私は恋をしていました。

小鳥 薊

始まらない恋

 地下鉄の改札口で、もたついてしまった。

 イチカは、降車したばかりの人だかりに運悪くもみくちゃにされ、乗降口にたどり着く前に電車は行ってしまった。

「もう! 髪の毛がぐちゃぐちゃ、っさいあく!」

 自慢のストレートヘアは、髪質が細くて多めだから、地下鉄の風で遊んだ後に絡まり合ったようだ。いつもは毛先を手で抑えるのに、人が多過ぎてそんな余裕はなかった。

(朝の小テストの勉強、何もやってないから、早く学校に行きたかったのに。)

 イチカは乗降口の列に並び、カバンの中からヘアブラシを取り出して髪を数回梳いた。それから、英単語帳をペラペラとめくる。

 イチカをおいて行ってしまった車両も、運転手も、それに乗客も、自分にこれっぽっちの慈悲はないだろう。イチカ自身、そうだ。前のお姉さんにも、後ろのおじさんにも、これっぽっちも興味がない。

(カバン重たいな。)

 通学のせいで、成長期が止まりそうだ。

 イチカは、ホームのアナウンスを聞き、英単語帳をカバンにしまう。

 二つの単語と例文を覚えた。

 いつの間にか、右も左もすごい列になっている。イチカは、電車が来るまでの短い時間、人間観察をすることにして、あたりをキョロキョロ見回している。

 学生、サラリーマン、おじさんにおばさん。こんなラッシュの時間帯に、お年寄りも結構いるものだ。みんな、カバンが重たそう。

「S往きの列車は、前の駅を発車しました」

 再びアナウンスが流れると、階段から押し寄せる人の流れは一層速くなった。 

(うわ。人、人、人!)

 まるで渓流みたいに、うごめいている。なんだか見ているだけで酔いそうだったので、イチカは目線を戻そうとした。

 その瞬間だった。目線を戻しかけたイチカの瞳は、たまたま映り込んだ男の子に奪われた。

 紺色の学生服に、清潔感ある薄茶色の髪型。そこまでマジマジとは見られないけれど、バレーボールの選手みたいな体格をしていて横に立つと大きな壁みたい。そのすっときれいな鼻筋から唇、そして顎の角度と喉仏のラインまでが完璧だった。

(こんなキレイな男の子っているんだ……。)

 イチカは、時が止まったように、その隣の列の男の子を見つめた。

 不思議なことに、イチカは今まで生きてきてこのような感覚を味わったことがなかった。うまく説明はできないが、例えばプールに体を浸けた瞬間。もしくは大好きな作家のマンガを最初に開く瞬間。この感覚はなんだろう。

(この人に、触れてみたい。この人に、知ってもらいたい。)

 時間でいうと一分も経っていないと思う。名前も知らない彼に一番近いイチカの身体の部分、左耳と左指が熱い。

 すると、イチカの視線に気がついたのか、男の子がイチカの方を向きかけた。彼に少しでも自分のことを意識してほしい。少しでも長く、自分のことを覚えていてほしい。


――パシャ。


 彼を忘れたくない、もう一度出会いたい。イチカは、自分でも信じられない行動をとった。


(ヤバ……、撮っちゃった。)

 イチカがケータイを構え、それに気づいた男の子の表情が変化する直前に、幸か不幸か電車が轟音とともにやってきた。

 イチカの長い髪の毛がふわっと舞って、再び下りてきた一瞬のうちに、周囲は何事もなかったように動き出し、イチカの列もずんずんと前へ進む。

 男の子は、何事もなかったように電車へ乗り込んでいった。

「ちょっと、邪魔なんだけど。」

 イチカの列の誰かが言った。後方の人たちは、イチカの肩にぶつかりながら、いそいそと車両に乗り込んでいった。イチカは、どけようにも足が思うように動かなかったので、昇降口から遠くへ追いやられ、その隙に車両の扉は閉まってしまった。

(あれ、あの人は?)

 発車のブザーが響く。

 イチカは、ケータイを構えた格好のまま立ち尽くしていた。

 電車がゆっくりと発車していく。

 ある扉付近の窓に目をやると、あの男の子がいた。

(ケータイ、こっちに向けてる……私を撮った?)

 電車は一気に加速し、風とともに遠くなった。


 一瞬、辺りは静まり返ったが、またあっという間に人で溢れていた。

 イチカはまた、次の列に並び直し、ケータイをいじる。さっき撮った男の子の写真。横顔が少しこちらを向きかけている。

(手がかりは、これだけ。また会えるかな。)

 その写真は、何分でも何時間でも見ていられる気がした。画像になってしまった彼を見ていると、夢から醒めた気がしてイチカは少し淋しい。

(これって、恋なのかな。)

 でも、たとえ恋だとしても、この恋は始まった途端に終わってしまった。余韻だけでは躍起にもなれない。





「……ということがありまして、」

「それが、小テスト零点の理由?」

 仲の良いフミに全部話した。

「これは、初恋と言っていいんでしょうかね。」

「うーん、まあそんなものでしょ。でも、この恋は実らない確率が高いね。諦めたら?」

「ひどい、フミちゃん。」

「だって、その男の子を探すにも、写真一枚だけでしょ?」

「うん」

 フミは、イチカのケータイの画像を凝視する。

「この制服ってさ……、ちゃんと探したらどこの学校かわかるかもね。」

 この恋を頑張るのも、諦めるのも、イチカしだいである。それに一つ、気になることがあった。あの男の子がイチカにケータイを向けていたのは、気のせいだろうか。

「もしね、もしもだけど」

「うん」

「何かの奇跡で、その子もイチカのことが気になって、イチカがやったようにあんたの写真を撮っていたとしたら……、ヤバくない?」

「盗撮女として警察に通報するために、だったら洒落にならんけど。」

 だんだん、自分がやったことが怖くなった。ひょっとして自分って、とんだ奇行に走ったのではないだろうか。

「ばか。まあどうせ、もう会えないかもしれないんだから良いように妄想した方がいいじゃない。私が言いたいのは、男の子もイチカにまた会いたいから写真を撮ったとしたら?」

「え?」

「今のイチカみたいに、友達に相談して、イチカのことを探してるかも。」

「フミちゃんって、すごい妄想力だね。」

「恋愛したことないイチカに言われたくない。」

 恋って、楽しいのかも、とイチカは思った。

 もし、もう一度会えたら――。もう少しだけ、想っていてもいいだろうか。

 イチカは、あのとき撮った写真を眺め、彼のラインを指でなぞった。 

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