とある少女と、おいしいまほう

よこどり40マン

とある少女と、おいしいまほう

 旅の商人ジャックは、平原のど真ん中でぼんやりと座っていた。


 地元では評判の商人だった若者もやがて独り立ちし、行商の旅に出て早や一年。調子に乗って誰も近寄らない森に入り込み、珍しい植物はないかと探したのが運の尽き。その森を拠点にする追い剥ぎに襲われ、馬車も奪われ、金も取られてしまった。途中で辻馬車を見つけても乗ることができない。

 考えていても無駄だ。とにかく人のいるところまで歩こうと足を踏み出す。


「……ん? この香りは?」


 鼻っ面を優しく撫でていくような良い香りに、思わず足を止める。


 これは、肉だ。


 それもとびきり上質なシロモノだ。


 そのことを認識した瞬間、ジャックの腹が盛大に空腹を訴えてきた。ジャックは見えない何かに導かれるようにして、その匂いの方へと歩を進めていく。


 ふと、前方に人影があるのに気づいた。平原を突っ切る道端にいるその人は、近づくに連れて少女であるらしいことが分かった。少女は鉄製の網で何かを焼いている。


 肉だ。


「あ、あの。すみません」


 少女の背中に向かって声をかけた。少女は振り向いてジャックの姿を認めると、やや警戒するように眉をひそめ、恐る恐るといった感じで返答する。


「はい? 何でしょうか」

「旅の行商人なんだけど、追い剥ぎに襲われて馬車も金もなくしてしまって。どこか休めるところは知らないかな」


 少女はジャックと肉を交互に見やり、何かを悟ったかのようにひとつ頷くと、固い表情を和らげてニコリと微笑みを返してくれた。


「休めるところ、連れて行ってあげますから、私のお願いを聞いてもらえますか?」

「え?」


 急にそんなことを言われて、ジャックは戸惑う。


「お願いって……どんな?」


 少女は微笑みを崩さず、ちょうど良い加減に焼けてきた肉に串を刺し、それをジャックの目の前にグイッと突き出して言った。


「これ、食べて欲しいんです」

「え?」

「お腹、空いているんですよね? 食べて……くれますか?」

「…………」


 気づけば、ジャックは無言で串を受け取っていた。

 一晩中、山を駆け巡っていた疲れなど、その滴り落ちる肉汁を見ればたちまち吹き飛ぶ。

 何の肉だろうか。いや、考えるよりも、今はただ味わうことに集中したい……!


「ふぐっ」


 大口でかぶりつく。唇から肉汁が何本も筋を描き、顎の先から雫となって落ちていく。

 思っていたよりも柔らかい肉質。舌がとろけそうになる感覚の後、やがて肉は嚥下された。


 ジャックは思わず、ほう、と息を吐いた。食べ物にありつけた安堵感か、それとも、この世のものとは思えないほどの美味な肉を味わえた喜びからか。とにかく、言葉というものを一時忘れてしまうほど、その肉のインパクトは強すぎた。


