#1 クォ・ヴァディス

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【クォ・ヴァディス】

 1951年 アメリカ映画

 監督:マーヴィン・ルロイ 出演:ロバート・テイラー デボラ・カー ピーター・ユスティノフ

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         ◎


 新幹線を降りると、荻野桜は携帯で父に連絡を入れた。

 2コール目ですぐに泰秀が電話に出た。


「あぁお父さん? うん、いま着いた。――うん、ホームにいるよ」


 泰秀の指示した改札口へと向かう。

 改札の向こうに手を振る父の姿が見えた。


「迷わなかったかい? ちゃんと駅もわかった?」


 桜がキャリーケースを引き摺りながら近づいて行くと、泰秀はやたらと心配そうな表情でまくしたてた。


「へーきだって。桜はもう高校生なんだよ、お父さん」


 半ば呆れ顔で父をいなす。泰秀にとっては、桜は別れた頃の幼いままのイメージなのだろう。


「そうは言ってもなあ……」と父はまだ不安そうだ。


 桜は苦笑した。


「そんな、電車に乗るくらいで心配してたら、これから保たないよぉ」


 泰秀は納得してない様子だったが、桜は構わずにわざとキャリーをふらふらと動かしてみせた。


「で? お父さんの車、どこ?」



    *   *   *



 泰秀は桜へ事前に「駅まで迎えに行く」と伝えていた。

 本来なら新幹線を降りて更に在来線に乗り換えるのだが、その最寄駅ではなく、新幹線の停車駅を桜の出迎えに選んだ。父親としては不慣れな地元を移動させるのが気がかりだったのかもしれない。だが、それもまた娘にとっては要らぬ心配だと思った。

