#4 クリスマス・ツリー

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【クリスマス・ツリー】

 1968年 フランス映画

 監督:テレンス・ヤング 出演:ウィリアム・ホールデン ブルック・フラー ヴィルナ・リージ

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         ◎


「いつもいつも、映画にばっかり連れ回して、悪い」


「ううんっ。そんなことないよ」


 例年よりだいぶん遅めの木枯らし1号が、街路樹の枝にしがみついていた葉を散らし、歩道にできた吹き溜まりに落ち葉の塊を積み上げていく。

力尽き地面にたおれた植物のむくろは、桜と幸生の歩みが踏むたびにカサカサとリズムを立てた。


 陽も暮れゆく時が早まり、授業が終わってすぐにシネコン向かっても、バスがショッピング・モールに着く頃にはもう夕焼けが始まっていた。


 バスを降り歩き始めると、びゅんびゅんと冷たい風が二人を横から撫で付ける。

何も言わずに、幸生は桜の風上側に廻り、風除けとなる。

吹き付けていた北風が和らぎ、桜は「あ」と気付き幸生の顔を覗くが、幸生は黙ってかじかむ頬に耐えながら歩き続ける。

 こんなさりげなさが、幸生のいいところだ。

 肌に冷たさが沁みていても、桜の心は暖かくなった。



 ショッピング・モールに入ると、もうそこかしこにクリスマス・シーズンを彩るディスプレイで飾り立てられている。

 緑と赤の配色を中心に、綿やスプレーで作られた雪のデコレーション。橇やトナカイをかたどった飾り。

ファストフードのマスコットアイコンであるメガネとステッキ姿の老人は、普段の白いスーツから変わってサンタクロースの衣装を着せられている。白い髭がお似合いだ。


 あとひと月ほどでクリスマスだ。



「そろそろ、そんな時期なんだね」


 桜のつぶやきに、幸生が返す。


「だな」


 平日の夕方なので、まだまだベビーカーを押したり、幼子の手を引いた母子連れが目立つが、12月に入れば休日にはこのモールもカップルで溢れるようになるのだろう。

 桜は、そんな光景を夢想した。



 イメージにひたっていると、幸生の声が桜を引き上げた。


「でも、いつも俺と時間を使わせて、迷惑じゃないかな。最近は休みの日も俺とばっか使っちゃってるし」


 一瞬、意味がわからず桜が幸生に顔を向ける。幸生は、あえてそうしているかのように、視線を逸し周囲を眺めていた。

 幸生の言外には、「自分じゃなく、他に過ごしたい相手がいるのでは?」と告げていた。


「そ・そんなコトないよォ。あたしも誰かと一緒に映画に行けるの楽しいし」


 ホントは、“誰かと”じゃない。

 幸生と一緒なのが嬉しかった。


 そんなことを思っていると、幸生はさらに尋ねてきた。


「荻野、彼氏はいないの? その……一緒にクリスマス過ごすような、さ」



 え、と桜の心臓が戸惑う。

 間を置いて、桜が答えた。


「いないよ、そんなの……」



―― 一緒に過ごすなら、井崎くんとが、いい。



 桜はそこまで出かかっている言葉を飲み込んだ。

 幸生から言ってくれるのを、待っていた。


「井崎くんこそっ……クリスマスに一緒に過ごす相手くらい、いる、ん……で・しょ……?」


 幸生が返事をする。


「いや……いない、けど……」


「そっか。そうなん、だ……」


 二人とも、会話がしたいのに、言葉が途切れ、次の句が継げないまま歩き続けた。

 コンコースを通過し、シネコンの入口が近づいてくる。

 ロビーに入ってチケット売り場に来たとき、ようやく二人の間の沈黙を桜が破った。


「そだね。いっつも井崎くんといるから、そんなのいたらヤキモチされちゃうね」


 そう言うと、桜のほうが先に受付に声をかけた。

 観る映画のタイトルを告げ、「学生2枚」と続ける。

 遅れて幸生が桜の横に並び、ふたりで座席を選んだ。


 桜は、幸生とこうしているだけで幸せだ。


 けれど。


 一緒に映画に行っても、それ以上は踏み込まない。

 桜にはそれが不安だったし、不満だった。



 幸生にそんな相手がいないようなのは、なんとなく分かっていた。


 なのに、自分に対してこれ以上を求めてくれないのは……

 やっぱり、単に“映画の友”でしかないのだろうか。



 たとえば席を並べてこうして映画を観ていても、手も握ろうとしてくれない。

 そりゃ、彼にとって、映画はすべてに優先するのだろうけれど。





 桜はいつも気を揉んでいた。




 チケットを受け取りふと外を眺めると、シネコンの正面に巨大なクリスマス・ツリーが設置されているのが見えた。



    *   *   *



 映画が終映しロビーに出ると、ガラス越しの外はすっかり暗くなっていた。

 暗闇の中、きらきらとイルミネーションが輝いているクリスマスツリーが浮かび上がる。

 ツリーのLEDデコレーションが点滅し、地面のタイルを照らし出している。

 麓では気の早いカップル達が三々五々集い、ベンチで寄り添ったり手を繋ぎ、イミテーションのもみの木を仰ぎ見ている。


 煌めくクリア・カラーの蛍光に眩惑され、桜はぼんやりと想い返していた。


――いつから、クリスマスが嫌いになったんだろう――


 昔、桜が幼かった頃、冬の訪れと共にクリスマスが来るのを心待ちにしていた。

 なのに、いつからかその気持ちは消え去り、この季節の訪れにも心ときめかなくなってしまった。


 その原因を心の奥底から探っていると、ぼんやりしているように見えたのか、幸生が声をかけてきた。


「もうバスの時間だよ。急ごう」


 幸生に呼び止められ、桜は現実に引き戻される


