▶〈チャプター1-6〉/ベクターとガラム

   ▶




「――なあ、“アメリカ”って知ってるか?」


 着込んだ防寒着を自室で脱ぎ捨て、ベクターがリビングにやってくると、ガラムが急にそんなことを言い出した。


 数歩で通り抜けることができる廊下を終えると、そこは一〇畳ほどのリビングとキッチンだ。廊下は抜けきるまでに、左右に脱衣所やガラムとベクターそれぞれの個室がある。


 アパートと謳ってはいるが、とてもここに元々男がひとりで住んでいた、なんて信じることはできそうもない。初対面の人間に言ってやれば、きっとガラムはバツイチなどと勘違いされるに違いないだろう。


 そんなガラムは、リビングの中央に置かれたソファに腰を下ろしている。正面になにもない真っ白な壁を眺めながら、煙を吸ったり吐いたりと忙しそうだ。


「アメリカ?」


 ベクターは買ってきたドーナッツを咥えながら、ガラムが座っているソファの隣りに陣取る。


「アメリカって、映画に出てくる舞台のことか?」


「ちがう、違う。アメリカってのは、実際にあった国だよ。いまは二五〇〇年問題とかで大 くくりな三つの国があるだけだが……まあとにかく、その国にいた“ヒョウロンカ”って野郎が、完成したばかりのナノマシンをこう言ったらしい。

 “まるで頭の中にスマートフォンを入れているようだ”ってな」


 ベクターがガラムと出会って半年、季節はすでに冬を迎えていた。


 結局ベクターはガラムのごり押しや、自身の能力、加えてそれらを理解してくれたアルフ署長のふところの大きさもあって、セキュリティに入ることを許されていた。


 アドバイザーとして。

 そしてなによりも、取調べのプロフェッショナルとして。


 当然のことだが、“記憶をのぞき観る”ことができるベクターには、取調べでだれも敵うことはなかった。そういったこともあり、かれの署内での地位もまずまずのものとなる。


 半年まえに初めて手がけた事件も、リチャードの記憶データから隠れ家などが割れ、逮捕に至ったそうだ。


 ベクターは変わった。

 半年前と比べ、ガラムの影響もあってか、多少は前向きになれた。

 呼び名も、もはや“ジョン・ドウ”ではない。記憶が戻ることはなかったけれど、かれを取り囲む環境は、病室にいたときを考えると、ずいぶん向上した。


 この半年間で変わらなかったことといえば、住処程度だろう。

 ベクターは“住まいが決まれば引っ越す”と言ったものの、結局季節が変わろうとガラムのアパートにいた。理由は、居心地が良いからだろう。間取りではなく、一緒に住む人間が、だ。


「“スマフォ”?」


「違う、“人間電話スマートフォン”だ。調べてみろよ」


 言われて、ベクターは視界ブラウザから邪魔なタブを消していく。

 地図やらオススメのドーナッツ店に関する記事やら、ひと通りのタブを消し終えて、ようやく検索フォームが現れた。


 視界の隅に映る自身の膝上に、自分にしか見えない光の枠線とアルファベットたちでキーボードを造る。

 小刻みな心地よいタイプ音は聞こえないが、柔らかな感触を指先で感じながら、ベクターは“スマートフォン”なるものを調べ始めた。


「なあ、音声入力にしないのか?」

 視界の外で、ガラムが言う。

「いちいちどこかに仮想キーボード造るの面倒じゃないか?」


「このまえ話した視線操作アイトラックと一緒だよ」


 黙らせるために同居人にドーナッツをひとつ渡しながら、かれは適当な記事を探し始めた。


「アレはひと前で使うと、目が泳ぐ。傍から見れば挙動不審だ。だから廃れた。ぼくが音声入力を使わないのも、似たような理由さ。

 仮に、外で今夜のオカズが探したくなっても、まさかひと前で自分の好みを宣言カミングアウトするわけにはいかないだろう?」


「なるほど。おれの相棒は変態ってことだな」


「あんたほどじゃないさ」


 やがて、ベクターは好みの記事を見つけた。利用者側からすれば鬱陶しいだけの広告がひとスクロールごとに出てこない、簡素なものだ。ただ昔のことを記事にするだけの物好きが書いたものらしい。


   ■


 “スマートフォン”

