#1 ある日どこかで

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【ある日どこかで】

 1980年 アメリカ映画

 監督:ジュノー・シュウォーク 出演:クリストファー・リーヴ ジェーン・シーモア テレサ・ライト

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         ◎


 緋色菜津ひいろなつは、この日初めて一人で映画を観に来た。

 これまでは家族や学校のクラスメートと一緒に来ていたが、どうしても他人に合わせるのは気疲れをしてしまう。なら一人で行ったほうが気楽だ。

 一人で映画館へ行く、と親に話せばきっと辞めろと咎められるだろう。密かに計画を練り、いつもの日曜の朝と同じく「塾に行ってきます」と告げ、玄関を出た。



 そのまま、菜津は塾へ向かうバスには乗らず、小走りに私鉄の駅へと急いだ。


 うしろめたいことをしているような気分が菜津の全身を包んだ。

 と同時に、禁忌を犯すそのドキドキとした不安感に思わぬ快感も湧き上がる。塾をサボったのは初めてだが、開放感と快楽は中毒になりそうだ。



 中学3年の菜津にとって、毎日が受験モードのようだった。

 二学期も中盤となり、学校では休み時間のクラスメートとの会話も受験の話。家に帰っても親から「勉強しろ」と口酸っぱく言われる。その上週2の学習塾に、日曜は進学塾。


 どこに居ても、勉強、勉強、勉強。


 息が詰まる。



 たまには息抜きも必要だ。

 菜津は自分に言い訳をして、行動することを決めた。





 日曜日を決行の日と決めたのは、休日なら中学生が繁華街をうろついてても特に目立たないと思ったからだ。

 目標地点はこの辺りでもいちばんの繁華街。ショッピング・モールに隣接するシネコン。


 劇場の席に着くまで、クラスメートやその親など、知ってる人に誰とも出食わさなければ、ミッション・コンプリートだ。





 改札をくぐり、乗った電車のドアが閉まると、ようやく菜津はひと息ついた。

 ゲームのステージ1、クリア。



 手摺りに身を任せ、汗を拭う。窓枠に切り取られた、通り過ぎていく景色を菜津は眺めた。


 家では「もう3年生なんだから、勉強にもっと身を入れなさい」といつも小言を言われる。そんなこと言われなくたって、自分がいちばんよく解ってる。


 まだどの高校を受けようかということもあまり考えていない。絞りきれないのだ。

 そもそも、高校なんて、どこも同じじゃないのか。


 菜津はいつもそんなことを近頃考えていた。



 考えていると、また息が詰まりそうになる。



 秋も終わりが風から感じられるようなこの頃。例年よりやや早めの、先日木枯らし一号も吹いた。

 秋風がいやでも“受験生”という境遇を思い出させる。背中がそわそわする。気持ちだけがあせる。あせっても、どうしようもないのに、どうして心が揺らぐのだろう。


 カレンダーも、季節も、街を吹く風も、流れる窓の景色も、なにもかも菜津の心を落ち着かなくさせる。



 今だけでいい。映画に集中したい。





 シネコンに到着すると、この劇場ではいちばん大きな2番スクリーンで上映されているチケットを取った。

 知り合いと鉢合わせするのを畏れ、気配を消すように開幕ギリギリで場内へ入る。封切られたばかりの話題作なので、客席は8、9割方埋まってほぼ満員だ。

 座席に着いたとたん、開始のベルが鳴った。



 菜津は右寄り、通路際の席に着いた。特に理由は考えたことがないが、なんとなく通路にすぐに出れるのが好みだ。

 スクリーンに予告編が映し出され始めると、菜津はようやく落ち着いた。



 映画は菜津にとってオアシスだった。


 2時間余の間、閉塞したこの現実を忘れることができる。


 菜津にとって、映画はシンデレラの馬車だった。

 魔法が解けるときまで、夢の中にいられる。



 できることなら、このままいつまでもこの夢に耽っていたい。


 菜津はそう思っていた。



    *   *   *



 夢の時間を断ち切ったのは、エンドクレジットではなく客席の騒動だった。


 場内が暗くなった後やや遅れて入ってきた若者のグループが、本編が開始まってもおしゃべりを辞めず、観賞に集中できなかった。彼らはちょうど菜津の座るのと同じ列の中央付近を占拠していたので、話し声が耳障りだった。