「あの、お味のほうは……」

「うん、うまい。すごく美味しかったよ」

「ほんと?」


 少女の声が明るく弾む。見ている方まで幸せにしてしまいそうな笑顔だ。


「ありがとうございます。うまく作れたか、不安になって」

「最高にうまかったよ。肉の焼き加減も良かったし」

「あ、その、そういうことじゃなくて」


 少女は手のひらをあたふたと動かしながら、次に言うべき言葉を必死に探している。やがてその小さな唇から、とぎれとぎれに台詞が紡がれた。


「……ま、魔法で、作ったので。それが、うまくいったかどうか、誰かに食べて欲しくって」

「魔法?」


 日常の会話では聞きなれない言葉に、ジャックは疑問符を浮かべる。


「村に来てください。調理場で実際に見れば分かりますから……」


 どっちみち、どこかの村の世話にならねば死んでしまう。ほどなくして、ジャックは少女の小さな背中を見ながら草原の街道を歩き始めていた。





 草原に囲まれた小さな村は、煉瓦造りのしっかりとした家屋が立ち並び、ちょっとした強風にも耐え忍ぶことができる様を伝えている。


「ここです」


 少女は平屋の前で足を止める。扉を開き、ジャックを中へと招き入れた。木彫りのテーブルと椅子がリビングの中央にあり、床には藁で編まれたカーペットが敷かれている。


「ここに、一人で……?」


 ジャックの問いかけに、少女は黙って頷く。


「母は数年前に亡くなりました。遺してくれたこの家で、一人で住んでいます」


 ややトーンの落ちた声に、ジャックは余計なことを訊いたと後悔する。


「あと、母が遺した仕事も……『魔法食品』の生成も受け継ぎました」


 そして再び出た、魔法という言葉。食品というからには、何かしら加工されて売買されている可能性が高い。未知なる商機の匂いに、行商人としての血が騒いだ。


「ねぇ、その魔法っていうやつ、一体どういうものなの?」


 商人としての顔は極力表に出さないよう務めながら、ジャックは少女に問うた。


「調理場で見た方が早いと思います」


 部屋の奥にある階段を指差し、少女が微笑む。ジャックは薄暗い地下への階段を注意深く降りていく。

 地下はひんやりとした空気が漂い、幾つかのランプの明かりでぼんやりと照らされていた。その薄暗い部屋の壁には、大量の調理器具や料理に関する書籍が所狭しと並んでいる。


「あ、名前。言ってませんでしたよね」


 少女はくるりとジャックの方を振り向き名乗った。


「アンリです。ようこそ、私の調理場へ」

「ジャックだよ。どうぞよろしく」


 パン生地のように柔らかいアンリの手を、ジャックの無骨な手が包み込み握手が交わされた。


「ジャックさん、見ててください。今から魔法をお見せします」


 アンリは食器棚の中から一枚の皿を取り出すと、それをテーブルに置いた。そして皿に向けて両手をかざし、目を閉じて何やら口元でつぶやき始める。

 すると、手のひらから淡いブルーの光が生まれ、それが丸く円を描いた。そして鼓動と同じリズムで拡大縮小を繰り返す。テーブルの上に視線を移すと、何もなかったはずの空間に、光に包まれた物体が自身の輪郭をなぞるようにして現れていくのが分かった。


「……できました。簡単なお料理ですけど」


 テーブルには、一つの小さなお碗。白米の上に生卵がそのままかけられた、奇妙な料理が乗っていた。


「これは?」

「卵かけ御飯って言います。はるか遠くの島国で食べられているらしいです。私も少し前まで本でしか見たことなかったですけど、美味しいんですよ!」


 お椀を指し示して、元気よく声を張るアンリ。


「生卵……」


 ジャックは目の前のお椀と、アンリの楽しそうな笑顔を交互に見比べる。卵を生で食すなど、これまでの人生で一度も聞いたことがない。それに、卵は基本的に何らかの加工や調理をするなりして、一度滅菌を経由してから口に運ぶものだ。ジャックには卵を生で食すという行為が信じられない。

 だが、ここで「いらない」などと言って断ってしまったら、果たしてアンリはどんな顔をするだろう。様々な葛藤を頭の中にめぐらせ、結局彼女の好意を素直に頂戴することにした。


 スプーンですくって食べようとすると「これを」と言ってアンリが黄身の上に黒い液体をかけた。調味料らしきそれをかけられた「卵かけ御飯」は、明るい黄身と漆黒に光る液体が折り重なり、前衛芸術のような雰囲気を醸し出している。しかし、卵と調味料の混ざったその匂いは、不思議とジャックの食欲をかきたてる効果を大いに発揮していた。


 スプーンに白米と黄身をうまく混ぜ、口に運ぶ。

 その瞬間、白身と黄身のとろりとした食感と、調味料の放つ甘辛さが舌の上で渦巻く。

 温かな白米とのハーモニーも絶妙で、ジャックは間をおかずに二口目、三口目と次々に口内へ放り込んでいく。

 気づけば、お椀の中はすっかり空っぽ。後に残ったのは美味しいもので腹を満たしたジャックと、自身の魔法食品で人を幸せにすることができたアンリの、幸福に包まれた二つの笑顔だった。





 行商人としての道具をほとんどなくしてしまったジャックは、アンリの厚意に甘えてしばらく住み込みで「魔法食品加工業」の手伝いをすることにした。「魔法食品加工業」とは、アンリが商売のために暫定的に名付けたものであるらしく、この仕事に正式な呼び方はまだないという。村の民は、魔法屋さん、などと呼称しているとのこ

