#6 お葬式
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【お葬式】
1984年 日本映画
監督:伊丹十三 出演:山崎努 宮本信子 菅井きん
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◎
あのあと、どうやって家に辿り着いたのか、桜には記憶がなかった。
心に刻まれた次のシーンでは、桜はダイニングのテーブルにぼんやり座っていた。
テーブルの片面には幸生の姿があった。心配そうに桜を見つめている映像が、脳に焼き付いている。
桜を気にかけ、家まで付き添ってくれたのだ。
――こんなことで、初めて彼を家に上げることになるなんて。
体も心も弛緩した中で、桜は最悪のシチュエーションに絶望した。もっともっと、楽しいときに来てもらいたかった。
ふたりは何も語らず、呆けるようにただ黙っていた。
食卓脇の固定電話が鳴る。よろよろと桜がもどかしそうに子機のところまで行く。身体の筋肉は脳からの伝達を鈍らせ、思うように体が動かなかった。ようやく手が届き、いつもよりも鈍重な子機を持ち上げると、通話ボタンを押した。
「……はい。はい。荻野です……。ええ、娘です……」
桜の力ない返答がダイニングのひんやりと沈んだ空気を震わせる。凍えた壁や床やシンクに反射し、ざくざくと音を立ててぶつかっては弾ける。コチコチとした時計の音さえ、槍のように桜の肌に突き刺さり、身体を貫いていった。
戸惑うように部屋を見回した桜は、今まで存在すら忘れていたかのように、まるで「なんで井崎くんがウチにいるの?」と問うかのごとく、卓に着く幸生に焦点を合わせた。桜は力なく口角だけをやや上げ、
「……警察、だって……」
とだけ応えると、また眼を宙に泳がせ、電話の相手に受け答えをした。
帰路の途中で、断続して続く着信に耐え切れず、堪らず早々に桜はスマホの電源を切ってしまっていた。警察も、映画館にいたときに何度か桜のスマホの番号にかけてはいたが、サイレントモードだったために娘に連絡がつかず、改めて
電話口で警察が事故の状況を説明する。桜の機会的なこくりこくりと頷く姿に幸生は痛々しさを覚えた。
桜は、透明になりたいと切に願った。
受話器から、電気信号に変換され到着した言葉が、桜の上を通り過ぎていく。
交差点。信号無視。居眠り。トラック。
右側面。横転。電柱。ガードレール。
検死。
音として認識はしているが、まるで頭に入らない。
電話の向こうが何を話しているのか、桜には染み込むことがなかった。
相手の連絡が終わったのか、桜は受話器を置くと、また石のように強張った関節に命令し、のろのろと自分の椅子に戻った。
はぁぁ、と力ない溜息が桜の肩から漏れる。
テーブルには、買ってきたケーキの箱が所在なげに佇んでいる。
どこに視線を定めていいか迷う二人は、いつの間にか同じ場所をぼんやりと眺めていた。
シック上品な化粧箱。上部には取っ手の意匠。日付の入ったシール。ケーキ屋のロゴ。
時が動かないまま過ぎる。
突然、幸生の腰のポケットがジングルを響かせた。
入れた携帯が電話の呼び出しを告げていた。
ポケットから取り出し画面を見ると、幸生は電話に出た。
「――ああもしもし母さん? うん、いまその友達んとこ。だいじょうぶ。無事に家に着いた。もうしばらく居てから帰るから。……いや、帰るって。そうだけど、さ……。うん。うん――わかった。それじゃ」
携帯を切ると、幸生がぽつりと呟いた。
「――ごめん」
桜が大きく首を振る。
「ううん。へーき」
「なんかさ、うちの親が、心配なら今夜は帰ってこなくてもいいって。……でも、俺が泊まるのも、なんかヘン、だよ、な……」
「……うん……」
逡巡しての答えだった。
でも、本当は……
――こんなときでなきゃ、一緒に居てほしいのに。
ううん。
ホントは、居てほしい。
でも。
泣き顔は、見せたくない。
でも。
彼の腕の中で、思い切り泣きたい。
でも。
ふたりで居るのなら、もっと愉しいときがいい。
哀しみを共有するなんて、いやだ。
でも。
でも。
でも……
二律背反な想いが混濁し、桜自身、何を本当に望んでいるのか判らなくなっていた。
また固定電話の呼出音ががなり立て、沈黙を破った。
桜が子機を取り耳に当てる。「もしもし?」と出た後、しばらく会話をして電話を切ると、席に戻りながら幸生に目配せをした。
