#3 マイ・フェア・レディ

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【マイ・フェア・レディ】

 1964年 アメリカ映画

 監督:ジョージ・キューカー 出演:オードリー・ヘプバーン レックス・ハリソン スタンリー・ホロウェイ

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         ◎


 父の家に引っ越してはきたものの、急なことだったので桜には最初から自分の部屋が用意されていたわけではなかった。

 泰秀は、桜のために急場で自分が書斎や趣味の部屋としていた場所を提供した。

 壁の本棚から溢れる映画関係の本。劇場で集めたパンフレット。CD。LPレコード。四畳半ほどのスペースにはまだ父の蒐集したものがあちこちに山積みされている。桜が来たときには、かろうじてベッドが肩身狭く設置されているという有様だった。


「すぐに片付けるから、それまで我慢しててくれな」


 そう父は桜に告げたが、なかなか時間もとれず、進みはゆっくりだった。



 桜が持ち込んだ荷解きもまだ不充分だ。多くは外のレンタル倉庫に詰め込んだものの、服や身近に置いておきたいものは携行してきた。それだけでもけっこうな嵩になる。


 その中には、母の遺品も多く含まれていた。



 時折父が不在のときは、絵笑子が片付けを手伝ってくれた。 


 桜は、特に絵笑子に対して特別な感情は抱いてはいない。

 けれども、気を使っているのはむしろ絵笑子のほうのような気がした。

 こうして何かと桜の世話を焼くのも、その気遣いの現れだったのだろう。


「あたしにばかりかまってると、絵笑子さんの時間がなくなっちゃうよ」


 桜はそんなふうに何気なく、無理に心配りをしなくてもいいと絵笑子を諭したが、


「だいじょうぶ。桜ちゃんが来てくれて、私、娘ができたみたいで嬉しいのよ」


 と応え、桜もそれ以上は言及できなかった。



 果たして、これが絵笑子の本心なのだろうか。



 だが、甲斐甲斐しい絵笑子に対し、桜も次第に心を許し始めているのも事実だった。



 ある日、桜は絵笑子に訊ねてみたことがある。


「ね、絵笑子さん――どうして、まだお父さんとは籍を入れてないの?」


 桜の無邪気な質問に、絵笑子はただ頬笑みを返すだけだった。




 新しい学校での生活が始まったものの、1月が終わろうとしても桜はまだまだ馴染めなかった。


 2月になればあっという間に期末試験の季節になる。


 馴れない雰囲気と併せ、前の学校とは授業の進みも違う。

 友人を作る気持ちの余裕もない。いまは勉強に付いていくだけでせいいっぱいだった。


 元より内向的だった性格が、輪をかけて桜を孤独にさせた。



「困ったことがあったら、何でも遠慮しないで相談してね」


 と、自らの責任感からか女子のクラス委員だけは頻繁に声をかけてくれたが、かえって気を使い困憊するだけだった。

 話し相手もない桜にとって、幸生との電話やLINEでのやりとりだけが安らぎだった。桜は今の時代に生きていることを感謝した。


 だが、幸生とて始終桜に付き合うわけにもいかない。彼もまた、三学期の時間割に追われる高校一年生だ。

 学校の課題に追われ、桜との連絡が滞ることもあった。

  


