①:ありきたりな展開への絶望

 冷たい洞窟の闇を松明の灯が搔き分ける。炙り出された岩肌に潜む闇の蟲たちは光から逃げるようにして散らばっていった。それを見て回復術師のココは「ひぃっ」と小さな悲鳴を漏らし、マジックロッドを振り回しながら仰け反った。足場の悪い中で急に動かれたので、ゼリヤは危うく自分の松明で彼女のピンク色の髪の毛を焼いてしまうところだった。いや、もしかしたら毛先を少しだけ焼いてしまったかもしれない。

「落ち着けよココ、たかが蟲だろ。踏み潰しゃいーんだよ、踏み潰しゃ」

 先頭を行く女盗賊のジョナシアが振り返った。美貌に浮かんだ呆れの表情が松明に照らし出される。回復術士は火が掠めた辺りの髪の毛を押さえながら半べそをかいた。

「む、無理ですようジョナシアさん。踏み潰すなんて、とても、そんな」

「なんでだよ。ここに来るまで散々ゴブ助とかオーク助とかぶっ殺してきただろ」

「それはそうですけど、私、蟲は、ちょっと」

「わっかんねえなぁ……同じようなもんだろ」

 ジョナシアは首を傾げて前に向き直る。幼い頃から数多くの修羅場を潜り抜けてきたジョナシアと、名門魔術学校を首席で卒業したココとの間には感覚に大きな溝があるらしい。ゼリヤは二人のやりとりを見ながら「あはは」と笑う。すると小脇に抱えた勇者ガストルフの生首が感慨深げに言った。

「蟲は美味いぞ。俺も戦場ではよく食べていた。特に蟻だ。あいつらは鉄板で炒ってやると食べやすくなる」

「た、食べるん、ですか?」

 ココの顔が、すぐ横に松明の灯があるというのにみるみるうちに青くなっていく。

「ああ。酸味があって食後の口直しにいいんだ」

「く、口なおし……」

 回復術師はそのままひっくり返ってしまいそうだった。

「さて、お前ら。おしゃべりの時間は終わりだ」

 ジョナシアが立ち止まった。彼女の正面に、見上げるように巨大な鉄の扉がそびえ立っていた。パーティーの中で最も背の高いジョナシアが、二番目に背の高いゼリヤのことを担ぎ上げても扉の頂上には指先すらかすりそうにない。扉の外周には三角錐の鋲がめぐらされ、ドアノッカーには鉄の輪をくわえた人間の生首が使われていた。

「なんて残酷な……」

 ココが唇を噛み締め、マジックロッドの先端に揺らめく桃色の光を強めた。

「この向こうにヤツがいる。洞窟王ニーズが」

 ゼリヤはジョナシアの横に並び、向こう側を透かし見るように扉を睨みつけた。

「殺された仲間の恨み、きっちり晴らさせてもらう」

 ジョナシアは松明を持っていない方の手で背中の長剣を抜いた。鉄の刃が炎に照らされて力強い光を放った。

「洞窟王……懐かしい名だ。我が右手もそこにあるのだな」

 ゼリヤの小脇でガストルフが、目尻が裂けそうなくらいに目を見開いた。

「さあ行こうみんな。大丈夫、僕たちなら勝てるさ」

 ゼリヤは自分の松明をココに託し、両手でガストルフの生首を持った。深く息を吐き、胸の前に掲げる。

「参る」

 ガストルフは低い声で言い、「喝ッ」と口を開いた。彼の頭は白く眩い光を放ち、口の奥から魔力の塊が凄まじい音ともに放たれる。それは扉の真ん中に命中しあーくそダメだこんなの。なんだこの展開。強敵を倒しに洞窟に潜る? 仲間は女盗賊と回復術師と生首の勇者。ありきたりすぎてなーんも面白くねえ。テンポも悪いし。つーかなんだこの主人公。特徴なさすぎて陰が薄い。あとなんか全員名前がだせえ。プロットの段階でははかっこいいと思ったけど、全然かっこよくねえわ。ゼリヤ、ジョナシア、ココ、ガストルフ、ニーズ。サイゼリヤ、ジョナサン、ココス、ガスト、デニーズ。声に出すと虫唾が走るな。もうやめだ。やめ。やめよう。こんなの結末まで書いたって面白くなるわけがない。時間の無駄だ。終わり。

 はい、終了。


**************************************


 『保存』アイコンに近寄ることなくウィンドウの隅の『×』ボタンにマウスポインターを走らせ、画面に死んだ目を投げかけながらクリック。『未保存のまま文書を閉じようとしています。”バラバラ勇者”に対する変更を保存しますか?』という警告文を無言で読み殺してエンターキーを叩く。『保存しない』ボタンが押され、開いていたファイルは画面から消失する。壁紙に設定した小説原作アニメの美少女ヒロインが可愛らしく自分に向かって微笑んでいるのが目に飛び込んでくるが、今の修次にはなんのトキメキももたらさなかった。むしろ、原作もアニメも売れに売れてしまっているので寝る時間がありませんという作者の自虐風自慢が聞こえて来るようで不快感すら覚えた。

