▶〈チャプター1-2〉/捜査官と使命感

   ▶




 一〇の一二乗通りの検査が終わったころ、かれのもとに面会人がやってきた。


 初めて、病院の関係者以外との対面だった。


 かれは「来る」とジョンソンの口から聞いた前日から、自分の心が躍っていることに気が付いた。

 ワルツか、それとも棒をくぐり抜けるリンボーか。小躍りしたい気分からして、タップダンスだったかもしれない。


 目が覚めてから一週間経ったころ、かれはナノシアターの使い方のすべてを思い出していた。

 どこをどうすればいいのか、デフォルトページのカスタマイズや、視界の端に映し続ける必要最低限の情報たちの選別。

 今まで自分はこれをどうやって使っていたのか、という詮索。


 わかったのは、ふたつだ。


 ひとつは、かれができること。

 ジョンソン医師曰く、「それはいまの技術では不可能です」だという。

 しかしながら、かれには確信があった。

 “ソレ”ができるという、確固たるものが。


 その自信がどこから来るものか、と言われても、かれに説明することはできないだろう。

 自分が何者なのかが思い出せないように、それもまた、かれはきっと忘れてしまったのだから。


 だが、“ソレ”ができるとわかったかれは、歓喜に包まれた。

 なにも残っていない――毛髪と頭皮を取り除き、頭蓋を割って皺だらけの小部屋をいくら検査しようと、自分にはなにも残っていなかったのだ。


 だというのに、急に目の前に現れた、ひと筋の光明。

 “これはチャンスだ”と、かれは考えた。“ソレ”は自分にしかできないのだから、きっと足がかりになってくれる。


 自分はジョン・ドウではないと、証明してくれるはずなのだ。

 どうにかして“ソレ”を活かさなければ。


 かれは、自分がどんな人間だったのかをジョンソン医師とともに考える時間以外を、アイディアの抽出にあてた。


 自分にできること――自分以外にはできないことを、どうやって実行に移すのか。

 自分に、そんな機会は訪れるのか。


 きっと“ソレ”は、かれが“だれ”なのかを規定してくれる。

 ジョンとカーライルのチンパンジーにも、モニスを撃った患者にもならなくて済むのだ。


 “ソレ”が、真っ白な病室と、真っ黒な密室に閉じ込められたかれが正気を保っていられる、瞳を光りで焼き切ってしまわない程度の、適度な希望だった。


 そして、もうひとつといえば、まっさらなプロフィールが、ぽつんとナノシアターの隅に転がっていただけ。


 ナノシアターは、記憶している情報をもとに、プロフィールを作り上げるという。つまりかれには、なにもなかった。


 初対面のひとに渡すプロフイールも、文字通りまっさらというわけだ。



「初めまして、ジョン・ドウさん」


 面会人がやってきたのは、かれが目覚めて二週間が経ったころだった。


 かれにとって最悪だったのは、まず面会人が自分の知り合いでなかったこと。

 もし知人・友人のたぐいであれば、自分がなにも覚えていなくとも、自分が何者なのかを定義づけてくれるはずだったのに。


 加えてふたつ目の最悪なトピックスは、面会人がセキュリティの捜査官だったということだった。


「わたしはデイヴィット。こっちは部下のパトリックだ。よろしく」


 かれの視界に、ふたり分のプロフィールが飛んでくる。

 セキュリティのエンブレムが輝く職業上最低限の個人情報は、名前もないかれのものと比べて、輝かしいものだった。


 指先に砂糖をつけたままやってきたのが、デイヴィット・ウィーク捜査官。

 その後ろにいる、どこか気弱そうな男がパトリック・ライアン捜査官。


 階級が同じなのに、どこに上下関係があるのだろうか。かれは小さく首をひねった。


「セキュリティって?」

 かれはわざとらしく訊いた。

「なにをする人たち?」


「悪いひとたちを捕まえるんですよ」

 一部が輝く頭をなでながら、デイヴィットが答えた。

「ずっと昔に、FBIとか連邦警察とかあったでしょう? われわれは、それをやっているんですよ」


「じゃあ、ぼくは悪いひとなのか?」

 かれは言った。


 先ほどのようなふざけた発言ではなく、本心だ。

 なにもない自分のもとにセキュリティがやってくるなんて、目的は逮捕しかないだろう。

 なにかしらの犯罪を犯した、記憶喪失の犯人。

 シナリオとしては二流だが、十分ありえる話だ。

 かれはなにも覚えていない自分に少し、身震いした。

 これは、恐怖か。震えの正体は、あいまいだ。


「いえ、違います」

 ひたいの汗をふきながら、パトリックが言う。

「われわれはあなたが記憶喪失であることは、すでにジョンソン医師から聞いています。われわれは、あなたの現状を知っている。だから、落ち着いてください」


「わたしたちは、あなたに二点ほど、訊きたいことがあってきたんですよ」

 指先の砂糖をはらいながら、デイヴィットが続ける。その目は、“悪いひと”を見るものではないだろう。


 そんなことは、なにも覚えていないかれですら分かることだった。

 自分を捕まえにきたのではない。捜査官たちのことばに、かれは胸をなでおろした。


 怯えることも、震える必要もない。

 それがわかっただけで、いく分かは楽に話を聞くことができそうだ。


「二週間まえ、あなたは街中で倒れているところを発見され、病院に運ばれた。その際に、わたしたちはあなたが、なにかしらの事件に巻き込まれたのではないかと考え、あなたの話を聞きにきたんです」


 デイヴィットのことばに、かれは目を丸くした。


 二週間。

 書き記せばたった三文字、たった五音であるが、その長さはかれがその身をもって体験している。

 かれは真っ白な部屋に閉じこもるしかなかったが、捜査官たちはどうだ? 

