#7 エンドレス・ラブ
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【エンドレス・ラブ】
1981年 アメリカ映画
監督:フランコ・ゼフィレッリ 出演:ブルック・シールズ マーティン・ヒューイット シャーリー・ナイト
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◎
葬儀の翌朝早く、まだ暗いうちに、父がマンションを訪ねた。
昨日の疲れからか、いくらチャイムが鳴っても桜は眠りから覚めなかった。仕方なく泰秀は昨夕遺骨を運び込んだ後で桜から預かった鍵を使い玄関を開けた。「たぶん、明日はぜったい起きれないと思うから、お父さんに渡しとくね」と桜の予想した通りの展開だった。
ガチャンというドアの開閉する振動が桜のベッドまで伝わり、ようやく桜は気が付き起き上がった。
「おはよう、桜」
桜が寝惚けた顔で廊下に出てくると、靴を脱ぎながら泰秀が娘に挨拶をした。
「おはよ……ふあぁ~……」
大きな欠伸で桜は父に返事をした。昨日着ていたブラウスとスカートが皺になって桜の体にまとわりついている。父は咎めることもなく上がり
「朝は? お父さん」
「ホテルで済ませてきた」
「じゃ、紅茶だけ淹れたげるね」
そう言うと、桜はミルクパンをコンロにかざし火を点けた。お湯になる間、食パンをトースターにセットしスイッチを回す。ミルクティーの湯気とパンの焼ける香ばしい匂いがキッチンを満たしていった。
沸いたミルクティーを父に差し出すと、それを受け取りながら父が言った。
「これ、お母さんのミルクティーか」
「うん」
「まだ、淹れてたんだなあ……」
そう呟くと、父はじっくりと味わうようにミルクティーを口に含んだ。目を閉じると、甘い薫りに懐かしさが蘇った。
トーストにマーガリンとジャムを塗りながら桜が訊ねた。
「何時の新幹線で帰るの?」
「8時半のがなんとか指定が取れたよ。それで帰る」
既に今日は大晦日だ。帰省客でなかなか席がないことは予想できた。
昨日の葬儀中に「新幹線も飛行機も取れなきゃ、いっそこっちで新年を迎えたら? お母さんのベッド、空いてるよ」と父に提案したが、「そうもいかないよ。帰って正月の準備もしなくちゃならないし」と返ってきた。
「そっか……」
トーストを頬張りながら桜が応える。
「じゃ、もうあんまり時間がないね」
そう桜が続け、カリカリのトーストをばりりと噛った。
父が口元から離したカップをテーブルに置き、姿勢を正して本題に入った。
「それでね、桜……。昨日の話の続きなんだが……」
桜はトーストを咀嚼しながら、父の顔をまっすぐに見た。
* * *
幸生が桜からLINEのメッセージを受け取ったのは、昨晩遅くのことだった。
“明日なんだけど 会うの夕方か夜でもいい?”
“だいじょうぶだけど”
“初詣、二年参りしたい”
“いいけど、新年のお祝いは控えたほうがいいんじゃない?”
“へーき お葬式はキリスト教式だし初詣は神社だし Y(^ー^)Y”
“どーゆう理由だよそれ”
“wwww”
努めて明るく振る舞おうとしているのか、桜のメッセージはいつにも増してハイテンションだった。こんなに気を張ってると保たないのではないか。幸生は気がかりだった。
“幸生くんが映画観たいなら、それつきあってもいいよ”
“そうする?”
“そうしたい?”
