▶〈チャプター1-11〉/友人と仲直り

 ――そんなときだった。


 だれかが、入ってきた。自室の扉の向こうに、ひとの気配がする。ベクターは、かすかな物音を聞き逃さなかった。


 ガラムだ。


 いつもよりは静かだったが、扉のまえから遠のいていく足音は、聞き慣れているガラムのものだった。


 彼は、自分に怒っているだろうか。帰ってきたはいいが、自分とは話したくもないだろうか。扉を開ければ顔を合わせるであろう友人の心境を想像しながら、ベクターは考えていた。


 沈黙も、またことばだ。


 なにも話さない、という選択も、ことばを選ぶことにほかならない。


 選択肢は、はい《YES》か《or》いいえ《NO》。なにを考えているかわからない友人と向き合うか、それとも逃げるのか。自分は、この瞬間に選ばなければならない。


 だが、ベクターの答は決まっていた。かれは、足下の紙袋を抱く。


 扉を開け、短い廊下を抜ける。暗がりなリビングにやってくると、キッチンに立っているガラムを見つけた。その後ろ姿は、昼過ぎにあったものと比べて、どこかくたびれている。


「……おかえり」


 寂しげな背中に、かれは声をかける。自分の声が相手に届いたことを知り、あとはただ、見守った。

 彼が自分と話してくれるかどうか。彼が自分に、謝るチャンスをくれるか、どうかを。


「……ああ。帰ってたのか」


 ガラムは、珈琲を造っていた。もはや冷やす機能が必要なくなった、形だけの冷蔵庫の中から、大きなプラスチックのタッパーを取り出す。

 そこに詰められた半透明のゼラチン――食用ナノマシンを珈琲メーカーに煎っていた豆代わりにいれて、したたり落ちる黒いしずくを眺めていた。


「おれは、この黒いしずくだよ」

 ガラムが、だれにでもなく言った。

「肌が黒いからじゃない。おれは、おまえがセキュリティにやってくるまで、周囲からうとまれていた。なかなか犯人の両手にお縄をかけれない自分たちと比べて、おれだけが輪っぱの使い方を知っていたからだ。


 ……おれも、周囲から距離を置いていた。“卑屈な野郎”だと思われたくなくて、おしゃべりでお調子者なガラムを演じていた。

 デイリーあたりは、小言を聞かせつつも話そうとしてくれていた気がしたが、おれはそれすらも突き放していた。


 ……なあ、ベクター。おまえさんが知っているおれは、おまえがうちにやって来てくれたから、ようやく完成したんだ。演じなくていい、ナチュラルなおれが」


 声が少し、くぐもっている。

 けれどその瞳を、ベクターが見ることはかなわない。かれの目に映るのは、寂しげな背中だけだ。


「……飲むか? おまえが帰ってることに気付いてなかったのに、ふたり分を淹れちまった」


 並び慣れたふたつのカップに、いつもの味が注がれる。


 いい匂いだった。

 落ち着く香り。かれらの日常に、苦味という彩りをくれるものだ。


 これは、友人からの歩み寄りだ。


 ベクターは、一歩まえに出た。香りに引き寄せられたのか、それとも香りに後押しされたのか。……いや、そんなことは、どちらだっていい。

 友人の想いを、選択の間違いで汚してしまったのだから。彼と向き合うのに、きっかけは要らない。理由があればいい。


「食べるか? ……いつもの店で買った、ドーナッツだ。ひとりじゃ、食べきれない」


 ベクターは、ガラムにドーナッツをひとつ、渡した。

 かれは友人から、いつものカップを受け取る。


「あんたは、いいひとだ」

 ベクターが言う。

「記憶喪失なぼくへ、セキュリティに入る理由をくれた。居場所がないのでは、と怯えていたぼくに、自身の日常のひと席へ座るためのチケットをくれた」


「……おれは、理由なんて用意してない。準備したのは、おまえさんがセキュリティに入るきっかけだけだ」


「いや……」

 かれは軽く息をはきながら、

「あんたがくれたのは、理由だよ。セキュリティに入る理由を持っていたつもりが、思い違いだと自分をさげすんでいたぼくに、理由をくれた。少なくとも、入った理由のひとつは、あんただ」


