#3 いちご白書
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【いちご白書】
1970年 アメリカ映画
監督: スチュアート・ハグマン 出演:ブルース・デイヴィソン キム・ダービー ボブ・バラバン
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◎
「桜ちゃん、最近なんだか楽しそうね。ウキウキしてるみたい」
朝、鼻歌まじりにテーブルに食器を用意する桜に、出勤の準備をしながら母が声をかけた。
「そ・そぉかなァ」
口では否定したものの、頬がにやけてしまう。
「やっぱりぃ。カレシとうまくいってんのネ?」
「そ・そんなんじゃないってえ。もぉーっ」
誤魔化しても仕方ないが、根掘り葉掘り訊かれるのも煩わしく、桜は適当に会話を流そうとする。が、母は尚も食らいつく。
「こないだの日曜、デートだったんでしょ?」
もうすっかり観念した桜は素直に質問に答えた。
「うん。市内の名画座でね、二本立観てきたよ」
「どんな映画?」
「えっとね、日本映画。20年くらい前のやつ、かな」
「ふーん」
母も、若い頃は父と映画を観に行ったのだろうか。映画好きの父なら、デートコースに選ばない筈はない。けれど母は、父とのことは頑なに話さなかった。
もう、ずっと。長いこと。
母が会話を繋ぐ。
「そこって、クラシックなのとかも、かかるのかな」
「わかんないけど、映画館の中にいっぱい昔のポスターとかも貼ってあったよ。『スターウォーズ』とか、『大人はわかってくれない』とか……」
「へえ……」
母は少し興味を持ったようだった。
「『シェルブールの雨傘』は、あったかしら」
「え?」
母の口から突然具体的な映画のタイトルが飛び出したことに、桜は驚いた。
桜は日曜日の記憶を掘り起こしたが、そんなタイトルのポスターがあったかどうか、憶えがなかった。
「うーん……あったような、気はするけど……なかったかなぁ……」
意外な母の反応に、桜は何気なく問うてみたくなった。
「なんで?」
「ちょっとね。思い出したから」
「ふーん」
ふと、懐かしむような横顔を母はみせたが、すぐにどことなく寂しそうに溜息を吐くと、食べ終わった食器を片付け始めた。
「さ、そろそろ行かなくちゃ」
と母が独り言のように呟く。桜が気遣い母に申し入れる。
「あ、あたしが洗っとくから」
「そお? ありがと、桜ちゃん」
「ううん」
母はそそくさと出掛ける準備を始めた。朝の支度のルーティンは早々に済んだ。
まだトーストを頬張っている桜に母が声をかけた。
「あ、じゃあ母さんきょうは先に出るから。戸締まりキチンとお願いね」
「はーい。行ってらっしゃい」
桜は母の背中に向けて生返事をした。
毎日毎日、同じ会話が繰り返されてるんだから。それでも出がけに母は桜に注意を告げて行く。
そんなこと、もう、両親が離婚してからずっと続けてるから、言われなくってもわかってる。
――もう子供じゃないんだから。
かちゃり、と玄関のほうでドアが閉まる音がする。
桜は使い終わった食器をシンクに置きながら食事を続けた。
ぱくりと残りの一欠片のトーストを口に放り込むと、桜もコートを羽織り、玄関から出て行った。
一歩を踏み出す前に、ドアの鍵を掛けていることを確認するのを忘れなかった。
――戸締まりは、キチンと、ね。
早足で駅に向かいながら、桜はさっきの母の言葉を思い返していた。
――『シェルブールの雨傘』かあ。
ひょっとしたら、お父さんと一緒に観たのかな。
こんど行ったとき、探してみよう。
* * *
フレックス制の企業に務めている桜の母はタイムテーブルが不規則で、出勤が早いときもあれば帰りが0時を回ることもある。
母自身は、そんな習慣が性に合っているらしく、特に不満を言うこともない。集中すれば時間を忘れてのめり込むタイプで、オン/ オフの切り替えが上手い。
だが、母娘の時間がずっと犠牲になってきていることは、少し気にしている様子だった。
たまにそれを埋め合わせるように、母は桜を外食に連れ出し、プチ贅沢な時を2人で愉しんだ。
以前はショッピング・モールの中にある室内型テーマパークにもたまに連れ立って行っていたが、桜が中学の頃になると、次第に足が遠退くようになった。
もう、子供の遊技施設で遊ぶような、そんな歳じゃなくなったからだ。
そうするうちにほどなくそのテーマパークは閉館してしまった。
ブームが去り客足が落ちたのが原因だが、周辺に子供が少なくなっていったのも理由のひとつのようだった。
桜はたまに懐かしむ。
あの、こじんまりとしたテーマパークに、また行ってみたい。
桜は時折、ふとそんな気分に囚われる。
だが、過ぎ去る時は、永遠に還ってくることはない。
成長し、大人になることが、何を意味していくのか、桜は悟った。
