ちらほらと花見の集まりがベンチに座ったりシートを広げて小さな集まりを作る中、ちょうど空いていた石段をベンチ代わりにして三人は並んで座った。
正面に“だいぶっつぁん”を捉えた好アングルの場所で、桜は二人に向かい
「そういえば、この三人が始めて揃って顔を合わせたのは、あそこだったんだね」
と、10年前のことを懐かしんだ。
「そうね」絵笑子が同感する。
「でも」桜が言を受ける。「考えたら、三人でここに来たこと、あれ以来なかったよね」
「そうか?」
「そういえば、ホントね」泰秀と絵笑子がほぼ同時に相槌を打った。
三人は、それぞれに10年前のことを思い描いた。
今この場に並ぶ残り二人が居た配置を思い出していた。
相手の後ろには、あのときの背景の回廊の地獄絵図が真っ赤なイメージとなって浮かんでいた。
地獄を内包した大仏が見守っている。
桜は、幸生の言葉を、ふと思い出した。
“人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く”
どちらの門が開かれるのか。どちらも解き放たれるのか。
でも、このまま停滞したままよりは、いいと思う。
進め。
桜の内なる声がそう告げる。
自分の意志を、父だけではなく、絵笑子にも見届けて欲しかった。
だから、あえて『家族』三人で、ここに来たかった。
この、サクラの季節に。
桜は、父と顔を合わせると、決意の眼差しでまっすぐに父の目を見据え、口を開いた。
「お父さん――
――あの、ね――」
春の陽光を反射した“だいぶっつぁん”は、青く光を放っていた。
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