まんじゅうブルー

流々(るる)

夜明け

 やまぬ雨などない、そう口にしたのは誰であったか。

 この年の皐月も半ばを過ぎて入梅したかと思うと、陽射しはどこかへ忘れさられた。来る日も来る日も降り続く雨は、大川端おおかわばたの堤を壊してしまうのではないかと本所ほんじょ辺りの人々をおおいに慌てさせた。

 はじめこそ、やれ傘張りの仕事が増えただの、瓦直しが儲かるだのといった話が聞こえてきていたが、やがて江戸の町からも活気がなくなっていった。

 長雨も終わり、やっとお天道てんとう様が顔をのぞかせるようになっても通りを行き交う人の影は少なく、まるで町が死の床に伏しているかのようだった。

 江戸に影を落としていたもの――それは流行り病である。

 熱を発し鼻水を垂らしと、風邪と思われていたこの病だが咽の痛みがひどい。ものを食すにもやっかいとなり、声がかすれ息が出来ぬようにすらなってしまう。

 命を落とす者が出始めた頃にせきやくしゃみでうつるという話も広まり、みなが出歩かず家で籠って過ごすようになってしまった。


 そんな中、小石川から明神下へ向かう二人の姿があった。

 一人は身なりの立派な年配の男で紫の風呂敷包みを手にしている。その前を案内するように急ぎ足で歩くのは丸まげに前掛け姿の女だった。

「いえね、もう丈夫を絵にかいたような人なんですよ、うちの人は。ほんとに元気だけが取り柄のような人で」

「これ、そう早口でまくしたてずとも――」

「胃の腑も丈夫で、大工仲間からは悪食あくじきの辰五郎なんて呼ばれてましてね。食い意地が張ってるから傷みかけてるようなものでも平気で食べてしまって。それでも腹も下さずに何事もなかったような顔をしているもんで――」

「これ、お内儀」

「はい? あたしのことですか? あらいやだ、お内儀なんて大層なもんじゃありませんよ。おせつと申します」

 ちょっと立ち止まって振り返ると、女は両手を前にそろえて頭を下げた。

「おせつさん、おまえさんの心持はよう分かるがまずは落ち着きなさい」

「でも先生……」

 ぐっと唇をかみしめ、言葉が続かない。

「この流行り病はわたしらでも手に負えぬのだ。無論、手は尽くさせてもらうが、あとは本人の気にまかせるしかない」

 おせつはもう一度深々とお辞儀をした。


 二人が長屋のとば口にたどり着くや否や、障子戸の閉まる音がいくつも聞こえてきた。木戸をくぐり、辰五郎の住まいへと進む。

 その間も両脇から注がれる息を殺した気配を感じていた。

「うちの人が伏せってからというもの、おみよさんも長介さんもみな口もきいてくれなくなってしまって……」

「それも致し方あるまい。みな己の家が大事なのだ。それほど恐ろしい病ということ」

 諭すようにおせつへ言うと、三尺はあろうかという白いさらし布を取り出した。

「おまえさんも病が移らぬようにこれをしなさい」

 口と鼻を覆うように顔へ二重に巻き、頭の後ろで縛る。おせつも見様見真似でさらし布をまげの下で結んだ。


「おまえさん、いま帰ったよ」

 くぐもった女の声が障子戸を開ける音とともに、四畳半で横になっている男へかけられた。眠っているのか、応えはない。

「お医者様に来てもらったからね、もう大丈夫だよ」

 おせつの声にうっすらと目を開けた辰五郎の枕元に座り、医者が風呂敷をあける。

 治療を受ける間も目を細めたまま、苦しそうに息をしている。

 その様子を心配そうにおせつはのぞき込んでいた。

「いかがですか、先生」

「心の臓も弱ってきている。食は取れておるのかな」

 女にだけ聞こえるような小声でたずねた。おせつは黙って首を横に振る。


「おせつ……」

 かすれた声で辰五郎が呼んだ。

「なんだい、おまえさん」

「あぁ……そこにいたのか」

 目だけがゆっくりと動いた。

「おせいと、新吉は、どうした」

「あの子たちなら七軒町の姉さんとこに預かってもらってるよ。早くあんたが元気になって迎えに行ってやらないと」

 笑顔を見せながら、おせつの目は潤んでいた。

「そうか」

 大儀そうに顔を横に動かし、子どもたちのいない奥に目をやる。

「ありゃ、なんだ……」

 辰五郎の視線があるものに留まった。

「まんじゅうか? 見たこともない色だが……うまそうじゃねぇか」

「あれは――」

 医者は黙って右手を伸ばし、おせつをとどめた。静かにうなずきながら目顔で促す。

 嗚咽が漏れるのを右手で抑えながら、油紙に乗ったそれを取りに立つ。

 医者はそっと男の体を起こし、背中を支えてやった。

 辰五郎は緩慢な動作でつまみあげると、ゆっくりと口に運んだ。

「おぉ……うまい……」

 口の周りに青い粉をつけながらうまそうに食べる姿を見ていられず、おせつは背中を向けてむせび泣いた。




 それから二日経った朝のこと。

 おせつが目を覚ますと、隣に寝ていた辰五郎が半身を起こしていた。

「おい、おせつ。腹が減ったな」

 この辰五郎の話は瞬く間に江戸の町へ広まった。

 まんじゅうにかびが生えるまで放っておく商いさえ現れたが、長雨も終わっていたため上手くかびることなく、そのうち流行り病も下火となっていった。

 それと共に青いまんじゅうは忘れ去られても、悪食の辰五郎の名は子孫代々まで語り伝えられたという。


      *


 青カビからペニシリンが発見されたのは千九百二十八年のこと。

 世界で初めての抗生物質として、ジフテリアなどの感染症に大きな効果がありました。

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