経験や知識が積み重なることではなく、喪失していく哀しみの蓄積を抱えて過ぎ越すことなのだ。
テーマパークの跡地にシネマコンプレックスがオープンしたのは、ちょうどそんな頃だった。
* * *
待ち合わせの時間を持て余しながら、桜はぼんやりとシネコンのエントランスを眺めていた。
――ここに、むかーしはあのテーマパークがあったんだなあ……
なんだか、そう考えると、桜の中でどうしようもない寂寥感が生まれた。
涙が、出そうに、なった。
「どうしたの? なんかぼんやりしてる」
物憂げな桜を見付けた幸生が近付いて声をかけた。
「ううんっ。なんでもない」
自分の心の深奥に
窓口でチケットを購入し、劇場内に入っていつものように並んで座席に着くと、桜は何気なしに母との会話で飛び出した映画について幸生に訊ねた。
「幸生くんは、『シェルブールの雨傘』って、知ってる?」
ふいにそんな古い映画のことを話題にされ幸生は訝しんだが、すぐに応えた。
「たしか、昔のフランスのミュージカル映画だろ。まだ観たことはないけど」
「こないだね、名画座に行ったことをお母さんに話したら、そんな映画の話が出たの。あそこにその『シェルブール』のポスターってあったかなぁ?」
「さあ……覚えてないなあ」
「お母さん、ほとんど映画なんて興味ないハズなんだけど。普段だってね、あたしが映画観に行くって言っても、ぜんぜん関心ないの。『今日は何観たの』とかそんなの訊かれたこともないし」
ふと、桜は母から出たその映画のことが気になった。
「なんでいきなり『シェルブールの雨傘』なのかなぁ。どんな映画か井崎くんは
「うーん……観てないから詳しくは識らないけど。メロドラマだってことくらい」
メロドラマ。
母はTVドラマだって殆ど興味がないのに。
どうして、そんな映画のことが口端に出たんだろう。
桜の心にひっかかりが残る。
幸生が言葉を続けた。
「なんか、思い出でもあるのかもね」
――そうなのかな、やっぱり。
母のどこんなく拘ったような語り口は気になった。
だが、改まって母に訊いてみる勇気は、桜にはまだなかった。
生活のリズムも不規則で近頃なかなか母娘の会話の時間もゆっくりとれないのに、そんな些末なことに時間を費やすのも……というのも気後れの原因だった。
上映の開始を報せるジングルが鳴り、スクリーンに予告編が映写され始めた。
上映中も桜は時折母との会話を反芻していた。
気になってしまい観ている映画が頭に入らない、というほどでもなかったが、ぼんやりと画面を追っていると、頭の片隅から雲が覆い、気を取られる。
そのたびに桜は漏れ出てきた疑問をメモリに押し込める。
自身の中で生じた小さなひっかかりは、少しずつ棘となって桜の気持ちが動くたびにささくれ、気になるようになっていった。
映画館を出て帰宅してからも、桜の脳内のクエスチョンマークの塊はバグのように時折イメージの中に出現しころころと転がり続ける。
いっそ、母に訊いてみようかとも思うが、なんだかそれは母の秘密を追及するような感じにも思われ、躊躇われた。
やっぱり、母が自ら話してくれるような状況じゃないと。
桜は、触れざるものに触れてしまうのではないか、とも危惧していた。
それは母と娘の間の不文律にも思えた。
桜が風呂から上がると、ベッドに放おっていたスマホのLEDが点滅し、着信を報せてした。
画面を開くと、LINEでメッセージが来ていた。
幸生からだった。
“あのあとちょっと調べてみた リンク貼ったから興味あれば見てみて”
後の行にURLが貼り付けてある。
桜はすぐにクリックしてみた。
どこかのシネフィルの作成したサイトに飛ぶ。左のカラムには映画のタイトルが五十音順に整理され、どうやら踏めばそれぞれの作品のページにアクセスするようになっているらしい。一瞬間を置いて、中央の文章が開いた。
「シェルブールの雨傘」のタイトルが冒頭に表示され、映画の1シーンをキャプチャした画像の下に[スタッフ・キャスト] [あらすじ] [レビュー]などの文字列が続く。
桜はスマホ画面に出てきたデータを順に目で追った。
「フランス映画……1964年。監督、ジャック・ドゥミ……カンヌ映画祭グランプリ……へええ……」
カンヌといえば世界の映画祭の最高峰だ。受賞歴にちょっと感心した。
桜が識らなかっただけで、この作品は映画史に残るくらいの傑作なのだろう。
だが、それでも制作年度は桜の母の生年よりも前だ。ロードショーで観ている筈も無い。
そんな映画の題名を、どうして母は口にしたのだろう。
桜は続いて『あらすじ』の項に目を遣った。
“アルジェリア戦争のさ中、シェルブールに住むギィとジュヌヴィエーヴは結婚を誓い合っていたが、ギィに召集令状が届き出征していく。戦争により互いに連絡がとれなくなった2人は、やがて別々の相手と家庭を築いていくが……”