「お父さん。明日、会社休んで、来るって」
「そっか……」
沈黙を
「どのくらい会ってないんだ? その……お父さんと」
「わかんない……連絡はとってたけど、近頃は向こうも忙しかったみたいだから。1年か……1年半くらい、かな……」
思えば、桜にとっては、今や離れた父が唯一の肉親となってしまったのだ。
幸生は、桜の行く末を想い、案じた。
これから、荻野はどうなってしまうんだろう。
幸生がそんなことを考えて桜を
桜が何をしようとしているのか、幸生は
桜の瞳は、シンクの横に釘付けされた。
今朝、母がお茶を淹れたいつものカップ、それと使い込んだミルクパンが洗い終えられ、台所に整然と並べられていた。
おそらく、桜が帰ってきたらすぐに淹れるため用意していたのだろう。娘がおみやげにしたモンブランを一緒に楽しむために。母はそんな人だった。
桜はミルクパンを持ち上げると、水を汲みコンロの上に置き、カチカチと点火レバーをひねった。ボッという音が弾け、火が点いた。
やがてふつふつと気化した水が泡立ち始める。
「なに、してんの?」
幸生が訊く。
「紅茶、淹れるね。寒いし、井崎くんも、あったかいもの飲まないと」
と、桜は茶葉をミルクパンに落としながら答えた。
「いいよ、そんなことしなくても」
桜の唐突な理解不能の行動に戸惑いながら幸生が見守る。ミルクパンがコトコトと火の上でリズムを立てた。
煮立てた紅茶に、こんどは冷蔵庫から取り出したミルクを注ぎ入れる。沸騰するのを待つ間に桜はテーブルに戻ると、また席に着いた。
椅子の脚がダイニングの床に引き摺ずられギギギと音を立てた。
桜は、卓上に置いてあるケーキの箱に手を伸ばし、解き始めた。
「おい、それ……」
幸生が心配になり声をかける。
「お昼も食べてなかったし、井崎くん、おなか、減ってきたよね。ケーキ、食べるよね?」
「だってそれは……」
「食べなくちゃ、悪くなっちゃうし。ね? いっしょに食べよ。いま、ミルクティーも淹れたげるから」
箱の蓋を開けたところで、泡立ちしたミルクパンが桜を呼ぶ。桜は箱をそのままにして台所へと戻った。
テーブルの上に残された箱を幸生が覗き込んだ。
箱の中では、片方に寄った6個のケーキが、崩れた形のまま集まっていた。
「ちょっと、煮立たせすぎちゃったかな。やっぱりお母さんみたいに上手にはいかないかも」
そう言うと、桜はカップを両手に持ち、ひとつを幸生の前へ差し出した。
「あ……ありがと」
手渡しながら桜が呟く。
「これね。ホントは、あたしのカップなの。だから、間接キス、なっちやうね」
「え?」
戸惑う幸生を余所に、桜は食器棚からケーキ皿とフォークを二組取り出すと、テーブルに並べる。
ケーキを箱から取り分けると、桜は幸生にせいいっぱい笑顔を作った。
「食べよ。ね?」
促され、幸生は皿の上に乗った形の歪んだショートケーキをフォークで掬い、口に運ぶ。
甘い香りが口腔に広がる。続けてミルクティーを口に含んだ。
「あ……旨いな、このミルクティー」
思わず感想が漏れる。桜もつられるようにティーカップを唇に寄せる。
「井崎くんのが私のカップで……それで、こっちのは、お母さんのなの……」
そう言うと、桜はミルクティーを母のカップからひと口啜った。
だが、とたんに桜の顔が曇った。カップをそっとテーブルに置く。
俯いた桜から弱々しく声が出る。
「やっぱり、違う……おんなじには、できないね……ダメだなあ、あたし……」
そう言うと桜は弱々しく溜息を吐いた。
「え?」と幸生が問い質す。
「お母さんの淹れてくれたミルクティーは、もっと美味しいのに……おんなじミルクで、おんなじ葉っぱで、おんなじミルクパンで作ってるのに……どうしてなんだろうね……」
「荻野……」
幸生は、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。
何も言葉が出てこない。声をかけてあげられない自分が悔しかった。
「もう、あのすっごくおいしいミルクティーは、飲めないのかな……大好き、だった、のに、な……」
そう言い了えると、桜はまたカップを口に運んだ。
こくん、と喉が鳴り、そのままダイニングは静かになった。
* * *
「俺、もう今日は帰るけど――平気か?」
ミルクティーだけ飲み干すと、幸生は立ち上がった。
ケーキは喉を通らず、半分も食べていなかった。