 「メーワクだな」と菜津の心が愚痴る。

 せめてひそひそ声で会話してくれないかなあ。


 菜津はイラついたが、女子中学生ひとりでは、為す術がなかった。


 おそらく、他の客も不愉快に感じているだろう。けれど、公衆の場で、しかも映画本編も上映中では、誰も注意しようとは思わない。


 菜津がそんなふうに悶々としていたとき、突然すぐ後ろの列から声が届いた。



「――すみません、おしゃべり、辞めてもらえますか?」



 ドクンッッ。


 菜津の心臓が、大きな音をたてた。


 テノールのよく通る声が館内に響き、場内は凍りついた。




 発せられたのは、騒いでいたグループのすぐ後ろの席からだ。


 チッ、という舌打ちが聞こえ、続けて女の声が客席の静寂の空気を震わせた。


「あたしたちだってぇー、お金払ってぇ、見に来てるんですけどォー」


 テノールの声が再び菜津の耳に届く。


「オレもみんなも、映画を楽しみたくて来たと思うんで。少しだけ、人から愛されるように、映画、観ませんか?」



 館内に同意の気が浸透するのがわかった。

 ぱらぱらと、拍手も沸き起こる。


 分が悪いのを感じたのか、騒いでいたグループはそれきり沈黙した。





 数席を隔てグループと同じ列に座っていた菜津は、間近で起きた一部始終に体の芯が何かで貫かれるような熱い感覚を覚えた。


 自分が躊躇っていたことをああもあっさりと成し遂げられるものだろうか。

 素直に感動した。



――カッコいい。



 女子中学生の言葉として額に浮かぶボキャブラリィでは、この言い回しがせいいっぱいだった。

 初めて識る感情が言語に変換できないまま菜津の胎内で膨張する。

 躰が破裂しそうだった。


 はらの底で、内側が火照る。

 体幹が、びりびりと痺れる。




 菜津は瞬時に思った。


 このテノールの声の主の顔を見てみたい。






 上映中は背中の席にも迷惑と思い控えていたが、エンドロールが流れたところで、菜津は賺さず首を反り、後列のテノールの主のほうを振り向いた。



 騒ぎを起こしたグループはエンドロールも見ずにすぐに立ち上がり、菜津の前を横切って出口へと去っていく。

 菜津はスクリーンをシャッターされる煩わしさも気にならないほど、後列に注意を向けた。


 さっきの声のした方向には、十代と思わしき少年が座っていた。

 自分よりも少し歳上くらいだろうか。高校生くらいに見える。




 あんな人が、あの‘悪い人たち’に注意をしたのか。

 たったひとりで。


 すごい。



 自分も、あんなふうな勇気を持ちたい。




 だが、菜津の中では、自分の言葉にした以上の感情が芽生えてもいた。






 普段ならエンドクレジットも真剣に追う菜津だったが、今日は目がその少年に釘付けになっていた。映画がすべて終わり、館内が次第に明るくなってきたところで、始めて終映したのを知った。


