#6 家族ゲーム

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【家族ゲーム】

 1983年 日本映画

 監督:森田芳光 出演:松田優作 伊丹十三 由紀さおり

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         ◎


「じゃ、明日は午後の、2時35分の回だね」


 “シネコンの魔法”を知ってから、学校が無いことも手伝い、ふたりの『デート』はより頻繁になった。

 春休みは、桜の日常は映画に明け暮れた。

 3日と空けず劇場へ足を運んだ。


 とりあえず、まず(たいがいの場合幸生が劇場に先着するので)幸生が先に席を確保、それをDMで桜に報せ、席番を確認した桜が自分の座席を取る――という流れがいつの間にか定着した。



 タイムテーブルは毎週金曜に次の1週間の予定がウェブで発表される。座席予約は2日前からできるので、馴れてくると、次に観る映画が決まっているときには、2日後の座席を取ってしまうこともたまにあった。


「でも、こんなにいっぱい映画ばかり観て大丈夫なの、かな」


との桜の心配に、幸生は


「平気だよ。数を観れば貯まったポイントで一回分がタダになるし」


と即答した。


「そうなの?」


 桜も、これまで劇場の受付で勧められこのシネコンのカードを作っていたが、ポイントを使ったことがなかった。


「なんだよ桜、そんなのも知らないのか」


「うん……」


 特定の劇場にこだわりがあるわけではなかったので、桜はこれまでこの会員カードでどんな特典があるのか頓着していなかった。



「けっこう貯まってるハズだよ。前にこっちで一緒に観たのもあると思うし。特典、活かさないと勿体無いぞ」


「うん、そうする」


 ポイントを使えば、より多くの映画が観れる。

 というよりも、幸生と共有できる映画が殖やせることのほうが、桜には嬉しかった。



――ふたりの想い出が重なれば、想い出にボーナスが加算されるんだ――



 そんなことを連想し、桜はなんだか可笑しくなった。





 映画館へ頻繁に足を運ぶ桜を見て、泰秀と絵笑子は


「映画を観に行くのは構わないけれど、おこづかいのほうは大丈夫なの?」


 と心配した。


「へーきへーき。今はね、映画館の会員カードで貯めたポイントで1本多く観れるんだよ」


 と、幸生からの受け売りを絵笑子に披露した。


 泰秀自身も学生時代に映画館通いをしていた過去があるため娘に対しては奥歯に物が挟まったような忠告しかしなかったが、財布の出納に関しては信頼することにした。


「もう、自分のことは自分で管理する年頃だ。桜ならキチンとしているだろう」


 放任主義なのか思春期の娘への接し方に遠慮しているのかは分からなかったが、父からの小言はそれだけだった。

 

