記憶の運び屋 —世界が回っているのは、記憶が彼らを忘れているから—

人類

▶〈チャプター1〉

▶〈チャプター1〉/脳と魚

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 文字の養殖魚が鍵のかかったへやに忍び込み、被害者を食べてしまったそうだ。

 被害者はひとつの情報――“かれの記憶”だ。

 密室はらを一二八〇本のナイフでさばいても、記憶いたいはどこにも見当たらなかったらしい。


 腹を裂くことは、痛いことだ。石や冷水で研ぎ澄まされた刃物だとしても、痛みには熱がともなう。

 熱はへそを伝い、内側へもぐり込んでいく。やがて痛みがしびれに代わり、中身が見えてくる。

 そこにある臓物ぞうもつは、肉の塊が生きていたことを教えてくれる。これが、このからだが生きている証だと。


 では、脳はどうか。


 猿脳えんのうでた脳を合わせたサラダ、ハッシなど脳を食す文化は、昔から存在する。魚の腹に刃先を沿わせ捌いてきたように、頭もまた、捌かれる。

 羊や豚と同じだ。そこに家畜があるから、からだを切り分ける。


 首から下の臓物には、詰まっている。血や酸素や分解酵素だけでなく、生きた証や人生が。


 脳に詰まっているものは、なんだろうか。好意を寄せている女性へ贈るチョコレートの詰め合わせではないことは、だれの目にも確かだろう。


 確かめるためには、捌くしかない。 はらわた を引きずり出すために腹を切り分けるように、頭皮をむしり、メスを沿わせる点線を描き、頭蓋の奥にあるしわの塊に、一体なにがあるのかを。


 文字の養殖魚が迷い込んだのだから、そこにあるものは水槽か。それとも、ほかの臓物と同様のものをため込んでいるのか。


 それは、だれにもわからない。

 頭の中身は、だれにものぞけない。

 切りそろえられた料理データのように、記憶を味わうことなどできないはずなのだから。



 脳を切り分けよう、なんて狂気じみた冗談がまだ信じられていた頃、カレンダーは一三七三もまえの年を差していたという。

 “前頭葉を切り取ろう、さすればひとは穏やかになる”と言いながら凶行に及んでいたことなど、いまとなってはとても信じることはできない。

 ジョンとカーライルの実験台にされたチンパンジーには申し訳ないが、その犠牲はまったくの無駄だったと、かれは声高に断言できるだろう。


 脳は六つに切り分けられる。その容量は、GBギガバイトになおして一二八〇という数字になった。


 ひとの頭にある引き出しは、限られていた。後付けのメモリなんてものはない。

 ひとは積み重ねを繰り返し、脳内に“確固たる自分”を造り出す。普遍であるが、不屈ではないもの。


「あなたの名前は?」


 目覚めたばかりのかれが、白衣を着た男性に訊かれた。


 名前は、ひとをラベルわけするためのタグではない。今まで生きてきた指標、道標になるためのものだ。

 だが、かれは名前を訊かれてはっとした。

 後ろを振り返っても、道はない。

 かれには、名前がない。


「あなたは街で倒れているところを、こちらの病院に運ばれてきました。覚えていますか?」


 覚えていない、とかれは答える。


 本当は、自分がどこで生まれて、どうやって暮らしてきて、なにを思って生きてきたかも覚えていない、と吐露したかった。

 けれどかれは、それを堪えた。

 不安は、たやすく他人の共有できるものではない、とかれは感じた。それも、記憶に関するものは、どうやったって無理だろう。


 この焦燥感は、ひとに聞かされたって信じがたいものだ。記憶は失うものではなく、忘れるものなんだから。


「ナノマシンと、ナノシアターは?」


 ジョンソンと名乗る医師が、指先を宙で踊らせる。

 かれが指を目で追っていると、自分の視界に数字が浮かんでいることに、気が付いた。


 数字と文字と、枠線と選択肢。小さなブラウザと、空っぽのブックマーク。


 真っ白な病室と重なって、かれの視界にはネットワークが映っていた。


「使い方は? 分かりますか?」


 イエス、とかれは頷く。


 視線と指先で、視界に映る情報を右から左へと変えていく。


 いまは三三〇八年で、ここはオールスミスという海の傍にある街で、素敵な時間を過ごせる場所という情報と広告を見つけることはできたけれど、ネットの海にはどこにも、かれのことなど落ちてはいなかった。


 おかしなものだ、とかれは小さく笑った。思い出という“記憶”は持ち合わせていないくせに、こんなものの使い方は覚えているのか、と。

 自嘲ぎみな笑いは、医師の目に届くことはなかった。


「おかしなことではありません。おそらくあなたは、逆行性健忘と呼ばれる、いわゆる記憶喪失です。過去の記録を思い起こすことはできませんが、生活に支障がある状態ではないと思われます。

 その証拠に、あなたは私と話すことができ、ナノシアターの操作も問題はない。珈琲を淹れることも、料理をすることも問題なくできるでしょう」


 あなたが普段から料理をするひとであればですが、と付け足して、ジョンソン医師は傍にいた看護師に指示を出しはじめた。

 胸元に名札もペンも差していない看護師は、指示を聞き終わると、そのままどこかへ行ってしまった。


 病的なまでに白い部屋のまぶしさと、いつまでも視界に張り付くデータたちに嫌気がさして、かれはベッドにもぐり込んだ。


 目を閉じると、そこは暗闇だ。

 まぶたの裏側は、脳を映す鏡のように思えた。けれどやはり、そこにもかれはいなかった。頭をいくつに切り分けようと、どこにも自分が見えないのだ。


「最後に、あなたの名前ですが」


 暗闇の外から、ジョンソンの声が聞こえた。


「あのひとや、あの男性、もしくはあなたと呼び続けるのは、流石に失礼だと思いまして」


 暗に呼びづらい、と言われているような気がしたが、かれはなにも言わなかった。ジョンソンは沈黙を話し相手とし、言いかけたことばの続きを口にする。


「便宜上、あなたのことをジョン・ドウと呼ぶことにします」


 よろしくジョンと言って、ジョンソン医師の足音が遠退いていく。


 かれは引き留めようとしたが、結局ベッドから出ることはない。目を開ければ、うるさい文字たちが自分の頭を埋め尽くそうとする。

 いまのかれには、それが我慢できなかったのだ。


 ジョン・ドウ。


 ほかの患者とより分けるためにつけられた名前をつぶやいて、かれは小さく舌打ちした。たしかに、自分はなにも覚えていない。


 どこで生まれたか。

 どう育ったか。

 なにを学んだか。

 なにを想ったのか。

 すべてはゼロだ。



 けれど、自分は決して“・ド”ではないのだから。

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