②:同級生、就活生、内定者

「おお、来た来た! 待ってたぞ茅ヶ崎」

 前衛的なイラストが描かれたロングTシャツを着たひょろ長い男が、居酒屋の前で修次に向かって手を振っていた。

「ごめん袴田。電車が遅れて」

「いいんだ気にすんな」

 袴田淳吾は謝罪の言葉を爽快に笑い飛ばす。

「あとでテキーラのショットを飲んでくれればそれでいい」

「そこは無償で許してよ」

「もうほとんど集まってるぞ」

「だよね」

 修次は袴田の後ろについて店の中に入った。繁華街を探せばどこにでもあるようなチェーンの居酒屋である。自動ドアをくぐった瞬間、喧噪の壁が目の前に立ち現れるかのようだ。土曜の夜とあってか店内はそれなりに混み合っていた。

「そういや悪かったな、電話」

 袴田が酔っ払いをかき分けながら言う。

「なにが?」

「ほら、時間も場所も告げずに切っただろ。それであの後しばらく俺が出られなかったからさ。いろんなヤツに電話掛けてたんだよ、すまんな」

「ああ、いいよ別に。こうして合流できたわけだし」

「それもそうか。じゃあ謝罪は撤回」

「なんで撤回すんだよ」

 修次はため息をつきつつ、

「というか誰が来てるんだ、今日」

「ああ。すでに来てるのは俺、弥生、大山、栗城とかそこらへんだ。十人くらいだな。声かけたのはあと五、六人いるけど」

「へえ」

「ちなみに葉加瀬も呼んであるぞ」

 袴田がニヤリと口の端を緩めるのを見て、修次は一瞬だけ自分の顔に血が集まるのを感じた。思わず足を止めそうになったが、踏ん張って歩き続けた。

「弥生の話じゃすっげー美人になってるって。まあもともと可愛かったけどさ」

「び、美人」

 ごくりと生唾を飲みかけ、しかし修次はすぐに何事もなかったようにポケットに手を突っ込み、目線を上げ、口を尖らせ、

「そ、そうなんだ。へえ」

 と短く答えた。別になんと思っていない。特定の女子がいようといまいと関係ない。美人になっていようが興味はない。ただ少し待ち遠しいような気がしなくもなく、修次は壁に掛かった季節のおすすめメニューを眺めていた。

「感謝しろよ茅ヶ崎」

「なにに」

「俺に」

 袴田は『ばちんっ』と片目を瞑って下手くそなウインクを撃ち放った。修次はそれをゆるりとかわし、

「で、来るの?」

「葉加瀬のことか?」

「他に誰がいんのさ」

「行きたいって言ってたけど予定があるらしいからな。不明だ」

「そう」

 修次は呟くように返事をし、前から歩いてきた酔っ払いの一団をぎりぎりのところで避ける。

 葉加瀬早音。

 久しぶりに聞いたその名前を、口の中で静かに転がした。

 彼女のことを考えると自然に思い出される記憶がいくつかある。揺れる二つ結びと丸い目と満面の笑顔。小二のころに三ヶ月だけ席が隣同士になったこと。小五のときに自分が描いた物語を気に入ってくれたこと。休み時間には毎日のように文庫本を読んでいたこと。よく本の貸し借りをしていたこと。それから──

「うーっしお前ら飲んでるかー! 茅ヶ崎連れてきたぞ」

 いつの間にか袴田たちが陣取っている席まで辿り着いていた。半個室になった座敷の中では、彼が言った通り十人余りが酒や料理を囲んでワイワイやっている。酒色の歓迎が上がり、適当に席が空けられ、ドリンクメニューが渡された。

「茅ヶ崎くんおひさー!」

 ロングヘアを茶色に染めた女子がジョッキを片手に隣にやってきた。

「お、おお。結城、さん?」

「そだよー、結城です。結城弥生。しばらくぶりだね茅ヶ崎くん」

「髪染めてるし長くなってるから誰だか分からなかった」

「あー、そう言えば私中学のとき髪短かったもんね」

「そうそう」

「まあでも可愛さは健在でしょ?」

「自分で言うんだ」

 修次が苦笑いを浮かべつつ、そばを通りかかった店員にハイボールを注文した。

 店員が去っていったあと、改めてこの座敷に集まった面々をぼーっと眺めてみた。成人式をインフルエンザで棒に振ったので、ほとんどが中学卒業以来初めて見る顔だった。あれからもう七年が経っている。全員、顔つきも雰囲気もだいぶ大人びていて、とっさに誰だか思い出せないヤツさえいた。

