薬物依存恋愛
歳香
薬物依存恋愛
椅子が床を蹴る音が幾重にも重なる。みな慌てたようにファイルを鞄に叩きこんで、生徒会室を出て行った。
やっと委員会が終わった。
ぼくも帰らなきゃ。教室にあの子、ジーニャを待たせている。少し変わった、クラスメートの女の子ジーニャ。予定より三十分以上待たせてしまっている。きっとまた「ワタル遅いよー」って、気の抜けた声で言うんだ。
ぼくは一時間以上座り続けて寄れたスカートの皺を払い、椅子を立つ。皆に遅れて教室を飛び出した。
走るリズムに合わせて肩でスクールバッグが飛び跳ね、マフラーに食い込んでくる。その振動でメガネが揺れて、窓の外に見る景色が上下に跳ねた。立ち並ぶ裸の木々、校庭でトンボを押して歩く運動部、蒼と朱を着た雲が空を流れる。人の気配があっても、冬の放課後はどこか空しい。
「ジーニャ、ごめん待った?」
息を弾ませて、彼女の待つ2年A組の扉を開けた。
返事はなかった。
教室の真ん中には、ボブカットの少女が一人、机に腰掛けて呆然と天井を見上げていた。
「ジーニャ、またキめちゃってるの?」
「あーうー」
返事なのかうめき声なのかわからない。
整った、愛らしい顔のジーニャ。けれど、その目はうつろに、濁っている。
彼女の手には、破られた薬の袋。足元にはさらに多くの、半透明の紙の包装紙が散乱している。
「やめるっていったじゃないの」
「あーあー」
聞こえているけれど、届いていない。
いつものことだ。ぼくが待ち合わせに遅れると、大体こうなっている。遊びにいく約束に遅刻した時も、家から出てこないときは大抵、この有様。
幾度、それでショッピングの予定が潰れたか。介抱で一日が終わったか、わからない。
彼女は、処方された薬なのか、それとも自分で作ったものなのか薬を服用し、トリップすることが好きらしい。ぼくはその出所を知らない。知らないし、知ろうともしない。なぜとも聞いたことはないし、聞きたくもない。勿論、怖いのもある。
こんな綺麗な子が、どうしてそんなものに溺れるのか。
彼女もまた、それについてぼくに言ったことはない。誘ってきたこともない。
ぼくは、そんな彼女をただ、いつものようにするだけ。
「ほら、帰るよ。水飲んで」
「あ、ああうう。あ、いや。太陽の烏が、瓶の欠片に走り出して、クレマチスが溢れ出しちゃう」
「もう、なに言ってるかわからないよ。いいから、飲んで」
ぼくは飲みかけのミネラルウォーターの蓋を開け、彼女の口に押し込んだ。
「あ、あぐ」
彼女の目が一度大きく見開かれ、抵抗するかのようなそぶりをみせるけど、すぐにペットボトルを赤子のように両手で持つ。
ゆっくり、ゆっくりと水が減っていく。
ああ、本当に溢れてしまった。
ジーニャの目から涙が溢れ、ぽたぽたとセーラー服に染みを作っていく。
ぼくは彼女の頭にそっと腕を回し、胸に抱く。
「う、えぐ」
小さな嗚咽が、胸にくぐもった。
柔らかで、綺麗な髪をそっと撫でる。冬の空気に晒されていた髪はとても冷たく、そして澄んでいた。指に絡むことなく、流れ落ちて行く絹の感触を、一本一本心に紡いでいく。これまでも、そうしてきたように、優しさと愛しさを込めて繰り返す。できることなら、この時間が終わらなければいいのに、そう祈った。今までもそうしてきたように。
愛しい小さな頭が、小刻みに震え、彼女の心の慟哭を示した。
時間は十五分くらいだろうか。
教室の長針がやけに大きな音で、時を刻んだ。
「ワタル、もういいよ」
ぼくの胸を軽く押しのけるように、彼女の両手が触れてきた。
「あ、うん。ごめんね、遅れて」
「いいよ、私こそまたキメちゃってて」
「やめるって言ったのに……まあいいよ、帰ろう。暗くなっちゃう」
足元の紙切れを集めて、ぼくはゴミ箱へ投げ捨てた。
こんなものが、あるから……。
ゴミ箱に向かったぼくのあとを追うように、ジーニャが近づいてきていた。
振り返ると、彼女の目は赤く腫れてはいても、潤いをとりもどしていた。ぼくの好きな、綺麗な彼女の瞳。
「うう、寒いよー」
と、ジーニャ。冬だというのに彼女は防寒着を手袋しかつけていない。寒いのは好きだと言っていたけれど、さすがに考えなしだ。かといってぼくもコートを貸せない。人一倍寒がりなのだ。
「もう、明日はコート着てきなよ。マフラー貸すから我慢して」
ぼくは自分の赤いマフラーを解き、彼女の白い首に巻いてあげた。
「ありがとう」
屈託なく微笑むジーニャ。さっき天井を見上げていた人物とは違って、子犬のように素直な微笑みをくれた。
「さ、帰ろうかワタル」
「うん」
教室を後にし、人気のない廊下を二人で肩をぶつけて歩く。
「もう、薬やめなよ」
ぼくは言う。
ジーニャは、ぼくのマフラーの中に言葉を絡ませた。
「うん……薬、やめないでいてあげるね」
ぼくは、その言葉を聞こえなかったふりをした。
薬物依存恋愛 歳香 @moon_tide
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