「大丈夫。あたしは、お父さんの子なんだよ」


 それが娘から父への返歌だった。


 夢中になっているのが映画なら、別に心配することもないだろう。

 泰秀と絵笑子はそんな桜を黙って眺めることにした。




「じゃ、行ってきまーす」


 まだダイニングで朝食中の泰秀と絵笑子に言葉をかけ、桜は玄関へと向かいそそくさと靴を履いた。

 きょうも朝イチでの上映を観るため、桜は家を出た。


「あんまり遅くなっちゃダメよ」


 絵笑子がドアを閉める桜の背中に声をかける。


「わかった。夕方までには帰るから、炊飯器のスイッチ入れとくね」


 駅へのアクセスとなる大通りに出る。

 朝の通勤の流れはまだ始まっていない。これならラッシュにも巻き込まれないで済みそうだ。桜の歩みは軽快にアスファルトを踏んでいった。


 呼吸をする。少し白い息が残る朝、まだ排ガスで汚れていない空気が心地よかった。


 立春も過ぎたとはいえ、まだまだ陽は低く、気温の上がらない日もある。

 鉛色をした日本海からの風はまだまだ冷たく瓦の街並みを吹き抜けていった。




「あっっ」


 横断歩道の段差で、思わず桜は躓きそうになった。

 隣を歩くサラリーマンが桜を一瞥し、大丈夫なことを確認すると先に歩き去っていった。

 恥ずかしさを隠しながら、コケて醜態を晒さなかったことに安堵した。



 そのまま歩きながら、桜は、いつもより何となく体が軽い感覚を憶えた。



――なんだかきょうはちょっとフワフワ、ボーッとしてる感じだけど、いっか。

  たぶん幸生と映画の話ができるのが愉しいからだろう。

  きっと、明日になれば調子も戻るよね。



 そんな気分でいた桜だったが、映画館へ向かう気持ちが無意識に心配を抑えつけた。

 映画を観ている間も、頬が火照っているのは劇場の暖房の効き過ぎと幸生のことを想っているせいだと、気に留めることはなかった。



 翌朝になって、杞憂は悪い方向へ転がっていった。



    *   *   *



「くしゅんっっ」


 ベッドの上で桜が大きなクシャミをした。


 今日は朝からボーッとしている。

 朝食を摂りに食卓に就いたものの、食欲がなくコンソメスープだけを飲み、またベッドに倒れ込んでしまった。


 絵笑子が心配して桜の部屋を訪れ、具合を訊ねた。


「桜ちゃん、だいじょうぶ?」


 上体を起こして桜が返事をする。


「うん……なんかちょっとフワフワしてる」


「風邪かしらね」


 そう言うと絵笑子はダイニングの薬箱から体温計を持ち出し、横臥している桜の脇下に挿し込んだ。肌に触れる優艶な絵笑子の一連の所作に桜は思わず見惚れた。


「どしたの?」


 ぼんやりと自分を見つめる桜を訝しんで絵美子が声をかけた。


「あ・う、ううん、なんでもない」


 それ以上は問い詰めることなく、絵笑子は泰秀の娘に向けて頬笑みを返した。




 ピピピピ、と計温が終わったのを報せる電子音が桜の着衣の中から漏れ、絵笑子が体温計を取り出しデジタル表示を読んだ。


「7度越えてるじゃない。微熱ぎみよ、桜ちゃん」


「えー」


 愚図る桜に絵笑子はにっこりとなだめ、


「春休みになって、毎日のように出かけてたんだもの。体が疲れちゃったのよ。こじらせないうちに、きょうはゆっくり休んだら?」


 と諭した。


「う~~~」


「こじらせたりしたら、映画はしばらくお預けになっちゃうわよ」


 伏せっていると、なんだか心が砕けそうだった。けれど、悪化すれば幸生との映画の約束もご破産になってしまう。

 ここは大人しく絵笑子の言う通りにしよう。桜はそう諦めた。




「じゃ、ちゃんと寝てるのよ。きょうは私も早く帰るようにするから。ね?」


 出掛けに部屋を覗き、寝ている桜にそう告げ、絵笑子はドアを閉めた。

 絵笑子が玄関から出ていく音が部屋のドアの向こうから聞こえた。


 絵笑子がくれた風邪薬がよく効いたのか、桜は午後になるまでぐっすりと眠った。





 昼。

 目が醒めると、桜は空腹を覚えた。

 何かないかとキッチンへ行くと、コンロの上に小さな鍋が乗っていた。テーブルには絵笑子の文字で『起きたら 温めて食べてね』との書き置きのメモがあった。

 蓋を開けてみると、ふわりと黄金色のオニオンスープがいい匂いを漂わせた。

 絵笑子が作って置いていってくれたのだった。


「ありがと、絵笑子さん」


 パジャマのまま自分の椅子に腰掛けた桜は、温め直したスープをボウルに注ぎ卓に置いた。顔を近づけると、湯気が乾いた気管を潤した。

 オニオンの甘い薫りとよく煮込んだ柔らかい触感が桜を優しく癒してくれた。



 こんな人が、おかあさんになってくれればいいのにな。



 桜の中で、ふとそんなが想いが浮かんで、消えた。





“風邪ひいちゃったみたい”


 ベッドの上で、桜はスマホを操作しLINEで幸生に連絡した。


“だいじょうぶ?”


“うん 熱があったけど、もう下がった”


 桜は嘘をついた。本当は、まだ若干微熱っぽかった。幸生が自分を気遣ってくれることは嬉しかったが、心配させるのは心苦しかった。


 幸生の返信は、映画の予定のことだった。


“じゃあ、明後日は行けないな”


 心配してるのは、自分より映画のことかもしれないな。

 さっきまでの遠慮がちょっとだけ取り越し苦労だったかも、と桜はほんの少しがっかりした。


“ごめんね”


“そっちはここよりも寒いから、気をつけないとね”


 幸生のこのメッセージで、また桜の心はほんわかと暖まった。

 現金なもので、メッセージのやりとりのたびに一喜一憂する自分をちょっと単純だな、とも思った。


“また、連絡するから。今日はずっと休んでなよ”


“うん”


 ここでいったんは終わりにしようと思ったが、ふと桜の中で心寂しさが沸いて、幸生にもうひとつお願いをしたくなった。

 

“ね、ね あとで、電話してもいいかな

 幸生くんの声が聞きたい”


 返信は、すぐに送られてきた。


“いいよ じゃあ夕方にかけるから”


 桜の内の熱がまた上がってきたのは、風邪のせいではなかった。




 幸生からの電話を待つ少しの間、桜はぼんやりと部屋の中を眺めていた。

 眠気は去ってしまっていた。開いた瞳に天井の文様が映った。


 3月とはいえ、日本海に面したこの街はまだまだ春の訪れは遅い。

 籠っているせいか、部屋の空気が澱んでいるような気がして、桜は布団から這い出し窓のほうに向かった。

 霜に曇る窓を開けると、冷んやりとした空気が室内に吹き込んできた。


「さむ……」


 温度差のため一瞬外気に冷たさを感じたが、しばらく顔にあたっていると、微かに暖かな気配を鼻腔に感じるようになった。


 もう、春が来ているのだな、と桜は実感した。


 窓から街の景色を眺めた。

 家々の間からぴょこんと頭を出した大仏が陽の光を反射し、海からの風を暖めていった。



    *   *   *



“いま、平気?”


 ベッドでまどろんでいた桜は、待ちきれずに幸生へDMを送った。

 熱はもう下がったのか、気分も快くなっていた。寝ていることが億劫にもなり、そろそろ持て余し気味だった。


 すぐに静かな部屋に着信音が響いた。画面に返信メッセージが表示されている。


“大丈夫だよ

 こっちからかけるね”


 ほどなくして通話の着信を報せるコールが鳴った。


「もう、大丈夫なの?」


 幸生からの第一声が、通話口に添えた桜の耳に届いた。


「うん。熱ももう下がったみたい。元気になったら、けっこうお腹減空いてきちゃった」


「ホントは明日また映画に誘おうと思ってたんだけど。でも、もう一日二日は様子みたほうがいいかもね」


「そうする。ごめんネ」


「だいじょうぶだよ。映画は逃げないから」


 そう言うと、すぐに幸生は言葉を継いだ。


「あー、それならひさびさにあの名画座へ行こうかな。ちょうどいいプログラムをやってたし」


「ずるーい」すぐに桜が不貞腐れ気味に返す。


「だって、しゃーないだろ。桜がダウンしてたんじゃ」


 と、思い出したように幸生が繋げる声が返ってきた。


「あ……そういえば、さ」


「なに?」


「いや……なんでも、ない」


 ふと、先日あの名画座へ行ったときに近日上映の告知版で『シェルブールの雨傘』がかかる予定なことを思い出したが、幸生は桜へ伝えるのを引っ込めた。

 何故かは、幸生自身にも分からない。ただ、何となく、桜には今伝えないほうがいいと思った。

 幸生は話題を変えた。


「そういえば、お昼はどうしてたの?」


「絵笑子さんがね、スープ作っておいてくれたの。すっごくおいしいんだよ」


「へえー」


 "あんな人が、ほんとにお母さんならいいのにな"