 数年前まで牛乳と給食で騒いでいた連中が、今は酒とつまみで騒いでいる。そのことにほんの少しだけ焦りのようなものを感じた。挫折した新作と祈りの不合格メールが脳裏をよぎった。

 修次のハイボールが届くと、袴田と結城が揃って乾杯の音頭を取った。何度目か分からないゴングが飲みの席に鳴り響く。

 修次はすでに出来上がっている同級生たちと久々に馬鹿話に興じた。自分も含めて見た目は変わっているのに中身が変わっていないヤツばかりで、何年も会っていないというのについ昨日別ればかりのような気分になる。修次は昼間の嫌な思い出を消し去るように飲みまくり、気がつくと手元にはジョッキやグラスが林立していた。

「へい、飲んでる?」

 身体がすっかり真っ赤に染まって熱くなったころ、隣に結城がやってきた。

「あ、お疲れ。めっちゃ飲んでる」

「うわ、すご。茅ヶ崎くんお酒強いんだ」

「そんなでもないって。今日は飲みたい気分なんだ」

「おじさんみたいだねうける。それにしても悪いねー、茅ヶ崎くん。早音が来れるか分からなくて」

「早音……ああ、葉加瀬さんか」

「この飲み会も急だったからさ。昨日の夜中に私が思いついて、淳吾が今朝からあちこち電話かけてそんでこれだけの人数集まったって感じでさ。まあそれでこれだけの人数集まったんだから許してよ。私の可愛さに免じてさ」

 結城は片目を『ばちんっ』と閉じて、袴田といい勝負の下手なウインクを見せた。

「別にいいって。てかなんで袴田も結城さんも葉加瀬さんの話題出してくるわけ?」

「だってそりゃ、ほら、ねえ。君たち仲よかったじゃん。ときどき二人でこそこそ何かやってなかった?」

「何かって」

 戸惑いをこぼしながらジョッキを口元に持って行く修次の頭の中に、中学時代の思い出が水面に映るようにして揺らめいた。自分は確かに葉加瀬早音と二人きりでいることがときどきあった。図書室で、放課後の教室で、近所のファーストフード店で。別に付き合っていたわけではないし、片思いをしていたわけでもない。ただ、小説を、

「そう言えばさあ」

 と言って唐突に、パーカー姿の何者かが会話に割り込んできた。誰だか分からず、数秒間考えてようやく思い出す。大山まどかだ。ボーイッシュなショートカットが特徴的で、学年の誰よりもゲームに詳しかった女子。

 彼女は結城と修次のみならず、近くにいた数人を巻き込んで、ひどく楽しそうに言った。

「みんな内定出た?」

 修次はジョッキの縁に唇を当てたまま凍りついたように固まった。なんてことないはずの問いに雑音が遠のく。ジョッキから立ち上る冷気が身体から熱を奪い取っていくようだ。

「出たよー、この間ようやく」

 結城が安堵のため息とともに答えた。

「おっ弥生っちさっすがあ。どこどこ? マッキンゼー?」

「そんなわけないでしょ。メーカーよメーカー」

「顔採用?」

「まあね。まどかは?」

「私は艱難辛苦のすえに無事ゲーム会社に内定出ましたぜ。新天堂」

「よかったじゃん。中学生のころからゲームゲームうるさかったもんねあんた」

「骨はプレステ、肉はXbox、心臓はゲームキューブだからね」

 女子二人に続いて「俺も出た」「私もこの前」と声が上がり、さまざまな業界や会社の名前が場を飛び交った。その場にいた全員が同級生で、就活生で、内定者だった。

 修次はジョッキをまだ口につけたまま、身体が焦げていくような嫌な感じを味わっていた。場の真ん中に座っているというのに、疎外感しか覚えなかった。誰も自分に話を振るなと心の中で願い、空っぽのジョッキから何かを飲んでいるフリをし続けた。トイレとでも言って場を抜け出そうか迷っていると、