 そんなときは、気を紛らせるため、部屋の整理を進めた。



 父の持ち物の中から、積み上げたCDの山の上に無造作に置かれているディスクを発見したのは、そんな最中のことだった。


「あ、これ……」


 と、銀色の円盤を見た桜は思わず呟いた。


 “Les Parapluies de Cherbourg”とタイトルの書かれた盤面。


 母の葬儀のときに、わざわざ父が持参したあのCDそのものだっちた。


 桜はプレーヤーにそれを差し込むと、釦をプッシュし、再生させた。

 スローテンポの悲しげなヴォーカルが部屋を満たす。

 音楽に包まれながら、いつかあの名画座に貼ってあったポスターをメモリから呼び起こし、まだ観ぬ映画のシーンを空想した。



 桜は、部屋の整理のたびにまるでテーマソングのようにこのCDをかけ聴き入るようになった。



    *   *   *



「どう? 最近、映画観てる?」


 ふだんは幸生の都合にも気を使いメッセージだけでやりとりをするものの、今夜はなんとなく声が聞きたくなり無料アプリの通話機能を使ってアクセスした。


 通話が始まって開口一番、幸生から届いた声がこれだった。


「あ、うん……

じつは、いろいろバタバタもしてたから、こっちに来てからまだ映画観に行ってないの」


 何せ、勉強しようにもまだ机に充分なスペースも確保されていない。

 今の自習場所はダイニングのテーブルだった。


 そんな状況を鑑みるたび、桜の心は「早く部屋を片付けなくちゃ」との思いを強くするのだった。


「なンだよ、正月映画だっていろいろあるのに……桜と話ができるかと思って、楽しみにしてたんだけどな」


「……ごめん」


 幸生が別に怒ってないのは承知してる。

 けれど、同じ記憶を共有できないでいることを残念がっているのはひしひしと伝わってきていた。


 去年までは、一緒に映画を観に行って、いっぱい話すこともできたのに。


 遠いのは、物理的な距離だけでないことを桜は悟った。


 それでも幸生は優しげに返してくれた。


「映画、観ろよ」


「うん」と桜は応えた。


 ほんの短いやりとりの中に幸生の自分への想いを感じ、桜の心はきゅんとなった。



 通話を切ると、桜はぼんやりと部屋の中に視線を泳がせた。


 無造作に山積みされた父の蔵書。

 評論集。エッセイ。古いキネマ旬報。おもに映画関連のものが多い。

 それから、小説の文庫本。映画のパンフレット。

 整理しながら、桜は時折その中からてきとうな本を引っ張りだしては読み耽っていた。


 何気に桜はそのひとつを手に取り、誌面を眺めた。

 小難しそうな映画論のハードカヴァー。タイトルを見る。



――ゴダー、ル……?



 それは、桜がまだ未知らぬ映画のジャンルに関する評論本だった。

 桜はベッドに横になると、天井の模様を見つめると、溜息混じりに独り言を呟いた。


「あ~あ。期末試験が終わったら、ひさびさに映画に行きたいなあ……」




――そしたら……


  また、いっぱいいっぱい映画の話、しようね。



    *   *   *



「ね、ね、‘ごだーる’って、何?」


 週に2度に決めた幸生との通話で、桜は頭の中にひっかかっていた疑問をスマホの送話口に届けた。


「たぶん、映画関係のだと思うんだけど……」


 桜が問いかけが終わらぬうちに、幸生は半ば呆れて返答した。


「お前、そんなのも知らないの? 映画好きなら基礎の基礎だぜ」


「ごめん」


 幸生が無意識に発した『お前』という呼び方に桜の心は弾んだ。

 乱暴な言い方の中に、幸生の気の置けない桜への心持ちが籠っているのを感じたような気がした。


「ゴタールってのは、フランスの映画監督。ジャン・リュック・ゴダール。映画史の授業なら二学期の締めに習うくらい重要な単語。ここテストに出るよって先生が注意するくらいの必須用語。しゃーないなぁ桜は」


 丁寧に教えてやる幸生だったが、その説明に桜はうわの空だった。「うん、うん」と返事はしていても、幸生の心地よい透き通るようなテノールの声に聴き入っているだけだった。


 この声を聞いているだけで安心できる。

 桜はそれだけで満たされた。



    *   *   *



「――あ、じゃあ、そろそろ切らないと、ね」


 また予定していた時間を大幅に過ぎてしまい0時を回って、桜は謝りながら通話を終わらせた。


 「じゃあね」とお互いに告げたものの、名残惜しく、釦を押すまでさらに4分20秒延びた。


 ベッドに潜り込んだものの、心が嵩ぶってて目が冴えてしまっている。

 仕方なく、本でも読めば眠くなるかと、桜は体を起こし部屋の隅の父の蔵書の山に手をかけた。今しがた幸生と話題にしていた“ゴダール”の本を山から引っ張りだそうとしたところ、ギリギリのバランスで保っていた本の山が一気に雪崩を起こしてしまった。