 ふとまたさっきのそんな思いが、桜の頭をかすめた。



――まだ、四十九日が過ぎたばかりなのに。



 それがよこしまな考えのような気がして、桜の中でチクリと罪悪感の楔が刺さる。桜は一瞬黙り込んだ。

 会話の途切れた送話口に向け、幸生が声をかける。


「どうしたの?」


「あ、ぅ・うん。ごめん、ちょっと考えごとしちゃってた」


 ふいに問い質され、慌てて桜は言い訳をした。


「まだ熱があるんじゃないのか。大丈夫?」


「うん、それはへーき」


 今しがた思い浮かんだ心の中の言葉に、桜自身整理ができない。

 そんな想いを幸生にどう説明すれば判ってくれるのか、桜は判断を迷った。


「あの、ね――」


 口篭りながら伝えようと声にしようと思った矢先、玄関口で鍵を回す音が静かな部屋に伝わってきた。扉を開ける音。壁の向こうでくぐもった「ただいま」と言う声がする。

 戸惑う間もなくノックが響き、絵笑子がドア越しに桜の部屋に顔を覗かせた。


「どお? 具合は」


「あ・う、うん、もうへーきみたい」


 絵笑子に隠すように桜はそっとスマホを布団の中に辷り込ませると、手探りで通話を切ろうと、オフボタンを弄った。

 注意を逸らすように、桜は会話を繋ぐ。


「絵笑子さんの作ってくれたスープのおかげだね。おいしかった」


「ありがと。気に入ってくれた?」


「うんっ」


 スマホのタッチパネルをブラインドタッチするのは難儀だ。桜の腕が布団の中でもぞもぞと蠢く。

 妙な動きに気づいた絵笑子が、隙かさず桜を質した。 


「ひょっとして、彼氏と電話、だった?」


 図星だ。

 ま、いっか。別に誤魔化す必要ないんだし。桜はさっきまでの作業が徒労だったことを悟ると、両手を布団の上に出した。置かれた手がバフンと掛け布団を叩いた。


「ううん、いいの」


「べつに遠慮するコトないのにー。お邪魔しちゃってゴメンなさいね」


「あっ、そ・そんなコトないないっ。へーき、たいした話じゃなかったし」


「そぉ? でもそういう『なんでもない話』が大切なのよね、恋人どうしって」


 照れてはにかむ桜の頬を、絵笑子は優しくつつくと、


「じゃ、お話し続けてね」


 とドアへと向かった。

 去り際、振り向くと、


「夕飯はシチュー作るわね」


 と言い、そっとドアを閉めた。




 ふぅ、と桜はひとつ深呼吸をした後、またスマホを布団から取り出すと、すぐに幸生のアカウントにリダイアルをした。


「――あ、もしもし? ごめんね、急に切っちゃって」


「いや、いいけど。……えっと、絵笑子さん? だっけ」


「うん。そう」


 一旦切断された会話はすぐに戻すのは難しい。会話に間ができ、幸生が口を開いた。


「ひょっとして――その絵笑子さん? て人と、あんましうまく、いってないの?」


「え?」


 思いもしなかった問いを投げかけられて、桜はボールを受けることができなかった。


「な……なんでそうなる、かな??」


「いや、特に理由はないけど……まだそっちで暮らして2か月とちょっとだしさ、なんか、気を張ってるんじゃないかな、と思って」


「ち・ちがうちがう。うまくいってるよ、それなりに」


 慌てて否定したものの、桜は自分の言った言葉が正しかったかどうか、不安になった。

 ほんの一瞬、音として発する手前で躊躇ってしまったのを、桜は自覚した。

 幸生に悟られなかったろうか。そんな思いが頭を通り過ぎた。


 だが、数百キロを隔てた電気信号は、幸生に届いた頃には細かな息づかいまでは再生しなかったようだ。


「それなりに、ねぇ……」


 幸生がこの話題を発展させなかったことを、桜は安堵した。

 これ以上詰められれば、きっと自分でも気づかないでいた心の底の蓋を開けられてしまうだろう。桜の中で、咄嗟にそんな自己防衛が働き、頭上にかかったもやを流し去るため話題を変えた。