 半年まえ――自身の記憶の出発点を思い出しながら、かれはカップに口をつけた。熱で苦味が舌の上で存在を主張している。あのときガラムが現れなければ、かれの開始地点はきっと、苦々しいものとなっていただろう。


 そのことをみ締めながら、ベクターは続けた。


「……すまなかった」


 続けて出てきたことばは、謝罪だ。

 間違ったことばを選んだこと。訂正するべきだったのに、沈黙という間違いの選択をしたこと。そしてなにより、友人が楽しみにしていたひとときを、台無しにしてしまったことへ。


「選ぶことばを、間違えた。あんな言い方をすれば、ぼくが浮気という単語を遠回しに選んだと思われても、仕方ない。訂正させてくれ」


「ああ……」

 ガラムはうなずきながら、

「あのあと、ショートと話してたんだ。おれは、きみが浮気をしているなんて思っていない。おれは、きみを信じている。そして、友人のことも」


「……ガラム。訂正――いや、謝る機会チャンスが欲しい。彼女を怒らせてしまったこと、そして自分の発言がことば足らずだったことへの、謝罪の機会が」


「ああ……もちろんだ。すぐには無理かもしれないが、彼女もきっとわかってくれる。おまえさんも言ってただろう? 彼女は優秀なんだ。気持ちの整理も、すぐに終わるさ」


「よかった」


 ガラムが小さく微笑んで、ベクターも気分が晴れた気がした。その笑みは、愛想がひっついてないものだろう。本当によかったと、かれは胸をなで下ろそうとした。

 だがそこで、未だ引っかかるものを見つけてしまう。


「それで……その、ガラム? 彼女とあんたの関係は……どうなったんだ?」


 自分の発言が、ふたりの関係性を壊してしまっていないか。いまごろになって気付いた事項に、かれの表情はばつが悪いものへと変わっていく。


 しかしガラムは、今度は大きな笑い声をあげた。


「そんなことを気にしてたのか」


「そんなことって……大切なことだ。ぼくが破局の理由になったなんて、シャレにならない」


「関係性が壊れるなんてことは、なかったよ。むしろ、ノープロブレムだ。問題なし。何事もなかった……ああいや、何事はあったか」


「なにがあったんだ?」


「初めて彼女とキスした」


 言って、ガラムは自身の唇を指で軽くおさえた。


「これも、おまえさんのお陰だよ」


「……結局、ぼくはになったのか」


 思わず、自嘲じちょうともとれる乾いた笑いがこぼれた。深刻に考えていたのに、それもいまや、目の前にある友人の笑顔を見ていると、どうでもよくなってくる。


「それなら、どうして今日は帰ってきたんだ? キスしたなら、泊まってくるものじゃないのか? 映画なら、大体そうだろう?」


「映像のようにはいかないさ。おれも、彼女とは真剣に付き合いたいんだ。ただ一緒に寝たいだけじゃない。……それに、おまえさんが思い詰めていないか、心配だったしな」


「……そうか」


「それと、腹も減ったしな」


 ガラムの表情は見覚えのある、いつものものへと戻っていた。よく笑い、よくしゃべるお調子者のそれだ。


 最後に、ベクターは訊いた。この質問は、この話のしめだ。この会話を最後に、かれらは“いつもどおり”へと戻っていく。


「なあ、ガラム」


「なんだ?」


「なんで今日、ぼくを連れていったんだ? いくら彼女がぼくを気にしていても、男としてはいい気はしないだろう? 断ることもできたはずだ。ぼくが他の用事で来られない、って言い訳もできたのに。どうして?」


「おれが連れていきたかったんだよ」


「それは、ダシとして?」


「いや。おれの理解者ゆうじんだって紹介したくてな」


「……そうかい」


 満足だ。ことばに出さずとも、ベクターはどこか、満たされていた。かれがガラムを友だと呼ぶように、彼もまたベクターを友だと言ってくれるのだから。


「それで? 晩飯になにを準備する?」


「準備する必要はないよ」


 言って、ベクターは紙袋を差し出した。


「またドーナッツか」


「またドーナッツだ。いつもどおりだろ?」


「ああ、いつもどおりだ」


 笑いながら、かれらはいつもの席に着いた。

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