「きゃっっ」


 崩れた本が床に広がる光景を見て、桜は溜息を漏らした。


「あーあ……」


 いったい、どうやったらこんなに本が溜まるのだろう。

 父親ながら、桜は泰秀の読書量に感心と呆れの気持ちを抱いた。



 そんなことを考えている場合ではない。


 愛の踏み場もなくなった部屋のままでは、明日の朝が思いやられる。

 仕方なく、桜はともかくも本を積み上げ直す作業を始めた。



 と、ふと手にとった本に、蔵書の中には珍しく、漫画の単行本があることに気付き、桜の作業する手が止まった。


 この本の集合体には似つかわしくない、マニアックな――細かく分類するなら、やおい系の――少女漫画風の絵柄が表紙を飾っている。目につかない訳がなく、桜は書影を二度見した。


「……あれ?」


 何気なく見ていた桜の目が本のタイトルをロックオンする。


 桜は思わず題名を超えに出して読んだ。


「――『ノリ・メ・タンゲレ』……『わたしに触れるな』……これ、って……」


 桜の脳裡に、紐付けされたメモリが再生されようとしていた。



 積まれていた状態では埋もれていて気づかなかったのだろう。崩れたことであらわになった記憶を桜は拾い上げ、ページを開いた。

 母は「失くした」と話していたし、遺品整理のときにもこの本は結局見当たらず、半ば諦めていた。桜にとっては消失した幻だった。


 棘のように桜の中にひっかかっていた欠片かけらが、いま目の前に現れたのだ。


 桜はベッドから降りると、その本を持ち上げ開いてみた。


 いわゆる「やおい系」の絵柄に桜は少し面食らった。

 それなりにマンガは見てきていたが、こういったテイストの絵柄にはあまり耐性がなかったのだ。


 思わず一瞬のけぞってしまった。


 が、気を取り直して桜は頁をめくっていった。




 かつて母が熱く語ってくれた物語と、本の内容はほとんど変わらなかった。

 それだけ母はこの作品を何度も読み込んだのだろう。細かな台詞も暗記するほどに。


 夜も更けたにも係わらず、桜は一気に読了した。



 母の情熱そのもの(殊に、主人公であるシモンへの腐女子的想い)は桜は理解しきることはできなかったが、漫画じたいは桜がこれまでに読んだ中でも稀有なほどの非常に面白い作品だった。


 単行本を閉じたあとも、桜は感動に沈っていた。



 ふだん映画を嗜む桜にとって、この感覚は優れた名画に出遭ったときと同様の印象だった。


「ふう……」


 思わず、溜息が出た。


 たった200頁にも満たない1冊にも拘らず濃い内容に桜は胸を抉られたような疲労感に遭ったが、心は満たされていた。


 こんな本に巡りあう機会を与えてくれた父や母にありがとうを言いたかった



 眠る前のほんの時間潰し程度のつもりだったが、読み耽ったためにかえって眼が冴えてしまった。


 桜はカーテンを開けると夜の帳のかかる甍の波を眺めた。

 動くものもない、森閑とした風景。窓ガラスを通じて感じる冷んやりとした空気が心地よかった。



 空が白みかけてくるまで、桜は眠ることができなかった。

 




 朝刊を配るバイクのエンジン音と鳥の囀りで桜はうつつに醒めた。


 あまり、というか殆ど眠れなかった。

 やはり寝る前に本なんて読むもんじゃない。桜は少し後悔した。



 暫く寝床にまどろんでいた桜だったが、まだぼんやりとした頭のまま、むくりと起き上がるとダイニングへと向かった。


 朝食の準備をする絵笑子に「おはよう」と挨拶をする。絵笑子も「おはよ」と返す。


 大きな欠伸をする桜に気付き絵笑子が「どうしたの? 勉強のし過ぎ?」と声をかける。


「そうじゃないけどぉ、まぁそんなもん」


「どっちなのよ。ふふふ」


 気の置けない言葉を交わし、いつもの朝が始まる。


 絵笑子が焼いてくれたトーストを受け取りながら、桜は「お父さんは?」と質問した。


「もう出かけちゃったわよ」絵笑子は即答した。「何か用あった? 言付けときましょうか」


 父が家を出るのはいつも早いので、朝は桜が起きてくる頃にはもう出掛けてしまっていることが多い。殊に今朝は、夜更かししていたため桜の起床が遅れ、擦れ違いになってしまった。


「ううん、いい」


 桜は遠慮した。

 このことは、直接父へ訊ねてみたかった。



――どうして、あの漫画がここにあるの?



