#2 転校生

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【転校生】

 1982年 日本映画

 監督:大林宣彦 出演:尾美としのり 小林聡美 佐藤充

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         ◎


「明日から学校だよ。――うん、だいじょうぶ」


 3学期の始業式を控えた夜、桜は幸生とアプリの無料通話機能を使って話をした。

 離れてからも毎日何度もLINEでメッセージのやりとりはしていたが、今夜はどうしても声を聞きたくなり、桜のほうから“○時にかけるから”と事前に約束をした。


「そっか。新しい学校、早く慣れるといいね」


「うん」


 と返事はしたものの、そのじつ桜の心中は不安でいっぱいだった。




 転入の手続きで学校を訪れてはいたが、やはりじっさいに生徒たちが場所に飛び込むのでは心持ちが違う。


 新しい学舎まなびやは桜をどう迎えてくれるのか。それを考えると気は晴れなかった。



    *   *   *



「どうした? 聞いてる? 桜」


「――あぁごめんね、ちょっとぼんやりしちゃってた」


 一瞬、上の空で幸生の声を聞いていたことに気付き、桜は返事をして誤魔化した。

 けれど、幸生はお見通しだったようだ。


「もう、眠い? ここんとこずっと気を張ってただろうから、もう休んだほうがいいかな」


「ううん、へーき。まだ大丈夫」


 ホントは眠かったわけではない。

 明日から訪れる日々を思うと、心が沈んでしまうのだ。


 新しい環境への期待なんかほとんどない。


 何よりも、傍に幸生がいない――


 それが、どうしようもなく、寂しかった。



――会いたいよ。

  いっしょにいたいよ、幸生くん――



 桜は、体の芯から湧き出る言葉を必死で喉の手前で圧し止めていた。



 気がつけば、かなり長い時間電話を続けてしまっていた。

 そろそろ終いにしないと、幸生も迷惑するだろう。

 桜は後ろ髪引かれる思いで言葉を吐いた。


「いろいろありがと。――もう遅くなっちゃったし、そろそろ切らないと、ね」


「――また、いつでも大丈夫だから、話そうな」


「うん――おやすみ」


 通話を切り、寝床に潜り込んだ後も、桜の心のモヤモヤは消えることはなかった。

 不安を全身で抱いて桜は夜を過ごした。




 なかなか寝つけないまま、桜は目が冴えてしまった。

 スマホの画面を点す。時間はまだ午前4時を回ったところだ。

 桜はむくりとベッドから起き上がると、窓のカーテンを持ち上げ外を覗いてみた。

 ガラスを通して冷やりとした空気が顔に流れてくる。呼気が白い雲を描く。


 暗い空の下、いらかの波がうねうねと黒い背中を光らせて遠くまで続いているのが見えた。


 その海原の中に、すっと幽かな陰がひとつ浮かんでいる。

 

 眼が暗闇に慣れてくると、桜はそれが大仏の姿だというのに気づいた。



――“だいぶっつぁん”、か……



 次第に白む薄明の空を背景に佇む黒い影像をぼんやりと眺めながら、桜は心の重しをこのきりりとした朝の空気が持ち去っていってくれることを願った。



    *   *   *



「いってきます」


 キッチンで片付けをしていた絵笑子に、桜は出かける声がけをした。

 泰秀は先に出勤してしまっている。


「だいじょうぶ? 桜ちゃん。きょう初登校よね?」


 心配をした絵笑子が廊下に出て桜の背に声をかけた。

 桜が靴を履きながら、少し首を傾げ


「うんっ。きょうは始業式だけだし。へーき」


 そうは言ったものの、心底では不安でいっぱいだ。

 もともと人見知りな性質の上、ここしばらくの出来事で自分の環境が急激に変化し、心が疲弊しているのは自覚している。


 けれど、そんな桜を時間は待ってはくれない。新しい年は明けたし、新学期は否が応でも目の前に迫ってくる。


 自分の気持ちなど、この世界は気にしてはくれないのだ。



 見送る絵笑子に挨拶をし、桜は玄関のドアをゆっくりと閉めた。




 朝の澄んだ空気が桜の肺を満たし、気が引き締まるのを感じる。

 バス停への道を歩きながら、桜は母の言葉を思い出していた。



“どうしようもないときは、運命に身を任せるの”



 歩調に合わせて、朝陽を浴びた“だいぶっつぁん”が軒の間から覗いては隠れていく。

 像から射す黒い光沢の反射が時折桜の顔まで届き、眩しさを感じた。




 まだ馴れぬ雪国の道に足元を取られそうになるのに気をつけながらも、踏みしめるたびにきゅうきゅうと鳴る雪の感触は新鮮でもあった。


 父の子供時分にはもうそんなことはなかったと聞いたが、祖父母の若い頃はこの辺りは豪雪地帯で、深雪は家を埋め二階の窓から出入りするほどだったという。


 今はもう二階から出入りするような家は見当たらない。半世紀余りの時の間に、気候が暖かくなったのだ、と父は言った。

 こんな生活に沿ったところにも地球の温暖化は感じるのだな、と桜は妙な感慨を抱いた。



 バス停に到着すると、まだ若干バスの到着には時間があるようだった。通勤や通学で並んでいる列もぽつぽつとして少ない。桜はそのまま列の最後尾に付いた。

 防寒はそれなりにしっかりしてきたつもりだったが、歩いているのとは違い、やはり立ち止まっていると寒風が体を貫き凍えてくる。

 その場で足踏みをしながら、少しでも時間を忘れるように、桜はかじかむ手でスマホをいじってみた。


 冷えた指を画面に滑らせ、幸生にメッセージを送る。



“きょうから新学期だよ。

 いま登校とちゅう


 これからバスに乗るとこ”


 バス停の表示板をカメラ機能で撮り、送信ボタンを押したところで、バスが停車場に停まり桜を含む待合の客たちを連れて行った。



    *   *   *



 バスから降りると、桜と同年代の男女が列をなして同じ方向へ歩いている。桜もその列に従った。ほどなく、前方に校舎らしき建物が現れてきた。

 白い雪化粧のせいか、校舎の壁の色は少し暗く沈んで見えた。


 まだ新しい制服を作っていないため、桜は前の学校の制服を着用して登校した。それが生徒の群れの中では妙に浮いて見えるせいか、桜は背中に後続の生徒らの視線を感じた。


 気がつけば、桜の足はもう校門の数歩手前まで届いていた。

 ふと足を停める。


 学校の門の前に立ち、桜は聳える校舎を見上げた。


 生徒たちが通りすがりにひとりだけ違う桜の制服を物珍し気に眺めていく。


 そのまますんなり通り過ぎればよかったのだが、いったん立ち留まってしまった足は強張ってなかなか前に出てはくれない。

 焦る気持ちがますます桜の意志を鈍らせる。


 コートのポケットに突っ込んだ掌が、入っていたスマホに触れ、ぎゅっと握った。



 その刹那、突然スマホが着信を報せた。バイブレーションが掌紋に伝わる。

 はっとしてスマホをポケットから取り出し、画面を見る。


 幸生からの返信。


 桜は画面をスワイプし、メッセージを表示させた。




“がんばれ”




 それを見て、桜はゆっくりと深呼吸をひとつして、校舎を見上げた。


 体の芯から熱い気が湧き上がる。



「がんばれ、私」



 桜は一歩を踏み出し、校門を通っていった。


 靴底で‘きゅう’と雪が鳴いていた。

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