「あーくそくそくそ。僕なんてくそだ」

 メガネを外し、天井に向かって嘆いた。

「才能なんてない。文章は下手くそだし発想は貧困だし知識は乏しいし! こんな小説じゃ一次選考すら通らない! 春日井みちるみたいな物語は書けない!」

 春日井みちるとは件のアニメの原作者であり、新進気鋭の若手作家のことである。デビュー作がいきなり百万部を突破したかと思えば、続くシリーズ作品は刊行と同時にアニメ化が決定。別の書き下ろし長編もドラマ化が予定されている。自分と同年代の作家だということもあり、修次は勝手に対抗心を燃やしていた。

「畜生。またダメだ。また傑作は生み出せなかった。プロットの段階では絶対に面白いと思ったのに。ゴミのような作品だった。書き手もくそだし作品もくそだ。くそ」

 修次はパソコンをスリープ状態にし、両手で髪の毛をかきむしった。指先に絡まった毛がぶちぶちと情けなく頭皮を離れる音が聞こえた。抜けた髪の数だけアイデアや語彙や文章力が消えたような気がする。

「休憩」

 声に出して椅子から立ち上がると、両腕を天井に向かって突き上げて全身を伸ばした。

 茅ヶ崎修次は小さいころからずっと小説家を目指して生きてきた。

 きっかけは小学生のときだった。国語の授業で原稿用紙六枚分ほどの物語を書き、担任の先生にクラスメートの前で読み上げられ、絶賛されたのだ。

 自分の作ったものが誰かをこんなに喜ばせることができるなんて。

 その時に味わった感動が源泉だ。それを忘れることができず、以来今日まで小説家を目指して日々キーボードに向かっている。もっと大勢の人を喜ばせたい。その一心で。

 十年近い創作活動の中で、これまでに短編と長編を合わせて三〇本近く書き上げた。しかしいつしか書き上げることができなくなった。何度挑戦してもさっきのように投げ出してしまう。

 なぜ書き上げられないのか。理由は簡単だった。

 書いているものが面白くないから。これ以上続けても無駄だから。それだけだ。

 書いているうちにその作品に嫌気が差し、己の才能の無さにふてくされ、駄作だと切り捨てて放置。そして数日後には次こそ傑作になると期待して別の物語を新たに書き始める。いつもその繰り返しだった。

 メガネをかけ直し、肺の中身を丸ごと入れ替えるような深いため息を吐いた。前髪を乱暴に掴んで俯いたまま、空いている方の手で机の上に置いたマグカップに手を伸ばす。コーヒーはすっかりぬるくなっていて、口の中を汚されるような苦味だけが残っていた。

「次だ、次。次こそ傑作を書く。次こそ傑作を書けるはずだ。間違いない」

 自分に言い聞かせるように呟き、充電器からスマホを抜いてベッドに倒れこんだ。小学生のころから使っているベッドは大学四年となった今ではずいぶん小さく古くなっていて、倒れこんだ衝撃で足がポッキリ折れてダウンしてしまいそうだ。

 硬い枕に顎を乗せ、俯せのままスマホをいじりはじめる。息をするようにSNSアプリをタップし、タイムラインを流し読み。情報収集のためにフォローしている出版社のアカウントが、作家や新作の情報をシェアしてくる。百万部突破の某作家。令和の鬼才と称される現役高校生作家。春日井みちるの書き下ろし長編が某朝ドラ女優と某仮面ライダー俳優のダブル主演で映画化決定。

 どれもこれも心をささくれで引っかくような不快感と痛みをもたらす。ならばフォローしなければいいし、見なければいいと自分でも思うのだが、なぜかできない。それに作家志望として新刊の情報収集は欠かせないことだった。

 一通り自分の心を自分で傷つけて、修次はSNSを閉じた。映画でも見て次作のインスピレーションを得ようと思ったところで、

『新着メールがあります』

 ポップアップメッセージに鳥肌が立った。

 このご時世に届くメールなど限られている。登録した覚えのないメルマガか有名芸能人を騙るスパムメールか、企業からの選考結果通知メール。

 震える指でメールアイコンをタップし、一番上にある未読メールの件名を読んだ。

『最終選考の結果について【株式会社沙倉出版 採用担当】』

 心臓が不自然に震えた。

 小説家を目指しているとはいえ、修次は大学四年生。叶わない夢だけに猪突猛進するような年齢ではない。世間一般の大学四年生と同じように就職活動にも励んでいた。いい小説を書くためには斬新な発想や知識や国語力が欠かせないが、人生経験も大事だ。人生経験は物語に深みをもたらすのだ。

