挿話:葉加瀬早音と正体不明の同期①


 葉加瀬早音がトイレから戻ってくると、テーブルの向かいに座っている顔が変わっていた。

「あれ、席替えしたの?」

「ああ、ついさっきね。俺もトイレ行ってる間に席とられちゃって」

 葉加瀬の前に座った男子は肩をすくめた。

「お互い辛いね、居場所をなくして」

「はは、そんな大袈裟な」

「あっ、しかも飲みかけのお酒が片付けられてる! なんてこった」

「そりゃ大変だ。何飲んでたの?」

「スクリュードライバー」

「すみませーん」

 相手は近くを通りかかった店員を呼び止め、スクリュードライバーと自分が飲んでいたビールのおかわりを注文した。葉加瀬は彼に礼を言ってから椅子を引いて腰を下ろした。

 都内某所の居酒屋の一角である。繁華街を歩けばイヤでも目にするような大衆店ではなく、 葉加瀬早音がトイレから戻ってくると、テーブルの向かいに座っている顔が変わっていた。

「あれ、席替えしたの?」

「ああ、ついさっきね。俺もトイレ行ってる間に席とられちゃって」

 葉加瀬の前に座った男子は肩をすくめた。

「お互い辛いね、居場所をなくして」

「はは、そんな大袈裟な」

「あっ、しかも飲みかけのお酒が片付けられてる! なんてこった」

「そりゃ大変だ。何飲んでたの?」

「スクリュードライバー」

「すみませーん」

 相手は近くを通りかかった店員を呼び止め、スクリュードライバーと自分が飲んでいたビールのおかわりを注文した。葉加瀬は彼に礼を言ってから椅子を引いて腰を下ろした。

 都内某所の居酒屋の一角である。繁華街を歩けばイヤでも目にするような大衆店ではなく、かといって個人店というほど高級感のある店でもない。お手軽でおしゃれな創作料理の居酒屋。

 葉加瀬が参加しているのは来年の四月に入社する予定の会社の、同期飲み会だった。七月末に開催された内定者顔合わせで連絡先を交換し、誰かの一声で企画された会である。完全に内定者だけの集まりであり、上司や先輩は誰も参加していない。自由で安心な催しだった。惜しむらくは中学校の同窓会が急遽開催されたことである。そちらにも参加したかったのだが、あいにく同期会の方が前前から決まっていたので断るわけにいかなかった。終わって時間があれば行くと幹事の袴田淳吾に伝えたが、どうなるかは分からない。

 頼んでいた飲み物が来ると、葉加瀬は名前も知らない目の前の同期と乾杯をした。同期は約三〇人。顔を合わせたのは七月末の顔合わせが最後だから、そこで詳しく言葉を交わした相手以外ほぼ初対面だった。つまり目の前の同期は前回あまり言葉を交わさなかったということだ。

 二人は飲み会から少しだけ切り離されたようなテーブルの隅っこで向かい合っていた。

「私は葉加瀬早音。葉っぱに加えるに高瀬川の瀬。名前は早い音って書く。よろしくね」

 葉加瀬は微笑みながら、親しみを込めて言った。

「葉加瀬さんね、よろしく。俺は春日充。春の日に充実するって書いて春日充」

「春日充くん」

 その名前を口に出してみて、どこか聞き覚えがあるような気がした。記憶の中に同じ名前の人間を捜してみたがすぐには見つからなかった。

 春日充は艶やかな黒髪を肩胛骨の下辺りまで伸ばしていた。顔は陰影のはっきりした彫りの深い造りで、シャープな輪郭が繋がった先にある顎は少し尖り気味だった。座っている状態で背が高いことがよく分かる。立てば恐らく一八〇センチほどになるだろう。どこかモデルのような雰囲気もある出で立ちに、葉加瀬はつい見とれてしまった。

「どうしたの?」

 春日は首を小さく捻って不思議そうな声を上げた。

「いやあ、イケメンだなあって」

「ははっありがとう」

 躊躇なく爽やかな笑みを返される。言われ慣れているということがよく分かる笑みだった。

 それから二人はしばらくの間他愛もない話をして過ごした。本当に他愛もない話だった。お互いの大学時代や地元について、手元の料理について、趣味について、中高の部活について。「葉加瀬さんってどんな本が好きなの?」

