▶〈チャプター1-10〉/贈り物と前任者

   ▶




 ――――彼女ショートの中に、見覚えのある男がいた。



 男は自分のことを、詐欺師だと名乗った。

 本当の名前は、ルースティヒ・レイモンド。

 半年前、ベクターが初めてのぞいた記憶にいた紳士だ。


「……終わったのか?」


 閉じていた瞳を開き、暗闇から帰ってくると、ベクターは最初にガラムの声を聞いた。日常の中に溶け込んだ、いつもどおりの音色だ。


 他人の脳から、自分は無事に戻ってきた。覚えた感情は、安堵あんどだ。

 だが同時に、不安定な気分にも襲われる。

 友人が愛そうとする女性の記憶なかに、犯罪者の記憶なかにいた男と同じ顔を観たからだ。


 安心と不安。

 まるで心が、水と油に分離されたようだ。器をかき混ぜる術も、どちらかを取り除く方法もかれは持ち合わせていない。


 そこで、ベクターは気が付いた。

 記憶ショートのコピーをとっていない。自分が観たものを、ふたりと共有できそうにない。

 詐欺師を観て、気が動転したからだ。かれは恥じた。自身が冷静なままでいられなかったことを。


「……ああ。終わったよ」


 ナノシアターの権限はロックして構わない、とかれは伏し目がちにショートへと言った。たったいま自分が視聴したものを、そのまま話してもいいものか。その判断に迷いながら。


 けれどベクターには、判断がつかない。


「なにが観えたの?」


 ショートに顔をのぞき込まれる。


 その瞳は、期待に輝いていた。

 見えるきらめきは、純粋な興味によるものか、それとも研究者である彼女のくせか。


 話しづらい。

 けれど、話さない選択肢もない。

 ベクターは結局、話す選択をした。


 なるべくオブラートに包んで。包み紙は普段の知性ではなく、後ろめたさではあるのだが。


「……きみの記憶に、ひとりの男性がみえた」


「きっとガラムね。……オフィスでのワンシーンとかじゃないわよね?」


 ショートは嬉しそうに、もう冷めているであろう珈琲に口をつけた。

 その姿が、ベクターにはまぶしかった。


 彼女に後ろめたいことなんて、きっとないんだろう。

 先ほどかれが観た記憶も、おそらくなにかの間違いだ。……間違いだとしても、説明をやめることはできない。


 早く楽になりたくて、ベクターは残ったことばを並べていく。


「ガラムじゃなかった。……きみは、ここではないカフェで、ひとりの男性と会話を楽しんだ。ぼくが観たきみの中には、他の男性がいた。それは、ガラムじゃなかった」


 言い終わった瞬間、ベクターが感じたのは痛みだった。

 あまりにも早すぎて、閃光のようにも思えたほどだ。けれどその光はどこかへ行くことはなく、確実にかれの頬をとらえている。


 平手打ちだ。


 痛みでとっさに頬をおさえて数秒後、ベクターはようやく、自分がショートによって平手打ちを喰らわされたことを自覚した。


 かれに、動揺はなかった。むしろ、なにも感じなかったほどだ。頬をさすりながらまえを見ると、涙をこらえているショートがいた。


「あたしが……浮気してるって言いたいの?」


 違う、と否定したかったけれど、ベクターはできなかった。なにを言えばいいか、判断がつかなかったからだ。鋭い痛みのせいか、ことばが思い浮かばない。


「あたしが愛しているのは、ガラムだけよ……!」


 こぼれた涙を最後に、ショート・ショットは行ってしまった。

 その後を、ガラムが追いかける。


 友人が「先に帰っていてくれ」とことばを残して消えていったところで、ベクターはようやく、自分がことば選びに間違ったことを自覚した。


 あれでは、友人が浮気されているとの発言だと勘違いされても、仕方がない。相棒がせっかく会わせてくれた女性なのだから紳士的に振る舞おうとしたのに、かれは彼女のヒステリックな部分に触れてしまったようだ。