 それに、特に急ぐ用でもない。


 桜は心の棘を棚上げしたまま絵笑子に「行ってきます」と応え、鞄を抱えて玄関口へと向かった。





 バス停で待ちながら、桜は昨晩読んだ漫画の頁を反芻していた。


 序盤こそあまり馴染みのないSF作品特有の設定の小難しさにとっつきにくさを覚えたが、次へ、次へと頁を繰る毎に物語にぐいぐいと引き込まれ時間も忘れのめり込んでいった。

 深いテーマ。巧みな構成。破綻のない完璧なシナリオ。そこから醸し出される情緒。

 漫画でこんなに感動したのは、桜にとっては初めてのことだった。



 桜は、誰かとこの感激を共有したかった。

 けれど、教えてくれた母は、もういない。


 物語の続きを語り合えるのは、桜にとっては唯一人だった。


 はやる気持ちを抑えながら、桜は遣って来たバスに乗り込んだ。





――きょう、どんなに遅くなっても、お父さんに訊いてみよう。




    *   *   *



「机の上にあった漫画、なぁに?」


 学校から帰宅して顔を合わせるや、絵笑子が桜に声をかけた。


「絵笑子さん、あそこに置いてあったの、読んだの?」


 思わず桜が問い質す。


「うん――けっこう面白い内容だったね。なんとなく目に入ったから開いて、結局読み込んじゃった。エスエフ、って言うのかな? ああゆうの」


 週に一回程度、絵笑子は桜の部屋の掃除をしてくれる。


 桜も別に自分のテリトリに絵笑子が入るのを嫌なわけではないが、やはりどこか気兼ねしてしまう。

 汚したのは自分なのだから、ちゃんと自分で綺麗にすべきなのだ。

 桜自身はそう思う。けれど自立心は強いが行動が伴わない。それが歯痒い。

 もっともっと、大人になろう。

 父や、絵笑子さんに世話を焼かせないように。


 でも、いつもいつも思うだけだ。そんな堂々巡りに地団駄を踏む自分が情けなかった。



 ばつの悪い桜を余所に、絵笑子が続けた。


「あれ、桜ちゃんの漫画?」


 一瞬答えように迷ったが、桜は曖昧に


「――ううん――本の山に埋もれてたの。こないだ見つけた」


「じゃあ、泰秀さんの?」


「さあ――」


 桜は曖昧に返した。


「絵笑子さんは、あの本知ってた?」


「ちっとも。泰秀さんがマンガ本に興味があるなんて、聞いたことないわ」


「だよね、やっぱり」


 やっぱり。

 桜は心で繰り返した。



 少なくとも、父の関心のあるような類の本でないことは確かだ。



――今夜、どうしても確認したい。



 確かに急を要す話ではない。

 けれど、モヤモヤは早いうちに解消しておきたかった。



    *   *   *



 待ちくたびれかけた頃、父は終電を過ぎて帰宅した。


 玄関のドアが解錠される少し前に、外で車の停まる音が聞こえたので、たぶんタクシーで帰ってきたのだろう。


 寝静まった家の中を乱さないように、始終音を立てずに気遣う足音が廊下を通り過ぎるのを桜は布団の中で聴いていた。



 父が風呂から上がるのを待って、桜はそっと部屋を出た。


 ダイニングでビールを開けている父が気配に気付き振り返った。


「どうした? 桜」


「遅かったね、今日は」


「うん――年度末も近いし、片付けなきゃなんないのが溜まってるからね」


 父が適当に誂えた肴を桜に差し出し「桜もいるか?」と声をかける。

 桜は黙って首を振り、


「太っちゃうよ」


 と応える。


 父は皿を黙って卓に戻すと、ふたたびビールの缶に口を近づける。ごくり、と喉を炭酸が通る音が静かなダイニングに響く。ポリポリと豆を齧るリズムが桜の耳に届く。

 父の気を引くように、桜は半歩程前に寄ると、また話しかけた。


「――あのね」


 桜は提げていた本を胸の前に掲げ、父に問うた。


「お父さん――これ、お母さんの本、だよね」


「どこにあったの? それ」


 桜の掌の中のものを凝視しながら、泰秀が呟いた。

 即座に桜がそれに応えた。


「あたしの部屋の本の山の中」


「そっか……」


 答えると、桜はその単行本を卓の上に置いた。

 泰秀は晩酌の手を止め、本の表紙をまじまじと眺めた。


 父のリアクションは何かを物憂うように桜には見えた。


