#7 三月のライオン
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【三月のライオン】
1992年 日本映画
監督:矢崎仁司 出演:趙方豪 由良宜子 奥村公延
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◎
土曜の午後。この日、幸生は久しぶりに一人で映画を観に行こうと思った。
桜はまだ復調していない様子だったし、それなら桜があまり興味のない作品なら一人で行ってもいいだろう、と考えた。
ちょうどホラー映画で観てみたいものが封切られたばかりだった。このジャンルなら桜は敬遠するだろう。幸生はDMで桜にそう断りを入れ、シネコンへ向かった。
のが、休日にしては空いていると安心し、幸生は列に従った。ロビーに掲げられているモニタには上映のタイムテーブルが表示されている。お目当ての作品はまだ『空席あり』の表示で、幸生はホッと落ち着いた。
列に並んですぐに、幸生の後ろに女子がひとり着いた。中学生だろうか。このくらいの年齢のコが独りで来るのも珍しいな、と幸生はなんとなく思った。慌てて並んだらしく、息が弾んでいる。
幸生の番になり、示された座席から、いつものようにやや左寄りの場所を選び、発券が終わった。
受付を離れると、後ろにいた女の子が即座に係員に声をかけ、作品名を挙げていた。
女子中学生が早口で「あの人の隣りで」と言っていたのを、幸生は気づかなかった。
劇場の席に座り上映開始を待っていると、隣に誰かが座った。
何気なく半ば反射的に座った人影に眼を遣ると、今しがた後ろに並んでいた少女だ。
不思議な偶然もあるもんだな、と幸生は気にも留めず上映を待った。
隣の少女は座席に座ると、片手の紙コップを幸生との間のドリンクホルダーに差しながら、
「スミマセン、いいですか?」
と小さな声で幸生に許可を求めた。
幸生はちょっと目配せし、軽く会釈をして合意を示した。
飲み物をホルダーに置いた少女は、続いてカバンから赤いセルフレームの眼鏡を取り出すと、それを着けた。
幸生の鼻に、ふわりと花の香りが漂った。
どうやら、隣の少女がつけた香水のようだ。
幼いくせにいっしょうけんめいにオシャレをする子供のあどけなさに、幸生はなんだか頬笑ましくなった。
赤縁の眼鏡をかけると、彼女のややキツい表情に見えるつり目が和らぎ、可愛い印象になったな、と思わず幸生は考えた。
香水が幸生の心を惑わせたのかもしれない。
場内が暗転する。
上映が始まり、スクリーンに没入していた中で、ふいに肘にコツンという感触があった。
「あっっ。ゴメンナサイ」
と、隣の少女がひそひそ声で謝罪した。
互いの肘が、彼女がドリンクを手に取った折に肘掛けの上でぶつかったのだった。
幸生も小さく頭を下げ、「いえ」と返辞をした。
また彼女の香水が薫った。
動くたびに少女の汗と混じった香水の薫りが妙に鼻腔をくすぐる。
その匂いは不快というより、むしろ幸生に心地良さを感じさせた。
上映が終わり場内が徐々に明るくなると、隣の少女が立ち去り際に
「さっきは済みませんでした」と声をかけてきた。
言い了えると、セルフレームの眼鏡を外し、パタンとメガネケースに仕舞い、改めてお辞儀をした。
「あ、いや、こちらこそ」と幸生は応え、お辞儀を返した。
少女はほっとしたような表情になると、カバンの中から飴の個包装を取り出し、
「アメちゃん、要ります?」と言って幸生に差し出した。
幸生は苦笑しながら、この女子中学生の詫びの印しを受け取った。
そそくさと立ち去る少女の背中を見ながら、幸生は飴をポケットに突っ込んだ。
彼女の去ったあとに、あの香水の薫りが残り漂っていた。
シネコンを出ると、幸生はスマホの電源を入れ、LINEを起動させ桜へ“映画おわったよ”とDMを送信した。
たぶん、今夜はそうなりそうだ。
ショッピング・モールを過ぎ表に出る。やや寒さを感じた幸生は、無意識にポケットに手を差し込んだ。指の先に、何かが触れる。取り出すとさっきの女の子が呉れた飴が入っていた。
