▶〈チャプター1-8〉/ナノマシンと切り分けたケーキ
■
“ナノマシン”について(編集済)
タンパク質を
現在、地球上に設置された各地の“鉄塔”より散布され、視認することはできないが、空気中にただよっている。そのことから、第三の気体と呼ばれることも。
ひとの脳と相互作用を起こし、その視界に本来見えないはずである
現在“確実”とされているナノマシンの効果は、“視野と聴覚の拡張”や“体調管理”などが主なものである。(“食用ナノマシン”については、別記事を参照)ナノマシンを視界内などで
初出は二五〇〇年代。当時の“二五〇〇年問題”をきっかけにNGO(※1)によって製作された。ナノマシンの存在が発表された直後は、ある評論家(※2)によって「ひとの頭の中にスマートフォンを入れるようだ」と批判されたが、当時の深刻な食料問題などもあり、受け入れられて現在に至る。
▶︎
「“二五〇〇年問題”って?」
ナノマシンについての授業を受け終わり、ベクターは聞き覚えがある単語を口にした。耳に触れたことを覚えているだけで、かれは内容を知らない。
「統計などによって導き出された、確実性のある終末予言よ。いえ、終末予報と言った方がいいかしら」
「終末予報? それは雨が降るから傘がいるだとか、明日から冷え込むだとかいう、天気予報のような?」
「ええ。“二五世紀から二七世紀までのどこかで、地球の資源が枯渇する”と、当時の人々によって導き出された結論よ」
「……驚いた。そういうとき、ひとは
「ひとはアポロ一〇〇号とか新たなボストークロケットを造ることなく、映画に出てくるような
「当時の様子とかは? データとして残ってるのか?」
あるなら
人々の断末魔を聴くことが、責務だと思えてならなかった。
「……残ってない」
ショートはかぶりを振り、
「当時の様子は凄惨を極めた、としか。砂嵐が酷かった、ぐらいしかあたしも知らないの」
「砂嵐って……トウモロコシ畑を
「ええ、たぶん。……トウモロコシ畑? 当時のこと、なにか知ってるの?」
「いや。映画で観たワンシーンを思い出しただけだ」
砂嵐と、本と宇宙飛行士。それとトウモロコシ畑。
木造の一軒家の窓からうかがえる、広大な草木の向こうの
「そういえば……彼から聞いたわ。あなたが映画好きって」
「――とはいっても、まだ
三人目の声が聞こえた瞬間、良い香りが立ちこめた。熱をともなう、苦い匂い。
黒々とした液体を想像すると、それと同等の色合いな黒い肌がベクターの視界に入り込んできた。
「珈琲だ。数日まえに仕入れた知識で悪いんだが、この店は立地やサービスの他に、珈琲が美味いことで有名なんだ。ほら」
湯気を立てるカップがテーブルに置かれ、
「どうぞ、ショート」
「……ああ。ありがとう、ガラム」
ガラムに差し出された珈琲を、彼女は微笑みをもって受け取った。だがその表情は、先ほどまでのものと、少し違っていた。
どうかした? というガラムの問いに彼女は、
「いえ、ね。
「珈琲は嫌い?」
「嫌いじゃないわ。……砂糖とミルクをもらえるかしら?」
「ああ、もちろん。それと、茶菓子もだ」
言うと、ガラムは三人分の
クリームの白さを眺めながら、ベクターはガラムに訊く。
「ドーナッツは、なかったのか?」
「ドーナッツ? ……デイリーの影響でハマるのはいいが、たまには別のものも食べろよ相棒」
「別にいいだろ。どんな形をしてたって、結局は食用ナノマシンだ。ドーナッツでも、薬膳料理でも、摂れる栄養は同じなんだから」
「それで? おれがいないあいだに、彼女とどんな話をしてたんだ?」
「映画の話をしてたのよ」
答えたのはショートだった。
「映画? きみも、映画に興味が?」
「ええ、まあ。あなたが帰ってくるまで、“記憶の話はよそう”と思って」
「別に、話しててもよかったのに」
ガラムのことばに、ベクターは心の中で同意した。
「あなたがベクターさんの最初の理解者だって聞いてたから」
「……おれ、きみにそんな話し方したっけ?」
「聞いてたら、そう思ったの」
ショートは珈琲に砂糖を入れながら、
「それに、あたしの記憶をのぞいてもらうんだもの。ガラムも一緒にいてほしかった」
ショートのことばに、ベクターは目を丸くした。今日は初耳なことがたくさんあったが、自分が彼女の記憶をのぞくことになっているなんて、寝耳に水だ。
「ガラム?」
いぶかしみと、小さじ一杯程度の憤り。
自身の感情を視線に乗せて、ベクターはよき友人を睨みつけた。
「いや……おれも初めて聞いた」
だが水で耳が詰まったのは、かれだけではないらしい。
「だって、初めて言ったもの」
今日一番の笑顔で、ショートは珈琲に口をつけている。その表情はどこか、イベントを楽しみにしている子どものようだ。
……自分が実際に記憶をのぞくところを、体験したかったのか? いや、観察だろうか?