 そっと頁を捲りながら、父が桜に問う。


「読んだの?」


 桜がこくりと頷く。


「お父さんは?」


 少しの間を置いて、桜の質問に父が微かに首を上下させた。


「でも……いつの間にか、どこかに紛れ込んじゃって」


 酒が回りほんのり赤ら顔になった父が、独り言のように呟いた。


「それは……お母さんがボクに貸してくれたんだ。自分が大好きな本だって、ね」


 アルコールのせいだったのだろうか。今夜の父は妙に饒舌で、訊かれるともなく素直に語り始めた。


「桜の感想は? おもしろかった?」


「うん。すごく」


 桜は即答した。

 父がビールを一口飲んで、続ける。


「ボクはあんまり漫画は読まないけれど……SF漫画で、こんなに凄いのがあるのか、ってビックリしたのを憶えてるなあ。日本の漫画って、すごいよ」


 すごいすごい、と父は繰り返した。

 桜は黙って聴いていたが、その通りだと思った。


 暫くページを繰っていた父が本を閉じ、表紙を大切そうに撫でて語った。


「ずぅっと探してたんだけどなあ。瑞江さん――母さんと別々になるときに、返さなくちゃと思ったんだけど、見つからなくて。見てのとおり、整頓が下手だからね、ボクは」


 父の独り言ちに桜の口が即座に返した。


「うん。そう思う」


「娘のお前に言われるくらいじゃ、救いがないなぁ」


 そう応えながら、泰秀はハハハ、と笑った。


「そっか。あったのか。そんなとこに」


 改めて、しみじみと噛み締めるように父は言葉を重ねた。


 父の目には涙が浮いているように、桜には見えた。




「この本、あたし、もらっても、いいかな」


 一瞬娘のほうを見た後、瞳を閉じて父はゆっくりと頷いた。

 父はテーブルにあるそれを持ち上げると、娘に差し出した。


 バトンを手渡されるように娘はしっかりと父から本を受け取った。


「そのほうが、瑞江さんも嬉しいだろうね」


「うん。あたしなら、ぜったい失くしたりしないから」


 ばつの悪そうに桜の眼を見詰め、父が頷いた。


「大切にしよう、な」




    *   *   *




 父に「おやすみ」と伝え、桜は部屋に戻ると、きちんと辺を揃えて中心になるように机の上に単行本を置いた。




 やっぱり、これは父が母から借りて返し忘れたものだった。

 これがこの父の家で自分の前に現れたのは、偶然だろうか。


 そうではなく、えにしなのだと、桜は思いたかった。

 他ならぬ母の大切な想い出なのだから。


 本を通じて、『運命を信じろ』と母が伝えてくれているのだ、と桜には思えた。



――それに――



 『瑞江さん』、と最後に父は母の名を口に出していた。

 それだけで、桜にとっては充分だった。


 満たされた心地で、桜は本の表紙を暫く眺めた。





 寝床に就いて、桜は幸生にLINEのメッセージを送った。



“あのね。昨日、とぉっても大事な本、見つけたんだ


 マンガ。すんごくいい本。


 『ノリ・メ・タンゲレ』っていうの。


 もしどっかで見つけたら、幸生くんも読んでみてほしいな”



    *   *   *



 幸生が桜からLINEメッセージを受け取ったのは、深夜も遅くなってからだった。ちょうど宿題もひと区切りついて、就寝して間もなくスマホの着信を告げるバイブが震えた。

 思わず幸生は吃驚して飛び起きてしまった。


 何ごとかと急いでスマホの画面をスワイプする。

 だが、桜からのメッセージは、他愛もないものだった。


「しょうがないなあ」


 そう独り言ちながら、幸生はこうして桜にかまってもらいたがられることのこそばゆさを感じた。



――マンガのタイトルなんて、何もいま送ってくることでもないだろうに。



 スマホの画面に表示されたテキストをしげしげと眺めながら、幸生は苦笑した。



 暫しの間の後、幸生は画面上でせわしなく指を動かし、「送信」ボタンをクリックすると、スマホを枕元に置き眼を閉じた。



“変わった題名だね。

 でも 桜が薦めるなら、探してみる”


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