「ねーねー、茅ヶ崎くんは? 内定出た?」

 結城が屈託のない笑顔をこちらに向けていた。会話に入ってこない修次に気を遣ったらしい。きっとそれはこの世で五本の指に入るくらい無用な気遣いだった。

 修次はぎこちない仕草でジョッキをテーブルに置き、

「ぼ、僕は」

 と口ごもる。さまざまな言葉を口の中に彷徨わせた。

「──出た、よ。内定。この前ね」

 苦し紛れに嘘が出た。

 内定はまだ出てないんだよつれー誰か内定くれー、なんて冗談めかして言える性格だったらよかったのにと思った。しかしそんな陽気さは持ち合わせていなかった。そして悲しいことに一度口の外に出た言葉はもう二度と帰ってはこない。

「おいなんだよ茅ヶ崎! 内定出てたのかよ! なんで黙ってだよ!」

 別の席にいた袴田がジョッキ片手にやって来て、斜め前の席の座布団を陣取った。

「おめでとう茅ヶ崎! ほら、乾杯だ、乾杯!」

「あ、ありがとな」

 ジョッキ同士のかち合う音が虚しく座敷に消えていく。

「何業界なの?」

 結城が袴田を押しのけながら言った。

「あ、えーと、出版、かな」

「丸川とか?」

「あ、えっと、そう。まあそんな、感じ」

 修次は嘘に嘘を重ねる。罪悪感で口の中が痺れるような感覚がする。しかし嘘の穴は嘘でしか埋めることができない。

「そっか、そっか。そういえば茅ヶ崎くん本好きだったもんね。早音とよく本の貸し借りしてなかった?」

「う、うん。してたね。よく」

「あとさあ、小説も書いてたよねえ? チガサッキ」

 横から大山まどかが言うと、結城は懐かしそうな声をあげて手を叩いた。

「あー、書いてた書いてた! 覚えてる!」

「確か中二の時に授業で紹介されなかった? されてたよね?」

「されてたされてた」

 修次は自分をまたいで交わされる女子の言葉に沈黙していた。

 すーっと喧噪が遠くなっていくような感覚があった。

 頭の中に中学時代の記憶が揺らめく。忘れもしない、中二のときの、総合学習の時間。「私は感涙した」と熱く拳を握った担任の男教師の演技じみた仕草と、胸を張っていた自分。与えられた自由作文の課題として書いた小説がクラスの前で読み上げられたあと──

 この場にはいない湯川翔馬と岩崎司のことを思い出した。修次が嫌いだった、不良気取りの二人組。人に刃向かうか人を馬鹿にすることしかできない連中。くそつまんねえ。嘲笑が蘇る。嫌な思い出は一度蘇ると蛇口の栓が開いたように次々と頭の中に流れ込んでくる。

 修次はこみ上げてくる黒い記憶の断片に耐えかね、立ち上がった。

「どうしたの? チガサッキ」

 大山まどかがこちらを見上げていた。

「いや」

 修次は身体の横に拳を握りしめ、それっきり口をつぐんだ。

「なに? 茅ヶ崎くん? どうしたのさ」

「ちょっと」

 結城の心配そうな声を振り切るように、修次は早足で座敷を飛び出した。料理を運んでいた店員を半ば押し退ける形になる。小さな舌打ちが聞こえる。構わず自分の靴をつっかけた。

 小説が書けなくて、内定がもらえなくて、なのに周りは皆内定者で。自己嫌悪の渦に飲まれてただでさえ惨めな気持ちでいた中に差し込まれた黒歴史の断片。

 結城にも大島にも悪気がなかったということは分かっている。しかし。

 前も見ず、早歩きで居酒屋の通路を行く。料理を運ぶ店員や若手サラリーマンを交わしながら出口へ向かって歩いて行く。もう帰ってしまおうと思った。

 ところが途中でトイレへと方向転換。急に吐き気がこみ上げてきた。いきなり動いたのがまずかったらしい。全身からさあっと血が引いていき、冷たくなっていくような気がする。

 くそくそくそ。来なきゃよかった。飲み会なんてやめときゃよかった。分かってたんだ、こんなことになるなんて。分かっていたはずなんだ。僕なんて、結局は。

 アルコールが一気に身体の中を駆け巡り、性悪な塊めいた吐き気が喉の奥からせり上がってくる。表面張力で耐えているグラスの中の水のような気分だ。

 修次はよろめきながらトイレの中に入り、運よく空いていた個室に飛び込んだ。生暖かい洋式の便座に両手をついて、U字型にくり抜かれた穴の中に半ば頭を突っ込んだ。胸の奥でごぼごぼと何かが音を立てていた。耐えかねてぶちまけた。

 意識はそこでぷっつり切り落とされた。

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