 二一世紀〇〇年代に現れた、当時に流行していた高機能携帯電話に代わる、新たな携帯電話コミュニケーションデバイス

 高機能携帯電話フューチャーフォンが液晶画面かつボタン操作であったが、スマートフォンは液晶画面のみの操作を可能にした。

 先代までの携帯たちはメール機能やカレンダーに加えて、多少のネットワーク利用が可能であったが、スマートフォンはその先――いわばPCを携帯という形に落とし込んだ。

 つながりワークをポケットに入れて外を出歩ける。

 まさにそれは、“人間電話スマートフォン”に相応しいだろう。


   ▶


 記事の中に、ベクターは一枚の画像を見つけた。

 男女がスマートフォンを手に持っている商品イメージの画像だ。シンプルで清潔感がある服に身を包んだ彼らが、薄っぺらい液晶盤を誇らしそうに掲げている。そんな板一枚で世界が見えるとは、かれにはとても思えなかった。


「スマートフォン、ね」


 視界ブラウザから読み終えた情報を消し去って、ベクターはソファに深く座りなおした。

「こんな板が、ぼくらの頭の中に? 冗談だろ。板は暗い小部屋じゃなくて、日陰だが風通しが良い場所に保管するべきだろ」


「この板じゃ、雪の上は滑れないさ」


「その“ヒョウロンカ”ってやつは、なにを言いたかったんだ? 単にナノマシンを“頭の中にスマートフォンを入れるようだ”と批判したかったのか。それとも、“ひとの頭はすでにスマートフォンによって支配されている”と言いたかったのか」


「単に批判したかっただけじゃないのか?」

 ガラムはネクタイの緩みをなおし、

「だれだって、新しいものは受け入れがたいものだ。それに、スマートフォンは支払いを忘れていたら、機能を止められるらしい。ペイの払い忘れで脳の機能を止められると考えたら、ゾッとしない」


 ひと欠片となった輪っかを口へほおり込んで、ガラムは真っ白な壁へ、いつも通りかれが知らない映画を映し始める。


 これは、かれらが同じ屋根の下で住むようになってからのお決まりだった。


 なにもすることがなくなったふたりが、目的もなくリビングに集まる。

 データ煙草や珈琲、ポップコーン代わりのドーナッツなんかを食べながら、ガラムがどこからか拾ってきた昔の映画を観るだけ。


 なんでもない時間だが、ベクターにとってそれは、安らげるものだった。

 記憶がないかれを、“友人だ”と言ってくれるガラムが支えてくれる。だがそれだけでは、不安定なかれは真っ直ぐなままではいられない。いずれ、倒れてしまう。


 今のかれは、砂山に突き刺さった棒のような状態だ。

 友人ガラムという砂が支えてくれるけれど、いつかは風によってさらわれる。もしかすれば、他人ひとの手で倒されるかもしれない。


 とても、不安定。

 ろうそくの火よりは安心できるけれど、煙草のくすぶる火は、いつか灰になって落ちていく。葉巻であれば多少は長持ちするだろうが、いまさら取り替えることもできないだろう。


 ガラムとともに観る映画ムービーは、そんなベクターに安らぎをくれた。

 犯人クズたちの頭の中をのぞくときと同じだ。

 なにかの映像、だれかの記憶を観ることは、かれの空白を埋めてくれる。


 何者でもない自分が、“何者”になったような気になれる。

 名前と仕事を得たかれだったが、ムービーを観るときの感覚は、未だかれに勇気や自信をくれた。


「……これ、なんの映画だ?」


 ナノシアター越しに部屋の電気を落としながら、ベクターは白黒の映像に目を丸くした。


 音声もなく、シーンの切り替えもない。ただ上半身裸の成人男性が、眠っている姿を映し続けるだけのもの。一切変化の見られない映像が、スクリーン代わりとなっているソファ正面の壁に投影されていた。


 映画とは大衆娯楽のもの、と認識していたベクターにとって、目の前の作品は理解しがたいものだった。


 はっきり言って、つまらないものだ。

 どれだけ演出や脚本に不備が見当たろうと文句を口にしようとはしなかったかれだったが、今回ばかりはつい、喉からことばが這い出てくるのを止められなかった。とは言っても、なるべく知性オブラートで包んだものではあるが。