と。


「私の魔力は、母に比べたらまだまだ未熟でして……」


 そう言いながら、アンリは手のひらであの淡いブルーの光を描き、また見たことのない食品をテーブルの上に生み出していく。今度は『ざるそば』というらしい。麺類だと思われるが、その色はグレーっぽく、何やら竹を加工したような敷物が麺の下に敷かれている。

 これも黒い調味料に浸していただくが、卵かけ御飯にかけたものとは別のものである。


「お昼ご飯にぴったりなんです。あまり重くなくて、消化にも良さそうですし」

「うん、確かに。同じ麺でも、パスタとは違った食感だね。脂っこくもないし。この、メンツユ? とかいうのも、味を良く引き立たせてる」


 フォークでくるくると巻いて口に運ぶたび、舌が喜んで幸せを主張してくる。喉の奥にするっと通っていく感覚がなんとも心地よい。メンツユとグレーの麺の相性は抜群で、冷たい食べ物ではあるが、何杯でもいけそうな気がした。


「私、魔法食品を世界中に広めたいんです」


 ワンピースの胸元を数滴のメンツユで汚したアンリがにこやかに言った。


「生き物の命を奪わず、場所も選ばず、誰にでも美味しい食事が提供出来る……。母が与えてくれたこの力を、人のために役立てたいんです」


 いつもの優しげな声色が、やや大きくなる。その様子から、彼女が本気でこの仕事を続けていきたいという意志が感じられた。この食料不足の世情からして将来的に大きな産業になり得ると、商人ジャックは一人で勝手に期待してしまう。


 お昼を食べ終える頃、ちょうど村の奥様方がアンリの『新鮮魔法野菜』を買いにやってきた。玄関先に簡易テーブルを置き、真っ白なクロスを敷いて、その上にみずみずしく色鮮やかな野菜たちを並べる。騒がしい主婦たちを、アンリは常に笑顔で丁寧に接客していく。アンリの「作った」野菜は畑で育てたものと寸分違わず、今日のぶんの野菜は陽も傾かない内にすべて売り切れてしまった。


「お疲れ様です、ジャックさん」


 アンリが手ぬぐいを差し出す。ジャックは礼を言って受け取り、額に滲んだ労働の証をゴシゴシと拭き取った。


「でも、すごいね。毎日あのお母さんたちを相手に?」

「はい。みなさん私の作った野菜を喜んで買ってくれるんです。その嬉しそうな顔を見るだけで、生きる力が湧いてきます」


 アンリも手ぬぐいで首元を拭きながら、笑顔で答えた。年の頃はまだ一〇代なかばといったところなのに、しっかりしている。


 魅力的な魔法の世界。


 やがてジャックの心でほんの少し、悪魔が囁いた。

 アンリには悪い、本当に悪いと頭では何度も繰り返す。しかし、商人の持つべき好奇心に、彼の身体は勝てなかった。





 草木も眠る深い夜。

 抜き足差し足で調理場に降りていくジャックの胸中は、複雑すぎる思いが無限に渦巻き、支配していた。


「ごめん、アンリ。どうしても、魔法の秘密が知りたいんだ……」


 真夜中の調理場は昼間よりも空気が冷え、ランプの明かりが余計不気味にゆらめいている。本棚に並んだ大量の書籍。ジャックはそのうちの一冊を手に取り、明かりに近づけてページを開いた。

 本の中は見たこともない料理や食材ばかりが踊り、そのすべてに呪文と思われる文言が添えられている。

 いつの間にかジャックは、本に描かれた魔法食品を眺めることに夢中になっていた。次のページには一体どんな食べ物が載っているんだろう。そんな期待が止むことはない。


 そして、残りページも少なくなってきたとき、ジャックはある変化に気づく。


「ん? なんだこれ? ページの色が……」


 それまでは白いページが主体だったのに、終盤に掲載されている料理の背景色は、なぜか灰色に変わっていた。文字のフォントも、なんだかおどろおどろしい形に見える。

 そこに描かれている料理は、一見普通のスープやサラダなのだが、呪文の長さが今までより圧倒的に長い。これは詠唱に時間がかかりそうだ。


 何か特殊な料理なのか、それとも……。


「ジャックさん!」


 突如地下に響いた大声。


 振り向くとアンリが寝巻き姿で立っていた。


 ジャックが口を開くよりも早く、アンリは大股で一気に距離を詰め、その高い鼻先を息がかかるほど近くに持ってくる。


「……見ましたか」

「な、なにを?」

「見ましたね」


 昼間、奥様方に笑顔を振りまいていたのと同一人物とは思えない、鋭い眼光を持った少女。ジャックはその視線に刺された瞬間に悟った。あの本に書かれていた終盤の料理に、何か大きな意味があると。