恋人たちの他愛ないやりとりが続く。
会話の末に、結論が出た。18歳未満は終映が23時を過ぎる上映回は入場できないので、それを避けてできるだけ遅い時間のものを一緒に観に行こう、ということになった。
桜が会話の最後に送信した。
“あたしたち、映画ばっかだね”
* * *
桜と幸生が今年最後に観る映画に選んだのは、大人のロマンスものだった。
上映終了は10時50分。新年を迎えるまでの残り1時間10分、ふたりはシネコンのエントランスに出てクリスマスの残滓のように佇むツリーを眺めた。
経済活動が停まった年末の街の空気は冷んやりとして、乾いた肌を刺した。
それでも、このツリーの下で新年を待つ人の群れは少しずつ増え、夜の
「座る?」
幸生が空いているベンチを見つけ桜を誘う。
「うん」
桜が返事をすると、幸生は桜の手を取りベンチへと連れていった。
座ると、冷えきったベンチは二人の体温を奪い、桜はぶるぶるっと体を震わせた。
幸生が桜の凍える手を掴む。その幸生の腕に桜が腕を絡ませていった。
寄り添うふたりのシルエットをツリーのイルミネーションが浮き上がらせる。
「あったかい……」
桜の囁きが幸生の心を温ませていった。
「あたしね……ここで、幸生くんと新しい年を迎えたかったの。一昨日来たときに、そう決めた」
「それが、思いついた『いいコト』?」
「うん」
一週間、桜にはいろいろなことが降りかかりすぎた。
このクリスマスツリーの下で互いの気持ちを確かめ合ったのは、ほんの7日前のことだった。
幸生は、自分が名画座に誘わなければ良かったのだろうか、とさえ考えた。
そうすれば、桜の母はあんな事故に遭わなかったのかもしれない。運命の綾は違う選択をしていたのかもしれない。
母を失くした桜は、これからどうしていくのだろう。
桜の横顔を見詰めながら、幸生は、どうすれば桜の心を支えてやれるのか、悩んだ。
「――なに? どうしたの?」
幸生の視線に気付き、桜が応えた。
「いや――べつに」
「ヘンな幸生くん」
そう言うと、桜はくくっと笑った。
元気に振る舞おうとする桜の姿が、幸生には尚更痛々しかった。
「だいじょうぶ?」
幸生の囁きに桜が返事をする。
「うん。幸生くんといっしょだから、寒くないよ」
「いや……そういう意味でなくて」
「なあに?」
「昨日、葬式が終わったばっかじゃん。だから、まだ――お母さんのこと、突然だったし、まだ気持ちの整理もできてないんだろうな、と思って」
「……ありがと」
一瞬、ふっ、と哀しみの表情が桜に浮かんだが、すぐに霧消し決意の灯が瞳に宿る。
「でもね。前を向いて生きなきゃ、って、思ってるから」
「そっか……」
桜の中に在る意外な面に幸生は驚きを感じていた。
「思ったより強いんだな、桜って」
「つよくないよぅ。ただ……お母さんの言ってたように、『受け容れて』いかなくちゃな、と思ってるだけ。自分の身に起きること、ぜんぶを」
「それって……あンとき言ってたことだよな。――運命と思って諦める、ってコト?」
「ううん」
桜か即座に否定し、続ける。
「諦めることと、受け容れるってことは、違うの。――なんか、それはちょっとだけ解ってきた」
「受け容れる、か……」
幸生が言葉を噛み締める。
「すげーな、それ……うん、すごい考えだと思う」
「たいしたことないよぉ。ただ抗ってると疲れて苦しいだけだから、それを辞めるだけ。
どうにもなんないことは、どこまで悩んでたってどうにもなんないでしょ。
だから、悩まず受け容れる。なにもかも、ね。
たぶん、お母さんの言いたかったことって、そういうことなんだと思う」
そう言い了えると、桜は幸生の腕を更に手繰り寄せ、強く抱き締めた。
残された幸生の手がその上に添えられる。
「お前、さ」
「?」
「昔と比べて、強くなったよな」
「そう、見える?」
「うん。正直、こうして、一緒に映画観に行ったり、話すようになる前は、教室で見かける桜は、なんだか大人しいっつうか……いつも独りでいて、ほとんど誰とも話もしてなくて……なんつうか、もっともっとひ弱に見えてた」
「……見ててくれてたんだね、幸生くん……」
「ホント言うとさ、ちょっとだけ気になってた。桜のこと」
「ホント?」