 けれど、これから久々に父娘として過ごすことを思えば、家で黙って待っていられなかったのかもしれない。


 不安と、期待。


 案外、父も“ひとの親”なんだな、と桜は可笑しな感想を抱いた。





 父の車のトランクにキャリーを放り込み、桜が後部座席に着くと、泰秀がシフトを『D』に入れゆっくりと発進させた。


「さ、行こうか」


「うん」


 車は駅のパーキングから国道へと出て、流れに合流した。

 速度が巡行を保つと、ハイブリッドの動力がモーターへと切り替わり、エンジン音が静かになった。風を切る音が車内に聞こえる。

 スイスイと走り抜けるウィンドウの風景を眺め、桜は心を引き締めた。



――来たよ、お母さん。幸生くん。

  どうか、桜を見守っていてね。




 桜の新生活が、これから始まる。



    *   *   *



 車は広い国道を通り抜け、市内へと入っていった。

 桜にとって、この街は小学校の頃に訪れて以来なので、朧げな記憶しかない。

 それでも、こうして窓を流れる街並みを眺めていると、微かな断片の澱が息を吹き返し懐かしい感情が湧いた。


 道路の標識。看板。商店街のアーケード。

 次々と目に飛び込む風景。

 今朝まで居た街とは、明らかに漂う空気が違う。

 具体的には何がどうということは説明がつかないけれど。


 これまで桜が住んでいた太平洋側の土地と、この日本海に面した地域の潮の差なのだろうか。

 桜はパワーウィンドウを下げてみた。

 モーター音と共に窓が降りていき、隙間から車内に土地の空気が押し寄せてくる。

 こちらのほうが海に近いせいか、どことなく風が磯の薫りを運んでくるようにも感じる。


 大陸から直接流れてきた気体の塊が、北風となって家々の間を駆け抜けているのを桜は感じた。


 海の水蒸気をたっぷり吸った、湿気のある風が心地いい。寒さは感じなかった。

 ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸ってみる。


「寒いだろ?」


 父が声をかけたが、桜は構わずに髪をなびかせていた。


「ううん。きもちいい」


 桜は顔いっぱいに新しい場所の匂いを受けた。


「ちょっと回り道しようか。桜もこの街は久々だしな」


 運転をしながら泰秀は後部座席の桜に提案をした。

 桜が「うん」と頷くと、泰秀はハンドルを切り、国道を逸れていった。



数分ほど家々の間を抜けていくと、進行方向に緑の集まりが見えてきた。

 かなりの広さのある公園だ。

 車が近づいてゆくと、木々の間から石垣が垣間見えた。

 ところどころ堀の名残らしきあともある。

 天守閣も何も残ってはいないが、確かに城跡だと判る。



 古城公園と呼ばれたこの場所は、桜にも記憶があった。


 幼い頃、毎年の夏休みには、一家は父の実家へ帰省していた。

 そのときに、この公園でよく遊んだものだった。

 捕虫網を振り、掴まえたミンミンゼミの透明な翅の記憶が、桜の脳裏に蘇った。


「なつかしいなぁ……」


「憶えてるのか?」


「うん。なんとなく。ここ、おばあちゃん家の近くだったよね」 


 桜の生まれた頃には、もう祖父はいなかったはずだ。

 伴侶に先立たれた祖母が家を守ってきたが、その祖母が亡くなったのは、父と母が離婚した頃だった。

 どちらのイベントが先だったのかは、桜の中ではもう記憶が曖昧だ。


「もう、あの家も処分してしまったからなあ」


「広い家だったよね。中庭があって」


 この辺りの古い家は、中庭を設けているものが多い。

 現在はそれほどではないが、かつてこの地方は雪深い土地だった。

 中庭は、屋根から降ろした雪を置く場所を必要とした、この地ならではの造りだった。


 公園を後方へ追いやりながら、道路は古い街並の合間を縫うように抜けていく。

 どことなく、ひなびた感も思わせる落ち着いた景観。

 窓外の風景を眺めながら、裏日本という陰気な呼び方もある意味理解できるな、と桜は考えていた。


 前方に続く景色の間から、黒く光る大きな顔が覗き見えた。

 桜が思わず声を上げる。


「あ、あれ――」


 低い木造家屋の瓦の波の向こうに、円環を背にした珍しい姿の大仏が聳え立っている。


 父がルームミラー越しに娘に声をかけた。


「だいぶっつぁんだよ」




 車を停め、大仏の寺の境内に桜と泰秀は足を踏み入れた。


「滑るから気をつけるんだよ。桜はまだ雪国に馴れてないから」


 父は娘に雪の積もる石畳に注意を促しながら先導していった。


「へーきだよぉ」


 と桜は応えたが、言いながら足下は覚束なくフラフラとした。



 地面ばかりに気を取られていると、正面に『だいぶっつぁん』の威容が迫っていた。

 『だいぶっつぁん』は、空の蒼穹を映え、青黒い光沢を放った。

 その容姿に白い雪が彩り被り、冬空の中に凛と佇んでいる。


 近付くにつれ、桜は顔を上げ、聳える阿弥陀如来像を仰ぎ見た。



 思ってたより小さいな、と桜は感じた。



 幼い頃見たときは、もっともっと大きかった印象があった。

 境内もこんな坐像が鎮座しているには不釣り合いなほど狭く感じる。


 それが自分の背が伸びたためだと気づくまで、さほど時間はかからなかった。


 像を見上げていると、幼い頃、同じように見上げていたときの記憶が蘇った。


「あの下、怖い絵が並んでたんだよね」


 桜がふいに呟いた言葉に泰秀が反応する。


「憶えてるのか、桜」


「うん。憶えてる」


 父娘はそのまま大仏の足下へと歩みを進めた。


 桜の記憶どおり、坐像の下には小さな入口が開いており、この場に居る二人を促している。

 父は娘に目を合わせると、先に門の中に分け入っていった。

 桜も後に従った。


 坐像の下は回廊になっていて、この大仏の由来などが掲げられた資料館を兼ねている。

 その流れの先に、地獄絵図が並んでいた。


 血の池。針山。釜茹で。


 絵を眺めつつ泰秀が呟く。


「桜は昔、ここをえらく怖がってたなあ」


 幼い頃の脳裏に刷り込まれていた『ここは怖い』という漠然とした気持ちを、桜は再確認していた。


 と同時に、桜の中でこの場所に関連づけられていたもうひとつの記憶が朧げに湧き上がってきた。

 それは、はっきりとは形を為さない、茫洋としたイメージ。


 桜は必死でその記憶をメモリから引き摺り出そうと苦心したが、曖昧なままだった。



――たしか、ここで誰かと遭った、ような……



  誰だったっけ??