「あ、うん――」


 同時に、桜には別の想いが湧き上がってきた。


――こんどのクリスマスには、井崎くんと一緒に、ここに来たいな。


 そんな淡い気持ちも、幸生には届かないようだ。そもそも否が応でもあれほど視界に入ってくる表玄関のクリスマスツリーに、幸生は一切関心を示さない。


バス停への道すがら、桜はカマをかけてみた。


「ツリー、きれいだったね」


「そう?」


 幸生の余りにも素っ気ない返答に、桜は少し意固地になってみたくなった。


「24日も、ここに来たいなあ」


「連休だし、学校が休みに入るから、あのシネコンも混むよ」



――そーゆう意味じゃないのに。

  鈍感。



 覚ってよ、と桜はむずがる。



――いや、たぶん映画以外のことには興味なんかないんだ、井崎くんは。



 幸生の『映画バカ』っぷりに少々呆れながら、なんとか気づいてもらいたくて、桜は辛抱強く会話を繋げようとした。

 だが、タイミング悪くバスが停車場に辷り込んできてしまった。


「あ、ホラ来たよ」


 促されるように乗り口ドアに昇ると、並んでいた人々の塊にたちまち押し込まれてしまった。

 混雑する車内では、おしゃべりも碌に成り立たない。

 桜は、今日は諦めるしかなかった。



――仕方ない。家に帰ってから、じっくり対策を練ることにしよう。




 バスの中で幸生と別れ、一人になってからも、桜はあれこれと作戦を練り続けていた。



 家に帰って、夕食を済まし、風呂から上がり、明日の準備をし、教科書を鞄に仕舞い、ベッドに収まってからも、イヴの日どうやって彼を誘うか、考え続けた。



 天井を眺め思案したまま、いつの間にか意識は眠りに落ちてしまっていた。



 夢うつつの中、桜はクリスマスが嫌いになった理由を想いだしていた。



    *   *   *



 瞼の裏に浮かぶ影像は、幼い頃の記憶。


 桜の両隣には、仲睦まじく微笑む父と母の姿がある。

 3人の瞳に映るのは、何処かで見たクリスマス・ツリー。

 遊園地。

 地元のショッピングセンター。

 デパートの屋上。

 繁華街のイルミネーション。

 街角に立つサンタクロース。

 大きな白く丸いクリスマスケーキ。

 レストランでのちょっとしたぜいたく。

 締め括りには、近くにある小さな教会のミサに参加するのが、荻野家の年中行事となっていた。


 桜のメモリに残る師走の朧げな記憶は、いつも両親の幸せそうな顔とともにあった。




 クリスマスに家族で小さなお祝いをする記憶がぷっつりと途切れたのは、父の姿が上書きされなくなってからだった。

 桜が、母と二人だけでクリスマスを愉しんだ記憶がない。

 おそらく、母のほうがそれを望まなかった。


 そうだ。

 父と母の離婚が、荻野家からクリスマスを遠ざけた。


 それまで、3人で過ごしていた日々の想い出をデリートするかのように、母は一切の家族の行事を忌避していったのだった。


 だから、あのときから、桜はクリスマスを愉しんだ記憶がない。


 母にとっては、3人で幸せだった日々を思い出すことは、きっと辛かったのだろう。


 桜は、そう悟っていた。

 それは、諦念というものだったろう。


 母に気兼ねしてか、いつの間にか桜の中にも父との幸せな記憶は消えかかってしまっている。

 一瞬、父の存在が桜自身の15年の人生からクリアされてしまっていたことを覚り、桜は愕然とした。



 壊れてしまった幸せ。


 二度と戻らない、家族という器。



    *   *   *



 目が醒めた。

 桜の瞳から、一条の涙がこぼれ落ちた。



 朝靄に霞む窓の外の柔らかな陽光に照らされながら、桜はいた。




――でも。

  これから、また、


  クリスマスが好きになりたい。




  彼が傍にいれば、きっと――





    *   *   *



 もともと、クリスマスは母の好みのイベントだった。


 父とのことがあってから、もう愉しむことはしなくなってしまったけれど、それでも、昔は母のお気に入りの年中行事だったはずだ。


 12月が近づき街にポインセチアやトナカイをあしらった装飾が増えるたびに、母の瞳はキラキラとして少女のようにテンションが上がってくるのが娘の幼い目からみてもありありと判るくらいだった。


 もう家族3人での慎ましやかなクリスマスの祝いをすることはなくなってしまったけれど、それでも桜はイヴの晩には母と家で過ごすことがなんとなくの習慣となっていた。


 そのイヴに、今年は初めて、母以外の誰かといたい。

 一緒に時間を過ごしたい。

 桜の胸の奥には、そんな願望がふつふつと沸き、12月に入ると、もう気持ちを抑え難くなってしまっていた。



 母には事前にそれとなくイヴの計画を申請し、承諾をさせておきたい。

 桜は、登下校の間じゅう、プランを練った。休み時間も、昼休みのさ中にも、授業中も、脳の空いている領域をフル稼働させて計算を続けた。



 ふと思い出したのが、母の“クリスマス好きの理由”だった。



――そういえば、お母さん、『12使徒の中ではペテロが好き』って行ってたっけ。



 母はクリスマスそのものよりも、むしろ使徒のペテロに強い関心を抱いていた。


「お母さんね、シモン・ペテロのファンなの」


 昔、そんなことを母が口走っていたことを、桜はなんとなく憶えている。



 ペテロといえばイエスの一番弟子だったが、イエスが捕まった朝に鶏の鳴く前に3度弟子であることを否定をした、という逸話で有名なくらいで、桜もあまり詳しくは知らない。


 母の早い帰宅の日を狙って、桜はそれとなく訊ねてみることにした。


 どうして、ペテロがお気に入りなの?


