▶〈チャプター1-12〉/####と夢
■
――――潮風のからい匂いがしなかった。
〈Dear.smiths〉と名付けられた、いつもの鉄塔はどこにも見当たらない。それどころか、知っている景色がどこにもなかった。
トウモロコシ畑に囲まれた木造の一軒家に、自分はいる。一階の窓から、ひとの背丈をゆうに超えた作物を見ていた。その向こう側にたたずむ、巨大な
匂うのは、木材と作物の匂い。その中に、風と砂の香りが混じっている。
これは、夢だろうか。ベクターは頬をつねってみたが、よくわからない。
痛いのか、それとも痛くないのか。
どちらとも、判断がつかない。眠っているのは自分か痛覚か。
見覚えのある光景を見渡しながら、かれは考えた。
これは、映画のワンシーンだ。観覚えのある机の上には、コップや皿が裏を向いて置かれている。食事をするとき、砂が混じらないためだ。
轟音が聞こえてくる。畑の向こう側に見える、竜巻のものだ。地平線の彼方にたたずんでいるそれは、砂をまじえた金切り声をあげている。
匂いと音、嗅覚と聴覚をともなって、ベクターは自分が本当に、あのワンシーンの中にいるのだという実感を抱きつつあった。
ここは、夢だ。夢のはずだ。
だというのに、夢という確信が薄れていく。ここが現実なのでは、という気の迷いすら生まれているほどだ。
「――――きみも、
視界の端に、男をとらえた。先ほどまでだれもいなかった部屋の隅に、かれの知らない人物が立っている。
見えない男だった。知らないのだから、見覚えがないのは当然だが、どうもその顔がうかがえない。かれの目には、男の顔だけが映らない。
「だれだ、あんた」
「きみは、ひとが断崖へ追い込まれたとき、立ち止まるのでもなく、飛び降りるのでもなく、
男は動かない。描かれているかもわからない目で見て、影から生えた耳で聞き、暗闇の中心にあるであろう鼻で、金切りで切り刻まれた作物の匂いを嗅いでいる。
男が、こちらを見つめている。ベクターには、そう思えてならない。深淵がこちらをのぞくように、男の瞳にはかれが映っているに違いない。
なにを求めるのか。
数秒まえに聞いた、聞き覚えのない声を繰り返す。質問の答を考える。
けれど男が自分のことばを知っている理由を、ベクターは考えない。
これは、現実感がともなう夢だ。夢を深く考えてはいけない。踏み込めば、飲み込まれる。
「故郷だ」
ベクターは答を言った。
「
「だが、雲の向こうに故郷はなかった?」
「……ああ」
かれのことばに、男はうなずいて、
「ひとは故郷で生まれる。ひとは故郷で育つ。だがひとは、故郷には住まない。いずれ飛び立つ、巣立つ鳥のように」
「住むから、故郷なんじゃ?」
ベクターの問いに、男は腕を持ち上げ、手のひらを見せてきた。それを裏返し、話を続ける。
「逆だ。ひとが故郷に住むんじゃない。故郷がひとに
「だから、ひとは
「そう。雲の頭上には、なにもない。空っぽの密室だけが広がっている。ひとは、無意識だとしても故郷がどこにあるか、覚えているものだ。
ベクター。きみは自分の故郷がどこにあるのか、覚えているか?」
聞き覚えのなかった声が、馴染んでいく。知らなかったはずの男が、段々と身近に感じられるようになっていく。
会話とは航海だ。正解がわからない海を渡り、見知らぬ土地に足をつける。対価を渡し、利益を詰め込む。値踏みが終わり、やがて争いか交易が始まる。
この場合、船はどちらか。ベクターは男を見据えながら、考えるまでもない答を言う。
「ぼくに、故郷はない」
本当のことだ。記憶の中に故郷があるというのならば、かれには生まれた場所なんてない。
「それは残念だ」
男が心からそう言ったように思えた。スーツこそ着てないものの、その態度はどこか紳士的。
ベクターは、自分が男のことを知っているように思えてならなかった。顔こそ見えないけれど、声こそ聞き覚えはないけれど。
――知っている? いや、覚えているんだ。記憶の中に故郷がない代わりに、あたまの中に男が詰まっている。
まるで思い出だ。
くどいように思えるが、ベクターは自分が記憶喪失であることを主張し続けている。だというのに、これはなんだ?
あたまの中身をのぞく。そこに、男性はいない。自分さえも、見えはしない。
あるのは、半年ばかりの出来事の記録だけ。その空っぽさ加減は、生まれて間もない赤ん坊のようにも思える。
だれだ、あんたは。
あたまの中で、問い続ける。だれだ、あんたは。自分はあんたを知らないはずなのに、知っているように思えてならない。
だれだ、あんたは。
「だれだ、あんたは」
あたまの中身が、ことばとなって飛び出てきた。巣を飛び立つ鳥のように。ひとの手には止められない。巣は、あまりにも高すぎる。
再度の問いかけ。あなたの正体が知りたい。自分の夢に土足で踏み込んできたんだ、名前ぐらいは教えてくれてもいいだろう、と。
「俺は、だれだろうか」
ベクターの問いかけに、問いが帰ってくる。その答は、かれも知りたいことだ。
男は続けて言った。
「俺に、友人はいなかった。Fなんて名前は、持っていた気がするが」
「F……?」
“ミドルネームはF”
それは捜索届けを出しはしなかったけれど、かれが捜し続けていた人物のものだ。同じ点があるかは不明だが、どこかに共通点があると信じていたアドバイザー。
ベクターは、その名前を口にする。
「……ジャックか?」
かつてのかれと、似たような名前を持つ男。眼前にいる男は“
「“ジャック”……なつかしい響きだ」
二〇年まえのセキュリティにいた男。透明人間を追っていた、捜査官見習い。
「名前を呼ばれて、俺は応じた。
「詩的な表現だ」
ベクターはささやいた。あたまに浮かんだことばが、隔たりが判別できず、出口を求めて声となる。境界線があいまいだ。
かれは目に映るものが夢だと信じて疑わないが、段々と判別がつかなくなってきている。
地平線の彼方にあった轟音が目前に迫っているというのに、それに気がつけたのは、ささやいた後だ。
「詩は嫌いだ」
男――ジャックはつぶやいた。
「“過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える”――俺は、詩を知らない。ひとはニーチェの詩を引用すれば、なにもかもをわかった気になれる。彼の悟りを、記された文字を通して、自分のものにできるのだと。その様は、さながら食事だ。ひとは、文字を食べている」
「皿の上に載るものは、料理だろ? 食材じゃない」
「何事も、積み重ねだ。食材に
おまえのように。ジャックの口が、そう動いた。音は、もう聞こえない。会話も、作物が揺れ動く様も、心音も、脳が考えるときに立てる音も、なにも聞こえはしない。
まだ、訊きたいことがあったというのに。
まだ、聞かねばならないことが、あったはずなのに。
すべては、かき消される。すぐ傍まできている、かつての
ハリケーンは、すべてを飲み込んだ。
伏せられた皿たちと踊り終わった頃、かれは夢から覚めた。
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