「見た。けれど、僕には何が何だか、理解も全くできなかったし、実質見ていないのと同じだよ、うん」

「禁忌魔法を狙っているのでは、ないんですね?」

「キンキマホウ?」


 また聞きなれない単語が飛び出した。アンリは真剣な表情で言葉を続ける。


「魔法食品には、絶対に作って人に食べさせてはいけないものがあるんです。かつて悪い魔法使いが生み出したと言われています。私は母から、そこの本に載っている灰色のページの料理や食材は決して生み出してはいけないと、小さい頃から厳しく教えられてきました。禁忌魔法食品は、食べると体に何らかの影響が出るんです。それは眩暈とか頭痛といった小さなものから、人を殺めてしまうほどの毒を持った恐ろしいものまで……」

「そんな怖い料理があるんだね。ごめん、勝手に本を読んだりして」


 ジャックはアンリに向かって必死に謝り倒す。しかし、アンリは勝手に本に触られたことについては全く怒っていなかった。それよりも、ジャックが禁忌魔法に悪い興味を持たなかったことに安心したようだった。


「ところで、さっき魔法を狙ってる、とかなんとか言ってたけど?」

「あ、それは」


 ふと発した疑問に、アンリは顔を曇らせてうつむく。何か言おうと迷っているようにも見えたが、


「いいえ、何でもありません。さ、早く寝ましょう。明日も早いですよ」


 やや早口で、まるで次の言葉から逃げるかのように、アンリは階段を急いで昇っていった。これはまだ何かあるな、とジャックの心にはモヤっとした塊が残ったものの、急に襲ってきた睡魔には勝てず、おとなしく床につくことにした。





 翌日、ジャックはニワトリの声ではなく、やかましい人間の声によって叩き起こされた。


「だ〜か〜らぁ、こんな田舎でちまちま作ってるよりも、都に出てドバッと大量生産したほうが絶対国民のためになるわけよ?」


 甲高く下品な男の声。ジャックはすぐに体を起こし、声のする食卓の方へ飛び出した。


「絶対に嫌です。何度来られても、返事は変わりませんよ」


 強気な口調で言い返すアンリの姿が目に飛び込む。

 彼女が相対しているのは、背の高い痩せた中年の男だった。おろし立てかと思われるタキシードに身を包み、両横には屈強なボディーガードを携えていた。


「アンリ、これは……?」


 ジャックがアンリに近寄ると、タキシードの男はまるで汚物を見るような目でジャックを睨みつける。


「ん〜? 誰? アンリちゃん、まさかアンタ、男ができたのか?」

「バカなこと言わないで。この方は旅の人です。少しの間ここに住むことになったの」

「ふ〜ん。ま、どうでもいいけど。あのね、キミが持ってる魔法は、私らの国の幸せのために、絶対必要なものなの。さらに突っ込んで言えば、ほら、アレ。そうだ、禁忌魔法とかいうの? それがあれば、も〜っと面白いことができるよ?」

「だ、ダメです!」


 禁忌魔法、という言葉が出た瞬間、アンリの気丈さが少し崩れ、その声が裏返った。


「ど〜してもダメって言うなら、力ずくで連れてっちゃうよ?」


 男たちが一歩ずつ前に歩み寄る。ジャックには武術の心得などない。


 どうにかしなければ、と思った瞬間、タキシードの胸元に光るバッジが目に入った。それには見覚えがあった。


「あ、あなたは。この国の政府の役人ですよね?」

「あん?」


 男たちの足が止まる。三人はアンリからジャックの方に体を向けた。


「そ〜だけど。私は国王陛下に命令されて、ここの家の娘に王国直属のシェフになってもらおうとしているだけなんだよ」

「う、うそですね。私は国王陛下にお会いしたことがあります」


 ジャックの放った言葉に、一瞬目を丸くするタキシードの男。ジャックは続ける。


「僕は旅の行商人です。一度だけ、国王陛下のご趣味である壺や皿を御前に運んだことがあります。国王は、こんな駆け出しの商人にとても優しくしてくれました。こんな、未知の力を無理やり奪い取るようなお方ではありません」


