#4 さびしんぼう

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【さびしんぼう】

 1985年 日本映画

 監督:大林宣彦 出演:尾美としのり 富田靖子 佐藤充

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         ◎


 桜がこの地に来てから、二ヶ月が過ぎた。


 引っ越しをしてからの慌ただしさを越え、あっという間に三学期が終わった。

 転校してすぐの学期末試験は、予想通り惨憺たるものだった。

 これまで学校の成績は中の上くらいであったものの、やはり母の件と転校という大きな負荷のかかった状態では、学業に支障が出るのも已む無しだった。


 父も絵笑子も、余計なプレッシャーを与えまいと「今回は仕方ないよ」と桜を慰めた。


「これまでいろいろ慌ただしかったしね。少しリフレッシュするといいよ」


 父の言葉に桜は頷いた。


「うん。そうする」


 たしかに、これまでは余りにも多くのことを抱えすぎ、その日その日を過ごすだけで精一杯に終わっていた。部活はおろか、友人をまともに作ることもできずに三学期が終わってしまった。


 少し、息抜きをしよう。

 桜はそう思った。



 試験休みに入り、街を覆っていた雪も姿を消してきた頃、桜にもようやく気持ちにゆとりが出てき始めた。

 アスファルトがむき出しになり歩きやすくなった市街を、桜は少しずつ散策するようになっていった。



 外に出れば、まだそこかしこに除雪された小山が排ガスの煤を纏い島のように転々と黒いアスファルトの海に浮かんでいた。これまでとは違う、見慣れぬ風景にまだ桜は馴染めなかった。

 雪国に住む性分なのか、学校でも教室で進んで話しかけてくれるクラスメートもなく、顔と名前が一致するようになっても仲のいい友人といえる者はできなかった。桜の孤独はじわじわと深まるばかりだった。



――会いたいなあ。

  話がしたい。顔を見たい。

  幸生くんの、声が聞きたい。



 散歩をしながら、桜はふとそんなことを想った。


 幸生とは、お互い期末試験が終わるまでは連絡はメッセージだけにして、少し控えようと申し合わせをしていた。


 ちょうど、向こうのほうが2日ほど先に試験休みに入ったはずだ。


 歩きながら桜はスマホをいじりメッセージを書いた。

 交差点で立ち止まると、送信する内容を確認した。



“こっちも試験 終わったよ


 よかったら話さない?”



 メッセージを送信し終わった直後、信号が青になり、桜はまた歩き始めた。






 大仏を横に見ながら大通りを過ぎると、やがて古城公園に出た。


 ずっと雪に覆われていた石垣も顔を現している。植え込みも木々も、新芽を出し始めていた。青空を背景に映える緑に桜は見惚れた。


 

 と、握っていたスマホの振動が掌を伝い桜の心臓を震わせた。

 慌てて画面を見る。メッセージが届いていた。



“いまなら大丈夫だよ。


 電話してもいい?”



 ときめく心を抑え、桜は画面をフリックした。



“へーき。”


 送信を終えると、桜は近くのベンチに腰を降ろした。


 数秒後、着信を告げるチャイムが手の中で響いた。


「――もしもし?」


 懐かしいテノールの声が回線を抜け桜の耳に届いた。


「……桜?」


 ほんの数週間ぶりのことだったけれど、桜の心は懐かしさでいっぱいになった。



 ふたりは久々に通話した。


「最近、映画は? 観てる?」


 矢庭に幸生が切り出した話題がそれだった。

 少しは「元気?」とか「学校はどう?」とか訊いて欲しいのに、とも思うが、こういうキャラクターの彼と知って付き合ってるのだから仕様が無いな、とちょっとだけ桜は諦め気味に気持ちを整理して答えた。


「ううん――こっち来てから、ぜんぜん観に行ってないや」


 じっさい、気持ちの余裕もなく、このふた月映画館へ行こうという考えにもならなかった。

 封切になったら観たいと思ってた話題作も、いつの間にか上映が終了してしまっていた。映画に向ける情熱が自分の中で減じてしまったのがちょっとだけ悲しくも思った。


「そっちには近くに映画館は無いの?」


「シネコンは2件くらい、かな」


「なら行こうよ。これから春休みになるし」


「うん」


 相槌を打ったものの、桜は乗り気にはなりなかった。

 以前は一人で映画館に入ったけれど、

 今は――


 伝えたい想いが喉まで出かかっていながら、声にならなかった。


 電波を隔てた遠さが気持ちを届ける妨げになったのか、幸生は桜のもどかしさに感応せずに話を進めていく。


「名画座は?」


「名画座は――無い、と思うけど。こんどお父さんに訊いてみる」


「県内にひとつくらいあるんじゃない?}


「かも。そう思う」


 昔は映画が娯楽の華だった。どんな街にも映画館があり、満席どころか立ち見客が扉から溢れるほど繁盛していたという。

 やがて時代と共に軒並み潰れていってしまったが、おそらくこの市内にもかつては劇場のひとつやふたつ在ったことだろう。名画座だって、ひょっとしたらまだ残っているかもしれない。