 桜はいつかの記憶を掘り起こしていた。


 大仏の座る台座の中に巡る回廊に在る絵巻は、いま十代の目にはさほどの畏怖は感じず、ただこの大仏の成り立ちと由来を示す表示に過ぎなかったが、幼い頃の桜にとっては怖ろしげな地獄の絵そのものだった。

 確かに、地獄絵も展示の中にはあるが、割合としては多いわけでもない。


 幼少時にはこの回廊の薄暗さも相まって恐怖のイメージが増幅され刷り込まれてしまったのだな、と16歳の桜は思った。


 怖れの理由が意味付けされると、桜の意識は冷静に展示が見られるようになった。


 と同時に、冷静になった頭脳の回路が畏れによって紐付けされ封印していたこの回廊の記憶も解凍していった。


 桜の記憶が目に映る回廊のイメージとダブり蘇る。


 昔、ここを父と共に歩んでいた。そのとき、この回廊の途中で、眼前に女性が現れた。


 女性は、父と顔見知りのようだった。

 顔は憶えていない。桜の記憶は、その女性の顔立ちまでは再生できなかった。


 ただ、――そう、ただ、その女性ひとが父に訊ねた、ひとことが妙に耳に残っていた。



“――娘さん?”



――あれは、誰だったんだろう。



「どうした? 桜」


 壁の絵を眺めながらぼんやりとしていた桜に、泰秀が声をかけた。


「ううん、なんでもない」


 咄嗟に桜は嘘を吐いた。



――ホントは、なんでもなくない。



 あのときの女性が誰だったのか、桜は父に質したかったが、飲み込んでしまった。


 そんな戸惑いを知ってか知らずか、泰秀が言葉を継いだ。


「そろそろ、行こうか」



   *   *   *



 ‘だいぶっつぁん’から車で程ない距離のマンションに、父は車を停めた。


「ここが、桜の新しい家だよ」


 小綺麗だが、真新しくもない外観。

 父はどれくらい長くここに住んでいるのだろう。桜はそんなことを考えた。


 父に促され、地下の駐車場からエレベーターに乗る。

 指定した階で扉が開き、泰秀が娘を先導してマンションの廊下を歩く。


「さ、ここだよ」


 泰秀がひとつの部屋のドアの前に立ち、ポケットから鍵を取り出し鍵穴を回した。


 一瞬、桜の全身が緊張する。



――ここが、新しい家……

  お父さんの暮らしてた、場所。



 ドアを開け、父が「ただいま」と室内に向け声をかけた。

 桜も泰秀の後に付いて玄関に入る。泰秀の家庭の匂いが桜の鼻腔をふわりとくすぐった。


 これまで暮らしていた母とは明らかに違う匂いと、芳香。

 土間には泰秀のものとは明らかに違う、細身の靴が並ぶ。


 桜が玄関先の風景を観察していると、置くのほうから「はぁい」と声がかかり、

 未知らぬ女性が廊下に出てきて父と娘を迎え入れた。


「こんにちは……桜さん、ね」


「……はい」


 事前に父から聞いてはいたが、顔を合わせるのは初めてだった。


 女性は、


「初めまして、桜さん――絵笑子えみこです」


 と自己紹介して、ゆっくりとお辞儀をした。




 父の同居人・首堂絵笑子すどう・えみこを、このとき桜は初めて見たのだった。



「あの……私の顔に、何かついてます?」


 余りにまじまじと見詰める桜の視線に戸惑い、頬を片手で覆いながら思わず絵笑子は応えた。


「あっ……ご・ごめんなさいっ」


 凝視していた目線を絵笑子の顔から逸らし、桜は瞳を泳がせた。

 廊下の清楚なホワイトクリームの壁と、塵ひとつない板の間が桜の視界に入った。


「――そうよね。泰秀さん――あなたのお父さんと一緒に暮らしてる人が、どんな女性か、気になるわよねぇ」


「あっっ……け・決してそういうわけ・じゃ……」


 桜がふたたび顔を上げると、絵笑子と瞳が合った。名前どおりの、穏やかな微笑を携えた表情が桜の心を掴まえた。


「だいじょうぶよ。気にしてても仕方ないものね」


「……ごめんなさい」


 年の頃は、父よりは3、4歳若いくらいだろうか。