シネフィルらしく、ストーリーは大まかにしか紹介されておらず、結末も書かれていない。映画を未見の者が読むことに配慮した書き方だ。
だがこれだけでは、母がなぜこの映画を記憶していたのか、繋がらなかった。
『あらすじ』の文章は、次の一文で締められていた。
“――全編の台詞がすべて歌のみで構成されたミュージカル映画”
思わず、声に出して繰り返した。
「全編の台詞がすべて歌のみで構成された、ミュージカル映画……」
おそらくどこか、TV放映か何かで母は目にしたのだろうか。
珍しい映画だから、憶えていたのか。
桜は幸生に返信を送った。
“ずいぶん変わった映画なんだね、
いつか、一緒に観たいな”
送信してベッドに寝転ぶと、ほどなく幸生から返信が届いた。
“うん。約束”
幸生と桜のやりとりは、深夜まで続いた。
* * *
「あ、あのねお母さん」
「なぁに?」
「あ、やっぱいいや。なんでもない」
せっかく母が早く帰宅していたのに、例のことを聞き出すことはやっぱり桜にはできなかった。
映画に関心がない母が、特定の映画の題名を口にした。
それがどういう意味を含んでいるのか、桜は日を追う毎に推し量るようになっていた。
母の生活の中で、映画と関わるきっかけとなる存在があるとしたら――
それは、父以外、ありえなかった。
父との体験の中で在ったものなら、母は触れて欲しくないのではないだろうか。
だとすれば、母の中では父は未だに大きな
口には出さずとも、やはり母にとって別れた父は今も大きな場所を占めているのだろう。
――だって、人生の何分の一かを共有していたんだもの。
それに、自分という娘を設けた。
桜はいつもこの考えを自分の存在の
でないと、己を否定されてしまいそうだったから。
そして、桜もまた、父の影響を強く受けていることを自覚していた。
別々に暮らしていても、桜にとって父は今も尊敬と思慕の対象であることに変わりはなかった。
桜の映画好きは父からの影響だった。
今は別々に住んでいるけれど、桜が小さい頃は、よく映画館に連れて行ってくれた。子供向けだけでなく、幼い桜が理解できようとできまいと、字幕の外国映画やドキュメンタリーを父は桜に観せた。
「映画は体験なんだよ」
父はよく桜にそう諭していた。
「頭で理解できなくてもいい。これを観たことを、心は憶えてるから。『考えるな、感じろ』だよ」
そう言うと、父は幼い桜にウインクをしてみせた。
後にこの父の言葉が有名なアクションスターの作中の台詞だったことを桜は知った。
父の授けた英才教育で、いつしか桜の心の芯は映画で形成されるようになった。
両親が離婚すると、桜は次第に映画にのめり込むようになっていった。
離れた父の面影を映画を観ることで紛らし、追っていたのかもしれない。
最初はレンタル店やTV放映の映画で満足していたが、中学に入ると次第に映画館へ足を運ぶようになった。始めはクラスの友達とアニメ映画や話題作。
シネ・コンのオープンが拍車をかけた。
母の許可を得て、足繁く通った。
年に十数本程度だった観賞ペースは、高校に入ると加速した。夏休みが終わる頃には、早くも年間観賞数を更新した。
数えてみると、秋の気配を感じる頃には20本を超えていた。
それでも、桜はいつも映画に行くときはひとりだった。
たぶん、クラスの女子たちも、自分の趣味が映画観賞だなんてことは、これぽっちも知らないだろう。
別に、誰かと体験を共有するのが嫌いというわけではない。
ただ、自分ほどのめり込んで映画を観るような相手が、クラスや学校にはいないだけのことだ。
入学した当初、仲良くなったクラスの女子と3人連れで行ったこともあったが、余りにも映画の観方の違いに、クラスメートを誘うのはそれ一回きりになった。
――誰かと一緒に観ても、つまらない。
それなら、1人で観に行ったほうが気楽でいいや。
と、桜の中では結論された。
けれど、共有されない感動は、どこか寂しさも感じた。
だからといって、映画に興味の無い母にその日観た映画のことを話しても、会話は弾まない。むしろ母は、映画を話題にすることそのものを疎んじているようにも感じられた。
次第に桜は家の中で映画に関する話を避けるようになっていった。
そんなときに、幸生を知った。
幸生に出遭ったことで、桜の映画本数は増々ハイペースになる勢いだった。
心ゆくまで映画について語り合える相手ができたことが桜の心を満たした。
映画だけではない。それよりも、幸生と一緒に過ごすことが、桜にとって満ち足りた時間になった。
* * *
夜はたいがい幸生とのチャットで時間が過ぎていく。
この日も幸生からのメッセージに桜はときめいた。
“例の名画座、年末のスケジュールにいいプログラムがあるんだけど、いっしょに行く?”
断る理由もなく、桜は快諾した。
“うん、 井崎くんに任せるよ”
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