 もちろん、その話題を枕にして、イヴの日に幸生と過ごすことを母に許可を乞う算段もあった。




 作戦を成功に導くには、事前の調査は必須だ。


「しもん、ぺてろ。オッケーグーグル」


 母との対峙に向け、予備知識を得ておこうと桜はベッドに横臥よこたわりスマホの音声入力で検索をかけた。

 ウィキペディアの『ぺトロ』の項目がヒットする。



――『ペテロ』じゃないんだ。

  一般的には『ペトロ』の呼び名ほうが通ってるのかな。



 “生涯”の項を辿る。

 主なエピソードの概要が記述されているのを桜は指でスクロールしていった。



 人間を捕る漁師。


 鶏の鳴く前に吐いた3度の嘘。


 クォ・ヴァディス。


 サン・ピエトロ寺院との関係。



 ざっと眺めても、母がどうしてペテロに想いを寄せたのか、よくわからない。

 だいたい、クリスマスはそもそもイエス・キリストの生誕を祝う祭りなのだから、ここはイエスのはずだろう。



 改めてペテロについて調べても、母の心はまるで謎のままだった。


 もともとイヴの日の許しをもらうことが目的だったのだが、疑問は膨らみ、本当の理由を改めて桜は知りたくなった。



    *   *   *



 予定通り夕刻に帰ってきた母に、夕飯時を狙って桜は質問をぶつけてみた。



「ね、ね。お母さんて、むかーし『ペテロが好き』って言ってたよね?」


「そうよー。中学生の頃からファンだったわ」


 唐突な話題に戸惑いもせずに、当然という風にあっけらかんと母は答えた。


「それ、なんだけど……

ね、どうしてペテロになるの? ふつうイエス・キリストとかじゃない?」


 さすがにすぐに次の突っ込んだ質問を畳み掛けられた母は一瞬たじろいだようだったが、ふ、と顔が和らぎ、まるで大切に仕舞っていた宝石を胸の奥から抱え出すように、言葉を娘へと差し出した。


「シモン・ペテロがね……カッコよかったのよ」


「えっ?」


 予想を超えた回答に、桜は素っ頓狂な声を漏らしてしまった。

 娘の反応には気を留めず、母が言葉を続けていく。


「ホントはね。

むかーし、あるマンガがあってね。シモン・ペテロが主人公の。

お母さん、そのマンガが大好きでね……

――ひと目惚れしちゃったのよ。シモンさんに」







――はぁ!?