「うん……もうちょっとしたら、叔母さんが来てくれるから。……叔母さんに、男の人を家に上げてたの見られたら、何言われるか、わかんないし。鉢合わせしたらまずいよ、ね」
「ばか。こんなときだから構わないだろ」
「……うん……」
幸生は鞄を持つと、改めて桜を見据え約束した。
「明日も、来るよ」
「ありがと……」
玄関まで行く幸生を見送りに桜が付いて来る。
幸生は土間の手前で立ち止まると、独り言のように言葉を放った。
「俺、さ――
お前の……
桜……の淹れた、ミルクティー、好きだよ」
幸生が自分の下の名を云ってくれたことに気付き、桜は嬉しかった。
「……ありがと……」
靴を履くと、幸生が振り向き、二人は向かい合った。
上がり
幸生の腕で桜の体が強く締まる。
「負けんなよ。俺がいるから」
耳元で息もかかりそうな距離で聞いた幸生の声は、とても優しい響きで桜の全身に沁み渡った。
「……うん」
それまで出ることのなかった涙が、決壊した心の堰から一気に零れ出した。
幸生の胸で、何度も何度も、桜は頷いた。
* * *
翌日。
幸生は午前中に桜の家へ着いた。
チャイムを鳴らすと、桜がドアを開け幸生を迎え入れた。
確認するようにチラと幸生の顔を見ると、そのまま視線を俯かせ、黙ったまま幸生を家の中へ促した。
「まだ、お母さんが警察から帰ってきてないの」
靴を脱ぐ幸生の背中で、ドアを後ろ手で閉めながら桜が呟いた。
「事故だったから、なんか、検死があるらしくって……」
「そっか……」
幸生がどう言葉をかけていいのか戸惑っていると、昨晩泊まった桜の叔母が奥から出てきて幸生に会釈をした。
「同じ学校の、井崎くん。昨日話したよね」
叔母が悟った表情に変わり、挨拶する。
「ああー。まぁまぁ、わざわざありがとうね、井崎くん」
「いえ……」
玄関口で所在無げに立つ幸生に、桜がぼそりと言う。
「……上がって」
と、そのまま自分の横を過ぎる桜に、「ああ」と応え奥へと幸生は付いて行った。
ダイニングのテーブルの昨日と同じ席に幸生は着いた。
向かいには桜が座る。叔母は一瞬迷い、桜の隣に着き、幸生の並びの場所に置いてあった自分の湯呑みを自分のほうへ寄せた。
桜に言葉も見つからず、初対面の桜の叔母とも何を会話すればいいのか幸生が
「でも、少し安心したわ。桜ちゃんにこんなふうに心配してくれるお友達がいて。ホラ、桜ちゃんて、割と引っ込み思案なとこあるから」
「叔母さんっ……」
桜が力なく口元だけで笑う。
「恥ずかしがることないじゃない。いいコトよ、とっても。年頃だもんねー、桜ちゃんも。それで、ふたりは付き合ってどれくらいになるの?」
「え、と……」
と話しかけた幸生を桜が隙かさず遮る。
「言わなくっていいのっ」
「え、でも」
「そんなコトいちいち話してたら、根掘り葉掘り聞き出されちゃうよっ。
「そんなことないわよぉ。あたし、耳はふたつしかないから。聖徳太子じゃないからなんでも聞けないわ」
「それ、ボケになってない。意味繋がんない。ナニよ聖徳太子って」
「地獄耳だったんでしょ、聖徳太子って? あれ? 違うっけ??」
「もぉ~」
桜と叔母の間で始まった漫才のような会話が食卓を和ませる。冷んやりと強張っていた空気が緩やかに温んでいく。
どうやら桜の叔母(光子という名らしい)は、人の懐に飛び込むのが得意のようだ。
つい気を許し、相手の胸襟を開かせてしまう。
こんな人、いるよなぁ。幸生はそう思った。
光子叔母がこんな気のおけない性格で、今回は助けられそうだ。
むしろ、自分より、この叔母がこの場にいてくれることこそ、桜にとっては頼もしいだろうな、と幸生は感じた。
光子叔母は桜の幼い頃のエピソードを思い出すかぎり幸生に話していった。たった一晩なのに大泣きして先生を困らせた、幼稚園のお泊り会でのホームシック。最後におねしょしたときのこと。小学校の修学旅行で熱を出したこと。どれも義姉――桜の母から聞いたことだった。
暴露された桜は頬を火照らせ「もぉーっ。叔母さんっ、そんなコト井崎くんに吹きこまないでっっ」と抗議したが、叔母はどこ吹く風といった体で口を止めなかった。
話に耳を傾けながら、それほどにこの義妹と桜の母は仲が良かったのか、と幸生は感心させられた。
それとも、桜の言うように「なんでも聞き出す光子叔母さん」のキャラクターに桜の母は気を許して口滑らせてしまっていたのだろうか。
どちらにせよ、食卓の会話は暫し哀しみを忘れさせてくれた。