「あー……適当にネットで拾ってきたやつだよ」


 ガラムは煙を吐きながら、うわの空で言った。視線は正面の壁を、つまり映画を目に映しているだろうけれど、心と視界はそこにはなかった。


「たぶん……実験映画とかじゃないか。それか前衛的作品か。おれたちのことなんて考えてない……大昔の物好きが造ったやつだろうよ」


「なあ……ガラム」


 抱えていたドーナッツ入りの紙袋を目の前のテーブルに置いて、ベクターは映画ではなくガラムに目をやった。小綺麗なネクタイや、もくもくと昇る煙へとかれは話しかける。


「映画を観ているところに悪いんだが……“by the wayろ  で”な話をしていいか?」


「ああ」

 ガラムはうわの空なままうなずく。

「おれもおまえの後に、“ところで”話をしたい」


「ぼくとあんたは、今日はふたりとも非番だ」


「ああ、偶然ふたりの休みが重なった。いいことだ」


「ぼくは今日、ジャックを街に捜しに行ってた」


「ジャックを? それは有意義だ」


 ――ジャックとは、かれら警察セキュリティに二〇年まえに協力していたという部外者アドバイザーだ。ベクターも噂程度でしか知らないが、彼はベクターと似たようなことができたという。


 彼の正体を知りたい。彼と話してみたい。

 それは、きっと自分が失った記憶を取り戻す手がかりとなる。

 ベクターは、そう考えていた。


 彼のことがなにかわかれば、自分が小部屋に何の家具も置いていない理由がわかるだろう、と。

 とはいえ、わかったことといえば、“ミドルネームがF”ということだけだった。

 捜し始めてから、半年。かれはジャックについて、なにも知らない。


「有意義?」


 まさか同居人に、そんなことばを返されるとは、ベクターは思いもよらなかった。いつもなら“まだ捜してるのか”などと、心配されたり茶化されたりするものなのに。

 完全にうわの空だ。かれの話をすべて聞いているかも怪しい。


 変化しない展開を追いかけるガラムに、かれは続ける。


「ところであんたは、今日なにをしてるんだ?」


「約束の時間を待ってる」


「約束の時間? 何の? 昼を回ったところだ。まだ出かけないのか?」


「ああ……約束は午後三時アフタヌーンティーだ」


「……じゃあ、もうひとつ。“ところで”なんだが、なんで今日のあんたのスーツは、そんなに綺麗なんだ? いつもはもっとくたびれている。激しいアクションシーンをクランクアップした役者から借りてきたような、ぼろぼろなやつだったのに。今日に限って、シャツのえりまで立っている」


 言われて、ガラムは再びネクタイの緩みをなおした。


 ……いや、そもそも普段の彼は、ネクタイもしないはずだ。それが今日は、ネクタイピンまでそろえている。まるで、学生が一流企業の面接に行く際に、背伸びしてブランド物のスーツで身を包んでいるようだ。


 普段のガラムを見慣れているベクターにとって、その姿はどこか異様だった。

 スーツを着ているというよりも、着られている。

 日常のガラムを知っているからこそ、しわひとつない姿スーツは、かれの視界の中で唯一浮いていた。まるで別人だ。


「その質問に答えるまえに……おれも“ところで”な話をしても?」


 映像から目を離さないまま、ガラムはことばだけをこちらへ向けている。

 その姿は、見方を変えれば、どこか緊張しているようにも思えた。


 彼が固唾かたずを飲み込む音を聞きながら、ベクターは彼のことばに耳をかたむける。


「“ナノマシンの話と言えば”なんだが。ところで、ベクター。おまえさんは……少しまえからセキュリティに協力してくれている“ナノマシン管理技士”のことを知ってるか?」


「ああ、話だけなら。たしか、数ヶ月まえからの協力、だったか」


「二ヶ月と六日まえからだ」


「……ずいぶん記憶力がいいんだな。まるでパトリックだ」


「ベクターは、その“ナノマシン管理技士”に会ったことが?」


「ないよ。ぼくがセキュリティの中で立ち寄るのは、取調室か、署長室か、捜査官がたむろしてるところぐらいだ。とはいえ、技師は優秀だ、程度の噂なら聞いているが」


「彼女は、とても優秀だよ」


「彼女? 女性だったのか?」


「……ああ。とても美しい女性だ」


 “ナノマシン管理技士”なる女性のことを語るガラムの口角は、緩やかではあるが、少しだけ上へとつり上がっていた。


 ほほも、軽く紅葉している。


 映画ムービーに出てくる暖炉の炎でからだを温めているならいざ知らず、いまはナノマシンである程度の体温なら管理できる。ナノマシン製の防寒着を着込めば、変温動物にだって変態できる。冬眠知らずの熊というわけだ。