幸生は桜の瞳を見据えゆっくりと頷いた。桜も頷き返す。
「そっかあ。幸生くんが言うなら、そうなんだね、きっと」
以前と比べ、確かに快活になったと、桜自身も自覚していた。
以前の自分だったら、きっと打ちのめされ、立ち上がることもできなかっただろう。
「たぶん……」
続く言葉を、桜は飲み込んだ。
――たぶん、幸生くんがいてくれるからだよ。
そう心で呟くと、幸生の肩に凭れかけた。
桜の心の声が幸生にも届いたように感じ、ふたりの影はひとつになってベンチに佇んだ。
気温は下がってきたが、寄り添うふたりは暖かだった。
除夜の鐘が遠くで聞こえる。
まだ少し新年までは時間がある。時を持て余すように、桜が幸生に問うた。
「このあと、二年詣りに行って……そのあと、どうする?」
「そうだな……」
「……うちに、来ない……?」
「……え……」
予想もしていなかった申し出だった。
「お正月なんだから、朝まで、へいき、だよ、ね」
「けど……」
「女のコのほうから誘ってるんだからさ……素直にそうしようよ」
余りにも大胆な発言に幸生は戸惑った。
「――いや、それは、さ――」
躊躇う幸生に桜が畳み掛ける。
「『ロミオとジュリエット』のロミオはさ、パーティで見かけて一目惚れしちゃったジュリエットをその日のうちにストーキングしてさ、家の敷地まで忍び込んでノゾキして、で、翌日の夜には夜這いかけて部屋で朝までちちくりあってさ、……だから、あたしたちも、それくらいへーきだよ……ね」
「お前、間違ってないけど、すごい解釈するな」
「少しは、見習ったら? って話」
付き合い始めて以降、時折幸生は桜の唐突な発言に惑わされる。普段は物静かな彼女の中にある、堪まりに堪まった感情が飽和点に達し一気に
「あれは、ドラマの話だろ……」
口籠る幸生に桜の言葉が被さる。
「やっぱり、昨日の今日、じゃ――嫌、かな」
「嫌とかそういう意味じゃなくて……」
幸生には、桜の真意が図りかねた。或いは母の件で
こんな気持ちで、桜との関係を深めることは、戸惑いを感じた。
応えない幸生をみて、桜は押し黙ってしまった。
ようやく幸生が呟く。
「ごめん、……でも、今は違うと、思う……」
優柔不断? 愚図愚図してる? そう桜に思われたのかもしれない。「今は違う」と言ったが、ではいつなら『いい』と云うのだろうか。幸生はふと自問していた。
けれど、幸生にはそれ以上どうすることもできなかった。
絞るように、桜がぼそりと言った。
「こういうの、おんなのこのほうから、言わせるもんじゃ、ないと思う……」
「……ごめん……」
ふたりの会話は、それきり途切れた。
午前0時が近づき、次第にツリーの周りに人が集まり始めた。
おそらくこの場所で何らかのニューイヤーセレモニーが予定されているのだろう。
集まる人々の顔には期待の色が浮かんでいる。
ベンチに腰かけたまま、ふたりは会話も途切れツリーと人々を眺めた。
「あの、ね――」
桜がようやく口を開いたとき、ツリーの周囲がざわつき始め、言の葉は風に乗りかき消されていってしまった。
どこからともなくカウントダウンが唱えられ、個々の声はやがてひとつの
……9、8、7、6、5、4、3、2……
「ゼロ」という歓声が闇を裂き、広場に設置されたありとあらゆる照明、イルミネーションが灯された。この場にいる人々は互いに連れ立った相手に「おめでとう」と声をかけあっている。予めセッティングされていた音楽がけたたましく新しい年を迎える気分を盛り上げる。音楽に合わせツリーのイルミネーションがリズミカルに点滅する。
幸生は思わず賑やかな雰囲気に見とれた。
騒然としたツリーの下で、桜がそっと幸生に呟いた。
「――話したいことが、あるの」
桜が次に口にした言葉に、幸生の思考は停止した。
「あたし――転校、するの」
言葉が届いた瞬間、幸生の心は音を意味に変換することを拒み、空気の振動は矢となって彼の体を
残響の
「いま――なんて?」
桜と幸生を繋ぐ線上から世界が消え、ふたりの間には
喧騒にかき消されることなく、桜の声がまっすぐに幸生に届いた。
「今朝、お父さんと、話をしてね――あたし、お父さんの家に行くことになった」
「……え?」
「お父さんも、娘を独りで住まわせるわけにはいかない、って考えたみたい」