電話のベルが空気を震わせ、会話を断ち切った。受話器近くの叔母が桜に「いいよ」と動作で制し、出る。電話口で二言三言会話した後、「それじゃ、準備してますので。お世話様です」と告げて電話を切り食卓のほうを向いた。
「警察から――これから、お義姉さん、帰ってくるって」
昼を回った頃、母の亡骸は荻野家へ戻ってきた。
大型のバンがマンションの入口に横付けされ、ストレッチャーが運び出されるのを桜は部屋の窓から見守っていた。
暫くして玄関のチャイムが鳴らされ、ストレッチャーから担架に移された母が廊下を通り、叔母の手で予め用意されていたリビングの布団の上に
担架に付いてきた人物のうち、黒スーツ姿の一人が叔母に声をかけた。
「このたびは……私、◯◯葬儀社の××という者です」
そう言って名刺を差し出すと、矢庭に説明を始めた。
「これから、ご葬儀の日程などについて、ご相談したいのですが……」
「ハ、ハア……」
戸惑いながらも叔母は葬儀屋をダイニングに導くと、桜も含め3人でテーブルを囲んだ。
「それで、今回、喪主はどちらの方に」
一瞬叔母と顔を見合わせた後、桜が答えた。
「あ……あたし、です」
何の連絡もしていないのに、どうしてもう葬儀屋が来ているのだろうか。
桜には理解できないことだった。
提げていた黒い鞄を膝上に抱え直した葬儀屋が、おずおずとパンフレットを取り出す。控えめだが立て板に水の葬儀屋のプレゼンテーションに、さすがの光子叔母も口挟む余地も無く聞き入っている。
「……それでですね、こちらの祭壇プランですと、150万円。下の写真のものならそれぞれ120万、80万となっております……祭壇のお花はオプションで、こちらですと60万……」
「60、万……」
「その他、火葬場での待ちの間に、ご参列者の皆様へのお食事のご用意も……人数にもよりますが、ひとまず30人と見積もりをさせていただきまして、だいたい……」
説明を聞きながら、桜はくらくらと目眩を覚えた。
――そんなにするのか。
母の貯金は幾らくらいあったのだろう。賄いきれるのかな。
光子叔母も桜も葬儀屋の話にじわじわと選択肢が無くされていくような感覚を持ち始めていたが、葬式はやらねばならない、という一種脅迫観念にも似た思いが支配し、対案も無いまま業者の話を中断させる機会を失っていた。
桜は、為す術も無くただぼんやりとテーブルに広げられたパンフレットと名刺を眺めている。
「あの、ちょっと……」
ダイニングのドアの外、壁に
「なあに?」
「え、と……少し、話があるんだけど……」
幸生が口籠っているのを察し、会話がダイニングに届かぬよう、桜は幸生を自室へと引っ張っていった。
桜が部屋のドアを閉めたのを確認すると、幸生が口を開いた。
「……部外者なんで、差し出がましいかと思ったんだけど、さ」
「?」
「あの葬儀屋、警察から付いてきてただろ」
「うん」
「あれ、警察署に出入りしてる業者だよ」
「……だから?」
まだ話の筋が見えてこない桜に、幸生は単刀直入に切り出した。
「あの葬儀屋だって悪いトコじゃないと思うけど……もっと安く請負ってくれるトコ、いっぱいあるよ」
「そう、なの?」
「うん。――去年の夏に、俺ンとこ、婆ちゃんが死んでさ。で、そンとき業者が決まってなかったから、俺がネットで探したんだ。それでヒットした」
「でも……」
「だって、このままあの葬儀屋の言い値で進められたら、きっと何百万にもなっちゃうよ。俺ンちのときは30ン万くらいで済んでる。それに、調べたら役所がやってる『市民葬』っていう方法もある。桜があの見積り聞いて悩んでるようだから、見てられなくて、さ」
「けど……今から探すんじゃ……」
「葬式なんていつだって急なもんで予定なんて入れらんないだろ。どこに頼んだって、すぐに対応してくれるよ。とにかく、いったんリセットかけて考えたほうがいいと思う」
「それは、そうかもしれないけど……」
まだ愚図る桜に幸生が背中を押す。
「ちょうどお父さんがこっちに向かってるんだろ。 だったら、あの業者に『父と相談します』って言って、いったん帰ってもらえば、いいんじゃないかな」
暫し考えた後、桜が幸生に返した。
「その話――光子叔母さんにも話してくれるかな。いま呼んでくるから」
* * *
桜の部屋に来た叔母に幸生が同様の説明をし、葬儀屋には一旦帰ってもらい、父と相談後に改めて連絡する、と話をつけた。
桜の父・
「たいへんだったな、桜……」
と声をかけた。
「お父さん……」