 だがベクターの目に映るガラムは、緊張とともに軽く興奮しているようにも思えた。洞穴で眠り続ける必要がなくなったというのに、そのせいで人間を襲ってしまいそうだ。


「技師と会ったことが?」


「ああ。おれが初めて、彼女に捜査資料データを届けたんだ」


「……なあ、ガラム」

 軽く深呼吸して、ベクターは言う。

「もうひとつだけ、“ところで”な話をしても?」


「なんの?」


「ところで、今日はだれと会うんだ?」


「…………彼女だよ」


「だれだって?」


「“ナノマシン管理技士”をしている、彼女だよ」


 ガラムのことばを聞いて、ベクターは頭をおさえた。“記憶がない”という自身の悩み以外でまいることはないと思っていた頭蓋の容量が、少しだけ増えた気さえした。


「……逢い引きか?」


 かれのことばに、ガラムはようやく、視線を映画から外した。眠り続ける男を観ることをやめ、眠っていたことばを口にする。


「ひと聞きが悪い。デートと言ってくれ」


 違う、とかぶりを振るガラムは笑みを消し、いつになく真剣な表情だ。


「まさか……手を出したのか?」


「手は出してない。お茶に誘っただけだ」


「職場の女性に手を出すのは後が面倒だからやめておけ、って言ったのはあんただろう?」


「彼女は特別だ」


「あんたにとっての“特別”だろ?」


「……なあ、ベクター。そう怒らないでくれ。たしかに職場での恋愛観の話をしたのは、まぎれもない、このおれだ。

 だけど、理解してほしい。おれは彼女をひと目見て、心を撃たれたんだ。映画をよく観るおまえならわかるだろう? 悪役たちは当然、銃撃戦で撃たれて死にたくはないはずだ。でも、撃たれちまう。なぜか? それは、避けようがないからさ」


「あんたは、映画の悪役ってわけか? ……いやまあ、ぼくも怒ってるわけじゃない。ただ、呆れていただけだ。まさか、いつもズボラな格好をしているあんたが、デートのためにそこまで身支度を整えるとは、この半年間では知れなかったことなんでね」


 ……つまり、ガラムが小綺麗なスーツを着ているのも、変な映画を拾ってきたのも、かれの話をうわの空で聞いていたことも、すべて“彼女”とのデートをまえに舞い上がっていたということだ。


 話してみれば、なんでもないこと。


 デイリーあたりに話せば、笑い話として盛り上がれそうだ。そんなことを考えながら、ベクターは満足だと映画へ視線を戻した。いつもと様子が違った同居人の心情を知れて、自分は満足だ、と。


 だが話は、そこで終わらなかった。


「なあ、ベクター。おれたち、相棒だよな?」


「……急に、どうしたんだ?」


 今度は先ほどまでのハキハキとしたものと違い、小さな声でガラムが様子をうかがってきた。その様子がどこか気味が悪くて、ベクターは再び、彼の方へと向きなおす。


「実は……“ところで”話がもうひとつだけ、あるんだ」


「もうひとつ? 内容は?」


「“彼女”が“ナノマシン管理技士”なのは、話したよな?」


「ああ。バッチリと聞いた」


「実は彼女……ナノマシンの研究者でもあるんだ」


「優秀って聞いてたけど、まさか学者さんだとは。あんたの好みはインテリなのか?」


「それで……おまえの話をしたんだ。“うちに変わったアドバイザーがいる”ってな」


「“話をするネタ”にしたって話か? それなら、別にぼくの断りなんていらないだろう。ぼくの悪口を言うなら別だが、それ以外なら許可なんて」


「――今日、“是非話してみたい”って」


 ガラムのことばを聞いて、ベクターは再び呆れた。


「……“話のネタ”にするならいざ知らず、“デートのダシ”にしたのか?」


「いや、そうじゃない。彼女もまえからおまえのことは興味を持ってたそうだ。それで、話の中でたまたま、おまえの話になって……」


「ぼくに、“あんたの彼女”に会えと?」


「“まだ”彼女じゃない」


「やっぱり“手を出した”んだ。……それで? ぼくをダシにして、味の方は?」


午後三時アフタヌーンティーにおまえさんを連れて行く約束をした」


「ぼくの許可なしに?」


「頼む。彼女も、おまえの記録に関する話を楽しみにしてるんだ。――この通りだ」


 ガラムに深々と頭を下げられては、ベクターはもう苦笑いを浮かべるしかなかった。


 ……同居人と表してはいるが、どちらかと言えば、ベクターは居候に近い。

 仕事はあるし、収入源もあるのだから、生活資金などの諸々もろもろを入れてはいるが、こうやって家主に頭を下げられれば、無下むげに断るわけにもいかない。


 ――“そもそも”な話。


「頼むよ。“相棒”の頼みだと思って、一緒に来てくれ」



 ――――最初の理解者ゆうじんに“相棒”なんて言われて、断れるベクターではなかった。

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