 春日はビールの二杯目を注文しながら訊ねてきた。

「本?」

「ほら、俺たちはこうして出版業界に入ったわけだし曲がりなりにも本に興味はあるでしょ? 折角だし情報交換ついでに聞いておこうと思って」

「うーん好きな本って言われてもなあ。私、雑食だからなんでも読むよ」

「雑食ね」

「じゃあ春日くんはどんな本を読むの?」

「ラノベ」

「ラノベ?」

「ライトノベル。読んだことない? 雷撃とか不死身ファンタジーとかソックスとか」

 春日は目元に垂れた前髪を指先で払いながら穏やかな声で言った。

「読んだことあるよ、もちろん。けど」

「けど?」

 葉加瀬は、春日がライトノベルを読むと聞いて真っ先に思ったことを口にしてしまっていいものかどうか一瞬悩んだ。もしも彼がとても繊細な神経をしていたら傷つけてしまうかもしれない。悩んでいる間に春日の方が先に口を開いた。

「ラノベを読んでる感じがしない?」

「まあ、うん。あんまり」

 葉加瀬は控えめな口調で言い、

「あ、でも何を読むかは別に個人の自由だと思うし私は」

「いいっていいって。よく言われることだから気にしないで。こう見えても中学からどっぷりラノベ沼の住人なんだ。高校時代には月に五〇冊くらい読んでたかな」

「ラノベばっかり?」

「ラノベばっかり」

「ますます信じられない。ということはラノベ関連の編集部を志望してるの?」

「まあね。ラノベじゃなくてもいいけど、文芸希望だね。ファッション誌の編集部とかに配属されたら泣くかもしれない。ファッションなんて一ミリも興味ないし」

「見た目だけで決めるなら春日くんは間違いなくファッションとかライフスタイル関連の部署だね」

「葉加瀬さんが上司じゃなくてよかった」

 春日はわざとらしくほっとしたような表情を見せた。それからビールのジョッキを取って半分ほど飲み、おつまみを適当に摘んだ後、付け加えるように言った。

「ちなみに言うと書いてもいたんだよ」

「書いてもいた?」

「うん。書いてたの、ラノベを」

 春日は箸を置き、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。

 話の流れからすれば驚くような話ではなかった。月に五〇冊も読むようなライトノベルの愛好家が自分でもライトノベルを書くようになる。自然な流れだし有り得る話だ。しかしやはり春日の口から言われると違和感が付きまとう。ほかの人がそれを言うなら納得の度合いも変わるだろうが、

 ふとそこで、脳裏にぼんやりと過去の記憶が思い浮かび上がった。

 七年近く前。中学生のころだ。もじゃもじゃ頭で内気な、小学校からの同級生。茅ヶ崎修次。彼も小説を書いていた。彼が言うなら違和感はないと思う。書いていると知っているからだろうか? よく分からなかった。

「葉加瀬さん?」

 そういえば今、彼は何をしているのだろう。今日の同窓会に来ているのだろうか。もし来ているのならば久しぶりに会ってみたい。まだ彼は小説を書いているだろうか。

「おーい、葉加瀬さん」

 目の前で振られる手に気がついて葉加瀬は我に返った。

「あ、ごめん。ついぼーっとしちゃって」

「酔った?」

「ううん。あと日本酒五〇升はいける」

「ははっ嘘だ」

 軽快に笑う春日に、葉加瀬は聞いた。

「何の話してたっけ?」

「俺がラノベを書いてたって話」

「そうだった」

 葉加瀬はぽんと手を打った。手を打ちながら思い出した。春日充。かすがみつる。どこかで聞いた名前。ライトノベル。

「あ」

 と葉加瀬は思わず声を漏らす。

「ん?」

 春日は首を傾げた。葉加瀬は直球で訊ねた。

「春日くんって、もしかして春日井みちる?」

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