▶〈チャプター1-4〉/記憶データと詐欺師
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――――潮風のからい匂いがした。
それは、リチャードが嫌いな匂いのようだ。鼻をつまみながら、彼は海風に吹かれる鉄塔を、隠れ家の傍から見上げていた。
鉄塔は〈Dear.smiths〉と名付けられていた。
海辺の街オールスミスを象徴するシンボル。
街のどこからでも見上げることができるそれは、いまはリチャードのまえで月明かりに照らされている。
「交代だ」
外で珈琲片手にデータ煙草を吸っていたリチャードのもとに、見張りを終えた仲間がやってきた。
小1時間程度のものだが、その顔はどこか疲れているようにも見えた。
だがまあ、とリチャードは飲みかけの珈琲を渡しながら考える。
ここ最近、仕事が上手くいっていない。
飲み食いには困らないとはいえ、それもいつまで続くかは、わかったもんじゃない。
いまの生活にストレスを感じ、参ってしまうのも仕方ないことだろう。
データ煙草の
いまどき珍しい、木造を模して造られた隠れ家。
階段がきしむ音も、すべてがナノマシンで再現されたものだと考えればどこか気味が悪いが、それほど学がないことを自覚していたリチャードは、考えることをそこでやめた。
無駄なことに気をとられていたら、それこそ自分たちのボスに怒鳴られかねない。
「――別に、バッファロー・ビルになる必要はない。それこそ、私が提案している役どころは、ドクター・レクターの方だ」
彼らのボス・ゲイナーは、リチャードが見張っている部屋の中で、ひとりの男と会っていた。
一時間まえ、突然やってきた男は、自分のことを“詐欺師”だと名乗った。
正面から堂々と、自分たちを騙しにきた馬鹿な野郎だと笑った彼らだったが、詐欺師の要件はまったくの別件。
曰く、一切の騙くらかしをするつもりはない、と。笑いながら、男は次のようなことを言った。
「私は先月あたりに、君たちのボス・ゲイリー氏に詐欺資金として五〇〇という大金を借りたものだ。……とはいえ、私もヘタをこいてね。倍以上の金額にして返すと言っていたが、できなかった。
だから今日の私は、借りた五〇〇という金をなんとかかき集め、返しにきたんだ。ここに、そのときに私が書いた借用書もある」
用紙の誓約文を綴った文字は、リチャードのものだった。
いまどき珍しい、紙にペンという大昔ながらのもの。ナノシアター上でのタイピングではなく、たしかに彼のくせ、筆圧が見てとれるものだ。
はたして、自分は本当にこんなものを書いただろうか。
自身の記憶に自信が持てないまま、リチャードはゲイナーに男のことを話した。
金だけ取り上げて追い返せ、という命令を聞くために、晩酌をしているであろうボスのもとへ彼は向かう。
だが意外なことに、ゲイナーは男のことを気に入ったようだった。
貸したことも忘れていた金が返ってきたからか、それとも“詐欺師”と名乗る男の度量、もしくは金を耳を揃えて返しにきた律儀さを気に入ったのか、リチャードには分からない。
「……ええ、ええ。私はドクターになれとは言いましたが、別に警官の鼻を食いちぎる必要はない。私の言う通りにしていただけるなら、あなた方はセキュリティに出会うことはない。どこかから、情報が漏れない限りは」
彼らのボスは、傍から見ても態度は横暴であったが、ひとを見る目だけは確かだった。
部外者であるが、同じアングラの住人であり、頭も切れると感じたゲイナーは、詐欺師に次なる資金をどうやって調達するか、そんな相談をしている。
閉まりきっていないドアの隙間から、中をのぞく。
リチャードの瞳に映ったのは、大きな旅行鞄をわきに置いた、チェック柄のスーツを着た男。まるで、いつか観たムービーに出てきた紳士のようだった。
詐欺師は、ゲイナーの話をひと通り聞き終わった後に、自身が考えるいくつかの案を述べている様子だ。
相手の気分を害さないよう、一旦聞き手に回ること。気持ちよく話させて、相手の心を開くこと。
そのさまは、名乗り通りの詐欺師であり、ここが小綺麗な場所であれば、立派なカウンセラーのようにも思えた。
二時間の後、ボスと詐欺師の話し合いは終わった。
どこを襲うか。金に換えるまで、どうやってブツを隠しておくか。
リチャードの耳にはまる聞こえだったが、急ごしらえの秘密の会合は無事終わったようだった。
「酒、ですか?」
満足いったのか、それとも詐欺師のことを完璧に気に入ったのか、聞こえてくるゲイナーの声はここ最近で一番上機嫌だ。
リチャードが耳を澄ますと、ゲイナーは詐欺師を晩酌に誘っていた。
彼からすれば、いくら自分たちの代わりに計画を立ててくれたとはいえ、ゲイナーは男を信じすぎだ。
うわずった声は、ほんの少しの興奮もうかがえる。
性的なものではなく、妄信的なものだろうか。
盲目的ではなく、目に映るからこそ、ボスは紳士を信じた。
会話に聞き耳をたてていた彼には、そう感じられた。
「……ええ、構いませんよ。私の好きな
結局名前を聞きそびれた詐欺師は、快くゲイナーの誘いを受けていた。
声色だけを聞けば、男はボスとともに酒を呑むことを、心から喜んでいるようにも思える。
しかしながらその瞳には、どこにも今からの晩酌に楽しみを感じているようには感じられない。
そこに映る色は娯楽の暖色というよりも、むしろ寒色だ。
冷たい瞳と、リチャードの目が合った。
ドアの隙間からのぞく色に怯えて、彼は身を引く。
見てはいけないもの、近づいてはいけない者を知ろうとしている自分が怖くて――詐欺師がなぜだか怖くて、彼はのぞき見をやめる。
ただ部屋のまえに突っ立っているだけのかかしに戻った。
――――とはいえ。
リチャードは窓の外に見える偽物の煙を見つめながら、考えた。
詐欺師が持ってきた借用書は、たしかに彼の筆跡で綴られていた。だからこそ彼はボスに話を通したし、ボスも詐欺師の話を信じた。
けれどもそもそもな話、学がないことを自覚している自分は、はたして文字など書けただろうか。いまの時代、ペンなんてものが残っていただろうか?
そもそもな話といえば、もうひとつ。今更な問題ではあるのだが。
リチャードは、詐欺師を覚えていない。
いや――――リチャードは、詐欺師なんて名乗る男は知らない。会ったこともないはずだ。
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