#5 ミツバチのささやき

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【ミツバチのささやき】

 1973年 スペイン映画

 監督:ヴィクトル・エリセ 出演:アナ・トレント イザベル・テリェリア フェルナンド・フェルナン・ゴメス

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         ◎


「くしゅんっっ」


 翌日。

 桜は朝からくしゃみが止まらなかった。

 どうやら昨日イヴの日に外にずっといたおかげで風邪をひいたらしい。


 それでも、桜は満足だった。



――だって。

  井崎くんと一緒にいたことのあかしみたいなものなんだもの。



 寒風も、幸生といれば心奥から沸き立つ温もりが勝り、気にならなかった。


 かねてからの予定だった例の名画座行きも、昨夕一緒のときに日にちの約束をした。



――明日かあ。



 もう冬休みに入ったので目覚ましをかけなかったが、習慣でいつもの時間に起きてしまった。ベッドの上に仰向けになり天井をぼんやりと眺めながら、桜は昨晩の幸生との出来事を反芻した。

 触れ合っていた幸生の肩の感覚が桜の肩に残っている。ただ、寄り添っているだけで幸せだった。


 桜はのそりと寝床から這い出した。



 ダイニングに顔を出すと、ちょうど母が出かける準備をしているところだった。

 このところ母は出勤時間がやや遅めのようだ。


「おはよう、桜ちゃん」


「おは……くちゅっっ」


「あらあら、風邪? 昨晩ゆうべはけっこう遅かったものね」


「んー……へーきぃー」


「昨日はデートだったのよね? “彼”にあっためてもらえなかったの?」


 母の意地悪な質問に桜は真っ赤になって答えた。


「んもぉーっ」


 母にとって、年頃になった娘をいじるのが楽しくて仕様がない様子だ。


 そんなレクリエーションを愉しむくらい、今は母も機嫌がいいようだ。

 そう判断した桜は、いいタイミングとばかり明日の予定を具申した。


「あ、あのね。明日なんだけどぉ」


「おおかた、またデートなんでしょ」


「あ、うん」


 母にはすっかり見透かされている。やはり人生一日の長には敵わない。


「好きなひととは、毎日だって会いたくなるものよね。それで? 明日はどこに行くの?」


「あ……うんとね、こないだ行った、市内の名画座」


「名画座?」


「うんっ。ホラ、前に話した、あのポスターのいっぱいある」


「ああー、そこね。また朝から?」


「うん」


 ニコニコと笑顔を返しながら母が会話を繋ぐ。


「桜ちゃんの彼氏って、すごく映画好きなのね」


「んー……て言うか、『映画バカ』かなぁ。いっつもいっつも映画のことばぁっかしか頭にないみたい」


「フフフフッ」


 母と娘で色恋の話ができるのを母は悦んでいる様子だった。


 あ、と桜はかねてから引っかかっていたことを思い出し言を吐いた。


「そうだ、こんどはちゃんと、あそこのロビーにそのポスターがあるか、確かめてくるね。えっと……あのホラ、『ナントカの雨傘』……」



――あれ?