幸生は包みを破り、てかてかとした飴を口に放り込んだ。
少女の香水の記憶とともに、レモンの酸っぱい味が口に広がった。
* * *
三月も終盤、桜も引っ越して以後そろそろ部屋を整頓しようと思い立ち、新学期へ向け模様替えを決意した。
模様替えといっても、もともとが急拵えで物を配置した部屋だったので、とりあえずなんでもかんでも物を押し込んだような状態。とても年頃の娘の部屋とは思えないくらい雑然としていた。
一月に慌ただしく越してきたときは倉庫のようだった桜の部屋も、あらかた荷物の移動が終わり、ようやく未開封のままだった段ボールも整理できるような状況だ。
何せ桜がこの家に来た当時は入れ切らない段ボール箱が溢れ返り、一時は廊下ににまで積み上げられていたくらいだった。
「えーっと、なんだっけ、この中……」
雑多なものを押し込んでいた箱のひとつを開けると、見馴れないCDケースがひとつ、本やディスクの束からこぼれ落ちた。
マジックで手書きのアルファベット。フランス語の綴り。
父の文字だ。
「あ、これ……」
桜はすぐに思い出した。
これは、父が母の葬儀のためにと持参したCDだ。
桜は確認のためいそいそと廊下を通過し、ベッドルームに居た父に声をかけ訊ねた。
「お父さん、これ――」
桜に気づき、ベッドに腰掛けていた父が読んでいた雑誌から目を上げ、首をドアのほうへ向けながら返辞をした。
「ん?」
父がこちらへ注意を向けたのを確認して、桜は持っていたケースが見えるように差し出した。
「これ、『シェルブールの雨傘』のサントラなの?」
やや注視して、反った顔を戻し父が答えた。
「ああ――」
ふと、思い直したように泰秀が質問した。
「よく知ってるね」
桜は「うん」と言い、こくりと頷いた。
父が続けて訊ねる。
「桜は、この映画観たことあるの?」
桜は黙ってゆっくり首を振った。
「幸生くんが、教えてくれた」
「そっか……幸生くんが……」
開いていた雑誌をゆっくりと閉じると、また桜のほうを向き、
「よかったら、桜が持っておいで」と告げると、泰秀は目を伏せぼんやりと雑誌の表紙を眺めていた。
何か言おうと思った桜だったが、なんとなく声をかけづらい雰囲気を感じ、そのまま黙ってドアを閉めた。
部屋に戻り、父のCDコンポにディスクをセットし、『PLAY』ボタンを押す。レトロな物理スウィッチがガチャンと音を立て、ウィーンとモーターの回転音が徐々に音階を上げ始める。
データを認識しトラック数と再生時間が表示パネルに出ると、天井隅に這わせたスピーカーから音楽が流れ出した。
美しく、どこか物悲しげな旋律が部屋に満ち、桜は暫し包み込まれた。
コツコツとドアを叩く音が充足感を破り、ふいに絵笑子が顔を覗かせた。
「桜ちゃん、これって――」
「『シェルブールの雨傘』だよ」
桜は質問に答え、続けた。
「お父さんのライブラリ。借りてた」
「そっか」と絵笑子が頷き、
「私も、むかし泰秀さんと一緒に観たなあ」と続けた。
「映画館で?」
「えっと――そうかな、たしか。
――ああそうそう、高校生の頃にリバイバルがあってね。そンときに、彼が誘ってくれたんだわ。それが最初」
“彼”とは父のことだというのが判ってはいるものの、なんだかくすぐったかった。
「最初?」
「ええ。泰秀さんのフェイバリット・ムービーでね。
彼、DVDも持ってて、何度も何度も付き合わされたわ」
そう言うと、絵笑子が重ねて促した。
「興味あるなら、そのDVD借りて観れば?」
桜は一瞬考えたけれど、すぐに答えた。
「ううん、いい。初めて観るのは、スクリーンがいいから」
桜は心で続けた。
――それに――
約束、してるから。
幸生くんと。
絵笑子が微笑みながら頷く。
「そう――そのほうが、きっといいかもね」
部屋を後にする絵笑子に、桜は訊ねた。
「どうして、お父さんはこれを絵笑子さんと観たの、かな……?」
「観たら判るわ。きっと」
「え?」
「それは、あなた自身で確かめて、ね」