 でも、母――瑞江よりは年上に見える。

 穏やかで落ち着いた物腰は、生活臭さを感じさせず、清廉そのものだが、同時に成熟した大人の色香を漂わせている。


 この女性ひとと比べたら、SFマンガの主人公にお熱を上げていた母・瑞江はなんとも乙女チックで無邪気に思えた。



――お父さんは、こんな女性が好みなのか。



 桜は絵笑子の姿を観てそんな値踏みをしていた。



 泰秀は娘と伴侶との対峙を邪魔しないように気を使ったのか、そそくさと奥へと引っ込んでしまっていた。

 放任した上で、まずは二人でこの家での互いの立場を確認しろ、ということか。


 サル山のサルみたいだな、と桜は思った。

 自分は新参者のメス猿か。ボス猿のメスに認められ仲間に加わるための、これは試練。



 いつまでも玄関先で棒立ちしている桜を見兼ね、絵笑子が声をかけた。


「さ、長旅で疲れたでしょ桜ちゃん。お腹も減ったでしょ? ちょうどお昼一緒に食べようと待ってたのよ。どうぞ入って」


「あ、ハイ」


 促され靴を脱ぎ、桜は絵笑子に付いて入っていった。

 数歩進んだところで「あ」と思い出すと、抱えていたバッグから包みに入った箱を取り出し、絵笑子を呼び止めた。


「あっあのっ。……これ、地元の和菓子、ですっ」


 差し出された菓子折に目を留めると、絵笑子は「あらあら」と顔をほころばせ、


「そんなに気を使うことないのに」と絵笑子は笑って差し出された箱を受け取った。


 と応えた。


 改めて桜の瞳を見据え、絵笑子が告げた。


「これからは家族なのよ、私達」



 家族――。


 絵笑子にそう言われ、桜は改めて実感が湧いた。



――あの、母と過ごした部屋に、もう戻ることはないんだ。


  それに、幸生くんと過ごした、あの学舎まなびやにも。

  二人で通った映画館も。





「だから、これからは何も遠慮なんかしないで、ね」


 絵笑子は桜にそう告げたが、あえてそれを言うことが、絵笑子自身が桜に気遣いをしているということでもあった。


 早く、そんなことを断らなくてもいいような関係になれればいい。

 桜は思った。



 けれど、


 そんなふうになれるときが、来るのだろうか。



    *   *   *



「あの、絵笑子さん――あたし片付け、手伝いますね」


 昼食が済むと、桜はシンクで食器を洗おうとしている絵笑子に進言した。


「いいのよ。きょうはまだ“お客さん”なんだから。明日からそうしてね」


「でも――」


 躊躇う桜を絵笑子は遮り、言葉を重ねた。


「それよりも、お部屋の荷解きしないとね。泰秀さん、案内してあげて」


 と、泰秀を促した。泰秀は「そうだな」と言って桜を呼び寄せた。


「桜、こっちにおいで。もう家具は部屋に入れてあるよ」


 そう言われ、桜はキッチンを後にした。

 桜に気を使わせないための、絵笑子の心遣いの裏返しだった。



    *   *   *



 与えられた部屋の説明をひと通り桜にすると、泰秀は


「じゃあ、あとはできるよね。何か手が要るようならあっちの部屋にお父さん居るから呼ぶんだよ」


 と言いドアを閉め出ていった。


「うん」


 桜は父の背中に相槌を打つと、大きくひと呼吸して、


「よしっ。やるかっ」


 と、己を鼓舞し腕捲りして段ボールを解き始めた。








 少し経って、コンコンとドアをノックする音があり、桜が


「はい?」


 と中で返事をすると、開いたドアから洗い物を終えた絵笑子が顔を出した。


「どう? 進んでる?」


「あ、――ハイ、なんとか」


「何か手伝うこと、ある?」


 そう言いながら、絵笑子は後ろ手でドアを閉め、壁に凭れた。


「あー……いまは、平気です……」


 桜の返事を聞きながら、絵笑子はそのまま黙って桜の一挙手一投足を眺め続けていた。