  なんだっけ。

  たしか、「サ」行と「ル」が入ってたと思うんだけど……

  セシー ……ル? なんか違うような……



 言い詰まっている桜に先んじ母が継いだ。


「『シェルブールの雨傘』?」


「うん、そう、それ」


 母が素早く反応したのに応じて、桜はつい質問を被せてしまった。


「お母さんは、その映画、観たことがあるの?」


 口に出したとたん、桜は「しまった」と思った。

 母の顔がとたんに曇り目を逸らしてしまったからだ。



――しくったなァ。



 桜は自分の不用意さを悔やんだ。

 やはり、これは母にとって触れられたくない記憶と関連づけられている。

 桜はそう悟った。


 母にとって、触れられたくない、開くのを避けたいメモリは、たったひとつしかない。


 桜は視線を食卓へと落とした。

 皿の上には、母の食べたトーストのパン屑。傍らには空いたティーカップ。

 諦めたように、ふぅ、と母は一息吐くと、微かに首を振り、飲み了えていたティーカップを指先で弄び呟いた。


「一度だけ、ね。

 一度きり。」


 それ以上、母は語るのを拒むように口をつぐんだ。



 桜はダイニングの底に重く沈んだ空気を変えようと話を切り替えた。


「あ、あのねっ。名画座の近くにね、ちょっと気になるケーキ屋さんがあったんだ。帰りに買ってきたげるね。

お母さん、モンブラン好きでしょ?」


 母の顔が、ぱ、と明るくなり、桜を見た。


「おいしそうだった?」


 よかった。母も流れを変えたがっていたようだ。


 母は立ち上がるとコンロのほうへ向かい、ミルクパンで茶葉を沸かしはじめた。

 桜のためのミルクティーを作る。朝のいつもの所作だ。

 少し間を置き、牛乳を注ぐ。

 ふつふつとミルクが沸き立ち、甘い香りがキッチンに広がる。白い泡と共に紅茶の茶葉が中で踊る。

 ミルクパンが吹き零れないように注意を払う母の背中に桜が会話を続けた。


「うん。けっこう流行ってたみたい。こないだは夕方前に通ったんだけど、けっこう売り切れてた」


「そうなんだ。ふーん」


 母が鼻歌交じりに作業を続ける。気分がいいときの母の癖だ。

 暖まったミルクティーを漉し器を通しいつものカップにに淹れると、母は桜に手渡した。




 桜はそれを受け取りながら「うん」と返事をした。


 こくん、と飲む。

 喉を通っていくミルクの温もりが心地良かった。



    *   *   *



 次の日の朝。

 桜は目覚ましの鳴る前に飛び起きた。

 初回の上映開始は11時。劇場の開場はその15分前。でも、ちょっと早めに到着したい。

 そう幸生が提案したので、「じゃあ、10時半前には着いていようね」と話し合っていた。

 だから、かなり早めだが、今朝は家を午前8時半に出ようと桜は決めていた。


 冬休みという以外は、いつも通りの朝。ダイニングへ行くと、母も出かける用意を整え食卓に向かっている。


 寝間着姿のままの桜が「おはよ」と声をかける。母も娘に応えた。


「おはよう、桜ちゃん」


 いつものように桜にミルクティーを渡すと、テーブルに着いてほどなく、


「昨日の質問だけど――」


 母が唐突に口を開いた。


「ゆうべ、あのあと、思い出してたの。あの映画のこと」


「え、と……『シェルブールの雨傘』のこと?」


 母がゆっくり、こくりと頷く。


 想い出の包み紙を剥くように、母が呟いた。


「人生にはね、どうにもならないことや、どうしようもないことだって、あるのよ。あれは、そんな映画だったわ」


 桜が、アレ? と母の言葉尻を捉える。


「前にもそんな話、したよね」


「だっけ?」


「そうだよぉ。『自分ではどうしようもないことがあっても、受け容れて生きてかなくちゃなんない』って。おかーさんが言った」


 娘に詰問を受け、母は「あ」と気付いたようだった。


「そっか……そう、そうよ、ね」


 戸惑うような、物想うような母の貌。視線が泳ぐ。それを眺め、桜が質問を重ねる。