 桜は思わず絶句してしまった。


 母が言うには、シモン・ペテロが主役のSF漫画があったのだという。


「未来から“航時機”でやって来た調査員がね、ペテロになってイエスの動向を監視するの」


「タイムトラベルもの、ってこと? その……『王家の紋章』みたいな」


 桜は、以前少女マンガ誌で見たことのある有名な長寿連載作品の名を挙げた。メジャーなタイトルなので、母も馴染みがある。

 前にこの作品の主人公が月刊誌の表紙になった号を買ったとき、母が思わず「あら、メンフィスね」とキャラクターの名前を即答したことがある。

 それにしても、例に挙げたその漫画が母が中学生の頃から続いていたのは驚きだった。


「そうじゃないの。意識だけが過去に飛んで、シンクロした人間の肉体を借りるようになるの」



 なんだかよくわからない。

 ともかく、そうやって未来人がペテロになりすましてる、ってことか。

 桜はそう解釈しておいた。


「でね。そのシモン・ペテロが、すごいイケメンだったの」


 母は、桜がその漫画の設定を把握するのを待たずにどんどん先へ進んでいく。

 もはや桜の頭の中はショートサーキット状態だ。



 要約すれば、母はその“漫画の中のペテロ”に惚れてしまったのだ。


「お母さんの初恋の人なの。一目見た瞬間から、もう虜。ファンになっちゃった」


 そう言うと。母は乙女のように頬を桃色に染めた。

 聖人に向かって“ファン”という感覚もどうなんだろう、と思いたくなったが、現実は、もっともっと拗らせていた。


 母の言葉は途切れず、ひたすら、いかにペテロが素敵だったのかを滔々と説いた。

 新約聖書の説話の中でも、ペテロにまつわるエピソードばかりやたら詳しい。どうやらピックアップして何度も読み返しているような語り口調だった。


「でね、シモンはネロの圧政を避けてローマから逃れようとするのだけれど、その道の途中でイエスが現れてね……」


 母の語調は、いつの間にか“ペテロ”から“シモン”へと変わっている。その語る瞳はまるでアイドルに熱中する女子中学生のようにキラキラとしている。

 母のシモン講談は、最期はあの悪名高い皇帝ネロに逆さに磔にされ生涯を終えたというところで完結した。


「なんか……耽美よねぇ……そう思わない?」



――いやいや、その頃もうペテロはおじぃちゃんだからっっ。



 桜は思わずそうツッコみたくなるのを必死で抑えた。

 母の瞳は宙を仰ぎ、蘇った熱情の余韻に沈っている。思わず桜は嘆いた。


「はあ……」


 溜息混じりに母を眺める桜の心の中で、ひとつの言葉が呟かれた。



――腐女子だ。



 桜は、母の思わぬ一面を垣間見て、開いた口が塞がらなかった。



 けれど、考えようによっては、こんな母ならきっと許してもらえるんじゃないだろうか。

 桜はポジティブに考えを改めた。


「あっ、あのねっ。おねがい……て言うか、相談があるんだけどぉ……」


 母が食後のミルクティーを淹れるタイミングを見計らって、桜は話を切り出した。


「なぁに、改まって」


 桜の前にティーカップを差し出しながら母が継いだ。

 桜はお気に入りのカップを両手で受け取ると、抱えるように胸の前へ引き寄せた。立ち昇るほんわりと柔らかく甘いミルクの湯気が桜の顔にかかる。

 景気付けとばかり、こくん、と一口飲み込む。

 まだ熱い。舌の先を火傷してしまった。


 喉を通り、胃に暖かさが伝わっていく。

 母の淹れてくれたミルクティーは桜のお気に入りだ。

 紅茶に拘る母は、茶葉を独自にブレンドし好みの味を編み出していた。

 以前、配合のレシピを訊ねたことがある。けれど、細かいことは忘れてしまった。「愛情をひとつまみ入れるのがコツ。それで魔法がかかるのよ」と冗談交じりに言っていた。

 母はそう話すと、呪文の儀式のように調味料をふりかける仕草で指でつまんだ何かを振り落とすようにし、ポットの蓋を被せた。




 母のミルクティーで、桜の中に力が湧いた。

 よし、と意を決して、桜は三日三晩考えぬいた言葉を母に投げた。


「今年のクリスマス、だけど……お・お友達と、いっしょに過ごしても、いい、か・な……」


「彼氏と、どっかに行くのね?」


 どくんっ。


 ものの見事な母の速攻リターンエース。

 桜は反応できず、心臓は破裂せんとばかり大きな鼓動を一度鳴らし、排出した血液が顔を真っ赤に染めた。

 母はなんでもお見通しだ。


「そっかぁー、もうそんなトコまで進んでるんだぁ」


 熱暴走寸前で頭がフリーズし、二の句が継げられずに凝り固まっていた桜に母が畳み掛ける。


「ち・ちがうのぉっっ。た・たたただただ……そ・そう、みんなでね、パーティしようって……」


「いいのよ桜ちゃん、隠さなくっても。で、お泊りの予定なの?」


「だ・だからぁちがうって」


「いいのいいの、お母さん別に気にしないから。あ、でもちゃんとヒニンはするのよ。あとで渡しとくね。えっとー、まだ残ってたかしら」


「おかーさんっ!!」


 厳しい親も問題だが、理解のありすぎるのも問題だなあ。

 桜は高速回転する頭の中でそう思った。


 娘をからかうのも一区切りつけ、母は桜に告げた。


「そのうち、うちにも連れてらっしゃいね。お母さんのおいしいミルクティー飲んでもらわなくちゃ」


「……うん」


 母がなんとなくウキウキとしている。

 自分より、まるで母のほうが幸生に恋しちゃいそうだ、と桜は思った。




 ミルクティーを飲み了える頃、母が独り言のように呟いた。


「ひとって、話をするとき、どうして相手の目を見るのか、わかる?」


 唐突な質問に「さあ……」と桜が答えると、母は用意していた回答を教えたが、桜にとってそれは新たな謎かけだった。



「好きなひとと見つめ合えば、なぜかが解るわ」






    *   *   *



 ふと、母の語っていたそのSF漫画の内容が気になり、後で桜は調べてみた。

 検索バーにいろいろ入力してみた末、“シモン・ペテロ+SF漫画”でようやくそれらしいタイトルがヒットした。

 現在は絶版、入手困難になっているらしい。



 改めて、母に訊ねてみた。


「そういえば、こないだ話してたそのペテロの漫画って、お母さん今も持ってるの? こんど読ませて」


「それがねえ……見当たらなくなっちゃったのよ」


「え?」


「どっかには仕舞ってあると思うんだけど……

いつか、出てきたら貸したげるね」



    *   *   *


 この日は、暖かなインディアン・サマーだった。

 窓から教室に差し込む弱い陽光が空気を柔らかに循環させ、ぽかぽかと穏やかな陽溜まりを作る。



 その教室の隅の陽溜まりをぼんやり眺め、桜は朝からずっと考えている。

 どう切り出したらいいんだろう。


 明日からは期末試験が始まってしまう。

 期末が了われば、試験休みだ。

 学校で顔を合わせなくなれば、話を切り出すのももっと足踏みしてしまうかもしれない。


 気ばかりが焦る。


 1限目が終わり、2限目も過ぎ、3限目になっても、桜はまだ悶々としていた。

 4限も終了、昼休みになった。

 桜はチラチラと幸生のほうを見遣るものの、幸生は他の男子との会話が弾んでいるようで、気付く様子もない。

 溜息を漏らし、午後のチャンスを待つことにした。


 ランチボックスに詰めた昼食に目を落としながら、桜は昨晩の母との会話を思い出していた。



    *   *   *



「まだ彼氏を誘ってないの? 桜ちゃん」


 相談をして以来、母は毎日のようにプレッシャーをかけてくる。


「もう、明後日で試験なんでしょ? そしたら話す暇もなくなっちゃうよ」


 母が畳み掛ける。

 