 そんな制約、どこにもないだろう。

 だというのに、自分に会いにくるのが、二週間も経ってから? 

 仮に、かれがなにかしらの犯罪に巻き込まれていたとして、それだけの時間が経っているというのに、犯人に逃げられない保証がどこにある? 

 証拠が綺麗に残っているなんて、普通はありえないはずだろう?


「いまさら?」


 本心からこぼれた、かれの発言。

 その意図は捜査官たちにも伝わったようで、虚空で指を踊らせながらデイヴィットが続ける。


「わたしたちも、多忙だったのです。いまはセキュリティ全体で追っている組織の尻尾をつかんだばかりで、あなたのために割ける人員がいなかった」


「甘いものを食べる余裕はあるのに?」


 かれは少しばかり、苛立っていた。

 ようやくだれかが会いにきたというのに、面会人は自分のことをなにも知らない人物だったのだ。

 その苛立ちを、かれらにぶつけることが、見当違いであることもわかっていた。だが二週間も白い世界に閉じ込められていて、抑え込むのも限界にきていたのだ。


 こちらに睨みをきかせるデイヴィットの後ろから、パトリックが続けた。


「それで、なにかの事件に巻き込まれたり、とかは」


「……ありませんよ」

 これ以上態度を悪くしても仕方ないと、かれは大きく息をはき、

「それで、もう一点は? なんですか?」


「今しがた、われわれの権限を使ってあなたのナノシアター内を少しばかり閲覧しておりました。そこで、あなたのネット口座の残高を確認したのですが――」


 パトリックに言われて、かれは視界の中から自身の口座を探した。

 そこは、今まで確認しなかったところだ。

 入院している身だというのに、もし中身が空だとしたらゾッとしない。


「――あなたは、結構な金額をお持ちのようですね。覚えていないなら結構ですが、ご職業はなにをしていらしたんですか?」


 そこには、数年は遊んで暮らせるであろう数字が並んでいた。

 本当に自分の金なのか、かれにとって怪しいものだが、それは捜査官たちにも同じなのだろう。

 でなければ、このような質問はしない。


 身に余る金額をまえにして、かれは少し怖くなった。


「職業……と言っても」


 言いながら、かれは思考を巡らせた。仮にこの数字を自分が稼いだとして、一体なにをしていたというのか。


 実のところ、本当に自分は、罪を犯したのか。それとも、ただの金持ちか。

 答えは、わからないようだ。いくら考えても、無駄だった。


 問題を解いたとしても、解答用紙がないのだから。赤ペンを用意しようと、マルバツは描けそうにもない。


「……すいません。わかりません」


 伏し目がちに、かれは言った。


 回答の枕詞は、これもまた本心からこぼれたもの。覚えていて当然のことを、忘れてしまっていることへの罪悪感。

 いっそのこと、この場で頭を切り分け、中身を見せてやりたい、ともかれは感じていた。

 そうすれば、自分が言っていることが嘘でないことがわかるだろう。

 ここにあるしわたちも、ニューロンもシナプスも、なにひとつとして、“かれ”がだれだったのかを覚えていない、と。


「……なんだ?」

 急にデイヴィットが言った。

「……ああ、わかった」


 だれかに了解の意志を伝えると、デイヴィットは病室を出ていこうとする。

 かれにも、後ろにいるパトリックに宛てたことばでもない。

 虚空へ向けられた返答。

 おそらくそれは、ナノシアター越しの通話だったのだろう。


「デイリー捜査官。どこへ?」


 パトリックが慌てて聞いていた。その声にはどこか、デイヴィットへの恐れ、なんてものが見てとれる。

 階級は同じなのだから、先輩と後輩……という関係性だろうか。


「呼び出しだ。ようやくひとり目、だそうだ。……あと、おれをそのあだ名で呼ぶな。ケツ蹴り上げるぞ」

 デイヴィットの後ろ姿が消え、残されたパトリックもあとを追いかけようとする。


 そんな光景を見て……いや、行ってしまう後ろ姿を目にして、かれの胸中には、かれ自身にも思いもよらなかった想いがよぎった。


 唐突な、ひらめきのようなものだ。


 これが、突然自分の中にわき上がったものなのか、それとも、もともと持っていたものを思い出したのかは、わからない。

 けれどこれを、確認しないなんてことは、あってはならない。かれは、そう感じたのだ。

 ――だからだろう。


「あの、パトリック捜査官?」


 ――かれは、いまにも行ってしまいそうだったパトリックを呼び止めた。


「はい?」

 パトリックは振り返った。

「なんでしょうか?」


 パトリックは急いでいた。当たり前だ。

 もうひとりの捜査官が先に行ってしまったんだ。こんなところで、ゆっくりしている暇などないだろう。

 だからかれは単刀直入に、手短にことばを口にした。


「いまの仕事に、やりがいは?」


 少しのあいだ、パトリックは固まっていた。

 まさか記憶喪失の人間から、そのような質問をされるとは予想だにしていなかったのだろう。

 けれど捜査官は軽く笑ってみせてから、


「――ええ、まあ。やりがいはありますよ。みんなを守る仕事ですからね。大変ですが、充実感があります」


 それではこれで、とパトリックは駆け足で行ってしまった。


 充実感があります、か。かれはつぶやいた。

 その響きを、自分はあの捜査官に求めていたのだろうか。

 もうすでにその姿は見えず、確かめるのはむずかしいだろう。 


 だが、どことなく満足感もあった。

 捜査官が面会人だと知ったときの落胆も、いまはない。 

 かれは、これからなにをしようかと、考えを巡らせた。 

 ちょうど、そのときだ。


 捜査官たちと入れ替わるように、退院手続きの書類データを携えたジョンソン医師が、かれのもとへやってきたのは。

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