「じゃ、さ――もし、もしも、お母さんが、その“どうにもならないこと”に出遭ってしまったら、どうするの? そんなときは、あきらめるだけ?」


 はた、と我に還ったように母の瞳に生気が戻る。すべてを悟ったような視線が桜に注ぐ。

 母はわらって答えた。


「そういうときはね……運命に身を委ねるの」


 そう告げると、母は自らを諭すように言葉を噛み締めた。


「どしたの、突然。なんかヘンー」


 会話の重さに無自覚で、桜は戸惑いをみせる。なだめるように母が返答した。


「ああ、ごめんネ、桜ちゃん。お母さんちょっと疲れてるのかな~」


 労うように桜は返した。


「昨日は帰りが遅かったしね。車、運転してきたんでしょ?」


 昨晩は車の停まる音がしていた。

 母がマンションの近所のコインパーキングに会社の軽を持ってきていた。

 今朝は会社へは寄らず、そのまま得意先廻りの予定らしい。


「うん。もうちょっとしたら、お母さんも出かけるわ。あ、桜ちゃん、よかったらどっかまで送る?」


「ううん、これ飲んだらもう出るから。それに、朝は車だとかえって時間かかっちゃうし」


 と言うと、桜はごくごくと残ったミルクティーを飲み干した。


「あーおいしー。ごちそうさまっ。もう行くね」


「じゃ、桜ちゃんのほうがが先ね」


 朝食を終えると、桜はそそくさと部屋に戻り着替えをした。

 きようは何を着ていこうか。幸生にどんな自分を見せようか。そんなことで桜の頭はいっぱいだった。



――でも、どうせ井崎くんはスクリーンしか観ていないんだろうけど。



 それでも、こうしてあれこれと思い巡らせることそのものが、桜の胸をときめかせた。



 出かける準備が整うと、桜はもういちど鏡を見た。完璧だ。

 玄関へ向かう途中、ダイニングを覗くと、母がキッチンで片付けをしていた。

 桜は声をかける。


「じゃ、行ってくるね、お母さん」


 母が洗い物の手を止めて振り返り桜を呼び留めた。


「ああ桜ちゃん、お母さんね、きょうは車で移動になるから、ちょっと遅くなるかもね。先に晩ご飯食べててね」


「うん。わかった」


 母が何かを思いついたように、ニコ、と口角を上げ言葉を続けた。


「それとも、彼氏と食事してくる? そのまま朝までコース?」


「もぉーっ。いってきまーすっ」


「ハイハイ、いってらっしゃい」


 母が桜の跡を付いて玄関まで見送りに来た。靴を履き終えた桜に、


「モンブラン、楽しみにしてるわね」


 と告げた。

 娘が元気に母に応える。


「うんっっ。帰ったら、ミルクティー淹れてネっ」


 母は笑顔で娘の言葉に頷いた。


 玄関口で母に見送られ、桜は駅へと向かった。


 一歩一歩がもどかしい。

 少しでも早く、幸生と会いたい。


 桜は早足で駅への道を辿りながら、ふと、今しがたの母の会話を思い出していた。


 母が映画の話をするだなんて。

 桜は、ちょっと嬉しかった。



 いつかまた、じっくり話を聞いてみたいな。

 桜は思った。


 母がその映画を観て、どんなふうに感じたのか。

 知りたかった。



――いつか、あたしもその『シェルブールの雨傘』を観たときに、語り合えればいいな。

  きっと、観よう。必ず。



 そんなことを願った。




 でも。

 誰と観に行ったのか。いつ観たのか。

 結局、母の口からこの映画に関してそれ以上の記憶が語られることはなかった。






 訊ねる機会は、もう、来ないことを、このときの桜は知らなかった。



    *   *   *



 名画座のある駅で待ち合わせ、桜は幸生と合流の予定だ。

 改札の出口には桜のほうが早く着いた。待ち合わせの時刻の10分前。予定通りだ。

 桜はスマホを取り出すと、幸生にLINEで打ち込んだ。


“駅に着いた 改札口にいるよ”


 すぐに幸生から返信が来た。


“いま電車の中。すぐ着くからもうちょっと待ってて”