溢れ来る涙を受け留めるように、父は娘の頭を抱き寄せ腕に包み込んだ。
「――さ、さ、疲れたでしょ、お義兄さん。とにかく上がって」
そう言って光子叔母が泰秀を迎え入れた。
ダイニングに入ってきた桜の父親と目が合った幸生は、椅子から少し腰を浮かしぺこりと頭を下げた。
「ええと、そちらは――ヒロノブくん?」
見覚えのない顔を光子の息子と思い違いした泰秀に、光子が訂正を入れる。
「違うわよ、こちらは幸生くん。桜のお友達」
その説明の『お友達』の言外の意味を父は察し、つい「ああ」と声を漏らし幸生の顔をチラリと見たが、すぐに何か納得したように規定の事実としてこの場の状況を上書きした。
「ヒロちゃんはこんなにおっきくなってないわよ義兄さん。まだようやっと来年中学なんだから」
光子の継いだ言に泰秀が相槌を打つ。
「そっか。そうだったっけ。――ああ幸生くん、だっけ? わざわざありがとう」
「いえ……」
幸生は当たり障りの無い返事をした。
初対面の幸生にこれ以上言葉の交わしようもなく、間をもたせようと泰秀は後ろにいる桜を振り返った。
「遅れて済まなかったね。午前に、どうしても回らなきゃならない取引先があってね。朝一番で済ませてすぐに新幹線に飛び乗ったんだけど」
「ううん。来てくれてありがとう」
そう言って桜は父を労った。
「とにかく、座って」
テーブルに桜と光子が並んで着く。泰秀は、隣の幸生と軽く会釈を交わし、空いている桜の前に座った。
ほどなくして光子が切り出した。
「でね、お義兄さん。幸生くんからの提案なんだけど……」
* * *
葬儀屋の件は、幸生の提言に倣い、業者を最初から探すことにした。
幸生が「自分がネットで探します」と進言し、その場の全員が了承した。
父、泰秀が付け足した。
「じゃ、桜も一緒に調べてやりなさい。いいね、桜」
「じゃあ、お母さんのパソコン使うね」
そう言って桜が幸生に目配せをする。
言葉を選ぶように、父が続けた。
「言い方は悪いけど……亡くなったお母さんより、これから生きてく桜のために、貯金はできるだけ残しておいたほうがいいと思う」
それが父の同意の理由だった。
桜は噛み締めるように父の言葉に深く頷いた。
桜の手伝いで幸生がネットで探した葬儀会社と連絡がつき、引き受けてくれることになった。
葬儀は30日。ギリギリで年を越すことはせずに済む。
* * *
桜が幸生を伴い母の部屋のデスクトップを使いネットで検索をしていたときのことだった。
「えーと、俺があの葬儀屋見つけたのは、たしかここの斎場のホームページ開いたときにバナーがあって……あ、あったあった、これだ」
幸生が会話に誘うのにも構わず、暫く黙っていた桜が不満気に呟いた。
「なんか、叔母さんに釣られて、お父さんまで井崎くんのこと『幸生くん』なんて呼び始めちゃったね」
PCのモニタに集中していた幸生が、気配に気付きキーボードを叩きながらフォローを入れる。
「嫌?」
「べつに、そぉじゃないけどぉ」
そう言うと、桜はぷくりと頬を膨らませた。自分よりも先に幸生をファーストネームで呼ばれてしまっていることが不満なのだ。
――それもこれも、みぃんな光子叔母さんのせいだ。
幸生は桜のヤキモチを察したが、愉しみながら受け流した。
子供っぽい桜の反応がこそばゆく、嬉しかった。
「なにニヤついてんのよォっ。もうッッ」
思わず表情に出てしまっていたのを桜に見抜かれてしまい、小突かれる。幸生はその場を取り繕った。
「あっ、ごめんごめん」
「もお~っ、しらないッ」
「なら、桜も俺のこと、これからそう呼べばいいよ。ホラ俺だってもう『荻野』とは呼んでないだろ?」
「それは、そぉだけどぉ……いい、の?」
「べつに。ぜんぜん。――あぁ、開いたよ。ホラ、ここのサイト」
幸生の見つけた葬儀会社のサイトは、昨今の葬儀費用の不要なまでの高騰への苦言と、リーズナブルな価格で提供することを謳っていた。
自分でコースやオプションを選び入力して、おおよその見積もりを計算できるフォームもある。
「へえ……」
「だろ?」
試しに、来訪した業者が提示したものと同レベルのオプションを付けてフォームに入力する。出た額は、概算提示されたものよりも4割程度抑えられていた。
「まあ、この規模でやるかどうかは、桜次第だと思うけど……」
桜はぷるぷると首を振った。
「ううん、や・安いほうがいい。安いに越したこと、ない。……だって、今はお父さんが来てくれてるけど、じっさいお母さんの貯金、いくらあるのかぜんぜん判んないし……」