「時間もできるし、こんど探してみるね」


「そっちの名画座では、どんなのがかかってるんだろうなあ」


 まだ在るかどうかも判らない映画館のプログラムをあれこれと空想する幸生に可笑しさを感じ、桜はくすりとなった。


 と、ふいに思いついたように、幸生がとある提案が桜に為された。


「そっちにもシネコンがあるんなら、さ――

おんなじ映画を観たら、電話でこうして感想言い合えるんじゃ、ないかな?」


 目からウロコだった。

 と言うか、そんなことさえ気づかないでいたことに桜は自分で呆れた。


「そう――そう、だよねっっ! 一緒じゃなくても、おんなじ映画を、おんなじ日に観れば、そのあとでこうして、話、できるね!!」


「お・おう――そうだよ、な」


 あまりのテンションに電話の向こうの幸生は面食らっていたが、桜自身も、即答した自分の勢いに驚いていた。



 そうだ。

 どうしていままでそうしなかったんだろう。



 転校して以後、打ち解ける友達もいなかった。学校では映画という趣味も共有できず、向かう情熱も冷めかけ始めていたのかもしれない。

 以前は、独りで劇場に足を運んでいたのに。


 一緒に並んで座り、同じ時間を過ごし、同じ所で笑い、同じシーンで涙を流す。

 幸生と出会いそれが当たり前になってしまったから、独りで映画を観ることは味気なく気が乗らなかった。


 漠然と気づいていた。

 もう、独りではさみしい。


 情熱が失せたわけではない。


 ただ、傍にいつもいて、語り合える誰かが欲しかった。

 その“誰か”が指す人物が桜の中にはっきりとしたシルエットを浮かべている。

 だのに、それが叶わないことがつらかった。


 ついさっきまでは。



 弾んだ声で桜は通話を続けた。


「――じゃさ、あたし、こっちのシネコンのこと、調べとくから……来週から、始めない?」


「うん、いいよ」


 何気なく思いつきで口にしたプランだったが、幸生も我ながらいいアイデアだと思い始めていた。逆に桜に提案をしようと思い立った。


「ちょうどこないだから始まったのがあってさ、観たいと思ってたのがあるんだけど」


「うん。それでいい」


 トントン拍子で話が決まり、桜が映画館のサイトを調べたあとで「夜にまた連絡する」ということでまとまった。


「じゃ、またあとで」「うん」


 通話が切れる間際、幸生が声をかけた。


「また、映画のこと、話せるな」


 携帯を切ると、桜は腕を広げ大きく伸びをし、萌え始めたばかりの新緑の息吹を吸い込んだ。


 幸生の声が桜の体の中を駆け巡る。幸福感で充満する。


 また、映画が観れる。

 幸生と一緒に。


 誰かと想いを共有できることの嬉しさを桜はひしひしと感じていた。




 ベンチにさやさやと風が届き、どこかの花の香りが運ばれてきた。


 春の気配が、この雪国にも訪れようとしていた。




「じゃ、明日、あたしが観終わったら、すぐDM送るね」


「うん。待ってる」



 幸生は朝イチ、桜のほうは第一回目が昼前開始だったので、それを選ぶことにした。


「先に感想送ってくるのはナシだよ。ちゃんとあたしが終わるまで待っててよね」


「そんなことしないって」


 そう言うと、電話の向こうで幸生はククッと笑った。

 幸生の息が通話口にかかりくぐもった音が届くたび、桜はくすぐったい心持になった。




 電話を切ったあと、桜はスマホの画面を弄り、劇場のサイトにアクセスし、開始時間を確かめた。もう何度も確認しているのに、見ずにはいられなかった。



 同じ日に、同じプログラムの映画を観る。


 それを想像しただけで、桜は幸生と隣同士で劇場の座席にいる感情が蘇った。

 肩触れ合う15cmの距離で呼吸する幸生の鼓動を思い出し、ときめいた。



ベッドに潜ってはみたものの、明日のことを思うと目は冴えて寝付くことができなかった。

 眠れぬ頭はあれこれと明日のことを起床から順々にシミュレーションする。


 市内に2つあるシネコンのうち、家からアクセスの近いほうを桜は選んだ。

 もうひとつのほうは、前の街でよく通っていたショッピング・モールにあったシネコンと同系列の館だったが、今の住まいからはやや時間がかかりそうだった。

 布団の中にスマホを引き込み、乗り換え案内のアプリを起動する。

 再度再々度とシネコンのサイトを開く。

 座席の予約状況を確認してみる。


 ふと、幸生はどの籍に座るのかが気になった。


 一緒のときは、いつも幸生のお気に入りの場所があり、彼に合わせて隣同士に座っていた。中央やや後方、左寄り。


 明日も、あの場所で映画を観るのだろうか。


 そう思いながら、桜にはあるアイデアが浮かんだ。

 改めて、幸生に確認したくなった。


 ひょっとしたら、すごくいいこと、思いついたのかもしれない。

 桜の胸はウキウキと高鳴った。



 明日、幸生のほうの上映が始まる前に、訊いてみよう。