「わぁってるよぉう。それに……たぶん、まだ彼氏じゃないし」


「えーっ、それってまだキスもしてないってコト??」


「もーっ、おかーさんっっ!!」


 と、桜は自分に苛立ちながら母に当る。母も母で、そんな娘を誂うのを愉しんでいる。それがかえって桜の不機嫌を募らせる。

 この話から逸れようと、桜は母の興味のある話題、ペテロのことを訊いてみた。


「こないだ、ペテロの話、してくれたじゃない? それで不思議に思ったんだけどぉ……」


「どの話?」


 よかった。母が食い付いてきた。


 例のペテロ・マニア(桜の脳内ワードでは『シモン厨』)のカミングアウト以来、母はペテロについて話題を振ることが多くなった。

 母にとっては、ずっと封印してきたパンドラの箱を開けたようなものだった。それまで心に秘めてきた物々が一気に外へ向かって溢れ出した。

 鍵を回してしまったのは桜だったけれど。


「ペテロってさ、ネロの圧政のときに、いったんはローマから逃げたわけじゃない? 確かにイエスが出てきて諭されて戻るけどさ。でも、それってあんまりにも優柔不断じゃない、かなぁ。『自分はイエスの弟子ではない』ってウソついてるし。だいたい、弟子になったのだってもともとイエスのリクルートが上手かったからじゃないのかな」


「ああ、『人間を捕る漁師にしてあげよう』って言われた件ね」


「うん……。なんか、意思が弱そうな気がする」


 少しの間を置いて、母が答えた。


「そうねえ……確かにその弟子になるときの話って、まるでイエスにそそのかされたみたいになってるわよね。『人間を捕る漁師にしてやろう』だなんて」


 桜が言を継いだ。


「それって、けっこう浅ましい動機、よね? 」


「でもね」母が遮るように話を続ける。「イエスの弟子で、聖人なのに、その人間臭さが好き」


「は?」


「シモンって、ホントは心の弱い人だったのよ、きっと。ホラ、鶏が無く前に3度『弟子ではない』って偽るのだって、そんな弱い心からきた言動なんだと思う。」


「ハ・ハア……」


 駄目だ。

 恋は盲目とは言うけれど、母にとってペテロの行動は皆ポジティブなエモーションに変換されてしまう。

 呼称が“ペテロ”から “シモン”に変わると、もう母の暴走は止められない。


 桜は嘆息した。

 そんな娘の呆れ顔を知ってか知らずか、母が続ける。


「でも、シモンがイエスを裏切ったのは事実。そうなることをイエスは承知の上で、シモンを弟子にした。シモンにとっては、すべてが予め書かれていた、『宿命』だったのね」


 え、と桜は言葉を捕まえた。ひょっとしたら、今とても大切なことを母は言いかけている。

 すっかり悦に浸っている母の顔を、桜はまじまじと見詰め、話に聴き入った。


「人生が、すべて予め決まっているのなら、何も怖れることはない。だって、どんな課程を経ても、結果はすべて同じなんだから。

それでもダメなときは……きっと、『自分では、どうしようもないこと……どうにもならないこと』なのよ」


 母の放った言葉は、空間に広がり、母娘のいる部屋の中を満たしていった。

 掴もうとしても、巨きすぎてかいなには抱えきれないイメージが桜の頭を支配した。


「結局、誰かを好きになるなんて、理屈じゃないのかもね。自分でもどうしようもないことに突き動かされて、誰かを好きになる。『好き』だと思い込んでしまうのかも」


 呟きは、それきりとなった。

 母は何も言わなかったが、「あとは自分で考えるのね」と娘に促しているようだった。


 以前ペテロについて調べたときに目にした文章が、桜の心を支配した。



“どこへ行かれるのですか――”




    *   *   *



 6限目の授業終了のチャイムが鳴ると同時に、桜は幸生の姿を目で追う。既に教室を後にし廊下に出ていた幸生の背中を桜は捕まえた。


「待って。井崎くんっ」


 名を呼ばれ振り返る幸生に、桜はすぐに追いついた。


「なに?」


 斜め後方からの桜の声に気付き、幸生は体をはすにして確認した。桜の側からは幸生の横顔だけがこちらを向いている。


「え・えっとぉ……あの、ね……」


 二の句を躊躇う桜に幸生は間を置かず返答した。


「明日の試験科目、予習がまだだから、今日は早めに帰りたいんだけど」


「あ、時間はあんまりとらせないし」


「歩きながらで、いい?」


「うん」


 桜はそのまま幸生に付き従い、階段を降りていく。



 校舎から出て、二人は校庭へ出た。

 放課後の校庭には、やや傾きかけた太陽が、隣接するマンションの谷間からスリットのような日なたを映し、ぽかぽかと暖かく土を照らし出す。

 せっかくのインディアン・サマーも、もうエンドロールが近い。冬至間近で日照も短くなり、陽光がビルの輪郭がひいたスカイラインに近づくにしたがい気温も下がっていくのを感じる。


 ランニングをしたり準備運動を始めたジャージ姿の生徒たちがグラウンドやトラックをチラホラと動き回っている。

 試験一週間前なので本当は部活は休みのはずだが、練習試合が近いいくつかのクラブが特別に許可をもらい軽めの調整を行っていた。雨ざらしの奥のバスケットゴールでは、上着を脱いだ数人の男子生徒たちが3on3よろしくボールを奪い合っている。たぶん、バスケ部が休んでいるのを幸いとゲームに興じているのだろう。


