医療系サナトリウムⅡ ―母ミルフルとの別れ―

 そう、ルストこと、エライアである私のこの2年間の経緯はすべて共有済みだったのだ。ミライルお母様は私に向けてなおも告げた。


「より確実な看護と治療をするためにこちらに入院していただいたの。あなたがこの1年半、仕送りで治療と療養の支援をしていたそうだけど、これからは私がその役目を引き継ぐわ」


 今私の目の前には安心して穏やかに微笑むミルフル母さんと、毅然として私を見守っているミライルお母様が居る。私を巡る二人のお母さんがここに揃っていた。

 お母様は言う。


「あなたが助けようとしていた人ですもの。礼を尽くすのは私の責務だわ」


 そしてその言葉の後にミルフルお母さんが安心しきった声でそう言ったのだ。。


「無事に本当のお母様のところに帰れたのね」


 それは心から安堵したような表情だった。


「良かったわね」


 その表情の中には長年の心の中のつかえが取れたような安堵感が満ち溢れていたのだ。そして、ミライルお母様がミルフル母さんに言った。


「本当にありがとうございました。あなたのご厚意のおかげで娘は人生の道を切り開くことができました」


 そう述べながらミルフルお母さんの手をミライルお母様は握りしめていた。だが病状が進行しているのだろう。ミライルお母様の手を満足に握り返す力もない。

 ミルフルお母さんはそれでも言う。


「いいえ、礼を言うのは私よ。山の中で娘の亡骸を拾うこともできず朽ち果てるしかなかったはずの私を助けてくれただけでなく、治療の手がかりを見つけてくれて、薬代の仕送りもしてくれた。亡き娘のお墓を立ててくれて、村の人たちの誤解も説いてくれた。もうなにも言うことはないわ」


 弱々しい語りに、その病状が重く、先がないことは嫌でも伝わってくる。最後の時が近くなっていた。そのことを思うと私の胸は締め付けられる。

 ミルフル母さんは嬉しそうに言ってくれた。


「ほんとうに、ありがとう」


 その言葉がなによりも私の心には重く響いていた。


「ミルフル母さん」


 でもミルフル母さんは顔を左右にふった。


「いいのよ。あなたの本当のお母さんのところに帰れたのだから。もう私を母さんと呼ばなくても」


 そして、精一杯の笑顔を浮かべる。私を不安がらせないようにと。ミルフル母さんは言う。


「願わくば、あなたのこれからの旅路に祝福がありますように」


 そして私も自ら進み出てミルフルお母さんの手をそっと握る。


「ありがとうございます。でも――」


 ミルフル母さんに会ってからずっと抱いていた思いが胸をよぎる。思わず涙声になりながら私は言う。


「あなたも私のお母さんです」


 私の言葉を否定することなくミルフル母さんは静かに頷いてくれていた。

 そんな時だ。ミライルお母様は言った。


「いままであなたの娘さんの戸籍を借用させていただいてましたが、それを正式にご返却させていだきます。本当にありがとうございました」


 お母様が頭を下げる。私も一緒に感謝の意味を込めて頭を下げた。エルスト・ターナーと言う人物の戸籍が元に戻ったことで、ミルフル母さんの娘さんの死亡届を正式に出すことができるようになるのだ。

 だがお母様の言葉は続いた。


「つきましては不躾ながら、お願いがあるのです」

「あら? なにかしら?」

「はい。この子の今後のために別名としてエルスト・ターナーのお名前を使わせていただきたいのです」

「別名?」


 ミルフルお母さんの怪訝そうな声が聞こえてくる。私は意を決して自らの本当の名前を打ち明けた。


「私の本当の名前は、エライア・フォン・モーデンハイムと言います。事情があって実家から離れていたのです。ずっと隠していてすいませんでした」


 その言葉を言い終えるのと同時に私は頭を下げた。悪いことをしたわけではないが、騙していた――、と言う思いが以前からずっと心の片隅に引っかかっていたのだ。

 でもミルフル母さんは私を責めなかった。


「やっぱりそうだったのね」

「えっ?」

「あなたの振る舞いを見ていてもしやと思っていたのよ」


 ミルフルお母さんも人の親だった。私の振る舞いからお母さんは私がどこかの令嬢であろうということは予想していたのだ。


「何か深い事情があって、親御さんのところを飛び出したのかもしれない。そう思っていたの。そうでなければあんな山深いところに迷い込んだりしないわよ」


 そしてミルフルお母さんの口からは懺悔の言葉が聞こえてくる。


「本当ならば、親御さんのところに帰りなさいとたしなめるのが人の道だった。でも私はあなたの善意に思わずすがりついてしまった。ずっとそのことが心残りだったの。でも私との出会いがあなたの人生をより幸せなものにするきっかけとなったのならば、もう何も言うことはないわ」


 そして一区切りおいて頷きながらミルフル母さんは言う。


「あなたが、エルスト・ターナーの名前を使ってくるというのなら、ぜひお使いください。それが未来を掴むことなく若くして天に召されてしまった私の娘の供養にもなるでしょう」


 ミルフル母さんの介護しながら苦難の中で若くして命を落としてしまったもう一人のエルスト・ターナー、私が彼女の名前を使うことで彼女が生きたという証しを残すことができるのだ。


「ありがとう。ミルフル母さん」


 そしてミルフルお母さんはミライルお母様に言った。


「素敵な娘さんね」


 ミライルお母様も答えた。


「はい。あなたに助けていただいた娘です」


 そして私の二人の母親はお互いに助け合っていたのだ。

 ちょうどその時だ、部屋の扉が開いて看護士が言った。


「面会のお時間の終わりです」


 それは別れの時の訪れだった。私は言う。


「それではまた来ますね〝お母さん〟」

 

 その言葉にミルフル母さんは笑顔で頷いた。彼女の頬を涙が伝っていた。


「では失礼いたします」


 再びミルフルお母さんの手を握り返すと、彼女から離れて病室から出て行く。

 部屋から出るまでの間、ミルフル母さんの視線はずっと私を追い求めていた。

 再び着替えてサナトリウムから出て行き、帰路につく。

 馬車に乗り私はミライルお母様にそっと告げた。


「ありがとう、お母様」


 隣の席に座るミライルお母様は私の肩を抱くとその頭を優しく撫でてくれた。そしてお母様の口から語られたのは残酷な現実だった。


「お医者様の見立てでは、かなり内臓症状が進行していてね衰弱がひどいらしいの。もってあと一か月というところなんですって」

「えっ?」

「でも、この一年間の適切な治療が彼女の命をここまで持たせることができたそうよ。苦痛の緩和という意味でもあなたの行為はとても意味のあるものだったの」

「はい」


 私は涙した。これがミルフル母さんとの今生の別れになるのだから。お母様は無言のまま私の頭をいつまでも優しく撫でてくれたのだった。


 それから一週間の後、ミルフル・ターナーは病状の進行による内臓障害のため生涯を終えた。享年、50歳だった。

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