 少し早く目が醒めた。

 カーテンの隙間から見える空は、まだうすぼんやりと闇が覆っている。

 桜はむくりと起き上がると、目覚まし時計を持ち上げ時間を確認した。


 まだ短針は6の数字の手前を足踏みしている。

 自分の映画のタイムテーブルは昼からだから、二度寝してもいいのだが、妙に冴えてしまった桜の頭はふたたびベッドに横になることを拒否した。



――それに、幸生が映画館に入る前に、DM送らなきゃ。



 幸生が必ず客席に座る前にスマホの電源を必ず切るのを桜は知っていた。

 それ以上に、今日は幸生がどの座席を取るのかをどうしても知りたい。そのためには、幸生が劇場に着くよりも早くメッセージを届けておかなければならない。


 桜は幸生の到着予想時間から逆算し、幸生が家を出る頃に送信しようと決めた。


 コチコチと時を刻む針をぼんやりと眺めると、桜は布団から飛び出し、まだ寒さの残る薄明の空気にぶるるっと体を強張らせながらカーテンを開けた。



 ウキウキと心臓が弾んでいる。


 己の鼓動を耳に覚えながら、ひさびさに映画を観ることの歓びだけではないのを桜は自覚していた。



    *   *   *



 顔を洗い朝食を家族で摂っていると、桜に向かって絵笑子が


「あら? 今朝はなんだか元気なのね。 そういえばずいぶん早く起きてたみたいだし――ひょとして、デートでもするのかナ?」


 と冷やかした。


「そ・そぉ?」


 と桜は誤魔化したものの、トーストを頬張るたびに口角が緩んでどうしようもなかった。


 理由は知る由もなかったが、泰秀も桜の明るい表情を見てほっひりと安心していたようだった。




 仕事に向かう父と絵笑子を見送ってから、桜は部屋に戻りスマホのアプリを起動しフリックで文章を打ち込んだ。



“きょうは、幸生くんはどこの席に座るの? 取ったら席番教えてほしい”



 間を置かず返信が来た。



“ちょうど家を出るとこだった 席番って、どうして?”



 桜の指がスマホ画面上をリズミカルにフリックする。


 自分のアイデアを伝えるのが嬉しくってしょうがなかった。



“とれたらね。


 あたし、その隣の座席に座る。



 そしたら、今までみたく、並んで観れるでしょ?”



 すぐに幸生からの着信のチャイムが鳴った。


 返信は、文章ではなくスタンプで『いいネ!』と告げていた。




 地元のシネコンは初めての場所だったので、用心のためかなり早めに行動をし、結果、桜は予定よりも大分前に到着した。

 ロビーに入るとまっすぐにカウンターに向かい、プログラムの題名と上映回を告げると、係員からモニタで空席状況を示されるのに先んじて、


「あ・あのっ。Kの5番か、7番、空いてますか?」


 と急くように訊ねた。


「ああ……えぇと、只今Kの8番にはお客様がおられますから……5番でしたら、両隣にどなたもおられませんが」


「じゃ、K列の5番で」


 受付の女性がやや面食らいながら発券するのも構わず、桜は脇から盗られるのを恐れるかのように奪うようにチケットを受け取り、その場を離れた。



 席を押さえると、桜は改めてスマホを点け、DMを確認した。


 メッセージを示す幸生のバルーンの中には“K6”と確かに表示されている。

 チケットの番号とスマホ画面の字を何度も見比べる。



――よかった。間違わなかった。



 桜は安心してチケットを握り締めた。





 席を取ったと幸生から返信が来たのは、ちょうど桜が出掛ける支度の整った頃だった。


 桜の予想どおり、幸生は真ん中よりやや後ろの列、左寄りの席。





 それにしても、客席をひとつずつ空けて配するのは、全国どこでも同じなのだろうか。

 どこのシネコンでもそんなふうに指導しているのかと、桜はふと疑問に思った。



 桜にしてみれば、幸生の取ったK-6の隣りでさえあれば、別に逆側に誰が座っていようと構わなかった。むしろいつも座る“幸生の右側の席”のほうが望ましかったのだけれど。




――そういえば、どうしていつも幸生くんはあたしを自分の右側に座らせてたのかな。



 いつも、あまりにも当然のことのように幸生が決めていたので、それを疑問に思うこともなかった。



    *   *   *



 座席に着き、上映開始を待つ間、ちらほらと客席が埋まっていくのを桜は意識していた。

 開始を告げるチャイムがスピーカーから流れ、館内が暗転すると、桜は改めて視線を左の席に移した。



――よかった。

  誰も来ないや。



 本編が始まると、もう駆け込んでくる客もいなくなった。

 桜はようやく安心し、左の空席のシートにそっと手を添えた。





 上映開始を告げるベルが鳴る。



 ひさしぶりの、ふたり一緒での映画が始まった。

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