 このままだとあと数十歩で校門からも出てしまう。

 桜は意を決して幸生に投げかけた。


「あ・あのねっっ」


「?」


「こっ・こないださあ、シネコンに行ったでしょ?」


「うん、そうだね」


「クリスマスツリー、おっきくて、きれいだったね」


「そう? 興味あんまないから、よく見てなかった」



――興味ないのは知ってるよう。



 桜は気を取り直して続けた。話をどう持っていこうかと、頭をフル回転させながら。


「し・終業式が終わったら、しばらく会えないよね」


「まあ、そうだけど。でもLINEとかで連絡とれるし」


 尽く話の前振りを潰されていく。

 ひょっとして、解ってて、わざと避けようとしてるのか? と訝ってしまう。でもたぶん彼はなのだろう。


気を取り直し、桜は再チャレンジを試みる。


「井崎くんは、さ……こんどの連休は、どうしてるの?」


「さあー。まだ決めてない。劇場のタイムテーブルしだいかな。あ、荻野は何か観る予定考えてるの?」


「ううん、まだ……」


「あーでも学校も休みに入ったばっかだし、連休なら尚更混むだろうなあ。やっぱ、その辺りは外したほうがいいかもね」



――違う違う。そんな話がしたいんじゃないのっ。



 相変わらず話の核心に辿り着けず、桜の心は地団駄を踏んだ。


「クリスマスにはさ、劇場の前にあった、あのおっきなクリスマスツリー、見に行きたくなぁい?」


 せっかく、勇気を振り絞っての発言だったが、幸生は素っ気なく返答した。


「いいけど? 何観よっか」


「え?」


「でも言ったように混むよ、たぶん」


 違う。そうじゃない。

 ぷるぷると大きく首を振りながら、桜は強調した。


「映画じゃないよぅ。あたしはね、クリスマス・ツリーが見たいのっ」


「? 見に行けばいいじゃん」



――鈍感。



 覚って欲しかったが、ダメみたいだ。溜息が出るくらい気が利かない。

 それとも、あたしのこと、なんとも思ってないのかなァ。

 桜は心が折れそうだった。



――あーもうっっ。

  じれったいぃ。



 仕方ない。

 業を煮やした桜は、暗喩を諦めて直接進言するのに切り替えた。


「い……いっしょに、さ……イヴを過ごしたい、って……そう、言ってるんだけど、な……」


 もどかしかった。幸生にも、自分自身にも。

 無口で、ぶっきらぼーで、映画にしか興味がない。こんな井崎幸生を、どうして好きになってしまったのだろう。


 それでも。今年のイヴは特別な日にしたかった。



 桜の声が校門の前の花壇に拡散していく。植え込みが揺れたような気がした。


「あの、クリスマスツリーの下で、井崎くんと、一緒に過ごしたいのっっ」



 それまで構わずに早足ぎみだった幸生の歩調が、桜に合わせるようにスピードを緩める。

 振り返り、きょとんとする幸生に、桜は畳み掛けた。


「……こーゆうのって、男の子のほうから言うもんじゃない、の、かなァ……? お・女の子のほうから言わせるものじゃ、ないと思うのっ」


「??」


 ようやく幸生の心を掴まえた。

 瞬間、桜はそう確信できた。


 校門を前にして、幸生が立ち止まり、桜に正対した。

 桜の瞳が、まっすぐに幸生を捉えている。


「それって――」


 桜は、こくりと大きく頷いた。


 幸生の顔が綻ぶと、桜の瞳を見ながら軽く頷き返した。


「じゃ、俺のほうから、言うから――」


 校舎から校門へと続くレンガタイルにできた僅かな陽溜まりに照らされて、佇む二人の姿が浮かんでいた。








――クリスマスは、ずっと嫌いだった。


  でも、

  今年から、たぶん好きになる。




    *   *   *



 まったく。


 イヴに一緒にいたいと伝えるだけなのに、こんなに苦労するとは思わなかった。

 どっと疲れが出たものの、桜は満足していた。


 帰宅してすぐ、桜はベッドにたおれ込んでしまったが、胸の中はイヴの日のことをあれこれと考えが巡りワクワクが止まらなかった。



――これで、井崎くんと、イヴの日を過ごせる。

  あのおっきなクリスマスツリーの下で。



 それにどんな意味があるのか、なんて、桜にとってはどうでもいいことだった。

 本当は、幸生と一緒にイヴを過ごしたい――その口実が何か欲しかった。

 それだけなのかもしれない。



    *   *   *



 桜の恋の成就を母は喜んだ。

 むしろ、いちばん成り行きを心配していたのは、母だったのかもしれない。


 帰宅し玄関を開けるなり娘の名を呼び「それで? どうなったの彼とは?? なんて返事だった?」と矢継ぎ早に詰問を畳み掛けた。



 おっとり刀でベッドから起きてきた桜は


「これから説明するよぅ。だからミルクティー、欲しー」


と急く母を制し、テーブルに着いた。


「はいはい。淹れたげるから、ちゃんと聞かせてね」