「来週、何を観に行こっか?」



    *   *   *



 電話を切ったあとも、桜は少しぼうっとしていた。

 熱は下がっている。風邪のせいではない。


 今さっきの幸生からの質問が、桜の己の中でループし続けた。



――ホントは、ね――


――まだちょっと、絵笑子さんと対すると、緊張してる自分がいるんだ。




 ベッドから起きたものの、「大事を取って、もう一日休んでたら?」と絵笑子に勧められ、桜は朝食を済ませるとそのまま布団に潜り込んだ。


「今夜は何が食べたいかしら?」


 廊下からドア越しに訊ねられた絵笑子の質問に、桜は一寸考えてから答えた。

 “なんでもいいや”と返事をするのはかえって失礼だと思った。ちゃんと具体的な答えを言わなきゃ。


「うーんとね、じゃあ――ポトフがいいなぁ。じゃがいもがいっぱい入ってるやつ」


 昨日食べたオニオンスープはとても美味しかった。

 桜は、絵笑子の作るスープがお気に入りになりかかっていた。


「わかったわ」と笑顔で言うと、絵笑子は玄関に向かっていった。


 独りになると、しんとした家の中は、リビングの壁にかかる時計の音が桜の部屋まで届いた。

 体を動かしたくなったが、絵笑子に「まだ寝てなさい」と言われたのを無視するのも気が引けた。

 カーテンの隙間から見える空は雲ひとつない青に染まっている。


 持て余し、幸生にDMを送ったものの、既読にはなっていないままだ。

 昨日電話のときに「名画座に行く」と話していたから、きっとスマホの電源は切ったままなのだろう。



 ずっと寝ていたせいもあり、横になっても睡魔は来ない。

 桜は体を起こすと、窓から街を眺めた。


 『だいぶっつぁん』はいつものようにどっしりと座って瓦の海原から肩を出している。

 時折鳥の鳴き声が風に乗って聞こえてくる。


 ふと、桜は童話の高い塔に幽閉された美女の話を連想した。

 自分も、長く伸びた髪を窓から下ろせば、何かが変わるのだろうか、と考えた。


「でも、髪の毛があの地面に届くようになるには、何十年もかかるかなぁ……」


 そんな独り言を呟くと、溜息が出た。退屈なのだ。こんな愚かな気持ちになるくらい。



――明日は、少し外の空気を吸いに出てみよう。



 部屋に視線を移し、桜は何気なく目に留まった机の上の漫画本を手に取った。


 『ノリ・メ・タンゲレ』。母の形見となってしまった本。


 ぱらぱらとページを繰るうち、桜は物語に耽っていった。




 漫画を読みながら、桜は絵笑子の顔を思い浮かべていた。

 同時に、幸生の漏らした言葉も。



――どうしたら、絵笑子さんともっと気楽に慣れるのだろう。



 ページを繰る手が停まり、桜の視線は宙を泳いだ。



――そういえば、お父さんとの馴れ初めも、ぜんぜん詳しく聞いてないや……



 二人には、これまでどんなことがあったのだろう。

 考えれば考えるほど、何も分からない。何も知らない。


 桜の中で、疑問は次第に大きなものとなっていく。


 判っているのは、ここが父の郷里で、絵笑子とはこの地で既知だったということくらい。



――そうすると――



  お父さんは、お母さんと出逢うずっと前から、絵笑子さんとは……



 桜の中の疑問は疑惑へと膨らもうとしていた。


 “裏切り”という言葉が心の中で浮かびかかり、そのたびに桜はデリートボタンを押し続けた。



 悪い考えになる前に、このことは、はっきりしとかなきゃ。

 でないと、桜は絵笑子のことが嫌いになりそうだった。





 いつの間にか、窓は朱に染まり、部屋の中もオレンジに彩られかかっていた。



 廊下の向こうでカチリと鍵穴の回る音とドアの開閉が聞こえる。

 絵笑子が帰ってきたのだ。



    *   *   *



「桜ちゃんのリクエストどおり、きょうはポトフよ」


 絵笑子がそう言いながら桜の部屋に呼びに来た。

 声をかけられる前から、キッチンから漂う香りで期待が膨らんでいた。


 卓に着くと、すぐに絵笑子がスープを盛った皿を桜の前に出してくれた。

 泰秀はまだ帰宅していない。今夜の夕食は絵笑子と二人きりの食卓だった。


「ありがと」


「桜ちゃんのお口に合うかどうか、不安なんだけど」


「そんなことないって。絵笑子さんの作るの、なんでもおいしいよ」


「そう言ってくれると、嬉しいわ」


 絵笑子のホッとした表情に和むと、桜は一匙救ってポトフを口に運んだ。


「あ……おいしい」


 正直な感想が桜から漏れ、絵笑子は安堵したようだった。


「そお? よかったぁ」


 絵笑子は素直に喜んでいるようだった。


「うん、ホントホント。あたし、好き」


 絵笑子のポトフは本当に美味しかった。ダウンから回復して食欲が湧いたのも手伝い、桜の手が止むことなく食が進んだ。



 スープから立ち上る湯気が桜の中の記憶を呼び覚ます。


 桜が風邪をひくたび、母はポトフを作ってくれた。

 特に意識したわけではなかったが、絵笑子が訊ねたとき、思い浮かんだものをそのまま伝えた。


 絵笑子のポトフは、母の作ってくれたのとはもちろん違う味だが、これはこれで美味しい。

 桜が食事を平らげると、絵笑子は「お茶、飲む?」と桜を促した。


「うん」


 コポコポと湧いた湯をポットに注がれ、茶葉が開く。


「このお茶はね、喉にいいんだって」


 カップに注ぎながら、絵笑子が茶葉の種類の薀蓄を語る。

 まどろんだ時が流れる。

 桜は、こんなふうにお茶を待つ時間が好きだった。



 一服呑んで、絵笑子が話を振った。


「体調も戻ったし、桜ちゃん、また映画三昧?」


「ううん――とりあえず明日は日曜だし。土日は映画館へは行かないんだ」


「どうして? それも“彼”のルールなの?」


「うん――平日のほうが空いてるし、わざわざ混む日に行くこともないよ、って。前のガッコで一緒のときもね、土日は避けて、授業が終わったらシネコン行きのバスに駆け込んだり……」


「ふうーん」


 絵笑子が空になった桜のカップを見て「もう一杯どお?」と言うと、桜も頷いてカップを差し出した。湯気とともに注がれるお茶が器を満たしていく。


 思えば、こうやって絵笑子とゆったりと話すことも、これまでになかった。

 桜はそんな気持ちに耽り、思い切ってひとつの心の棘を抜き出した。


「ねえ、絵笑子さん……聞いても、いい?」


 ほんの一瞬だけ間が空いて、絵笑子が返す。


「――わざわざ断って訊ねるってことは、『聞かない』という選択肢は無いってことよ、ね?」


 そう言うと、絵笑子はまっすぐに桜を見据えた。

 絵笑子の眼差しは優しく桜の心を射抜いていた。


 逆王手をかけられたのは、桜のほうだ。

 言葉を選び、桜が口を開いた。


「あの、ね――

お父さんとは、どうして知り合ったの?


いつ、二人は出会ったの――?」


 どうしても、聞きたかった。

 避けては通れない、気がした。


 戸惑いながら、絵笑子が問いに答えた。


「それは……最初に挨拶したとき、話した、わよね……? 私と泰秀さんは、学生時代からの知り合いで……」


「そうじゃなく――」桜がすぐに遮った。


 それは既に聞いた。

 桜が知りたいのは、もっともっと深い部分。時間軸の話じゃ、なく。


「わたしが知りたいのは、ね――」


 桜の心が地団駄を踏む。言の葉を絞り出す。躰の芯が強張る。


「いつから、その……ふたりは――絵笑子さんと、ち・父は……こんな関係に、その……」


 どう言葉に変換すればいいのか、もどかしくて桜は腕をぶるんぶるんと回した。

 どう質問すればいいんだろう。

 どう訊ねれば、このわだかまる澱の中から探すガラスのように、綺麗な答えが出てくるんだろう。


 それでも、この想いを形にすることはできない。




 沈黙が、桜の本音を雄弁に語っていた。




「――ねぇ、教えてほしいの。」


 ようやく桜が続く言葉を掴まえ、ダイニングの空気を震わせた。


「これは――あたし自身の……こと、だから……」


 ふたたびの凍った時が流れ、ふたりは目を逸らさないまま、壁の時計の秒針の動く音だけが食卓を叩く。

 時間としてはほんの僅かだったはずだが、ふたりには長い静寂に感じた。



「泰秀さんとは――」


 絵笑子がようやく重い口を開きかけたとき、玄関でガチャリと音がし、「ただいまあ」と声が入ってきた。

 泰秀が帰ってきたのだ。


 絵笑子の音声はそのまま宙を漂い、霧散してしまった。


「あ、おかえりなさい――お食事は?」


 廊下を通りダイニングに顔を出す泰秀に、絵笑子はわざとせしいくらいに弾んだ口調で声をかけた。


「いや、外でもう済ませてきたけど」


 そう言うと、泰秀はチラ、と食卓を眺め、桜の前の皿に残ったスープを見ると、


「お、きょうはポトフかあ。少しいただこうかな」


 と言い、コートを脱ぎながら寝室へと去っていった。

 背中に向けて絵笑子が伝える。


「じゃあ、用意しとくわね」


「ああ」


 ドアの閉まる音がし、泰秀の姿が廊下から消えると、絵笑子は即座に食卓に振り返り、


「桜ちゃん、じぁあこの話は、またあとで、ね?」


 と慌ただしく告げた。


 桜も煮え切らない雰囲気で「うん」と小声で応じた。




 結局、はぐらかされてしまったのか。

 桜は沈んだ。


 目の前の冷めかけた残りのポトフを胃の中へ押し込み、黙って自分の部屋へと消えた。




    *   *   *




 自分の部屋に戻った桜に、壁の裏側から、絵笑子が廊下で泰秀を先に風呂に促す様子が聞こえる。

 すぐに風呂場のほうでジャバジャバと湯をかける音が響く。


 ひまを持て余すように、ベッドで胡座をかきカチカチとスマホをフリックしメッセージで幸生とのなんでもない雑談に勤しんでいた桜の耳に、廊下の向こう側からドア越しに絵笑子の声がした。