「桜は? ……桜は、それで――いいのか?」
「……」
「いつ、から?」
「年明けて、すぐに」
「……って、三学期終わるまで、待てないの、か……?」
「うん……。新学期の区切りで転校するとしたら、3月までこっちで一人暮らしすることになっちゃうから……2ヶ月以上も若い娘をほっとくのは、心配なんだって」
「そんな……どうにかなんないの、か? せめて三学期が終わるまでとか……」
桜は正面を見据えたまま唇を噛み答えた。
眼前にはイルミネーション輝くツリーが屹立し、人々が新年を祝い浮かれ騒いでいる。
「ごめん……どうにも、ならないの……」
桜が自分に言い含めるように語った。
少しの間を置き、幸生が独り言のように呟く。
「……どうにもならないことは、……受け容れるしか、ないの、か……」
桜はゆっくり、大きく頷いた。
ふたりはベンチに凭れながら、新しい年の訪れを呆んやりと見つめていた。
* * *
桜のリクエストで、初詣はあえて高校の傍にある小さな神社を選んだ。
誰もいない境内の
鳥居をくぐり抜け出たところで、桜が「学校を見たい」と言い出した。
「もう、ここにはたぶん来れないと思うから」
校門の前に立つと、二人は並んで暫く校舎を眺めた。
校舎がひっそりと闇に浮かぶ。窓枠には、非常口を示す緑色の明かりが所々でぼんやりと灯っている。
正面の壁面に取り付けられた校章のレリーフ。棟までのレンガタイル。花壇を彩る季節の花々。校庭に舞う土埃。破れたままのバスケットゴール。錆びついた非常階段の手摺り。教室の壁に空いた穴。音楽室の作曲家たちの肖像。美術室の石膏像。屋上への踊り場にある落書き。夏のプールから漂うカルキの匂い。
桜の中で、幾つもの記憶の断片が早回しの映像のように浮かんでは消えた。
桜が独り言ちる。
「誰もいない、よね」
「まあ、正月だしな。守衛も休みかもしれないな」
と、幸生が返し終わるか終わらぬうちに、桜が前に歩むと、校門の柵を掴んだ。
何をするのだろうと幸生が訝しむ間もなく、矢庭に桜は勢いをつけて門扉に体を被せ、足をかけた。
「お・おいっ、何を……」
「入っちゃおうよっ。せっかくだし」
そう答えながら、桜は鉄扉の内側に飛び降りた。
「ホラっ、幸生くんも早くっ」
促され、幸生は慌てて門扉に飛び乗る。
「ちょっとっ。ヤバいだろ!?」
「へーきだってっ。ホラ、だぁれも来ないし」
どさ、という音と共に幸生の足が敷地内に着く。思いの外大きな音に一瞬二人は固まり辺りの様子を伺うが、何も変化がないことを確かめると顔を見合わせ安堵した。
校舎をぐるりと廻りながら玄関や窓を押してみたが、すべて施錠されて中に入ることは諦めた。
中庭に出ると、二人が過ごした教室が見えた。見上げると、バルコニーの奥、月明かりに照らされ、窓際の幸生のいた席が確認できた。
あの学舎の机も椅子も、もう見ることはないのだと思うと、桜は哀しくなった。
校庭に廻ると、脇に、空気の抜けかけたバレーボールが忘れられていた。
桜はそれを拾い上げると、片隅のバスケットゴールへ向けて両手の要領でアンダースローで放り上げた。
ボールは大きく弧を描き、ゴールポストを逸れ転がっていった。
ちぇっ、と桜が指をパチンと弾く。
振り返り幸生を向いてぺろりと舌を出した。
見つめ合ったふたりの視界に、夜空にぽっかりと浮かぶ月が覗く。
無言のまま、通じ合うかのように、揃って月を見上げた。
仰ぎながら幸生が囁く。
「どこにいたって、こうして同じ時間に見上げれば、同じ月を見ることになるんだよな」
「だね」と桜が相槌を打つ。
あまりにまっすぐに返されたため、幸生が苦笑して謝る。
「ごめん、いまの昔観た映画の受け売り」
「なぁんだ。ずいぶんセンスのいいコト言うんだな、って感心しちゃった」
え~っ、という表情を見せた桜だったが、特に怒っているふうでもなかった。
ふたりは互いの顔と月を交互に見ながら笑い合った。
「もう少ししたら、夜明けだね」
そう言って桜がぶるぶるっと肩を震わせた。幸生がそっと抱くと、桜の体は小刻みに鼓動していた。
幸生が心配して「寒い?」と問いかける。
桜の手が応えるように幸生の腕に重なった。
――震えてるのは、寒さのせいだけじゃ、ない――