 視線は感じていたが、桜は応えず、部屋のもう一人の存在と気配を窺った。


 と、絵笑子が独り言のように呟いた。

 その声は部屋に沸き立つ埃とともにシンとしていた部屋に満ちた。


「ホントは、初めてじゃ、ないの」


「え?」


 唐突な告白に桜は手を留め絵笑子に視線を向けた。


「私ね――あなたに遭ったことがあるのよ。

 もう、ずっとずっと前だけど」


 桜にそう告げ、にこりと微笑んだ絵笑子の表情が、この街を見守る阿弥陀如来のアルカイックスマイルとダブる。その瞬間、蘇った桜の記憶とオーバーラップした。


 脳裏に浮かんだ、大仏の回廊で遭った笑顔と、目の前にいる女性の笑みが桜の中で重なった。


「あ……あのとき、の?」


 桜の問いに答えるように、絵笑子はこくりと頷いた。


「憶えてて、くれた?」


 桜の意識が一気に幼い日に飛んだ。





 遠い記憶。壊れかけたデータはところどころブロックノイズが出たように欠損する。

 桜は朧げな断片を脳内で再構成した。



 ‘だいぶっつぁん’の胡座の下の回廊を巡っていた途中で、女性が佇んでいた。


 父は女性と目が合うと会釈を交わした。女性は驚いたように父と桜を見詰め、頭を下げた。

 女性の口から発せられた一言が、回廊の壁に反射しエコーが通路を伝っていった。


「娘、さん?」


 父が頷く。


 それきり、二人の間に会話はなく、父娘と交錯するように女性は回廊の奥へと消えていった。


 女性の後姿を目で追った後、桜は父に訊ねた。


「お父さん、あれ、だぁれ」


「お父さんのね、昔の知り合い」


「ふーん」


 それだけだった。



 だが、桜は、肌で感じていたのだろう。


 娘心にも、あの会合は口にしてはいけないのではないか、との気持ちが桜の中に生じ、それきりあの一件は桜自身の躰の奥底に沈めてしまっていた。


 一瞬のスレ違いに感じた父とその女性とのただならぬ雰囲気を、桜は幼い体全身で感じ取ったのだろう。

 それは、赤の他人ではない、男と女の通じた匂いだったのかもしれない。



 当時の父と、この眼前にいる絵笑子がどの程度の仲だったのか、それは桜は知る由もない。


 けれど、いま現在、この二人は一緒に暮らしているのだ。



 今更問い詰める気もなかったが、桜の内では、父と母が別れた一因にこの絵笑子が関わっていたのではないだろうか、と勘ぐりたくなった。



「その……父とは、どれくらい昔から知り合いだったんですか」


 桜の質問は予想されていたのか、絵笑子は躊躇いなく答えた。


「そうね――学生時代からだから、かれこれ20年近いかな」


「20年……」


 母・瑞江よりも長く、父はこの女性と既知だったのか。

 桜の中に、澱のような疑問が湧いたが、言葉を飲み込んだ。


 桜は、別の疑問を絵笑子にぶつけた。

 父に問い質してもよかったのだが。


「あの――表札には、父の苗字と並べて『首堂』ってあったんですけど……」


 桜の質問を察して絵笑子が答えを被せた。


「そう。籍はね、入れてないの」


「どうして、ですか?」


 やや間を置いて絵笑子が返した。


「いろいろあるのよ。――それに、なんか、今更って感じで、ね」


「ハア……」


 絵笑子の当を得ない答えにやや納得がいかない桜だったが、絵笑子のほうも、言いたい言葉を飲み込んだようにみえた。


 いずれ、時期が来たら話してくれるだろう。




 けれど、構えることのない絵笑子の態度に、桜も少しだけほっと安堵もした。


 このひととは、少しずつ、ほぐしていければ、いい。




    *   *   *




 少し経って、表札には『去多 首堂』と共に『荻野』の文字が書き加えられた。


 並んだ文字を眺め、



――まるでシェアハウスのようだな。



 と桜は思った。



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