「桜ちゃん――」


 ふいに自分の名を呼ばれた桜はフリックする手を止め、きょとんとした顔になった。


「なぁに?」


 答えたのにドアを開けない絵笑子を怪訝に思いながらも、桜が返事を待っていると、絵笑子はやはりドアノブを動かさないまま話を続けた。



「明日、用事がないって言ってたわよね。

 ――ね、ちょっといっしょに、このへん、散歩してみない?」



 その朝は、夜中じゅう星々を覆い、布団のように放射冷却から街を守っていた雲が日本海に去り、降り注ぐ陽光が家々の瓦を暖めていた。

 春の気配を感じる穏やかな空気が市街に満ち満ちた。



 休日で少し遅い朝食を済ませると、絵笑子が桜に声をかけた。


「桜ちゃん、じゃあ準備してね」


 桜が頷き、外出の支度をしに部屋へ戻ると、食卓で食後の紅茶を飲んでくつろいでいた泰秀が絵笑子に質問した。


「桜とどっか出かけるの?」


「そーよ、きょうは桜ちゃんと、で・え・と」


 泰秀が怪訝な顔を浮かべる間に、着替え了った桜がダイニングに現れ、


「いいよー、絵笑子さーん」


 と声がけした。


「はーい」


 絵笑子は応えると、いそいそとカーディガンを羽織り、


「じゃ、お留守番おねがいね」


 と泰秀に伝えると、待っていた桜に手を添え、揃って玄関を後にしていった。


 二人の背中を廊下越しに見送ると、泰秀はふたたび食卓に戻り、カップの残りの紅茶を啜った。




「どこに行くの?」


 桜が絵笑子に問いかける。


 絵笑子はただ黙って頬笑みを返し、桜の腕に手を回すと並んで道を進んでいった。

 南に張り出した高気圧が海に向かう暖かな風を作り出し、外は心地良かった。




 数分歩いた後、‘だいぶっつぁん’のある寺の参道へ出た。


 桜が「ここが目的地なの?」と目で合図したが、絵笑子は相変わらず何もしゃべらずに桜を引っ張っていく。

 桜はそのまま従うしかなかった。



 絵笑子の牽引は寺の境内に導き、そのまま‘だいぶっつぁん’の膝許へ、蓮の葉の下にある入り口へと誘っていく。

 この先にあるのは、簡易な郷土資料館を兼ねた回廊だ。


 絵笑子の意図を解りかねたものの、桜は促されるに従った。


 回廊に進むと、地元の歴史などの展示物を経て、地獄絵図のコーナーがある。

 血の池地獄、針地獄。ありとある思いつくかぎりの責め苦の絵。


 昔、父と一緒に歩いた回廊。

 怖くて「帰ろうよ」と哀願した記憶。


 桜がそんなことを思い出して展示を眺めていると、絵笑子が立ち停まり、桜に語りかけた。


「ここで、初めて会ったのよねぇ……あなたと」


 桜の中で、幼き日のことが思い出された。



 あの日、父と、この回廊で、


 遭った女性が、いたことを――



 桜の中の記憶の映像と、いま見ているこの回廊に立つ絵笑子の姿が二重露光のように重なった。


「あの日はね……ほんとうに偶然だったの」


 別に示し合わせたわけじゃない。

 桜には、絵笑子がそう言いわけしているように聞こえた。


 もちろん、当時の幼い桜の瞳には、どちらだったのか判断するほどの練度はない。

 だが、判らないまま曖昧にしていることを、絵笑子は回避したいようだった。


 交錯する視線を逸らし、絵笑子が壁面のほうへ顔を向ける。

 地獄の紅蓮の炎が絵笑子の顔をあかあかと照らした。


「あのとき、泰秀さんとの再会は……そう、十年ぶりくらいだったかしらね。

高校を卒業して以来、だったから」


 絵の中の、責め苦を味わう一人に絵笑子は視線を合わせ、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。


「ぜんぜん、連絡もとってなかったの? あのときまで?」


 桜の素頓狂な問いに、絵笑子は苦笑しながら答えた。


「今から20年も前の話よ。スマホどころか、携帯だってそんなに普及してないわ。メールアドレスさえ、知らなかった。

 知ってたところで、私がメアド持ってなかったけどね」


 あ。

 時代が違う。

 絵笑子の話で、桜は改めてそのことを思い知った。


 じゃあ、昔はどうやって恋人同士はやりとりをしていたんだろう。


 今、幸生と離れていてもLINEのDMや通話でいつだってレスポンスができる自身の境遇から鑑みて、絵笑子の話はなんて不便なのだろう。想像もつかなかった。


 複雑な顔で眉に皺を寄せている桜を察して絵笑子が続けた。

 

「せいぜい、年賀状やりとりしてたくらい、かな。

 けど、それも、去多くん――泰秀さんが離れた大学へ進んで、それきり疎遠になっちゃった」


 昔の感覚に戻ったのか、絵笑子は父のことを“去多くん”と言いかけ、訂正した。


「それまでは、つきあってたの? ――二人は?」


 壁画を眺めたまま、絵笑子は静かに微笑み、ゆっくりと首を振った。


「ただの――ともだちだったの」


 諦念の籠ったような溜息が絵笑子の肩を下げさせる。

 桜は黙ってその肩の寂しさを見入った。


「でもね――」絵笑子が言を繋ぐ。


「いちばん大事な、ともだち」


 そう言うと、絵笑子の眼は桜をまっすぐに見据えた。

 柔らかな視線に帯びる壁画の炎の赤が絵笑子の頬に映り、艶やかさを増したように感じた。



 物憂い瞳が宙を漂い、たいを変えた絵笑子の靴底がヂリリと音をたてた。


「いつからだっただろうなあ……彼と話すようになったのは」


 視線はふたたび壁画へと集中する。だが、絵そのものに意識は向けていないようだった。絵笑子の手が持ち上がり、指が絵の筆の線をなぞっていく。


「彼と出会ったのは、高校時代――映画研究会、でね。

 あたしが、去多くんよりも学年がひとつ上。先輩だったけど、早生まれだから、歳はいっしょなの」


 絵笑子は俯くと、やや自嘲ぎみな口調になった。


「映画研究会っていってもね。あの頃は8mmフィルムで制作する自主映画の時代はもう終わってて、私たちが手にできたのは、まだ質の低いビデオカメラ。それでも高価すぎて。オマケに編集する機械もない。