 弁解の余地がない。あたまを抱えようと、後悔の重さが目減りすることなどなかった。

 次の機会があるというのなら、謝ろう。今度こそ、紳士的に。しかし今は、自分が行くべきではないだろう。


 後悔の念を払えぬまま、ベクターはひとりブルックリン通りに取り残された。




 アパートに戻ったのは、日が落ちてしばらくしてからだった。

 時刻は午後七時まえ。かれがガラムに出会った頃はぎりぎり明るい時間帯だったが、いまではもう、周囲は暗闇だ。


 まるで、あたまの中のよう。


 草木はなく、車の通りもない。

 ひとの足音だけが響く道。


 照らすのは街灯ではなく、懐中電灯代わりのナノシアター。自身の視界で照らすのではなく、周囲に照らされているように見える。


 おうぎ状にレンガを敷き詰めた、歩き慣れた道をゆく。

 やがてかれは、通りの中に見慣れたアパートを見つけた。


 特徴のない建造物。

 二階建てに六部屋を設けたそれが、かれらの寝床。


 唯一特徴的なのは、ガラムから“前時代の名残”だと聞かされた、アパートまえに置かれた六つのポストだ。


 銀色のポスト。

 昔はメッセージではなく紙に文章をしたためた手紙を送り、それがポストの中に入れられたと聞くが、いまとなっては使い道がない。


 二一世紀の名残を横目に、ベクターはアパートの入り口を通り抜けた。普段どおり、他の住人と出会うことなく、自宅へとたどり着く、はずだった。


 しかし、かれは見つけた。


 ポストだ。使われることがないと考えていたその中に、紙袋が入っている。しかもそこには、かれらの部屋番号が記されいた。


 贈り物だ。


 映画でしか見たことのない郵便物。とはいえ、郵便局なんてものは、もう残っていない。

 だれかが直接投かんしたのだろう。一体だれからと、ベクターは紙袋を手に取った。


 だが、そこに送り主の名前はない。記された名前はひとつだけ。


 Vector《ベクター》.


 自分かれへの贈り物だ。

 得体の知れないプレゼントを抱えながら、ベクターは自室へと戻った。靴を脱ぎ、ネクタイを緩め、部屋の電気をつけてから、中身を改める。


 それはペンの形をした外部記録媒体USBだった。

 以前、博物館気取りのブログで見たことがあるものだ。


 PCが未だ健在だったころ、データを本体以外に保存しておくガジェット。

 いまのかれらには、必要のないもの。

 空気中のナノマシンがUSB代わりを務めてくれるのだから、無用の長物となったのだ。


 とはいえ、一体だれが?

 ベクターは、ペンの中身を確かめる。わざわざUSBを送ってきたのだ。中身がない、なんてことはないだろう。


 幸いなことに、ペンは単体でデバイスの機能も有しており、中身を確認することはすぐにできた。


 インク代わりに詰められていたものは、一枚の画像データ。

 タイトルは〈Dear.smiths〉。

 映っているものも、タイトルどおりのものだ。


 この街オールスミスのシンボル。先刻観た記憶どおり、フォントはイタリック体が使われている。


 だれが一体、何の目的で送ってきたのか。

 わからない。わからないままでいることは、よくないことだ。


 ベクターは考えた。こんなアンティークをプレゼントに選ぶ知人がいただろうか。そもそも、こんな古いものを、よく手に入れたものだ。見た目も手触りも、とても 遺物アンティーク とは思えないほど、綺麗な状態だった。これほどのものは、なかなか手に入らないだろう。