 男の口元がヒクヒクと動く。心なしか動揺しているようだ。


「わ、私はちゃんと国王陛下のご命令で魔法を」

「あなたの私腹を肥やすため、ではないのですか?」


 うぐ、と男たちが口ごもる。ジャックにはだんだん真相が見え始めていた。


 この男はアンリの魔法を使い、あぶく銭を貯め込もうと画策しているのだ。いつか人の役に立ちたい、と言っていたアンリの表情が頭をよぎる。ジャックの胸は徐々に恐怖から怒りの感情に支配されていく。


「お引き取りください。さもなくば、次に王都へ仕事に行った際、このことを王宮にバラしますよ」

「お、お前なんかの言うことを王宮が聞くもんか」

「記録しています。魔法でね」

「何っ?」


 慌ててキョロキョロと辺りを見渡すタキシード。痩せた体と相まって、その動きはまるで壊れたおもちゃのような滑稽さがあり、ジャックはつい笑いそうになる。


「あなたたちがこの家に来てから、すべての声は魔法が拾っています。それを王宮に提出しますよ、と言っているんです」


 タキシードの男は顔を歪ませ、ギリギリと歯ぎしりをする。やがて両側にいたボディーガードに合図し、乱暴にドアを開け放ち去って行った。


「た、助かった……アンリちゃんは大丈夫?」

「私は大丈夫です。けど、記録魔法なんて私聞いたことない……まさか、ジャックさんも魔法の使い手?」


 目を丸くして驚くアンリに、ジャックは笑いながら首を横に振った。


「違うよ。あれはでまかせ。魔法のことをよく知らない奴でよかった」


 ジャックが笑い飛ばすと、彼女の体が突然ゆらりと揺れ、倒れそうになった。ジャックはその痩身をしっかりと抱きとめる。


「ど、どうしたの、急に」

「もう、あまり、無理をしないでください。もしジャックさんに何かあったら……」


 顔が胸にうずめられ表情こそ見えないが、小さく鼻をすする音で察しがついた。


 ジャックは小さな声で、ごめん、と謝る。

 アンリに心配をかけさせてしまった。この子はたった一人でこの家と魔法を守ってきたんだ。何度もあのような下衆な男たちに脅されながら。


 その日は露店を臨時休業にし、アンリの心を休ませることに徹した。もちろん、村の奥様方はすこぶる心配をしてくれて、ジャックはお見舞いに来てくれた奥様方のパワーに気圧されながらも、アンリがいかに村にとって大切な存在であるかを再認識した。

 アンリは次の日には露店を再開し、また美味しそうな魔法野菜や魔法果物を生み出し、奥様方を喜ばせる。ジャックも魔法食材を倉庫に運ぶ手伝いや、体の悪いお年寄りのところへ商品を宅配するなどの仕事を得て、少しだがアンリから初めて給金をもらった。年下の女の子に金をもらうのはなんだか妙な感覚だった。





 それからしばらく経ち、季節も冬を迎えて雪がちらつき始めた頃だった。


 ジャックは風雪の舞う中、アンリが作った『魔法米』が詰まったワラ袋を台車に乗せ、倉庫に格納するという作業をしていた。夕方頃から降り始めた雪は、やがて風とともに強くなり、だんだんと草原を白く染め始めている。