 ――必然的に、映画研なんて名ばかりの、観賞愛好会みたいだった。みんなで放課後には市内の名画座へ行っては、喫茶店で感想を言い合ったり、ね。

 学校にデッキを持ち込んで、小さなブラウン管モニタを皆で囲んで、家で録画したTVの映画劇場番組を持ち寄って楽しんだこともあったっけ。

 ――たのしかったなア」


 絵笑子はゆっくりと回廊を歩みだした。


「そんなのがきっかけだったかなぁ。話すうちにね、彼と趣味が合うってことに気づいたの。好きな映画。好きな色。好きな場所や国。共通するのが多かった。

 去多くんとは、不思議と気が合ったの」


「あの頃は、私にとって泰秀さんは気の合う後輩。“去多くん”だったの。――あ、後輩って云っても、私は2月が誕生日で、彼――泰秀さんは5月だから、ほんの3か月しか違わないのよね。

 『同い年なのに、先輩後輩もないね』って、そんなふうなこと、話し合ったりもしたわ。

 ほんとうに、判り合える相手――そう、『親友』だったわ。私たち」


 数歩進んだところで、絵笑子は足を停めた。距離を置いて桜も立ち止まる。

 地獄の針山に刺された血みどろの罪人の姿が絵笑子の背後で苦悩し悶えている。


「でも、あの頃は――お互い、恋愛対象として考えたりは、なかったの」


 桜から視線を逸らしたまま、絵笑子が続けた。


「……少なくとも、去多くんのほうには、なかったと思う」


 ほんの一瞬だが、絵笑子の瞳に哀しみの翳りが覆ったのを、桜は気づいた。


「何もないまんま。私は卒業したわ」


 そこには、『何かがあって欲しかった』という絵笑子の願望が含まれていることを、桜には感じとれた。


 想いと共に、言の葉は壁の漆喰に沁み込み、消えていった。



 桜と視線を交わさぬまま、絵笑子は語り続けた。

 その姿は、自問し、内省しているようにも見えた。


「私自身は、この地元の大学に進学したしね。だから、高校を卒業してからも、OGとしてたまに連絡はとってたし。けど、1年後にあのひとが遠くの大学へ行ってからは、だんだん連絡も疎遠になってったわ……彼が地元に帰省したときは会ったりしてたんだけど、そのくらい。そこから何かが進展することは、なかった」


 絵笑子はいったん言葉を留め、深く息をすると、体の奥から想いを絞り出すように続けた。


「そんなときにね……彼が向こうで彼女ができた、って伝えてきた」


 あ、と桜の中で何かが弾けた。

 いかずちが頭から足先にはしり抜ける。心臓がちくりと痛む。

 次に語られることが己の宿業であるということを、本能が感じとった。


「『結婚するんだ』って、言われた――すごく、幸せそうだった」


 絵笑子は桜から顔を背け、うなだれるように俯いた。

 桜に向けた絵笑子の背中は、やけに小さく見えた。


「――けどね――」


 小さな溜息を継いで、絵笑子が視線を上げ、仰ぐように上を向く。

 零れる泪を堰き止めるのが桜には判った。


「そンときに、気づいちゃったんだ……私、ホントは彼のことが好きだったんだ、って。でも……気づいたときには、遅かった」


 ゆっくりと、絵笑子は語り続けた。

 己の中にある言葉を選び、抽出しているようだった。


「おめでとう、って言った」


 音振が回廊の空気を震わせる。息が詰まりそうだ。

 けれど、聴かねば、という死命感のような思いも同時に桜の中に湧く。

 桜は逃げたくはなかった。



「だって――」


 絵笑子の言葉が回廊を巡った。


「だって、私は去多くんの、いちばんの友だちなんだもの、ね……」






「高校で出遭って、大学、社会人……ずっとずっと、私は彼の親友だと思ってた。――ううん、そう自分を縛ってたのね。でも……彼から披露宴の出欠通知が来たとき、ようやく悟ってしまったの。


 私は、あのひとのことを、本当に本当に愛してたんだな、ってことを」


 絵笑子が肩を落とす。

 項垂うなだれた彼女に、かける言葉もなく、桜はただ黙って距離を保っていた。


 絵笑子はすべてを伝えようとしている。

 逃げることは許されないような気がした。


「いくつもいくつも、何度だってチャンスはあったはずなのに、どうして、私は自分の気持に気づかなかったんだろう、って。悔やんでも悔やんでも悔やんでも、悔やみきれなかった」


 へたり込むように、絵笑子が壁に凭れかかる。

 桜は支えるべきかどうか迷い、ただ見守るしかなかった。


 手を差し伸べるのは、自分ではないのではないか。

 自分にそんな資格はないのではないか。


 歯痒ゆかった。



 少なくとも、絵笑子の苦しみを招いた結果が自分という存在なのだ、ということに哀しみを抱いた。

 生まれ、存在することすべてが誰かを苦しめていた。それを受け留めるには、16の桜には重過ぎる。


 どうしようも、ないのに。



 絵笑子は、これまでどんな気持ちで、この自分と同居し接していたのだろう。

 それを思うと、たまらなくやりきれなかった。



「それからは、連絡は途切れたわ。彼は仕事先の土地で家庭を持ったし、私はこの地元に留まったし、それきりだと思った。

でも、縁て不思議なものね。数年後、里帰りしてた泰秀さんと、ばったり再会した」


 絵笑子は上を見上げると、内部から大仏像を意識しながら語りかけた。


「この、足元でね……小さい女の子を連れて。『娘です』って、紹介してくれたわ」


「あ……あのとき……」


 一瞬だけ絵笑子の瞳が桜に向いたが、瞼を閉じて自分の中を言語化することに専念していった。どう表現すれば己のこの10年にも亘る感情を現すこてができるのか、吟味しているようだった。


