ネガイゴト

流々(るる)

 

 静か、という一言で表せないほど静かな朝だ。

 目を覚ましたのが今というだけであって、とっくに昼を過ぎていたのかもしれない。

 あの窓には午前中は陽が当たらなかったはず。

 カーテンの隙間から差し込む光をベッドで横になったまま眺めながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。

(昨日と今日で、いったい何が違うというのか)

 年が明けようが、同じ一日に変わりはない。

 いつもと同じように気怠けだるく退屈で騒々しい時間が流れていくだけ。

 指先や脳みそが少しずつ目覚めていくのを感じながら、このときはそう思っていた。


 初めて迎える東京の冬は痛みを感じなくなるほどに冷たかった。

 劇団にでも入ってバイトしながら演劇の勉強を、などと考えていた高三の自分を引っ叩いてやりたい。勉強どころか劇団へ入ることすらままならず、ただ生活する生きるためだけに居酒屋のスタッフとして時間を過ごしていた。

 ケバい女がけたたましく笑い、疲れた男が大声で会話を続けるその中を、何事もなかったかのように俺は泳いでいる。

 どこへ向かっているのかもわからずに。


 スマホに手を伸ばすと、やはり零時半を過ぎたところだった。

 それにしても静かだ。

 都会の正月は道を走る車も少なく、空気がきれいだと聞いたことがある。

 カーテンを開けて確かめると、いつもと違って澄んでいると感じたのは気のせいか。アパートの二階から眺める裏通りには車の影すらなかった。

 窓を閉めるときの違和感に気づくこともなく、椅子の背に掛けてあったダウンジャケットのポケットをまさぐる。

 指先に触れたのは煙草ではなく折りたたまれた紙きれだった。

(願い事が叶う、か)

 昨夜のバイト帰り、水野に誘われて店の近くにある小さな神社へ寄った。

 新しい年になって二十分ほどしか経っていないのに、境内にはそこそこの参拝客がいた。十分くらい列に並んでお参りしてから買ったおみくじは大吉だった。

 そのあと、競合店である居酒屋で数時間呑んでいたのでポケットに入れたままだったことをすっかり忘れていた。

(何が叶うっていうんだ)

 思わず鼻で笑い、テレビのリモコンを取る。


(ん?)

 もう一度スイッチを押したが点かない。真っ黒な画面のまま。

 コンセントを確かめたけれど外れていない。壊れちまったのか。

(どこが大吉なんだよ)

 イラついたまま煙草に火をつけた。

(あれ?)

 何かおかしい。

 何がおかしいのかわからない、でも――いや、これだ。

 手の中にあったライターを見た。

 火をつけてみる。

 炎は出るが……音がしない。いつものようにカチッという音もなく炎が揺れている。

(さっきからやけに静かだと思ったのは、まさか……)

 立ち上がってカーテンに手をかけると、音もなく閉まっていく。

 壁を叩いてみても音はせず感触が手に残るだけ。

 言いようのない不安がこみあげてきた。


 急に聞こえなくなってしまったのだろうか。

 突発性難聴という病名が頭をよぎる。

 おそるおそる声を出してみた。

「あー」

 よかった、聞こえる。耳が悪くなったわけじゃないらしい。

 でも、それならこの状況は何なのか。

 誰かに確かめたくて水野の電話番号を表示し通話を押しても、呼び出し音さえ鳴らなかった。

 よく見れば圏外になっている。こんなことは一度もない。

 そしてもう一つ。画面に表示されている時刻は零時半のまま、それもAM表示だった。

(そんな……)

 この明るさで午前零時過ぎのわけがない。

 それに、AMの小さな文字に気づかなかったとはいえ、あれから十分以上は経っているのに同じ時刻だなんて。

(いったいどうなっているんだ)

 まわりを見渡しても変わったところなんかないのに。

 いてもたってもいられず、ダウンを着て部屋を出た。


 吹き付けるはずの北風も感じないまま、いたるところに錆が目立つ白い鉄骨階段を降りていく。

 帰ってくるたび、その名前に毒づきたくなる「ホワイトパレス」と書かれたアパートの看板も、通りに面した家々もいつもと同じ見慣れたものなのに、どこからも音が聞こえてこない。

 まるで俺だけがここへ取り残されたかのように。

(誰か……誰でもいい、出てきてくれ)

 あたりを見回しながら歩いていたのが、いつしか小走りになり、大通りへ向かう頃には駆け出していた。息を切らしながらたどり着いた大通りには、どこをみても車はもちろん誰一人として姿は見えない。

 コンビニも、ラーメン屋も、不動産屋も、まるで等身大の模型のようだ。

 いや、俺がミニチュアの世界に入り込んでしまったのか……。

「おーい! 誰かーっ!」

「誰もいないのかーっ!」

「誰か返事をしてくれ!」

 俺の声だけが響き、やがてすーっと吸い込まれていく。

 音のない、見慣れた街並みが目の前に広がっていた。


 きっと今は泣き笑いのようなひどい顔をしているのだろう。

 アパートへ戻りながら、あることを思い出していた。



「こんな小さな神社でも人がたくさん来てるんだな」

 もうすぐ参拝の順番というとき、水野に訊かれた俺は確かにこう答えた。

「東京ってさ、人が多過ぎるんだよ。のに。そうすれば俺だって劇団にはいれてさ、演劇を――」

「はいはい、お前の願いが叶うといいな」



 俺の願い事はじゃなかったんだよ。

 こんな世界に一人でいたって……。

「ちきしょーっ!」

 アパートに戻り、近くにあった石をつかんで看板めがけて投げつけた。

 パリーン!

(音が……した!?)

 何かが割れるような――そう思ったとたん、空が粉々に割れて降ってきた。

「うわぁーっ」



 年が明けたばかりの一日も暮れようとしている。

 ホワイトパ白い城レスとは名ばかりの薄汚れたアパート、錆びた白い階段のそばには鏡のような光る破片が散らばっていた。



      ― 了 ―

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