「だよ、なあ……それに、送るのは値段やランクじゃなく、送る側の気持ち次第だと思うし」
幸生の話に桜は大きく頷く。
そんなわけで、桜は父の承諾を得、母のPCをシャットダウンして7分後にはこの業者に連絡していた。
そのときの父の返事は、
「お前が喪主なんだから、お前が決めなさい」
だった。
* * *
「あ、遅くなっちゃったし、よかったら、ごはん食べてってね。あたしが作るから」
ネットで連絡をつけた葬儀業者の担当が訪れ、打ち合わせの済んだ後、桜が横で見守ってた幸生に提案した。
「え、でも、悪いよ」
「ううん、もともと冷蔵庫に食材も余ってるし……傷んじゃうと困るから。だから、食べてって。けっこう料理うまいんだよ、あたし」
“食材が余ってる”という言外の意味を、幸生は察した。
「うん。わかった。じゃ、ごちそうになるね」
「うんっっ」
好きな人に初めて手料理を食べてもらうことが決まり、桜は嬉しそうだった。
光子叔母は夕方にはいったん帰宅したので、この日の夕食は桜と幸生、それに桜の父・泰秀の3人で食卓を囲んだ。
泰秀は、市内のビジネスホテルに宿をとった。
「遠慮しなくっていいのに」という桜の言葉もやんわりと断り、「じゃ、また明日」と玄関のドアを閉めていった。
「やっぱり、離婚した相手の家に泊まるのは、気が引けるのかなぁ」
閉じられたドアを眺め、桜が独り言ちた。
「まあ――ましてや、お母さん、そこに居るし、な」
そう言って幸生は顎でリビングのほうを示した。
桜は黙って小さな溜息を吐いた。
「井崎くんは……どうする?」
「えっ?」
「だから……泊まるのか、って」
「ばか」
「じょーだんよぉ、じょーだん」
そんな恋人同士の戯れ言を交わした後、幸生は桜の家を後にした。
別れ際、玄関口で「それじゃ、また明日な」と告げる幸生を桜が呼び留めた。
「あ――じゃあ、またね。……幸生、くん」
ぎこちない口調だったが、二人は嬉しい心地で瞳を合わせ、「おやすみ」と挨拶を交わした。
葬儀会社の手筈も整い、粛々と母を送る準備が整っていった。
明くる日早々に葬儀会社の担当が数人を引き連れて玄関のチャイム鳴らし、続いて母を入れる棺が運び入れられた。
棺は、母の眠る両開きのリビングのドアを開放してようやく奥に入れられた。
棺が母の亡骸の横に並べられる。
白衣の納棺師がおずおずと前に進み出て遺族に一礼した。
納棺師は若い綺麗な女の人だった。
納棺師が道具箱を傍に置き、合掌して顔を覆っていた白布を外す。
目立つ外傷はなく、綺麗な顔だった。
頬の張りを整える。年齢と共に深くなった皺も、見違えるほどに薄まった。
ますます、母が既に死んでいるのだとは思えなくなった。
いつかTV放送で観た、『おくりびと』という映画を思い出した。
幸生が桜の耳元に顔を寄せ
「なんか、『おくりびと』みたいだな」
同じことを連想している自分たちに桜は苦笑した。
いつだって、映画なんだ。どんなときも。
死に化粧を
「それでは、これからお着替えをさせていただきますので、席をお外しください」
遺族が呼び戻されたとき、すでに母は棺の中に収められていた。
純白の装束を纏い横臥わる母は、神々しいほどに美しさを湛えていた。
* * *
翌日の葬儀を控え、納棺の儀式が済んでひと息吐くと、桜が突然「映画に行きたい」と言い出した。
「先週から始まった、ゾンビ映画があるの」
「でも――いま?」
幸生の瞳をまっすぐに見据えた桜は、こくり、と大きく頷いた。
「なんでゾンビ?」
「あたし、あのシリーズずっと観てるから、行きたい。3D上映が一週間限定で、今日までみたいだし。井崎くんがつきあってくんなくても一人で行く。シリーズ初の3Dだよ!? 観たいの観たいの観たいのォっっ!!」
「あー……」
返す言葉が見つからず、幸生はただ唸るしかなかった。
少しでも落ち込んだ気持ちを変えたかったのだろう。
今からなら、午後最初の上映回に間に合う。幸生は付き合うことにした。
父・泰秀に留守をお願いし、理由はてきとうにこじつけて桜は幸生とシネコンへと向かった。
* * *
開幕のベルが鳴り、場内が暗転していく中、ぼそりと桜が呟いた。
「ゾンビ。死人の映画。考えたら、いまあたしの家に、ホンモノの屍体があるのに、ね……」
「それ、笑えないよ……」
観に来たいと言ったのは桜自身なのに。自嘲しているように幸生には聞こえた。