 娘のお気に入りのミルクティーを淹れてやりながら、母はことの次第を娘の口から聞くのを愉しんだ。


「おめでとー。桜にも恋の季節が来たのね」


「やめてよぉお母さんっ。もぉー」


 照れる娘を母はからかいたくてしょうがなかった。

 けれど、母が心配していたのは、むしろ次のことだったのかもしれない。


「よかったあ。これで期末試験も集中して、いい成績とれるわね。明日からがんばってね、桜ちゃん♡」


「あ……それはまた別の話、かな」


 ここ数日、正直言って期末試験の準備には集中できないままだった。試験の出来を突っ込まれるのを避け、桜は母の関心を逸らした。


「でも、これからどうなるのかなあ。ホントに、あたしのこと、好きでいてくれてるのかな……ちょっと心配なんだ」


 実を云うと、桜は幸生の本心を掴みかねていた。

 母という肉親にざっくばらんに相談ができることは、桜にとって頼もしくもあった。


 母は黙って微笑み返すだけだった。


 少し経って、カップが空になる頃、ふと母が言葉を漏らした。


「善いことも悪いこともね、あらかじめ、人生はすべて決まってる、という考えがあるの」


 え、と桜は聞き耳を立てる。

 時折、母は夢見がちになる。そんなときは、ふとしたヒントを口走る。時にそれは謎かけになる。桜はそんな母の呟きが好きだった。


「これまで起きてきたこと、これから起きることは、あなたの運命に書き込まれてたことなの」


「それも、ペテロの言葉?」


 思わず桜が質問する。母が応えた。


「違うわよー。福音書には、記されていないの。でも、そんな考えがある、て話」


「ふーん」


 なんだかSFみたいだな。

 そう桜は思った。


「いいこと」母がチラ、と桜に目配せをする。


「だからもし、その彼が運命の人なら……きっと、どんなことがあっても出逢ってる。たとえすれ違っても、別れても、必ずまた出逢う。そういうものなの」


 桜にはまだ実感が沸かなかった。小首を傾げる娘に、


「けどね」と母は続けた。


「ひとって、自分ではどうしようもないことだってある。それを、受け容れて生きてかなくちゃならないの」


母は自らを言い聞かせるかのようだった。

そんな母を桜はじっと見詰めていた。


「だって、いくら足掻いても、変えられないのが、運命だから。ね?」


 母が改めて桜のほうを向く。母娘の視線が交わった。


「桜ちゃんには、まだちょっと早かったかな?」


 桜は「えへへへ」と苦笑いで誤魔化した。




 母の語りは、まるで予言のように放たれていた。


 それとも、

 母は、父と分かれたことを言っていたのだろうか。




 けれど、今はまだ、そんなことに桜は気づかなかった。





 期末試験が終わり、桜にとっては指折り数える長い試験休みもようやく過ぎた。


 クリスマス・イヴの日。

 街は浮き足立ち、繁華街ではどの辻を目指してもそこかしこにジングル・ベルなどのクリスマス・ソングが有線で鳴り響いている。


 シネコンを隣接したあのショッピング・モールも、10月のハロウィンシーズンが過ぎると同時に各店舗のディスプレイはすっかりクリスマス仕様に衣替えして、高揚した気分を盛り上げた。


 幸生と桜が連れだってバス停を降りたのは、午後も深まり陽もやや傾きかけた頃だった。

 空は東の地平線から紺色のグラデーションが滲み始め、漂う雲はピンク色に染まる。空気も、看板も、建物の壁も、路線バスも、クランベリーの天鵞絨ビロードに包まれていく。


「きれいな色だね」


 桜が幸生に話しかける。


「マジック・アワーだね」


「マジック・アワー?」


「うん。映画撮影の用語。昼と夜のはざま、すべてがいちばん綺麗に見える魔法の時間帯。この時間を好んで撮る監督もいるくらいなんだよ」


「へえー」


 物識りな幸生に桜は感心する。


「“逢魔が刻”とも言うね。昼に鳴りを潜めてた魔物たちが蠢き始める時刻」


「それは、ムードないよぅ」


「かなあ」


 他愛無い会話が、桜の胸をくすぐる。

 こんな心地良さが、ずっと続けばいいな、と躰の芯に淡い想いが灯る。


 いつか、母が言ったとおり、好きになることや好きでいることなんて、理屈じゃないのかもしれない。

 ただ、傍にいて寄り添うだけで幸せに沈れることを桜はしみじみと実感した。



――好きっていうことは、一緒にいたい、ってことなのかもしれないな。



 光と陰の混じり合う風景の中を、桜は幸生と並んで歩く。

 ぱ、とクリスマスツリーのイルミネーションが点灯した。周囲から「わあっ」とざわめきが起こる。ちらほらと拍手の音が空気を震わせる。


 桜は幸生と顔を見合わせ、微笑を交わした。


 二人は空いているベンチに並んで座った。何をすることもなく、ただ寄り添うだけで時間が過ぎていく。のろのろと駅に停車する列車のような歩みでマジック・アワーがフェードアウトしていく。