 とはいえ、やはり考えてもわからない。

 こんなものを、だれが送ってきたというのか。


 ――そんなベクターの思考をとめたのは、一本の通話音コールだった。ナノシアター越しに、かれの耳を揺らすベルの音。


 通話の相手は、知らない番号だ。


 しかし、とらない選択肢はない。覚えていないだけで、普段交流のないセキュリティの人間かもしれないからだ。

 かれは右手を握りしめ、小指と親指を伸ばして受話器を造る。


 街中で通話に応じる際、独り言ではなく自分が通話中であることを知らせるためのジェスチャーだ。

 道行く人々、ナノシアターを使うひとであれば、常識的な仕草。

 部屋の中でひとりっきりではあったけれど、かれはついくせで、受話器を耳にあてがった。


「〈はい、もしもし。ベクターです〉」


 聞こえたのは、無音だ。


 いや、完全な静寂ではない。受話器の向こう側からは、なにかしらの駆動音がかすかに聞こえる。


 無音というよりも、無声。


 静けさの中に通話相手の気配は感じるが、しばらくのあいだ、なにもことばにすることはなかった。


 〇秒。一秒。二秒。


 視界の端で、通話時間だけが積み重なっていく。


 とはいえ、時間は有限ではない。やがて無言に耐えられなくなったのか、無声はことばを発した。


「〈――きみが、新しいアドバイザー?〉」


 知らないひとだ。ベクターには、聞き覚えがない人物のもの。

 落ち着いている。耳元から聞こえてくる音の響きに、かれは電話相手の冷静さを感じた。

 ひどく静かな声色。アパートの外に広がる暗闇に溶け込むような物言い。


「〈……あんたは?〉」


 静寂に問う。あなたは静かすぎる。会話をしたいなら、静音から出てきてくれと。


「〈わたしは……きみの前任者だ。きみがセキュリティに協力するよりもまえに、セキュリティの力になっていた〉」


「〈……ジャックか?〉」


 通話相手の発言に、ベクターは一瞬、希望を見た気がした。

 話に聞いていた、自分より以前の協力者アドバイザー

 かれが半年間ずっと捜し続けていた人物。


 見つけることができれば、失っている記憶を取り戻せると、信じていた。

 だが信頼は、光ではない。互いに相手を闇へ突き落とさない、という約束事にすぎない。ベクターが見た希望は、相手の信頼を勝ちとることができなかった。


「〈わたしは、ジャックではない〉」


 三度みたびの発言。通話相手の声色に、変化はない。冷静沈着で、慎重にことばを選んでいるようだ。失敗は冒さない。


 この人物は、ジャックではない。そんな事実がベクターを落胆させつつあったが、いまはまだ早い。

 いまは、アドバイザーだと語る男との会話をしなければ。


 かれは、目的もわからない通話相手と、共通の話題を見つけられぬまま、対話に臨んだ。


「〈あんた。一〇年まえのアドバイザーか?〉」


「〈そうだ。いまから一〇年まえに、セキュリティに協力していた。きみが言う“ジャック”は、わたしより一〇年、きみからは二〇年もまえの人間だ〉」


「〈だから、知らないと?〉」


「〈知りようがなかったんだ〉」

 男はため息をつきながら、

「〈一〇年まえですら、ジャックの情報はあいまいだった。精巧に隠されている、というわけではなく、幼いころを正確に思い出せないように、みなから忘れられていたんだ〉」


「〈じゃあ、あんたはなぜ、ぼくに会いにきたんだ?〉」


「〈会いに行ってはいない。いまこうして、話しているだけだ〉」


「〈通話も充分、対面している、と言える。直接顔を見るか、相手の声に耳をかたむけるかの違いだ。そのどちらも、相手を意識する点は合致する〉」


「〈……話がそれたな。わたしの要件を言っても?〉」


 本題を聞くかどうか。男の問いに、ベクターはしばしのを感じた。


 瞬間的な沈黙。


 なにも言っていないのに、相手に自分のすべてが見透かされているんじゃないかと、錯覚してしまうような雰囲気。


 要件を口にする、という発言が、嫌に重苦しく感じられた。それは、男が発するおとのせいか、それとも未だ見えない男の存在のためか。


 かれはただ、ああ、とうなずいた。

 それ以外の選択肢が見当たらない。

 ならば、余計な所作は省くことが最善なのだから。


「〈わたしは、きみを知っている。だが、わたしはきみの、ファンではない〉」


「〈……ぼくのなにを知ってるって?〉」


「〈記憶喪失で、ドーナッツ好きで、友人想いだ。同居人であり、相棒でもあるガラム・リロードを大切に想っている。最初の理解者だからか、それとも単に情が芽生えたか。