 桜はスマホの画面に表示されたメッセージを見ると、胸の前で包むように画面の言葉を抱きしめた。

 吹き込む風が冷たかったが、気にならなかった。


 5分後、ホームに辷り込んできた電車からの降客たちが改札を次々と抜けていく中、幸生が現れた。


「あ」


 と、小さく歓びの息を出し、幸生に向かって小さく手を振る。

 幸生がそれに気づき、顔をほころばせ近付く。


「待った?」


「ううん、へーき」


 二人は並んで駅前の繁華街を歩き出した。

 ひゅう、と木枯らしがビルの間を抜けていく。

 クリスマスの喧騒も過ぎ、正月シーズンまでの束の間の空白に、各店舗のディスプレイも交雑している。トナカイの隣で獅子舞や来年の干支がフュージョンする。

 商店街の終わり、交差点で信号待ちをしていたとき、桜が「くしゅっ」と小さなくしゃみをした。


「風邪ぎみなんだろ? 熱とかは?」


「鼻カゼ気味なのと、ちょっと喉が痛いだけ。だからだいじょぉぶ。薬飲んだから、もう治ると思うよ」


「その……ごめんな。一昨日、ずっと外にいさせたから、だよな」


「そんなことないよぅ。井崎くんは悪くないぃ。あたしがあのベンチに居たい、って言ったんだから」


「こじらせちゃだめだよ。お正月を熱出して寝て過ごすなんて、もったいないから」


「うんっ。気をつけるね」


 信号が青に変わり、待っていた歩行者が一斉にアスファルトのゼブラゾーンへと進み出す。

 桜と幸生も足を踏み出した。

 横断歩道の上で、二人はどちらからともなく、互いの手をそっと握っていた。




 街並みは住宅街の趣きへと変わっていき、映画館の建物が二人の視界に入ってきた。


 桜は、手前にある並びのケーキ屋に目をやった。

 隣接するこのケーキ屋からは、時折名画座の館内へもぷぅんと甘い香りが漂ってくる。


 桜の名画座の記憶は、この甘いケーキを焼く香りと紐付けされていた。


 ケーキ屋の横を通る。まだ開店時間ではないのか「準備中」の札がドアにぶら下がっている。

 通りがけに窓越しから奥のガラスケースをチラと横目で確認すると、モンブランの特徴ある渦巻きの小山がちょこんと乗ったケーキが綺麗に並べられていて、桜は安心した。


 桜は何気なく傍の幸生の横顔を眺めた。

 それに気付いた幸生が、


「なに?」


 と瞳を合わせる。


「ううん、なんでもない」


 幸生が不思議そうに桜の顔に見入って言う。


「なんか、嬉しそうな顔してるから。何かと思って」


「そ・そぉ?」


 と言うと、桜の頬が、ぽっ、とあかみを増した。

 風邪のせいでは、なかった。


 桜は、触れ合う掌をぎゅ、と握った。

 幸生の手も反応し、握り返した。


 名画座のガラスケースには、「只今上映中」の文字と共に、今日のプログラムの題目が掲げられている。

 桜はこのとき初めて今日観る映画を知った。



 “ヴィクトル・エリセ監督特集

     『エル・スール』

     『ミツバチのささやき』”



 劇場の前では既に数人が待機している。

 いかにも映画マニア然とした風体の男性がショウウィンドウの中のロビーカードを熱心に眺めている。メモをとっている者もいる。

 開場の15分前に到着した桜と幸生は、券売機前に並ぶ行列の後ろに付いた。すぐ前にはサラリーマン風の40代の黒縁ウェリントンメガネをかけた男性が、手にした別の劇場のタイムテーブル表を熱心に見入っている。少しして、二人の後ろには、髪を赤く染めた20代とみられるパンキッシュな出で立ちの女性が列に付いた。高校生の自分たちも含めたそのアンパランスさに桜と幸生は顔を見合わせて苦笑した。