「私の中の、停まっていた時計が動きだしちゃったんだ……

 きっと、この『だいぶっつぁん』が巡り合わせてくれたんだ――あのひとと再会したとき、私はそう思った」


 ふたたび絵笑子が仰ぎ見る。こんどは自分の内部を解放するように。


「再会してね……想いが募ってったの」


 桜の見詰めるのを知ってか知らずか、絵笑子の目は見る目標を定めずに回廊を泳ぎ、壁の展示に留まった。

 仄暗く照らす照明に浮かぶ鬼たちの顔と罪人たちの顔がせめぎ合うさまが、絵笑子の瞳に映っている。


「それからずっと経って、彼――去多くんが離婚した、って話が流れてきたわ。地元に帰ってる、って。――そこからあとは、お察しの通り、ね」


 また視線を下げ、「――あなたには悪いと思うけど……」


 断りを入れる絵笑子に、桜は大きく首を振って答えた。


「ううん――そんなことない。」


 もちろん、母が存命の頃にこの話を聞いたなら、納得できなかっただろう。

 けれど、今は。


 それに。



――いま、自分には幸生がいる。



 幸生を想う気持ちと絵笑子の想いを、いつしか桜は比べていた。



 高校卒業をきっかけに別々の人生を歩み、この‘だいぶっつぁん’の下で再会するまで、およそ10年。父が母と別れ、この地に戻ってくるのに更に5年。


 それまで、このひとは想いをずぅっと胸に秘め生きてきたのだろう。


 たったひとりで。


 父と最初に出遭ったときから数えれば、共に暮すまでに20年の時が流れていたはずだ。


 そんなこと、想像するだけで、桜には絶望感が沸き起こる。



 羨ましかった。

 こんなにも想われている父を。

 そして、想い続けることのできた絵笑子を。


 ふたりが一緒にいるのは、必然だといまの桜には思えた。



 自分は、こんなにも誰かを、

 幸生を想えるのだろうか。


「ありがとう――そう、言いたい。父をそんなにも想ってくれて。

……想い続けて、くれて」


 桜は素直な気持ちを絵笑子に伝えたかった。


 絵笑子が深く頷き言を返す。


「ひとつだけ、言える――」


 桜を真っ直ぐに見詰め、深く勁く言葉を現す。


「私と泰秀さんは、彼が離婚してここに戻ってくるまで、何もなかった。それだけは、あなたに判ってほしい」



 桜は深くこくりと頷いた。



――このひとは、正直な人だ。



 絵笑子に対する気持ちは、大きな信頼へと変わりつつあった。

 こんなにも誰かから愛されている父を羨ましいとも思った。


「でもね、桜ちゃん――」


 自分の意志が桜に届いたのを理解し、絵笑子は会釈するように頷き、言葉を続けた。


「互いが互いを好きな相手と出遭うことって、とってもすごいことなのよ」


 そう告げる絵笑子の瞳はキラキラと輝いてみえた。


「桜ちゃんも、きっと見つけてね。そんな相手を」


 桜も大きく頷いた。



 絵笑子の言葉を聴きながら、自分にとって、それが幸生であればいい。

 桜はそう思った。


 思っていた。




 回廊から出ると、絵笑子と桜を正午まひる前の陽射しが包み込んた。

 薄暗い中から出た二人の目は、光に慣れるまで少し時間がかかった。

 穏やかな風が頬に暖かな陽を運び、心地よさを感じた。


 いま出てきた入り口を振り返ると、桜の視線は大仏像の姿を辿った。照り返した顔がまばゆく瞳孔を刺し、思わず桜は目を細めた。 


 眼が慣れてくると、‘だいぶっつぁん’の薄く開いた目を見詰めながら、桜は小さく呟いた。


「お母さんは……知ってたと、思う?」


 ふいの質問に、絵笑子は一瞬だけ戸惑ったが、にこやかに首を振った。


 それだけで、充分だった。



 桜は大きく深呼吸し、「もうちょっとこのへん歩いてみるね」と絵笑子に告げると、先に通りに出ていった。


「気をつけてね。病み上がりなんだから、ムリしちゃ駄目よ」


 絵笑子が桜の背中に声をかけると、桜は弾んだ口調で


「へーき。きれいな空気吸ったほうが、元気になるから」


 と返事をし、街並みの中へ消えていった。





 絵笑子と別れた桜は、当て所を思案していた。特にどこかへ行こうと思っていたわけではない。ただ、歩きたくなった。体を動かしたかった。

 足の向くまま少し進んだ後、桜の中でひとつの場所がイメージとして浮かんだ。


 城跡の公園へと歩いてみよう。少し距離があるが、バス路線伝いに行くので、疲れたらバスに乗ればいい。



 いま来た道を振り仰ぐ。瓦の間から、藍色を背に大仏像の穏やかな顔が見降ろしていた。



    *   *   *




 城の名残を伝える石垣が道路沿いに並び始め、桜は公園に来たことを感じた。

 ‘だいぶっつぁん’よりも海に近づいたせいか、心持ち潮の香りがあるような気がする。桜は公園の中へと足を踏み入れた。


 散策をしていると、木々の間から建物が見え隠れし始めた。園内に建てられた市立図書館だった。


 図書館がもりから臨く。


 あそこで読んだ一冊の児童書のことを思い出した。

 一度しか読んだことがないのに、妙に記憶に残ってる。まぁるい単純な線だけで描かれたものが、自分の失くしたカケラを探して旅を続ける童話だった。


 この図書館の門をくぐるのはおよそ10年振りだ。以前に来たのは、ちょうど‘だいぶっつぁん’の足下で絵笑子と出逢ったときだったのだと思い至った。


 えにしに導かれたのだろうか。こども図書館のコーナーに行くと、すぐにその本はあった。

 ロングセラーらしく、奥付には何版も重ねられている記録があった。なのに本自体の見た目が真新しいのは、きっと何度も買い直されているからなのだろう。桜が昔ここで読んだ本は、おそらくとうにボロボロに読み継がれ交換されてしまったのだと納得した。