「ふぅ……」

 メールを開封する前に深く深呼吸をした。目も口も乾いていた。心音がやかましかった。

 修次は当初から出版社に絞って就活をしてきた。編集者になって小説作りのノウハウを学び、業界に広くコネを作れば小説家デビューという夢も近づくと思ったからだ。

 しかし結果は芳しくない。

 大手や有名どころには序盤で落とされた。丸川書店、豪談社、幼学館、速海書房、サファイヤ社、松書房、宝箱社などなど。弱小出版社や専門出版社まで視野を広げたが内定は出ておらず、就活サイトを隅から隅まで探して見つけたこの沙倉出版が最後の弾だった。これを逃せばもう修次には編集者への道はなくなる。出版以外の業界に手を広げてエントリーシートに嘘を書き連ねるところから始めなければならない。

「大丈夫だ、大丈夫。相手は社員数ギリ二桁の弱小出版社だぞ。こっちは十年間も小説を書いてきたわけだから本づくりのノウハウは心得てるんだ。即戦力になる。通ってる大学だって世間じゃ高学歴って言われる部類なんだから、落ちるはずがない」

 自己暗示をかけてメールを開く。

 茅ヶ崎修次様、で始まる数行の文章。

『この度は』『多くの企業の中から弊社を』『厳正なる選考の結果』『誠に残念ながら』『貴意に添いかねる結果』『今後のご健勝』『お祈り申し上げます』

 最初から読み返した。

 結果は変わらない。落ちていた。

 修次はスマホの画面を睨みつけ、奥歯をぐっと噛み締めた。頭の芯から熱が引いていき、全身が冷たくなる。唇の端がぴくぴくと痙攣する。

 弱小出版社だ。僕には本づくりのノウハウがある。落ちるわけがない。本体が軋むほど強くスマホを握りしめ、メールの文面を書き換えかねないほど激しく画面を睨みつけた。

 それでもやはり結果が変わるはずはない。

 指の先まで詰まった怒りを吐き出すようにスマホをベッドに叩きつける。長方形の物体はスプリングに弾かれてベッドの外へ飛び出し、壁に当たって沈黙した。

「ダメだ。ゴミだ、俺は。クズだ。小説も書けないし、編集者にもなれない」

 ベッドの上にあぐらをかき、メガネの奥から部屋の壁に立つ本棚を見つめた。視線の先には何百冊という本が背表紙を並べている。そこに自分の作品を加えるのが夢だった。そしてゆくゆくは自分の作品だけを並べるための本棚を買う。そんなことをずっと夢見ていた。

 だがもうダメだ。

 自分の書く作品はありきたりで面白くない。キャラクターはリアリティがないし感情がなく人形のようだ。設定の詰めも甘いし、物語の背景に必要な知識が不足している。発想は安易で、テーマがない。内容が薄い。文章は下手くそだし語彙は枯れ果てている。

 電話が鳴った。

 床に落ちたスマホが呻くようにブルブルと震えていた。

 修次はベッドにあぐらをかいたまま、しばらく電話の音を無視していた。誰かは知らないが今は電話に出る気にはなれない。

「……」

 あぐらを解き、スマホに背を向ける形でベッドに横になる。そうやってじっと聞こえないふりをしている。だが音はいっこうに鳴り止まなかった。ここまでしつこく電話をしてくるなんてよくわからないセールスか、謎のアンケートか、あるいは──

「沙倉出版……!」

 修次は転がり落ちるようにベッドを飛び出し、床で震えているスマホに駆け寄った。

 ──先ほどの不合格メールは間違いでした。茅ヶ崎様には是非ご入社していただきたく思います。これまでに培われた小説のノウハウを発揮してください。

 そんな言葉を期待して、発信元を確認せずに通話ボタンを押した。

「はい、お世話になっております茅ヶ崎修次です!」

 さあ、こい。間違いでしたと言え。修次はスマホを強く握りしめながら本棚を睨む。

『──もしもし?』

「はい!」

『ああ、やっと出た。久しぶりだなあ、茅ヶ崎! 元気か?』

「……どちら様ですか?」

『俺だよ俺、俺。袴田』

「はかまだ」

 はかまだ。はかまだ。「人事の袴田さんですか?」という言葉を飲み込んだ。人事担当はそんな名前ではなかった。となれば袴田など一人しかいなかった。中学時代に部活が同じだった袴田淳吾。大学生になった今も半年に一度くらい会っている友人。

「なんだよ」

 修次はあからさまに落胆した声で言った。袴田はそんな修次の様子など一切気にかけず、

『今夜中学のやつら集めてプチ同窓会やるんだけど、茅ヶ崎も来い』

「プチ同窓会って」

『安心しろって湯川とか岩崎は呼ばないから。お前あいつら嫌いだったもんな』

 久しぶりに聞く名前に身体の末端が軽く粟立つのを鎮めながら修次は言った。

「いやそれは助かるけど」

『じゃ、待ってるぜ』

 そう言い残し袴田は電話を切った。時間も場所も何も言わずに。

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