おはようのむこうがわ

桜々中雪生

おはようのむこうがわ

 おはよう、と声に出せば、さらりとした髪の靡きとともにおはよう、と返ってくる。おまけに笑顔までつけてくれて、首をこてんと傾ける様がとんでもなく愛らしい。じぃんとその感動に打ち震える、までが僕の平日の日課。今日はいい天気だね、お昼食べたら午後の古典寝ちゃいそう、なんて話が続けばラッキー。ソーシャルゲームでSSレアを当てた気分だ。まあ、SSレアランクだから、ほとんど確率はゼロに近いのだけど。僕たちの間にあるのは、挨拶だけ。それ以上は僕の心臓がもたない。姿を見つけたら十回ほど深呼吸をして、さも今気づいたという風に近づいていく。おはよう、とだけ声を掛けて、向こうが返してくれたのを認めるとそそくさと下駄箱へ向かい、上履きに履き替えて自分の教室へ。それだけで充分だ。何というか、驚くほど欲がない。本当に、それで充分なのだ。たとえ、僕が憧れて、恋い焦がれて、高嶺の花として想いを寄せる小坂美幸その人が、同じクラスで、ましてや僕の後ろの席だったとしても。充分すぎるほどだ。大事なことだから、敢えて三回言った。僕は高望みしない。小坂さんの微笑みも優しい声音も、皆に平等に与えられるものだから。

 席に着いて、ホームルームもまだ始まっていないのに一限の教材を準備して本を開く。今はトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んでいる。男女の関係が入り乱れていて、何というか、すごい。僕には一生縁のなさそうな恋愛模様。ぺらりとページをめくったとき、後ろの椅子ががたりと音をたてた。小坂さんが、席に着いたのだ。いつも通り、重さを感じさせない軽やかな動きだったんだろう。椅子を引く音しか聞こえなかった。だけど、それだけで小坂さんがいるとわかる。はあ、前の席でよかったなあ。役得、役得。後ろの席だと、ふと振り返られたときににやけちゃってたりするとまずいもの。前の席というのがミソだな。

「おはよ、美幸ちゃん」

「あ、遥ちゃん、おはよう」

 あああ、幸せだ。真っ白な羽根と小さな鈴を足したような声。それで僕に本を読んでくれたり、あわよくば愛を告白したりしてくれたらなあ! それで一年くらいは飲まず食わずで生きていける気がする。……いけない、妄想が捗りすぎて、一行も進んでない。

 ……あ、全然読めてないのにいつの間にかホームルームが終わってる……。あぁ、一限は化学だっけ。さて、気持ちを切り替えますか。この調子なのが万一小坂さんにばれたら、幻滅されてしまうかもしれないし。勉強、しておいて損はないし。


     *     *     *


 ひとりで自席に就いたまま、弁当箱を開く。ちなみに僕の手作りだ。母さんが夜勤の日は、休んでほしいからね。うん、今日の卵焼きは甘めで美味しい。ごはんもふっくら炊けてる。小坂さんが作ってきてくれたお弁当だと思って食べると、美味しさ倍増だ。虚しくなんてないよ、全然。

 僕がひとりでご飯でも、他人はそうではない。小坂さんは、いつもの三人組で机を囲み、ころころと談笑しながらお弁当を食べている。「あ、美幸ちゃんのハンバーグ美味しそう、一口ちょうだい!」「もー、仕方ないなあ。はい、あーん」「やったー、美味しいー」……う、ずるい。僕も女の子になって小坂さんのお弁当をあーんして食べさせてもらいたい。思わず顎の力で箸を折りそうになった。と、そこに、

「みゆ、お前さ、今日のカラオケ来る?」

 出た、と僕は身構える。別に向こうは僕になんて目もくれないのだけど。隣のクラスの、バスケ部の副部長で、成績も常に上位十番あたりをうろうろしている、爽やかめの男子。休み時間になっても自席で本を読み耽り、ひとりでお弁当を食べる僕とは違って社交的で友人も多い。小坂さんもその一人なのだろう。……僕にはそう見えないけど。自分が話しかけられたわけでもないのに、身体を強張らせて、会話の動向に耳を澄ます。声の聞こえ方で位置関係を把握する。……小坂さんに近づきすぎじゃないか、ちょっと。

「うーん、今日は遠慮しとこうかな」

 眉尻をくにゃりと下げて笑う。今日の化学、宿題いっぱい出されちゃって。と、角の立たないような理由までつけて。完璧だ、本当に。それでこそ僕の憧れの人。

 えー、美幸来ないの?