 凝視されていたのに気付いたのか、‘テノールの少年’が一瞬こちらをチラリと見た。


 目が、合った。


 菜津の心臓は大きな鼓動を鳴らし全身に血液を送り出した。


 巡ってきた血のせいで顔が紅く染まる。

 思わず菜津は顔を背け、何も映っていない銀色のスクリーンを眺めた。



 気配を感じると、先程の少年が席を立ち、座席の間の通路に出たのを斜目はすめで捉えた。

 菜津の視線がずっと彼の背中を追ってパンしていく。

 傍でみれば、瞳孔が開いていたのさえ判ったろう。




「イザキくん!!」




 突然館内に女声が響いた。

 “彼”が反応し、声がしたほうを探す。菜津も声のほうへ視線を遣ると、“彼”と同い年くらいの少女が駆け寄ってきた。


 二人は知り合いらしい。

 菜津の居た距離からは内容が判らなかったが、二人は会話を交わしながら出口へと消えていった。


 我に返り、そそくさと荷物を掴み菜津も出口へと向かった。

 映画館のロビーに出てみたが、既に“彼”の姿はそこにはなかった。菜津は小走りに玄関を出、ショッピング・モールのコンコースへと出たが、日曜の雑踏で混雑したモールですっかり見失ってしまった。


 菜津は探すのを諦め、赤いセルフレームの蔓を指で挟むと眼鏡を外した。


 後ろ髪を引かれる思いで、菜津は呆然と雑踏に立ち竦んだ。




――そうか。

  “イザキ”っていうのか。彼。



 また、会いたい。そう菜津は願った。



 きっと、逢える。



    *   *   *



 日曜の"小さな冒険"が成功した達成感は、菜津を少しだけ変えた。

 キリキリとした窮屈な日常も、ほんの僅かな風穴が空いたことで、風が通り抜ける。

 週明けの登校も、これまでよりは苦にはならなかった。結果オーライなら是だ。『遊びをせんとや産まれけむ』。やはりガス抜きは人生には必要なのだ。



 だが、次の週また月曜が巡り、火曜が過ぎ、水曜を迎えると、菜津の心に暗雲のかさが圧し被さるようになった。


 また、映画に行きたい。

 いや、ほんとうは、あのシネコンへ行きたいのだ。


 何よりも、映画館でのあのときの出来事が、菜津の心象に強いイメージを植え付けていた。

 あの日あの瞬間から、菜津の耳の奥には、あの少年の声が残り続けエコーのように内耳をぐるぐると回っていた。


 シネコンとあの‘テノールの少年’は、菜津の脳内で紐付けされ、映画を欲しているのか、それともあの声の響きを浴びたいのか、判別がつかなかった。


 あそこへ行けば、ひょっとしたらまた“彼”に逢えるかもしれない。


 その期待のほうが大きかった。



 そうは言うものの、受験の時が時々刻々と迫ってくるのも肌身に感じている。

あせっていない、と云えば嘘だ。


 とは言っても、日曜の塾をそうそうサボルわけにもいかない。

 菜津は次なる案を考えた。もっと狡猾な方法を。

 ゲームは、スデージをクリアすれば、更に次のステージが待っている。



 次のステージは、さらに難易度が高い設定となった。平日、放課にシネコンで映画を観、ダッシュで帰宅するのだ。

 これならいつもよりちょっと帰りが遅くなるくらいで、親にも怪しまれることはない。訊ねられても「ちょっと図書館に寄ってた」とでも言い訳ができる。



 プランが決まれば、次は実行だ。



 学校が終わってすぐにシネコンへ走ることにした。いつも残業で遅い父親が夕飯までに帰宅することはないし、19時前に帰ってくれば母親もそれほど気にはしないだろう。


 でも、制服のまま繁華街へ出向いては、補導されるだろうか。

 1年生のとき、バスケ部の上級生がこのモールで補導員に声をかけられた、と聞いた。菜津はその噂を信じていた。

 そんな心配を予測して、朝、こっそりと私服をバッグに詰め、家を出た。



 5時限目の終わり、桜は荷物をまとめ一目散に教室を飛び出した。きょうは木曜日。早々とサッカー部が校庭に集まり準備運動を始めている。それを横目に見ながら、菜津は足を早めた。