 待つ間、幸生が口を開いた。


「これを、荻野に観てほしかったんだ。特に『ミツバチのささやき』のほう」


 幸生の発言に桜が応える。


「この映画って、どんな内容なの?」


「まあ、観てからのお楽しみ、かな。映画って、なんにも知らないで観たほうがいいこともあるよ」


 答えを求めたのに新たな謎がかけられてしまった。

 幸生のひと手間かけた演出には戸惑うばかりな桜だ。


 ほどなくして、列が伸びたためか開場時間よりやや早めに劇場の職員が券売機を解錠し、

「お待たせしました、只今より開場します」と告げると、列がゆっくりと動き出した。


 桜と幸生は揃ってチケットをも切ってもらい、館内へ進んでいき座席を取った。

 幸生のお気に入り、いつもの真ん中ややスクリーン前寄り。幸生に促された桜はその右隣にバッグを置いた。


「ちょっと、ロビー見てくるね」


 そう桜は幸生に告げると、そそくさと出口へと向かった。


 ロビーに出た桜は、壁一面に並んだ映画ポスターを順々に眺めていった。


「えーっと、『シェルブールの雨傘』……シェルブール、シェルブール……」


 ひとつひとつ追っていく指が、隅の天井近くのポスターで留まる。

 白地に男女が傘の下で向かい合う、控えめな構図。


「あった。『シェルブールの雨傘』……」


 目を凝らして書かれた文字を追う。主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。名前は知ってる。有名な女優だ。監督は……知らない。

 一体、母はどこに関心を寄せ、なぜ記憶していたのだろう。母が興味を持った映画なのに、このポスターからその理由を探ることは困難だった。




 席に戻ってきた桜に幸生が声をかけた。


「どしたの? 何か気になることあった?」


「ううん、なんでもない」


 館内に上映前を告げるアナウンスが響く。「……上映中の携帯電話のご使用は上映効果の妨げとなるばかりでなく、他のお客様のご迷惑となり……上映中は電源をお切りになりますよう重ねてお願い申し上げます……」と注意が喚起される。

 放送に促され、いつものように、桜はスマホの電源ボタンを押しシャットダウンするのを忘れなかった。



 二本立の一本目のプログラムは『ミツバチのささやき』だった。

 幼子アナの視点で語られる戦争の物語。アナの晒される厳しい現実は彼女にとっては町の集会所で上映された映画『フランケンシュタイン』と同じお伽話の世界。彼女には現実も空想もスクリーンの中もすべて心で体験していること。映画はそんなことを語っていた。


 観賞しながら、この作品をどうして幸生は自分に観せたがっていたのだろう、と自問した。


 上映のさ中、映画も終盤にさしかかる頃。桜の膝元で、突然ブゥーンと急かすような断続音が唸った。意表を突かれ桜は飛び上がった。

 携帯のバイブ音が静かな館内を響かせ、客席に嫌な緊張が走る。音源は桜のバッグの中からだった。



――え? え? どうして??



 ブゥーン、ブゥーンと桜の膝の上で蜂の羽音のような呼び出し音が鳴り続ける。まずい。心臓がバクバクと鼓動する。体中の腺から汗がどっと吹き出す。

 「スイマセンっ」と声を殺して謝罪を告げると、慌ててバッグの中をまさぐり、掴んだスマホのボタンを手繰りあて電源ボタンを押す。手を入れたバッグの口からぼうっと光が漏れる。数秒の長押し後、震える端末はようやく沈黙した。