 残念ー。

 ごめんね、化学苦手だから……。

 特に気まずい空気になることもなく、後ろで会話が続いていく。

 俺が教えてやるよ、なんて展開になりやしないかとヒヤヒヤしたが、さすがにモテそうな風貌なだけある。いきなり皆の前で堂々と誘うなんてことはせず、そっか、じゃあまた今度な! と朗らかに笑っていた。いつの間にか数学の教師が僕たちの教室に入ってきていて、早々と今日の単元の問題を黒板に書き出していた。あ。小坂さんが声を漏らす。小さな声だったけれど、僕は聞き逃さない。だって、常に彼女の声を、彼女がたてる物音を聞き取るために、耳を澄ませているからね。

「ね、そろそろ予鈴鳴っちゃうよ。先生も来てる」

「あ、まじだ。んじゃ俺、そろそろ戻るわ。今度はみゆも来いよな!」

「うん、ありがとう。またね、高橋くん」

 あいつ高橋っていうのか。全然興味がなかった。取り敢えず小坂さんについてしか知りたいことはないから、あいつの情報は消し去っておこう。脳みその引き出しの無駄遣いになる。ぱちぱち、二度瞬きをする。さて、あいつの名前はなんだったかな? ……思い出せない。よしよし。

 チャイムが鳴ると、委員長が号令をかける。クラス替えの度に「あいつ委員長ぽいよな」と陰で言われているけれど、僕は、生憎そんな器じゃない。委員なんかより小坂さんだ。小坂さんに時間を割きたい。ガタガタ全員の椅子が音をたてるなかで、僕は小坂さんの椅子の音を聞き分けられる。かたん、かた、と控えめなのが小坂さん。その音で、頭を授業に切り替えるのが(特に誰に自慢できるでもない)僕の特技である。本音を言うなら授業だろうがなんだろうが小坂さんに神経を全集中させていたいけれど、小坂さんに恥じる生き方をしたくないので、最低限すべきことはやるのだ。


 美幸ー、さっきの問題よくわかんなかったんだけど、どうやったらいいの?

 さっきのはね、ベクトルの向きがこっちとこっちだから……。

 小坂さんはすらすらと答えていく。家で予復習を入念にやるタイプなんだろうか。……うん、ぽい。そういうところが好きなんだけどね。真面目というか、それでいて努力の跡を極力見せないところが。

 休み時間の度に、こんな風にクラスや他のクラスから小坂さんの元へ人が集う。それは偏に、彼女の人徳なんだろうなと思う。僕だけじゃなく、彼女を好きだという男子は学年に多いんじゃなかろうか。そんな中で、僕は埋もれていくだけだろうから、多くは望まない。ただ、このクラスで、この席でいる間くらいは、小坂さん限定の変態みたいでも許してほしいと思う。どうせ隠したところでむっつりに違いないから。


 彼女の隣に堂々と立てればいいのに。

 そんな願望も虚しく、日々は何事もなく過ぎていくんだ。


     *     *     *


「今から帰るの?」

 背後から突然小坂さんの声が聞こえて心臓が飛び跳ねた。口から飛び出そうになったそれをぐっと飲み込んで、何とか身体はびくりとしないよう抑える。

「え、あ、うん」

 じゃあ、と彼女は笑った。

「一緒に帰らない?」


 ……どうして、こんなことになっているんだろう。通学路の並木通り。少しだけ傾きかけた夕陽。隣には小坂さん。脳みそが教室から動いていない。何か会話を交わしたのかもしれないけれど、脳みその抜け落ちた頭はふわふわして記憶がない。はっ、もったいない! せっかくの会話を覚えていないなんて……!

 ぶんぶん頭を振ると重さが戻ってきた。よし、もう一言一句聞き逃しはしないぞ。

「? どうしたの?」

「あ、いや、何でもないよ! ちょっと虫が飛んできただけ!」

 あはは! と不自然極まりない笑い声が出た。ふうん、ならいいけど。と何だか不服そうな表情で言って、小坂さんは「ねえ」と僕を見つめた。

 おや? と思った。どうにもおかしな展開になりそうな予感。

「わたしね、君が羨ましかったの。自分の世界を持っているところが」

 おや? と再び。買いかぶられている気がする。何のことを言っているのだろう。自分の世界? 僕はそんな大層な人間じゃあない。

「誰と無駄話をするでもなく、ずーっと本を読んでいるでしょ? いいなぁって思っていたの」

 本を読みながら、その半分くらいは小坂さんのことを考えていると知ったらどんな反応をされるんだろう。うわぁ……みたいな反応されて白い目で見られたら僕はもう明日から学校に通えない。何なら今日だって早退して部屋で泣く。ものっそい過大評価は肩身が狭い。

「僕は別に、自分の世界なんて持ってないよ……」

 本を読むのはアリバイ作りのようなものだから。疚しいことは何もないっていう、言い訳。……いや、疚しさだらけなんだけど。

「そうなの?」

 そうだよ。だって、

「本を読んでいる間は誰にも話し掛けられないし、そうすれば、小坂さんに集中できるから、本を開いているだけ」

 正直なところ、休み時間の僕の脳内の内訳は本の内容二割、小坂さん八割くらいだ。

「え?」

 小坂さんが首を傾げている。おはよう、よりも少し角度が急だ。可愛い。

「……え?」

「「……………………」」

 ……あれ、もしかして声に出てた? 僕?