 できるだけ誰とも顔を合わせずに駅まで辿り着きたい。誰にも会わなければ、脱出は成功。菜津は頭の中でひとりルールを決め、ゲームを楽しんだ。

 よく遊ぶシューティングゲームの、使い慣れたアバターに自分がなっているような気分だった。


 まずは学校支配地域から脱出するミッション。通学路から離れろ。急げ。

 駅の改札をくぐり抜け、辷り込んできた電車に飛び込む。ドアが閉まり動き出したところで菜津はようやく一息ついた。


 ショッピング・モールの最寄駅に到着すると、菜津は鞄を抱えて早足でモールの中を通り過ぎた。通路に並ぶショー・ウィンドゥの七色のディスプレイが視界を流れていく。菜津は事前に計画していた女子トイレに駆け込むと、急いでバッグの中の服を取り出し、代わって脱いだ制服を押し込んだ。


 私服姿の菜津がモールに現れる。このまま無事に劇場の座席までたどり着ければ、ミッション2クリアだ。

 目指すシネコンは、地域では最も繁華な場所となっているこのショッピング・モールのいちばん奥にある。

 ロビーに到着すると、既にお目当ての作品は入場が開始していた。

 あらかじめ代金分のコインを握り締め、受付で券を購入すると、菜津はすぐにシネコン9番スクリーンに飛び込んだ。

 座席に着いたとたん、開始のベルが鳴った。



 よかった。間に合った。

 菜津はホッと肩の力を抜いた。


 暗くなる寸前に、座席から首を伸ばして振り返り、客の顔を見廻す。


 あの“彼”の姿を発見できないうちに、館内は完全に照明が落ち、スクリーンでは予告編が始まってしまった。

 菜津は捜索をいったん諦めるしかなかった。



 しょうがないか。

 映画が終わったら、また探してみよう。



 だが、そもそも今日、この同じ時間に、同じ映画を観ている、という確証など菜津には何も無い。


 それでも、「ひょっとしたら、いるかもしれない」という期待感が、菜津の心に多幸感を満ちさせた。映画を観に来たのに、本編にぜんぜん集中できない。

 むしろ、上映が早く終わってくれないかと、待ち遠しかった。






 映画が終わり館内が次第に明るくなってくると、菜津はすぐに観客の顔を眺め回し始めた。前方の列。中央。左側。右。

 座席から腰を浮かせ、そのまま体を回して後方をぐるりと眺める。それでも体勢が苦しくなり、菜津は立ってスクリーンを背に視線を泳がせた。


 と、菜津の居た場所の数列ほど後ろ、センター付近で、クリーム色の制服を着たカップルが席から立ち上がった。

 最初は視界から逃してしまったが、あっ、と気付いた菜津は眼をその二人に戻し、映画館特有の館内のやや薄暗い照明の中、網膜の解像度を上げるかのように凝視した。

 菜津の瞳はズーミングのようにその二人に――男性のほうに集中した。


 いた。

 “彼”だ。


 アベックだという先入観と、制服に惑わされ見逃すところだった。


 菜津の見詰める中、その視線には気付かずに高校生のカップルは通路のスローブをクリームを下り出口へと向かっていった。

 菜津のいる列の目の前を通り過ぎる。談笑する二人の横顔を菜津の眼がパンフォローしていく。

 瞬きも惜しいくらいに、菜津は自分のメモリに“彼”の姿を記憶した。



 躰の芯が小刻みに震える。


 あの、テノールの声の“彼”にふたたび出逢えたことに、菜津は静かに感激していた。








 すべての客が去ったあとも、まだ菜津は館内に残りその場に立っていた。

 しぃんとした空間に、自分の心臓の叩くリズムが菜津の耳に響いていた。




 あの制服には見憶えがある。


 たしか、県下の高校のやつだ。男女共学の。

 割と近い場所にあったはず。


 レベルはやや高いが、今の自分の学力なら、ちょっとがんばれば行けるかもしれない。












 

 この日、菜津の進路が、決まった。




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