 ――ああ。足下に置いてあるドーナッツを食べながら、わたしの話を聞いてもいいぞ?〉」


 言われて、ベクターが足下に目をやると、そこには買っておいたドーナッツが詰まっている紙袋があった。パタンと倒れて、中身が少しばかりこぼれ出る。


 穴が空いた焼き菓子を眼下に置いて、かれが感じたのは食欲ではなく、少しばかりの恐怖だ。


 恐怖は、ひとを縛りつける。

 動けなくすることも、自由に操ることも自由自在。

 この恐怖はきっと、男からの名刺代わりにほかならない。自分の話を信じろ、という喉元に突きつけられたナイフかもしれないが。


「〈わたしは、セキュリティでプロファイリングをしていた。証拠や情報、被害者のナノシアターなどから、犯人のシルエットを加工写真程度にまで押し上げる仕事だ。昔は珍しくもないスキルだった。だがいまは、検索すればなんでも出てくる〉」


「〈ぼくがどういう人間か、わかるとも?〉」


「〈ああ、わかる。きみは他のひとにはできないことが、できる。だから重宝されるだろうし、大切にされる。だが、ケアの方はどうだ?〉」


「〈ケア? ……一体なんの?〉」


「〈きみのケアだ〉」


「〈ぼくはものか?〉」


「〈そうじゃない。犯罪者を追うんだ。少なからず、精神メンタルには支障をきたす。きみは自分でケアをおこなっているようだが……わたしは心配になったんだ〉」


 男のことばに、嘘はないように思えた。聞こえてくる声色は、優しさすら含んでいる。

 相手を恐怖で押さえつけ、優しさによってあたまをでる。

 男がやっていることは、まさにそれだ。


「〈……ジャックについて、ひとつだけ知っていることがある〉」


 今度は、エサ。どうやら男は、相手を従順なペットへとしつけるノウハウがあるようだ。

 その静かな物言いを、ベクターは静かに聞いていた。


「〈ジャックは、周囲には見えない犯人を追っていた、と聞いた〉」


「〈透明人間を追っていたとでも?〉」


「〈まあ、そのようなニュアンスで間違いない。聞く話によると、だれの記憶にも残らなかった、という。本当にいるかは、わからないがな。……わたしは、きみがジャックについて知ることこそが、ケアになると考えている〉」


「〈……だから、透明人間を見つけたら、逮捕しろと?〉」


「〈そういうことだ。今夜は、これを話すために電話をかけさせてもらった〉」


 話せてよかった、と男は電話口で小さく息をはいた。突然の通話が、これにて終わってしまうというサインだろう。


 だからそのまえに、ベクターは言った。


「〈プレゼント〉」


「〈……うん?〉」


「〈だから、贈り物だよ。あんたがポストに入れてくれたんだろ?〉」


「〈贈り物……?〉」


 どういう意図かはわからないが、このペンは男が自分に贈ってくれたものだろう。手に持つペンを眺めながら、ベクターは返答を待った。


 そうだと言えば、せめて礼のひと言は述べなければ。ひと付き合いにおいて、ことばの選択を間違うなんてことは、もうないようにしたい。


 だが、男は声だけで首を振った。


「〈……いや。知らないな。なにか問題でもあったのか?〉」


「〈問題はない。……ぼくの気のせいだったみたいだ。すまない〉」


「〈わたしも問題はない。では、是非がんばってくれ〉」


 おやすみ、とのひと言を残して、通話は終わった。かれも、だれもいない向こう側へおやすみと言い、受話器を解いた。


「――――」


 無声で、ベクターは言う。


 いまのは、先輩からの激励か。

 突然すぎた訪問に、通話が終わったいまでも、かれはたしかな実感が持てないでいた。

 激励代わりにもらったものは、励ましのことばと、ジャックへのヒント。


 透明人間、ということばを、ベクターは考えた。

 本当に見えないのか。目に映らないのか、目に残らないのか。そんなものを追っていたとして、どうしてジャックには見えたのか。


 とはいえ、考えてもわからない。透明人間がいるとして、対面してみなければ、有効な考えが浮かぶとは思えない。


 ペンから視線を外す。端に表示された数字は、午後八時を回っていた。

 普段の光景を思い出せば、かれらのディナータイムはとっくに過ぎている。同居人は、はたして今日中に帰ってくるだろうか。


 わからない。わからないから、ただ祈りながら、ベクターはベッドに倒れ込んだ。


 ――そんなときだった。

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