 ここ数日の穏やかな天気のお陰で、12月とは思えないくらい野外は暖かく感じるが、それでも、陽が沈むと、徐々に気温は下がってきた。


「寒い、ね」


 桜が手を伸ばし幸生を引き寄せる。

 幸生はそれに従い、桜のほうににじり寄った。


「建物の中に、入ろっか」


 桜が細かく首を振って答える。


「ううん。このままでいい」


 そう言うと、桜は幸生の腕を掴み、更に引き寄せた。

 幸生は応えるように反対の腕を桜の手に添える。



――だって、寒いから、寄せ合っていられるんだもの。



 空気は寒くても、桜の全身は胸の奥から湧き上がる暖かさで満ちていた。


 ツリーを囲む広場の隅の露店を目にし、幸生が「ちょっと待ってて」と告げてそのスタンドへ行くと、カップを両手に抱えベンチへ戻ってきた。


「はい。これであったまるよ」


 幸生の差し出した紙カップから甘い湯気が桜の顔にかかる。

 ホット・チョコレートだ。


 まだ熱々のカップをふぅふぅと冷ましながら桜はひと口含む。

 暖かな液体が喉を通り内から躰に沁み渡っていく。


「あったかい……」


 暖かなのは、飲み物のせいだけではないのだろう。


 さりげなく、お互いの手がベンチの上で触れ合い、交わり、次第に柔らかに絡み合う。

 互いの体温が交感していく。それと共に、心が通じ合っていくように思えた。 


 ほろ苦く甘いチョコレートの薫りがふたりを包む。



 幸生がふと顔を上げ、天を指差し桜を促した。


「あ、ほら――」


 煌めくイルミネーションを手で遮りながら見上げると、ツリーや建物の間から覗く空にぽつぽつと1等星や2等星たちが瞬いている。冬の星座たちだ。

 幸生の示した星々を桜の目が追う。「W」の形を幸生の指がなぞっていく。


「カシオペアだ。その下は、ペルセウス。隣にアンドロメダ。――星が暗くて、見えないけどね。で、次の四角いのがペガスス」


 いろいろ識ってるんだなあ、と桜は感心する。


「『タイタンの戦い』の登場人物たちだよ」


「それ――また映画の話?」


 幸生が視線を下ろし、桜ににっこりと頬笑む。

 桜は呆れ顔で笑顔を返した。


 幸生の講釈は続く。


「――で、あっちのおっきい十字が、はくちょう――」


 はくちょう座デネブから、ベガ、アルタイルと冬の大三角を辿る。以前学校の授業で習った印象よりもずっと大きい。直接それを確認するのは桜は初めてだった。


「へえ……こんなにおっきいんだね」


「だろ?」


 目を下ろすと、クリスマス・ツリーに捉えられた星々の点滅。周囲の街路樹にも、青いLEDのイルミネーションが視界を満たす。


 いつも見慣れたシネコンのエントランスも、幻想的な演出が非日常を醸し出している。

 時間が経つのも忘れ、二人は佇んでいた。



「来年も、またここに来ようね」


 桜の言葉に幸生が応えた。


「こんどは映画も、な」


「えー」


「だって、もったいないじゃん。せっかくここまで来てるのに観ないなんて」



――もうっ。



 また映画の話だ。

 映画、映画、映画、映画。

 まったく。幸生のいけずっぷりに呆れた。


 けれど、同意してくれたのが嬉しかった。



 思い出したように幸生が続けた。


「年内に、もっかいまたあの名画座へ行こうって、約束したろ?」


「うん。した」


「ホントはさ、あれがクリスマスの代わりだった」


「え?」


「だから、イヴの日なんて混むときに、むりくり会うスケジュール作る必要なんてないかな、って思ってた」


「あ……」


「クリスマスが終わって、翌日か翌々日くらいに、一緒に名画座に誘おうかな、って。それくらいの頃なら、試験も終わってるし、年末年始にも重ならないし」


 幸生は幸生で、それなりに二人の時間を考えてくれてたのか。

 それを思うと、ますます嬉しく心がときめいた。


 こんどは桜が提案した。


「いつ、行こうか」


 幸生が間を置かず返す。


「プログラムは23日から始まってるんだけど。明日……だと、昨日の今日みたいになっちゃうし。明後日あたり、どうかな」


「うん。いいよ」


「じゃあ、明後日ね。時間はまたLINEで連絡する」


「うんっ」


 ふと桜は気になったので、幸生に問い返してみる。


「ところで、あの名画座で年末にやる映画って、どんなの?」


「ナイショ」


「えーっ」


 と言って、幸生は思わせ振りに口角を上げる。


「でも、きっと荻野なら気に入ると思うよ」


「楽しみにしてて、いい?」


「とーぜん」


 ネットであの映画館のサイトを見ればプログラムが判るのだが、桜はあえて覗かないことに決めた。

 だって、幸生がそれを望んでいるのが判ったから。


 空になった紙カップを弄びながら、おずおずと幸生が言葉を繋ぎ始めた。


「俺さ。一人で映画を観に行っても、最近はいつも『ああ、これ荻野ならどう思うだろう』とか『何て感想言うだろう』って、そんなことばっか感じてる。荻野と一緒に、この映画に来ればよかったな、って」


 桜は黙って聴く。


「俺、これからも荻野と一緒に映画が観たい。――いや、誰かと観に行くなら、荻野とでなきゃ、いやだ。

こうして、今みたく並んで、おんなじスクリーンを見つめてたい、と思う。ずっと」



 こんなときが、永遠につづくものと桜には思われた。



 来年も。再来年も。

 これから、ずっと。




 ベンチで寄り添う二人の距離が近付く。


 桜の心が期待で鼓動を打つ。


 触れ合いたい、と願った。


 チラ、と幸生に目配せする。

 幸生が見つめ返した。



 彼がリードしてくれるのを待とう。



   ・



   ・



   ・



   ・



   ・



   ・



 前言を翻した。



 彼に任せていると、いつまでたっても進展しない。

 まったく、映画以外のことにはとことん疎いんだから。


 いったん交わしていた瞳を逸し、桜が呟く。


「……あたしから、また言わなきゃ、ダメ?」


 そう言うと、潤んだ瞳でまた幸生の目を見据えた。


「――女のコのほうから、言うもんじゃない、と、思うョ――」


 そこまで言いかけて、幸生が言葉を被せてきた。


「言わなくても、いいよ――」


 瞳と瞳が交錯する。


 向かい合うと、幸生の瞳の中に、桜自身の影像が映っているのが見えた。



――ああ。

  いつかお母さんの言ってたことが、いま初めてわかった。


  相手の目の中に映る、自分の姿を、みているんだ――




 見詰め合う時間、次第に互いの心が繋がってゆく。

 瞳の中の桜の姿がゆっくりと近づいてくる。



 視界いっぱいに満ち、桜は瞼を閉じた。


 唇に柔らかな感触。

 幸生の口吻が、そっと触れた。





 はじめての接吻くちづけは、ホットチョコレートの味がした。



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