そう告げて絵笑子はドアを閉めた。
桜と一個の‘なぞなぞ’が部屋に遺された。
謎かけの答えを桜が知るのは、未来が来てからになる。
* * *
深夜。
絵笑子がすやすやと寝息を立てている横で、泰秀が絵笑子の寝顔を肴に水割りを愉しんでいた。
以前なら、書斎で寛ぐのが日課だったが、その部屋は娘に明け渡してしまった。今はここが泰秀のリラックススペースだ。
絵笑子が寝返りをうつ。泰秀はそんなパートナーを眺め、ひとり幸せを噛みしめた。
絵笑子の側に顔を向け、ベッドに横になる。
やがて天井に目を遣り、泰秀は考える。
たぶん、自分があのサントラを聴くことは、もうないだろう。
* * *
三月最後の映画を、どれにするのかを選んだのは桜だった。
いつものように幸生と示し合わせ、時間を決め、座席表でおおまかな場所を相談し、いつものシネコンへと向かった。
受付で訊ねると、幸生の座っているはずの席が、誰かが取って埋められている。
桜が自分の席番号を付けると「お客様の隣に、他の方がおられますが……」と受付の職員は応えたが、「いえ、だいじょうぶです」と即答した。
桜はその隣を取った。
入場すると、隣――幸生の場所にはまだ誰も来ていない。どんな人が座るのか少し気になったが、桜より遅く入ってきてそこに座ったのは、眼鏡をかけた大学生風の男だった。
「すみません」と言いながら桜の前を通り、男が隣の席に着く。
チラリと
“あれ。このひとって、前に……”
気になりかけたとき、開幕ベルが響き、場内が暗転していった。
桜は疑問符を頭上に置いたまま観賞することになってしまった。
“どこかで、見たような……”
目はスクリーンに集中しながら、頭の隅ではこの隣の青年をどこで見かけたのか、ひたすら脳内を検索していた。
いろいろなフォルダを開いてはチェックする。もちろんこちらに越してきてから以後の記憶だ。どこだったのだろうか。駅、バス停、だいぶっつぁん、古城公園、図書館、商店街……
いや、いま座席に座ってる、ということは、やはりこの劇場の中か。
そう思い至ったとたん、桜の神経伝達組織が分断していた記憶を一気に紐付けた。
――あ。
わかった。
と同時に、一拍だけ桜の心臓が‘とくん’と弾んだ。
――えっっ!?
思いもしなかったその鼓動に、桜自身が戸惑った。
――なん、で??
混乱する頭を整理しようと、桜の網膜は情報処理を疎かにした。
気付けばいつのまにか本編は終わり、エンドロールが流れている。
途中から筋を追い損なってしまった。
仕方ない。あとで幸生の感想から答え合わせをしよう。
上映が終わり場内が次第に明るくなっていく。
桜は、前に会ったことを、せめてそれを伝えるべく臨席の青年に声をかけようとするが、見ず知らずの相手にどう話しかけたらいいのか躊躇った。
迷ううち、青年は入ったときと同じように「すみません」と囁くと桜の前を通り、先に出ていってしまった。
桜は離れていく背中を見送るしかなかった。
仕方なく、席を立った。
呆けながらバス停に立つ。待っているのは桜だけだった。
バスが停まり、プシュンという音をたててドアが開く。
桜が乗り込むと、ガタタンといいながらバスが動きだした。少しよろけた桜は反射的に近くの手摺りに手を伸ばし、掴んだ。
ほっとして視線を上げると、窓外の風景が流れ去っていっていた。
バスに揺られながら、桜は幸生のことを思った。
あとで、また感想を言い合おう。
流れる窓の風景をぼんやり眺める。
さっきの青年の姿が網膜に浮かび、消えた。
なぜだろう。
劇場の中で見送ったあの背中が、妙に焼き付いている。
景色の建物の開けたほうへ目を移すと、‘だいぶっつぁん’が見えてきた。
桜はぼんやりと手摺りに凭れかかった。
――いまごろは、幸生くんも映画が終わった頃かなあ……
大仏が陽の光を反射し、海からの風を暖めていった。
春の嵐の訪れを、ふたりはまだ知らない。
[第Ⅱ部 完]
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