桜の心がそう囁いていた。
幸生が続ける。
「今夜は電車も終日運転だし、家まで送るよ」
桜は重ねていた手で幸生の腕をぎゅっと掴んだ。
「幸生くんは……ロミオになって、くれないの……?」
「……」幸生は強張った。
幸生が言葉に詰まっていると、桜が顔を向け、声を発さず、唇で音の形を示した。
「い く じ な し」
罵りの言葉は乾いた冬の夜の
北風がバスケットゴール台の下にあったバレーボールを何処かへ転がしていく。
誰もいない夜の校庭で、ふたりはそっと口づけを交わした。
ふたたび校門の鉄扉を乗り越え、外に出たふたりは、並んでゆっくりと駅の方角へ歩いていった。
* * *
マンションの前に着くと、桜がまわれ右して、幸生と対面した。
言葉を探してようやく幸生が選んだのは、どうしようもなくありきたりの質問だった。
「……いつ、引っ越しになるの?」
「わかんない……。でも、お父さんも三が日しか休みがないから……たぶん、すぐに整理しなくちゃなんないと思う」
「そっか……」
まだまだ、もっともっと言いたいことゃ、言わなくちゃならないことがいっぱいある。そう藻掻いているのに、ふたりには言葉が出てこなかった。
「……じゃ、……」
踵を返し幸生が去ろうとしたとき、桜の手が幸生の袖を掴んだ。離れ難い想いが肉体言語と化し、掌はあらぬかぎりの力で袖を引き続けた。
暫くの間、この姿勢のまま佇むと、桜が弱々しく呟いた。
「……ミルクティー、淹れるから……あったまってって……」
桜の握る手にいっそう力が篭もる。
幸生が頷くまで、桜には長い時が過ぎたように感じられた。
初日の出が昇り、朝日が窓から差し込む頃、恋人たちのキスは別れを惜しむようにいつまでもいつまでも離れなかった。
* * *
出発の日は、三が日が明けた4日になった。
正月の間慌ただしく部屋の整理が進み、家具は朝一番でトラックが運びだした。すべて片付けを終え、あとは桜の手荷物だけだった。
がらんとした家の中、見送りに来ていた幸生を桜が労った。
「ありがとう。それと、ごめんね。お正月うちの片付けの手伝いで潰れちゃって」
「いいんだよ。俺も何かしてやれないかと考えてたし。あとで『ああ、やっぱああしてあげとけばよかったな』なんて悔やんでたら、一生悩み続けてただろうし」
「一生なんて、おおげさだなぁ」
「大袈裟じゃないって。ぜったい悔み続ける、うん」
カーテンも取り払った窓から昼の陽光が差し込んできた。眩しそうに桜は眼を細めた。
母と過ごした部屋。キッチン。ダイニング。廊下。まだあちこちに母の残り香があるように桜には思えた。
断ち切るように桜が姿勢を質し独り言ちる。
「――そろそろ、出るね。新幹線の時刻があるし」
幸生が別のエールで返す。
「映画、観続けろよ」
「うん」
桜が思い付いたように言葉を繋げた。
「きっと、向こうにもシネコンがあって、おんなじ映画がかかってるハズだよね」
「ああ――あの月みたいに、ね」
ふたりは正月の未明に学校の校庭で眺めた月を思い出してした。
「じゃ、行くね」
桜はカバンを掴み、部屋を後にした。
新幹線の中、静かな車内のシートに凭れ流れる外の風景を眺めながら、桜の思考が律動する。幸生と映画館で鉢合わせし、声をかけたこと。席を並べて観賞するようになったこと。名画座へ連れて行ってくれたこと。
想いが窓の外へ流れ消えないように、桜は瞳を閉じた。
桜の中で、シモンがイエスから伝えられた言葉が繰り返し浮かんでは消えた。
“ ――あなたは、どこへ行くのですか? ―― ”
* * *
春が訪れ、幸生が独りで馴染みの名画座へ出かけたとき、『近日上映』のショーケースに憶えのあるタイトルが並んでいた。
まだ観ていないクラシック映画が来月ここのスクリーンにかかることを知り、幸生はスケジュールを忘れないよう頭に叩き込んだが、少し考えた後、メモリから削除することに決めた。
「……だって、約束したんだものな。いつか一緒に観よう、って」
ショーケースの中には、傘を持ち見つめ合うカップルの姿がレイアウトされた外国映画のポスターが飾られていた。
[第Ⅰ部 完]
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