 うん。ばっちり、聞こえたよ。

 目だけで会話する。通じている気がするのは、なぜだろう。小坂さんのぷっくりした唇が艶めかしく開けられる。そこから吐き出された言葉は、

「わたしに、神経を集中させてるの?」

 やらかした!

「……嬉しい!」

 僕が脳内で頭を抱えると同時に、

「わたしの大好きな君が、わたしのことを四六時中考えてくれてるなんて、とっても幸せ……! どうして今まで教えてくれなかったの?」

 え? 何やら想像してなかった答えが返ってきた。

「……あのー」

「なあに?」

 首を傾げる小坂さん。こんな状況ですら可愛いなんて本当に反則だ。

「気持ち悪くないの?」

「気持ち悪い……? どうして?」

「だって、ストーカー紛いのことをしてたわけだし。告白もしないで、一方的に……」

「わたしのことを考えてくれてたんだよね? 他に、ストーカーみたいなことをしたの?」

 家まで後を尾けたり、合鍵を作って忍び込んだり、盗撮や盗聴をしたり、落ちてる髪の毛を拾って保存したり……と、やけに具体的な例が上がってくる。小坂さん、ストーカー被害に遭ったことあるのか? もちろん僕はそんなことはしていないから、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。

「……そっか」

 何で少し残念そうなんだろう。気のせいかな。

 別に、それくらいしてくれててもよかったんだけどな。

「……?」

 とんでもないことが聞こえてきた気がする。いや、小坂さんに限って、そんなこと言うわけない。ストーカーちっくなことを、してほしかった、なんて……。

「あっ、今の、聞こえてないよね?」

「え!? う、うん、ストーカーしてほしかったなんて、聞いてない、聞いてないよっ?」

「聞こえてる……」

 はぁっ! 何だか今日は墓穴を掘ってばかりな気がする! 僕って、小坂さんとはまるでまともに会話ができないんだ。

「でも、冗談だからね?」

 その言葉にほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、

「してほしいよりは、むしろ、わたしがしたいかなって思うよ?」

「ええ!?」

 もっとすごい発言に塗り替えられてしまった。

「でも、わたしたちってすごくお似合いだと思わない?」

「……そうなら僕としても嬉しいけど、一体、どこがかな……」

「わたしたち二人とも、お互いのことが大好き。一日中わたしのことを考えてくれてたり、それに、……あ、わたしも、君の髪の毛、持ってるし」

 ほら、とチャック付きの袋に入った二、三本を見せられた。……わお……。わお……しか出てこない。すでに実行している人だった。

「わたし、誰かを好きになったのって初めてで、わたしみたいなのって変なのかなって気にしてたんだけど、そんなことなかったんだね」

 無邪気に頬を染めて極上の笑顔で僕を見上げてくる。すごく可愛い。すごく可愛い、んだけど。ストーカーカップル、もとい、ヤンデレカップルって最悪すぎない?

「いや、変だとは思う……」

「えっ。……じゃあ、わたしのこと、嫌いになっちゃう?」

 うるうるした上目遣いをされると、嫌いなんてとても言えない。う、あ……と口をはくはくさせて、僕は心なしか後ずさりしていた。

「き、嫌いじゃない、嫌いじゃないです。むしろ好きです」

 もうそのままストーカー気質でも構いません。あなたにされる束縛ならウェルカムです、はい。わー、どさくさに紛れて告白してしまった。現実味なーい。小坂さんからも告白ぽいことされた気がするけど、展開怒涛すぎない? 僕、ついていけてないです。

 ほわわーと呆けた顔でいたら、袖をくいと引かれた。いや、ぐいかもしれない。何にせよ現実に引き戻された。もの凄くカオスな現実に。

「じゃあじゃあ、これからは毎日電話してね! 毎日一緒に帰ろうね、お昼は一緒に食べようね、他の女の子と話しちゃダメだよ、本当は他の女の子と同じ空気を吸って欲しくないし誰の視界にも入って欲しくないしわたし以外を見ないで欲しいからずーっとお家にいて欲しいけど、わたしにまだ君を閉じ込めて守るだけの備えがないから、それは大人になってからだねっ。だけど、今も出来るだけ頑張って、出来るだけふたりきりでいられるようにしようねっ。あ、もうわたしたち恋人同士なんだから、ちゃんと名前で呼んでね、他の男の子にはもうわたしのこと苗字で呼んでもらうし、わたし以外に君のこと名前で呼ばせないでね、それから……」

「えっ、えっ⁉︎」

 いつ息継ぎしてるんだって勢いで捲し立ててくる。ここまで過激なタイプだったのはまったくの想定外だった。僕を遥かに上回るヤンデレっぷりについていけない。明日から、僕は無事でいられるだろうか……下手したら殺されたりとか……?


 ………………。


 うーん……、ま、いっか!

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