 桜は、チラ、と横目で幸生に目配せすると、小さく片手を鼻先に掲げ祈るようなポーズを作り「ゴメンネ」と謝った。

 幸生はスクリーンに眼を向けたまま、微かにこくりと頷いた。



――っかしいなあ。開映前にいつも確かめてるのに。

  きょうも、ちゃんと確認したつもりだった。はず。



 桜の失態で緊張した館内の空気も、やがて霧散され、重かった雰囲気は消去されていった。







 エンドロールが終わり休憩時間に入ると、館内が明るくなる前に桜はそそくさとスマホを掴みロビーに出た。

 電源を入れさっきの着信を確認する。着信1件。母の携帯番号が表示された。留守録はない。

 リダイアルしたが、プルルルルという呼び出し音が続くだけで母は出ない。今日は車での移動だから、今は運転中で出られないのかもしれない、と桜は考えた。

 何か用事があるのかと思い、留守録メッセージを受けられるよう、バイブが鳴らないように慎重にサイレントモードの操作をする。こんどは、ちゃんと設定を確認した。大丈夫。


 お手洗いへ向かう者と次の上映から観ようとする観客との群れでごった返すロビーの隅のソファで、桜はひと息吐いた。

 ふと仰ぎ見た桜の目に、『シェルブールの雨傘』のポスターが入った。メインビジュアルの抱き合うカップルの姿を桜はぼんやりと見つめた。


「あ……モンブラン買わなくちゃ……」


 何気なく、口を吐いて言葉が出た。






 席に戻り、改めて桜は幸生に「さっきはごめんね」と謝罪した。


「ちゃんと、確認したハズだったんだけど……」


「気をつけような。ま、誰にだってうっかりミスはあるよ」


 そう言って幸生は頬笑み、桜を安堵させた。


 放送が上映開始を告げ、ブザーが鳴る。

 館内が暗転すると、膝のバッグの上に置いた桜の手の甲に、幸生の暖かな掌がそっと触れた。

 桜は、幸生の差し出した右手の上に自分の片手を重ねた。互いの手を、互いの指がそっと撫でる。


 二本目のプログラム『エル・スール』がスクリーンに映写され始めた。



    *   *   *



『エル・スール』が終わると、桜はモンブランのことで頭が充杯いっぱいになっていた。

 ロビーに出て時計を見ると、午後2時半を過ぎようとしている。

 人気のあるお店のようだったから、早く行って買わなくちゃ。桜は幸生を引っ張るように劇場を出た。


「ちょっと、寄りたいトコあるんだけど」


「うん、いいよ」


 そんな短い会話も終わらぬうちに、桜は目当てのケーキ屋の前に辿り着くやいなや、ドアを開けショーケースに張り付いた。可愛くデコレートされた小さな宝石のような洋菓子が並ぶ中、すぐにモンブランの売り場に目をやる。覗いてみると銀のトレーにはモンブランはあと2個しか残ってない。 慌てて店員を呼ぶと、


「すいません、このモンブランふたつと……あと、ショートケーキも2コ。あ、こっちのガトーショコラもふたつ」


 モンブランを含め2種類計4個を買う予定でいたが、値段がお手頃だったので奮発した。ショートケーキは定番だし、チョコレート系には桜は目がない。いいや、3つとも買っちゃえ。

 レジへ進み、ケーキの入った箱を受け取ると、桜は大事そうに両手で胸の高さに捧げた。


「おみやげ?」


 幸生が、両手の塞がった桜のためにドアを開けながら問いかける。


「うん。お母さんに」


 そう返事をすると、桜は満面の笑顔を作った。頭の中では、既に母のミルクティーの香りが脳内麻薬のように再生されている。


「仲、いいんだね」


「えーっ、普通じゃない?」


「そうでもないと思うよ」


 母子家庭で、母一人娘一人という環境だったせいなのだろうか。たしかに、桜と母は仲がいい。

 でも、桜は自分の家庭が特にそうだとは思えなかった。


「そのうち、うちに遊びに来て。お母さん自慢のミルクティーをふるまったげる」


 我が家の食卓に幸生の着く姿を思い浮かべながら、桜は幸生に応えた。幸生が笑顔で同意を示す。


「楽しみにしてるよ」


「約束ね。ぜったい」


 母はどんな表情で彼を迎えるだろう。そんなことを連想して桜は多幸感に包まれた。


 母の顔を思い浮かべた瞬間、桜の脳内では分断されていた領域のニューロンがシナプスの腕を伸ばし、バラバラだった関連情報をリンクし、忘れていた記憶の沼からメモリを引き出した。

 映画を観ていたときに鳴った携帯着信。そういえば、それきりスマホを確認してなかった。劇場を出てからあまりにも急いでモンブランの陳列棚の前まで直行してしまったので、桜は携帯のことなどすっかり忘れてしまっていた。


「あ。そだ」


 ケーキ屋のドアを数歩出たところで、桜は箱の一辺を片手で掴み直すと、箱が傾かないよう気をつけながらバッグをかけた肩のほうの手に箱を持ち替え、もどかしげにバッグの中をまさぐった。