桜の行動は理解しがたかったが、今は黙って彼女のしたいようにさせるしかない、と幸生は考えていた。
桜の顔は明らかに疲れの影が覆っていたが、劇場を出るときには少しだけ憑き物の落ちたような安堵した表情が見え隠れした。
実際のところ、桜自身も心から映画を愉しめたわけではない。
それでも、今のこの閉塞しきった空気を少しでもいいから乱す何かに枯渇していたのだろう。
来てよかったのかもな、と幸生は思った。
帰路で、ぽつりと桜が呟いた。
「けっきょく、理由、聞けなくなっちゃったなあ……」
永遠に喪われてしまった、映画の話のことを言っているのだと、幸生には判った。
幸生が返す。
「答えは、桜があの映画を観たら、解るのかもな」
クリスマスが終わっても、シネコンのエントランスのツリーはまだ聳えて人々を出迎えていた。
夕刻にさしかかった空は茜色に染まり濃緑のツリーのシルエットを際立たせている。どうやら正月まではこのままなのだろう。
ツリーを眺めている桜の中で、ランダムに記憶が呼び出される。
幼い頃、父のよく聴いていたCDライブラリのロックバンドの楽曲に、クリスマスの歌があったが、短調のアレンジでぜんぜんクリスマスっぽくなかったのを憶えている。歌詞も暗かった。
母はそれを聞きながら「陰気な歌ね」と言っていたけれど。
そういえば――と桜は思い出した。
父が出ていったのも、たしかこの季節だった。
クリスマスは、桜にとっては別れのイメージと直結していたのだ。
なぜだか、家族3人でいた頃のことをやたらと思い出す。父が来ているせいだろうか。
点滅するイルミネーションに誘われ、連想は次々に桜の中で浮かんでは消えた。
「……桜?」
ぼんやりとツリーと空を仰ぐ桜を心配して、幸生が声をかける。
桜は幸生に振り向き、微かに首を振り、
「ううん。だいじょうぶ」
と返事をすると、またツリーを眺めた。
桜に、ひとつのプランが閃いた。
「ね、――いいこと思いついた」
「なに?」
「あとで、教えたげるね」
* * *
年末も迫っている時期だったため、年を跨ぐことは避けたかった。日程的にも、告別式は省略し、本葬のみ行うことになった。
簡素にとはいえ、あまりに質素過ぎるのも……という母の勤め先への配慮もあり、当初の予算からはかなり膨れ上がったものの、それでも3ケタの大台には乗らずに済んだ。
無宗派がベースだが、母の好きだったペテロにあやかり葬儀はキリスト教式になった。
とはいっても、厳格な形式に則ってというわけではない。僧侶の読経もないかわり、牧師や神父も呼ばないが、仏式である焼香を参列者のために置いた。というより、別の方式にするとオプションになってしまうからだ。和洋折衷フュージョンの祭壇になった。
母の抽斗から出てきたロザリオがつつましやかに祭壇に置かれた。
無宗派なので、初七日法要も四十九日も省略した。
「また、そのたびにお父さんにこっちまで来てもらうのも、悪いし。それに……お母さんも、たぶんそんなに会いたくないかもしれないし、ね」
というのが娘の判断だった。それに父も同意した。
やっぱり、血なのだろうか。父娘は思考パターンが似ていた。今回のことでは互いに異論は出なかった。
「おまえン家って、合理的っつうか、現実主義なんだな」
幸生がそんな感想を言うと、桜は
「そぉ? そうなのかなぁ」
と素っ気なく答えた。
けれど、漫画のキャラクターに入れ込むくらいロマンチストだった母はどう思うのだろう、と桜は思った。
葬儀会場に『荻野瑞江 儀』と、母の名を記した看板が掲げられる。
桜はそれを見て身を引き締めた。
――さあ、しっかりお母さんを見送ろう。
葬儀を引き請けてくれた業者は、できるかぎり遺族の意向を尊重してくれる主旨の会社らしく、桜たちの意見を取り入れてくれた。
遺影は、「適当なものがなかったときのために」と父がわざわざ探して持ってきた昔の母の写真を使うことにした。「でないと、免許証の味気ない証明写真になっちゃうからね」と言いながら、写真を桜に手渡した。
「あの人のいちばん綺麗だった頃の姿で送ってあげたいから」と父は付け足した。
新婚時代の、幸せそうにカメラに微笑む姿だった。スナップ写真だが、背景を外す加工はせず、そのまま大伸ばしにして飾った。
式のときに流すBGMも、桜の意見が採り入れられた。
バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』が控えめに流される。