 幼児や母親たちがたむろする傍のソファに場所をとると、桜はこの絵本を開いた。


 まんまるな『ぼく』が欠けた部分にぴったり合うはずの『カケラ』を求めていく。そこで出遭う様々なできごと。


 昔読んだ頃のワクワクやドキドキが桜の中で蘇る。

 シンプルな描線なのに、様々なことが伝わってくる。

 以前に読んでストーリーは知っているのに、じんわりとしてしまう。

 いや、心が成長したぶんだけ、自分の中の受け皿がより深くなっていたのを実感する。


 読み了えたとき、不覚にも、涙が零れてしまった。


 読みながら絵笑子の語ったことを思い出す。

 絵笑子が探していたのは、父=泰秀という“カケラ”だ。


 ひとは、誰しもが己の“カケラ”に出逢えるわけではない。

 それを見つけられた絵笑子は、きっと幸せで、


 幸せにならなくちゃ、いけないのだ。



 桜は、絵笑子を祝福したくなった。



 母の死を必然だったと断じて思いたくはないが、父と絵笑子が引き寄せあったのは、運命でしかないように桜には思えた。


 あのふたりは、出遭うべくして出遭い、惹かれ合った。

 どんなに人生が流転しても、辿り着くべき場所だったのだろう。





 桜の心の中で、固まったことがあった。




    *   *   *




 図書館を出ると、近くのベンチに座り、桜はスマホを操作し始めた。

 きょうは暖かく穏やかで、外の空気が心地良い。


 誰かに、いまの気持ちを伝えたかった。

 それを伝えたい相手は――



 画面をフリックする指から言葉が紡ぎ出される。



“あのね――きょう、とってもいいことがあったんだ”



 空の彼方の幸生へ向けて、桜は想いを届けた。




 昼間のDMのやりとりだけでは桜は話し切れず、夜にまた改めて幸生に通話すると告げいったんLINEを終えた。


 今日は思い立って午後から幸生は一人でシネコンに行く、とメッセージでは伝えていた。

 普段なら土日は観賞を避けるのだが、「どうせ春休み中は平日も休日も混み具合は同じだしね」と返ってきた。

「桜は興味の沸かないジャンルの映画だと思ったから、もともと一人で行くつくりだったし」と幸生が付け足したので、桜は納得した。たぶんホラーかスプラッタ系の内容だったのだろう。桜はその類が苦手だった。





 夜。

 食事を終え自分の部屋に戻ると、桜はさっそくスマホを掴み、幸生のアカウントに電話を入れた。

きょう起こったこと、絵笑子の話してくれたことを、桜は幸生に報告した。


「あたしね、なんだか感動しちゃった。だって、誰かをずぅっと想い続けるなんて、すごいことだと思う。ホントに」


「桜は、嫌じゃないの? その……お父さんと絵笑子さん? が、そうやって一緒にいることに、さ」


「うーん……フクザツ、と言えばそうなんだけど、さ……

でも、お父さんと絵笑子さんがこういう間柄になったのは、お母さんと離婚した後だっていうのをきちんと確かめられたし……だから、いいんだ」


「そっか……」


 桜が納得してるならいい。

 幸生の相槌は、そんなニュアンスを含んでいるように感じた。



 会話が途切れたとき、たぶん何か繋げようと思ったのだろう。幸生が口を漏らした。


「――そういえば、きょう、映画行ったときにさ――」


「なに?」


 瞬間、電話口の向こうで言い淀んだ空気を桜は感じたが、違和が形になる前に幸生が返辞をした。


「あ、やっぱいいや。なんでもない」


 微かに「?」と感じたものの、そのまま会話を流してしまった。

 きっと、さして重要でもないことだったのだろう。桜は気に留めずそれきり忘れてしまった。

 幸生がすぐに続けて「きょうは映画をひとりで行っちゃって……」と謝ったので、きっとたぶんそのことだったのだろう。


「で? 桜は今後、どうしたいの?」


「うん……」


「もう、決めてるんじゃないかな。桜の中では」


 幸生が見透かしているのを桜は識った。


「そう、思う? やっぱ」


「うん。やっぱ。桜の考えてることは、分かるよ」


「そっか……」


 会話をしながら、幸生はなんとはなしに頭に浮かんだことを口に出した。

 それが、どんな意味をもつかは、今は気づかないまま。


「昔読んだ本にね、『人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く』っていう言葉があったんだ」


「どういうこと?」


「気を緩めると、どっちにも転ぶ、てコト」


「へーきだよぉ」と返し桜は笑った。


 電話の向こうからも幸生の笑い声が漏れてきていた。



 また一緒に映画に行く約束をして、ふたりは会話を了えた。




    *   *   *



 翌日。

 桜は「ちょっと出かけてくるね」とだけ言い残して家を出た。

 特に用事もない日曜は、泰秀も絵笑子も外出する予定もなく、家で寛いでいた。



 ‘だいぶっつぁん’の寺の境内まで来ると、桜は携帯を取り出し登録してある番号にかけた。


「――はい? どうした? 何か忘れものか?」


 2回のコールで出た声は、いましがた出かけたばかりの娘に何かあったのかと心配している様子が伺えた。


「あ、な・なんでもないの――だいじょうぶ。ただ、ちょっと……」と桜はまず安心させ、本題を話しはじめた。


「ごめん……顔、合わせてるとなんだか照れくさいから、電話で言う、ね……

あの、ね、お父さん――


あたし――


あたし、ね――」






 電話を耳に添えながら、泰秀は黙って娘の言葉を聴いていた。


 チラリと視線を傍にいる絵笑子に移す。

 目配せに気づき、絵笑子は「私?」というゼスチャーをすると、泰秀は頷き携帯を手渡した。


「桜から」


 絵笑子が携帯を受け取り代わった。


「もしもし? どしたの、桜ちゃん――」


「家族になろうよ、絵笑子さん」


 ふいの申し出に、一瞬絵笑子は意味が把握できなかった。


「え?」


「あたし、絵笑子さんみたいなお母さんが欲しい。

――ううん――あたしの、お母さんになってほしいの。絵笑子さんに」


 絵美子が泰秀のほうを見る。

 泰秀は、黙って絵美子の瞳を見詰めていた。


 泰秀の携帯から、桜の言葉が続いた。


「もう、お母さんの四十九日も過ぎたんだし。――いいよ、自由になろうよ。

みんなで、そろって――」


 それは、桜が自分に向けて語りたかった言葉だったのかもしれない。


 絵美子の瞳が潤み、目の前の愛するひとの姿が霞んで映った。


 絵美子が窓の外に視線を泳がせた。泰秀もそれに従い目を向ける。

 いらかの波を受け屹立している像にふたりは合わせて意識が向いた。




 パチン、と桜はスマホを切ると、天を仰ぎ見た。


 ‘だいぶっつぁん’が陽光を浴びていた。

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