 ぎこちない所作でバランスを崩しそうな桜を見かねた幸生が「持とうか」と声をかけ手を伸ばす。


「ううん、へーき」


 手に持ったのは、幸せの詰まった宝箱だ。誰にも渡せない。

 いままさにこの箱の中にある甘い宝石を、母の淹れたミルクティーを添えて食べる風景を想像し、そのときまでずっと手放したくなかった。それを予想すると思わず口元がほころんでしまう。モンブランを頬張る今夜の母の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。


 それで、報告するんだ。



――みつけたよ。『シェルブールの雨傘』――



 幸生の申し出をやんわりと遠慮し、艱難かんなんの末ようやくスマホを掴み出すと、画面を点けた。サイレントモードを解除し、電話の履歴を確認する。


 何件か、着信が入っている。普段はこんなに電話が来ることなどないのに。

 見知らぬ番号からも。


“×××-0110”?



――なんだろ。このヘンな番号。



 スマホ画面を睨み、眉を寄せ訝しむ桜の顔を見て、幸生が「どうしたの?」と問いかける。


「――うん。なんだか、知らない番号からいっぱいかかってる……なんだろ」


 指を滑らせ着信履歴を遡る。だが、さっきの着信以降、母からの電話は来ていない。

 幾つかの着信には留守番メッセージも録音されている。どれも知らない番号ばかり。


 念のため、母の番号へリダイアルをかける。呼出音もなく始まる通話は、


「――この電話は、現在、電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、かかりません――」


 と、素っ気ない機械音声が繰り返された。



――何か用があるからかけてきたのだと思うんだけど。

  だから留守録モードにしといたのになあ。



 繰り返される機械の声に溜息を吐き、通話を切った瞬間、着信を告げる音が桜の掌で響いた。思わず桜は慌てて携帯を落としかけた。

 画面には未登録を報せる人影のアイコンと、今しがた繰った中で何度か見かけた番号が表示されている。


 きょとん、とした幸生と顔を見合わせた。桜は小首を傾げ幸生に応えると、電話に出た。


「――あ、もしもし――」


 耳に当てたスビーカーからは、意外な人物の声が聞こえた。


「――ああ桜ちゃん? 桜ちゃんでいいのよね?」


「叔母さん!?」


 母の弟の妻、桜の叔母からの電話だった。

 近頃あまり会う機会も減ったが、昔から母とは馬が合うのか、仲の良い関係だった。


 だが、桜は咄嗟に疑問に思った。ここ数年――少なくとも桜が高校受験の頃から以後は、なんとなく行き交うこともなく叔母とは疎遠だった。

 叔母さんが、この番号を知ってるハズ、ないのに――


「え? え? どして? なんでこの番号、叔母さんが?」


 思わず抱いた疑問を口にした桜だったが、その質問を遮るように電話の向こうの叔母は急くように言葉を続けた。


「あの、ね、桜ちゃん……」


 当初は微かな笑みさえ浮かべていた桜の貌が翳っていく。電話の音声を聴こうと、桜の瞳が宙を泳ぐ。眉間に皺を寄せる。それを幸生が心配そうに見遣る。


 桜の耳とスマホの間から洩れたくぐもった音が幸生に聞こえる。

 だが、内容は聞き取ることができなかった。




「え?……」


 思わず、桜の瞳が何か目標を定めようと揺らぎ、幸生を捉えた。

 幸生は桜の視線を凝っと受け留めた。


 ケーキ箱を鷲掴みにしていた一方の腕が、スローモーションで下がっていく。桜の神経は、箱を持っていたことを忘れているかのように腕を弛緩させ、重力に任せだらりとなる。


 箱がガサリと篭った音を鳴らし、中のものが寄ったことを告げたが、桜の心はもうそんなことを構う余裕は失くなっていた。


 桜の瞳が、どこかに、誰かに救いを求めるように幸生を見据えたまま、時が止まった。



 車の走る音。信号のメロディ。自転車が発するブレーキ。遠くの飛行機のプロペラの音。雑踏。靴音。喧騒。木々のなびき。

 あらゆる音が消え、幸生と桜の交錯する瞳だけが世界にとり残された。




 掠れるような声で、桜が呟いた。




「――お母さんが――























 しんじゃった、って――」


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