 明日の朝はきっと一面の銀世界だろう……と思いながら肩を丸め、勝手口から家の中に入ろうとした瞬間、


「ぐぁ!」


 ジャックは後頭部に激しい痛みを感じ、その場に倒れこむ。


「はい、残念でした〜」


 そこには、いつかアンリを脅していた、あの男が立っていた。今は真っ黒なコートを見にまとっている。ボディーガードも二人、しっかりと背後につけていた。


 タキシード改めコートの男は、地面にうずくまり動けないジャックを見下ろしながら言った。


「いや〜、ちょっと政務が忙しくてねぇ。それが落ち着いたからちょっと様子を見に来たってわけ。まぁ、様子見っていうか、もうアンリちゃんもらっていくけどね」

「ま、待て……」

「待たないねぇ。ここ寒いし」


 コートの男とボディーガード二人は、ジャックをまたぐようにして勝手口のドアノブに手をかける。


「な、何?」


 驚いた声を発したのは食卓の片付けをしていたアンリだ。察しの良い彼女はすぐに状況を理解し、近くにあったモップを両手持ちで前に構える。


「何度来ても、魔法は渡しません!」


 ジャックはすぐ起き上がろうとしたが、ボディーガードによってあえなく捕らえられてしまう。


「アンリちゃん、彼が雪原の藻屑になるのが嫌だったら、おとなしく私たちについてきてほしいんだけどな〜」


 男の手には小さなピストルが握られていた。


 小さくとも、人を傷つけるのには十分すぎる。ジャックは思わず叫んだ。


「逃げろっ! アン……」


 しかし、決死の叫びは無情にもボディーガードたちの暴力によってかき消される。

 再び頭を強く殴られたジャックは、徐々に意識がもうろうとしてくる感覚に襲われた。


 アンリは窓際まで逃げて、カーテンにくるまっていた。いくら強気なフリがうまいアンリでも、ピストルを向けられてはこうなるに決まっている。


 一人の女の子に、一体どこまで重荷を背負わせれば気がすむのだ、こいつらは。


「さぁ〜て、アンリちゃん。怯えてる暇はないよ。君にはこれからお仕事がたくさんあるんだから」


 男の手がカーテンにかかる。ジャックは固く目をつぶり、無力な自分を呪った。


 次の瞬間、


「……え?」


 目をつぶっているのに目の前が明るくなった。


 驚いて目を開けると、強い光が視界を覆い、やがて収まった。


 同時に、それまでジャックを縛っていたボディーガードの腕から力が抜け、体が自由になる。

 彼らはなぜか床に倒れこんで動かない。コートの男を見ても、同じような状態だった。


 暴漢三人衆は、完全に気を失ってしまっていた。


「アンリ! 大丈夫?」


 すぐさま駆け寄ると、彼女の手には皿のようなものがあることが分かった。

 かすかに感じる、甘い香り。それを嗅いでいると、なぜだか心地よい眠りに誘われるような……。


「ダメ! 嗅がないで!」


 だが、それはアンリの声によって打ち消された。ジャックは倒れている三人を見て、次いでアンリを見やる。


「一体、なにがどうなったのか……」

「ジャックさん、私……母の教えに背いてしまいました」


 震える声で言葉を紡ぐアンリ。

 母の教え……それは、もしかして。


「……禁忌魔法、使ったんだね」


 その問いに、少女は黙って頷く。


「これ、『眠れる深海のスープ』って言います。一滴でも口に入れば、季節が変わるまで起きることはないという、強力な睡眠料理です。香りだけでも一週間は爆睡ですよ」

「そ、そんなものが……」

「ジャックさんの口に入らないように、狙ってかけました。多分、この人たちは雪が溶けるまでここに眠ったままです」


 哀れむような顔でコートの男を見下ろすアンリ。彼女がカーテンの裏に隠れていたのは、怖くて怯えているからではなかった。冷静に、この暴漢たちを黙らせるための料理を生み出していたのだ。


 彼女は、決して弱くなどなかった。むしろ、勇敢にも立ち向かっていたのだ。


「ジャックさん。私、この村を出ようと思います」


 唐突にそんな告白をされたものだから、ジャックは驚いて「え?」と大きな声が出てしまう。

「私は母の教えに背き、あまつさえ他人に禁忌魔法を使ってしまいました。あなたを、守るために……」

 悲しみの色を携えた横顔が、ジャックに背をむける。

「このまま村にいても、そのことが頭をよぎって、辛いと思うんです」

 アンリはそう言いながら玄関のドアを開ける。先ほどよりも一層強くなった雪と風が室内に入り込み、ジャックは身震いする。


「待って、アンリ……待って!」


 暗闇の吹雪の中を出ていくアンリの背中を追いかけ、ジャックは後ろから両腕で力強く抱きとめる。折れそうなほど繊細なその体は抵抗することもなく、二本の腕を静かに受け入れた。


「アンリ……一緒に旅に出よう。いつか言ってくれたよね? 魔法の力で、人々を幸せにしたいって。僕は、アンリが魔法で人を幸せにする時の笑顔が、見たい」


 吹雪の音がうるさくて、アンリの返答はよく聞こえなかった。しかし、ジャックには彼女がその時何と返事をしたのか、はっきりと分かっていた。


 魔法食品を世界中の人に届けたい……。おそらく、その夢をちゃんと語れた相手は、ジャックだけ。一番信頼できる人と、夢を叶えるために歩んでいく。

 頬に当たる雪が、今だけはとても温かく感じるのは、果たして魔法のせいなのだろうか。

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