哀しみを増すのではなく、明るく送りたい、との桜のリクエストだった。
父が「一回だけでいいから、これをかけてくれ」と懇願し、持参したCDを桜に手渡した。
輸入CDのようで、ディスクには(おそらく)フランス語しか書かれていない。タイトルらしきものには
“Les Parapluies de Cherbourg”
と記されている。ジャケットのないソフトケースにはただ1つのトラックナンバーだけが指定され書かれている。桜は訳を話しそれを業者の担当に渡した。
曲がかけられると、幸生が桜の横に来て囁いた。
「『シェルブールの雨傘』の主題歌だな」
桜がすぐに反応した。
「そう、なの?」
「うん。映画音楽のスタンダードだから、俺も聞いたことある」
そういえば、と桜は幼い頃を思い出す。
父はよく自分のCDラジカセで映画音楽をかけてたっけ。
この歌も、聞き憶えがある。
あの頃、ちょっと物哀しいこの歌が流れると、時たま母がハミングで合わせていたことを想い出した。
おそらく、母と父にとっては、何かしらの想い出のある映画だったのだろう。
曲と共に、桜の記憶が掘り起こされ、親娘3人が幸せだった頃の映像が脳のスクリーンに再生され、心が潤んだ。
そして、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』。
母が好きだったクラシックナンバー。
穏やかな旋律が小さな会場に染み渡った。
――いろいろ、現金な理由で式を行ったけれど、母は赦してくれるだろうか。
パヴァーヌを聴きながら、桜はそんなことを思っていた。
荼毘に付す間、父が桜を呼び止め話をしているのを幸生は離れたところから眺めていた。
父娘での深刻な会話のようで、皆から離れたところに佇む二人の姿が、内容が聞こえないぶん尚更に気になった。
「どうしたの?」
話を終え席に戻ってきた桜を気にかけ、幸生が訊ねた。
「ううん――なんでもない」
桜はそう答えたが、浮かぬ表情は明らかに良くない報せを予感させた。
娘としての最後の大仕事、式を締める喪主の挨拶が桜には残っていた。
桜は母を待つ間、何を語るべきかずっと考えた。
だいたい、元来が内向的でもあり、人前でスピーチなどするような
考えた末、遺影を抱えた桜が語り始めた。いったん口が開かれると、母への想う言葉は湧水のように体から溢れ出した。
「本日は、年末の多忙な折に、母・瑞江のためにお集まりいただき、ありがとうございました。母もこんなにも多くの皆さんに囲まれて、幸せな人生だったのだと、娘として感謝します。
……母がいつか、私にこんなことを話してくれたことがあります。『人生では、どうしようもないこと、どうにもならないことも、それを受け容れて生きてかなくちゃならない』のだと。そう言う母に私は問い質しました。お母さんがその“どうにもならないこと”に出遭ってしまったら、どうするの? そんなときは、ただあきらめるの?
すると、母は笑って答えました。『そういうときは、運命に身を委ねるの』と。
母の生涯は、このようなゴールを迎えてしまいましたが……それでも、母は抗うことなく受け容れていったのだと思います。
私もまた、母の娘として、この言葉と、この人生を受け容れていこう思います。母が残した『運命に身を委ねる』という宿題を、これからじっくり向き合い、解いていきます」
桜の隣りで、母の遺骨を抱えた父・泰秀が天を仰いでいた。
* * *
すべてを了え、すべてを使い果たしたような無表情で、葬儀会場の冷たい床の上に桜が立ち尽くしていた。
心配して近寄ってきた幸生を見つけると、桜のほうから声をかけてきた。
「幸生くん――」
「たいへんだったな。疲れただろ」
「ちょっと、ね。
……あ、幸生くん、あとでLINE送っとくから。――明日、空いてる、かな」
「うん、まあ空いてるといえば空いてるよ。大晦日だし、特にやることもないし」
「なら――明日、また会ってほしいんだ、けど……いい?」
「うん。いいよ……話、あるなら、今聞いても平気だけど」
「きょうは、もう……今、あたし空っぽだから、ごめん。
……じゃ、詳しくは夜、LINEで」
そう言うと、ふたりは会場で別れた。
* * *
式を終え、母を送ると、桜の中で大きな喪失感が
夜、誰もいなくなった部屋に戻った桜は、ひとりベッドに伏して泣いた。
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