彼女の笑みから読み取れる情報に、ベクターは数分前の会話を思い出した。
つい、くせで。
これも、研究者だというショート・ショットのくせだということだろうか。それも、白黒を問われるなら、悪い方の。
赤の他人なら、ベクターはすぐにでも断っただろう。
しかし彼女とはもう、顔見知りだ。それとも、知人かもしれない。
目の前にある満面の笑みに隠れた迫力をまえにして、かれはなにも言えなくなっていた。
判断できない。
彼女のことばを断るのか受けるのか、自分でも判断できない。
というよりも、判断したくない。
困り果てたかれは、ガラムに判断を委ねることにした。
「あー……まあ、署長やジョンソン医師は、ベクターが捜査や取調べ以外で記録をのぞくことを禁止してない。悪用しなければ、問題ないだろう。
……悪用はしないでくれよ? したら、おれが逮捕しなきゃいけなくなる」
「証明できるのか? ぼくしか記憶をのぞけないのに?」
「データとして残してくれれば、証拠は残る」
「……わかったよ」
熱い苦味で喉をうるおして、ベクターは渋々とショートの頼みを了承することにした。
目覚めてから
「じゃあ、まずは――」
なにをするべきか、とベクターは彼女を見つめた。
いつもどおり、犯罪者相手であれば良心を所持品から弾いていたが、今回はそうもいかない。
なにせ、ショート・ショットはもはや、かれの知人でもある。友人かどうかは、まだわからないが。
「ナノシアター権限を
かれが指示するまえに、その内容を口にしたのはショートだった。
「ああ、そうだ。……ガラムに聞いたのか?」
「あなたは、ちょっとした有名人よ? うわさ程度なら、あたしの耳にも届いているわ」
「……そうか。なら、始めても?」
ベクターのことばに、ふたりがうなずいた。
「――――ふう」
深呼吸して、かれは目を閉じる。視線が閉じる。
けれど、なにも見る必要はない。自分が求めるものは、暗闇の中にある。
自身の暗闇にはない、だれかの記憶だ。
〈ナノシアターを通じて、ベクターはショート・ショットの中へと侵入していく。
これは、友人の家を訪ねることとは、わけが違う。知り合いの家の鍵が開いていることを知っていたとしても、中に入る言い訳になんて、なるわけがない。
――――暗闇が見えた。
そこで声をあげても、だれも答えてはくれない。ニューロンやシナプス、もしくはヒュプノスあたりがかれの傍にいたとしても、存在を主張することはない。
暗闇を見据え、かれは脳を切り分けた。
密室の殺人現場に警察が入る際、窓を割って入るように。
その数は、一二八〇個。
切り分け、不平等がないように苺を振り分けてから皿に載せると、やがて記憶が観えてくる。
生きてきた証拠。名前の由来。かれにはないものが、
その中から、ベクターは
披露するからには、せっかくなのだから、気に入られるものを選ぼうと、記憶に張り付いたラベルを確認していった。
しばらくして、ひとつの
ブルックリン通りもどきではない――今日とは別のカフェで過ごしたショート・ショットの記憶。
プライベートをのぞくようで気が引けたが、そもそも「のぞけ」と言い出したのは彼女の方だ。
珈琲ではなく、紅茶をもって優雅なティータイムを過ごす彼女を持って帰ろう。
そう考えて、ベクターは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます