▶〈チャプター1-3〉/セキュリティと志望動機

   ▶




「……すみません。もう一度、おっしゃってもらえませんか?」


 退院した足で、かれはセキュリティを訪れていた。


 昨日デイヴィットから聞いた通り、かれの目に映る捜査官たちはみな、忙しそうに駆け回っている。

 広場にも思えるほどの広さをほこるエントランスも、いまはすし詰めだ。


 そんな中で、かれは受付の女性と、一時の会話を楽しんでいた。

 とはいえ、デートの誘いなんて洒落たものじゃない。こんなところで逢い引きしようものなら、今夜は鉄格子つきの部屋に泊まりそうな勢いだ。


「もう一度、ですか?」


 女性のことばを、かれはくり返す。

 自分の聞き間違いじゃないか、本当にあなたはこのことばを言ったのですか、という確認を込めて。


「はい、もう一度です。あたしの聞き間違いかもしれませんから」


 業務用の笑顔とはいえ、先ほどまで輝いていたものと比べ、いまの女性の顔はどこか引きつっていた。


「では、もう一度だけ言いますね」


 話しながら、かれはいまの状況を、どこか楽しんでいる。

 病院にいたときは、本当に記憶が戻るのかだとか、考えなくてもいいことを延々と考え込んでいたせいだ。だから、昨日の自分は捜査官に噛みついたりしたんだ。


 だが、今はどうだ。

 まるでひとが違うようだ。

 自分のことながら、かれは驚いてもいた。

 外に出るということは、ひとと触れ合うということは、こんなにも楽しいことだとは。


 外に出るだけで、心が晴れやかになる。

 ひとと触れ合うだけで、昨日までの自分を忘れることができた。

 かれは昨日どころか、今までのことすべてを自分は忘れてしまっているのに、と考えながらも、それでも今の気分は悪くない、と感じている。


 とはいえ、セキュリティにかれがやって来たのは、昨日から決めていたこと。

 パトリック捜査官のことばを聞いて、かれは気付いたのだ。

 記憶が戻らないからと言って、なにもしないことは間違いだと。

 最悪、一生記憶が戻らないとしても、そのときは新しい記憶を造ればいいじゃないか、と。


 そういう意志を込めて、かれは女性に求められたことばを言った。


「ここで働かせてもらえませんか?」




「あんた……なんでここに?」


 受付の女性と入れ替わるように現れたのは、デイヴィット捜査官だった。ドーナッツが入った紙袋を抱え、呆れたような表情のまま、かれの目の前に立っている。


 大きく肥えた捜査官には、かれがなぜセキュリティにやってきたのか、わからないのだろう。

 たとえかれが言ったことばを、受付の女性から聞いていたとしても、それをそのまま信じられない。


 そんな顔に笑顔を向けながら、かれは答えた。

 頬のつり上がりが本物かどうかは、自分にもわからないまま。


「彼女から聞いたでしょう? ここで働きたいんだ」


「聞いたさ」

 紙袋を漁りながら、デイヴィットは言う。

「ジェシーから、あんたがここになぜやってきたか、たしかに聞いた」


「ぼくからも、聞いた」


「……ああ、そうだ。だが、わからん。昨日まで病院のベッドでふてくされていた野郎が、どうして急に“セキュリティで働きたい”なんて言い出すんだ。まさか、正義の心に目覚めたなんて言わないでくれよ。イーストウッドになりたくても、銃は貸せないんだ」


「いや、そのまさかだ」


 かれは言った。それは、心からのことばだった。

 正義の心、とは違うかもしれない。

 

 言うなれば、衝動的なもの。

 もしくは、胸中にわき上がった使命感とでも言うべきか。

 去ろうとするパトリックの背中に見た、イメージのようなもの。

 記憶が見当たらない密室に満ちた、ひとつの想い。

 言語化するのは、とてもむずかしいことだった。


 かれにとってそれは、到底無理な話だ。

 知識がないから、語彙がないからではない。なによりも、経験が足りない。

 ひとがなにかを表現する際、重要なのは経験そのもの。


「記憶がないからって、頭まで空っぽなのか? ジョン・ドウさん」


 手にとったドーナッツをほおばりながら、デイヴィットが言った。

 ぼろぼろと落ちる砂糖とが、かれのつま先を汚していく。


「いまうちは、なかなか口を割らねぇ奴の対応で忙しいんだ。あんたみたいな素人の相手をしている暇は、ないんだよ。ほら、さっさと帰ってくれ」


 ドン、とかれのからだが押しのけられた。

 焼き菓子を咥えたまま、デイヴィットは帰れと追い払うようなジェスチャーをしている。

 厄介事を嫌う表情は、よほどかれに関わることが嫌なのだと知らせてくれた。


 とはいえかれも、このまま帰るわけにはいかない。

 自分は、たしかにセキュリティの力になれる。

 その実力があると、確信を持っているからここにやってきたんだ。

 それなのに、このまま行く宛もなく街をぶらつくだけでは、なにも変わらない。


 この二週間、なにも思い出せないと嘆きながら無駄に過ごしてきたが、昨日ようやく、これからのことを考えることができた。

 “これからのこと”とは、つまりかれが、セキュリティの役に立つこと。

 かれ自身にもわからないが、そんな未来を思い描くだけで、かれは曖昧だった自分に自信を持つことができたのだ。


「だから――」


 ――ぼくを、働かせてください。なんてことばは、あとからやってきた男によってさえぎられた。


「なにやってんだよ、デイリー捜査官」


 くたびれた、お世辞にも清潔とは呼びがたいスーツを着た男がいた。

 色黒な指先でデイヴィットから紙袋を奪い取り、へらへらと笑っている。


「ゲ」


 ただひと言、どころかただひと音のみ「ゲ」なんて音が、デイヴィットの喉から漏れ出した。

 歪んだ表情は、どこか天敵をまえにした動物のようにも思える。

 よほど嫌いな相手なのか、デイヴィットはまるで威嚇ともとれるような声色で、「ゲ」の続きを口にした。


「……ガラム。取り調べはどうしたんだ?」


「少し休憩だよ。あの野郎、一切口を開きやしねぇ。しゃべったらボスに殺されると思い込んでやがる」


 ガラムと呼ばれた男は、ドーナッツを口に運びながら、かれを指さした。


「こいつは?」


「ここで働きたい、なんて受付でのたまうめでてぇ野郎だよ」


「へぇ」


 ガラムはかれの顔を見回しながら、


「なんでここで働きたいんだ?」


「それは……」


 デイヴィットとうって変わって、どこか話を聞いてくれそうなガラムの雰囲気に、かれは戸惑っていた。

 先ほどまでムチしか見えなかったのに、急にアメが目の前に現れたのだ。不気味だと考えるのも、おかしなことではないだろう。


「あとは任せた」なんて言いながらどこかへ行ってしまったデイヴィットを尻目に、ガラムの真っ直ぐな瞳をまえにして、仕方ないとかれは質問に答えることにした。


「自分が、役に立てると考えたんだ」


「なにができるんだ?」


「え?」


「うちの役に立てると言っても、みんななにかしらの得意分野がある。パトリックは記憶力がいいし、デイリーはああ見えて、射撃だけなら一番だ。俺も、成績という面だけ見るなら、ここでは一番だ。

 だが、あんたはなにができる? 悪いが報告書作成とかの事務なら、間に合っている。もしそうなら、ほかを当たってくれ」


 おまえはどう役に立ってくれるのか。

 ガラムは嫌味抜きに、真っ直ぐとそう聞いてくれている。

 かれには、そう感じられた。


 問答無用で追い返そうなんて気はない。

 だから、次にかれがなんと言うかで、この話のオチが決まる。


「……あんた。ガラムって言ったっけ?」


 震えた声で、かれが言う。けれどこれは、恐怖じゃない。正面からの真摯な視線に十分に答えようとするあまり、緊張しているだけだ。


「あんた、取調べに手こずっているんだってな」


「ああ、そうだ。それで?」


「ぼくなら、犯人から決定的な証拠ってやつを、引き出すことができる」


「どうやって?」


 ガラムの声色が変わった。

 先ほどまでの、かれを試すような高圧的なものから、かれのことばの続きを知りたいという、純粋な好奇心へと振れ動いている。


「簡単だ。引き出すんだよ。犯人から、こう――スッと」


「だから、どうやって?」


 ガラムが知りたがっている。そんな声で、そんな表情だ。

 焦らすな、という怒りも少しだけ見てとれる。

 クイズの答が知りたい小学生のようで、かれはほんの少し、楽しくなった。

 急かされるほど、焦らしたくなる。

 どこかで見た記事の内容を、かれは肌で体験していた。

 だが、いい加減焦らしすぎたのか、ガラムはあと少しで怒り出しそうだ。かれは観念して、答を言った。


 自分が、なにをできるのか。

 セキュリティにとって、自分はどういうものになるのか。

 かれにとっての、得意分野とはなになのか。

 クイズの答は、ズバリこれだ。



 犯人の頭から抜き出すだけ――――記憶を、データとして。

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