素晴らしき駄作たちよ
桜田一門
プロローグ:とある春の日のこと
「──こうしてスピーメロウとスタディクスト博士は無事に島を抜け出しました。三つ又クワガタの顎にしっかりつかまりながら彼らは互いに言い合います。『次はどこに冒険に行こうか』『もう冒険はこりごりじゃよ』『だらしないなあおじいちゃんは! そうだ黒砂糖の島があるんだって、南の方に! アリ人間の女王様がいるんだって! あとね──』二人を乗せた三つ又クワガタはブーンブーンとハネを震わせて沈む夕日へ向かって飛んで行くのでした」
おしまい、と最後の一言を付け加え、先生が手にした原稿用紙の束は最初の一枚に戻った。
夏がまだ少し遠い、五月の半ばのある日。六時間目の国語の授業中。静かな風と穏やかな天気が教室の窓の外を流れていた。先生は原稿用紙の束の角を揃え、教卓の上にそっと置いた。音読が終わる少し前からこうして原稿用紙が教卓に置かれるまでの間、クラスメートの誰一人として喋ることはなかった。
彼は教室の真ん中後方の席に座っていた。クラスの誰よりも緊張した顔つきをしていた。膝の上に握ったグーは石のように硬かった。
「みんな、どうだった?」
先生が教室全体に向かって訊ねた。
長いような一瞬のような不思議な沈黙があった。
最初に答えたのは小さな拍手だった。ぱち、ぱちと薪が弾けるような小さな音。その拍手は誰かの拍手を呼び、また誰かの拍手を呼び、あっという間に教室中に広がった。三十数人の児童が詰め込まれた教室の中で拍手は景気良く爆発した。
「すごい!」「おもしろかった!」「さいこうだった!」「てんさい!」「すっごくわくわくした!」「続きないのー?」「誰が書いたのー?」
クラスメートたちは今しがた聞き終えた物語について、興奮した様子で口々に言葉を交わした。前後左右に体を向けて友達と顔を突き合わせて笑ったり、頷いたりしていた。
「面白かった人は手をあげてください!」
先生が言うと、クラスメイトのほとんど全員が天井に向かってぴんと腕を伸ばした。
ただ一人、彼だけは手を挙げず、拍手もせず、気恥ずかしそうに俯いていた。膝の上のグーはいつの間にか解けてパーになっていた。
「じゃあみんな、この物語を書いた茅ヶ崎修次くんに拍手!」
名前を呼ばれ、彼は顔を上げた。クラスメートがみんなこちらに体を向けて手を叩いていた。仲のいいやつも、そうでないやつも、男子も、女子も、みんな。
ある日の国語の授業で、先生は五年二組の全員に一つずつオリジナルの物語を作るように言った。
みんなは思い思いの物語を書き上げて提出した。先生は全員の物語を、四回の授業に分けてそれぞれ読み上げた。出席番号順に読み上げるとのことだったが、彼の物語だけは最後に読まれることになった。
彼は悩んだ。
どうしてだろう。なぜ僕の物語は最後なのだろう。先生の勘違いか、気分か、それとも出来が悪いから最後なのだろうか。不安と緊張で頭をいっぱいにしながら今日まで過ごしてきた。そして今日、それらは頭の中から流れ出て消えた。不安も緊張も心地よい春の風に流れてどこかへ飛んで行ってしまった。
誰もが僕の物語を面白いと言っている。大きな拍手をくれる。
恥ずかしいのと誇らしいのとで、どんな反応をすればいいのか分からなかった。顔が真っ赤になっているのが鏡もないのに分かった。
教室やクラスメートの顔の上を何度も彷徨った挙句、彼の目は自分の斜め前に座っている一人の女の子に向いた。目を輝かせ、口を丸く開き、頭の後ろにある二つのおさげを揺らしながら誰よりも大きく手を叩いている女の子。胸の奥の方にじんわりと熱い塊を見つけた。顔はますます赤くなり、膝が震えた。彼は恥ずかしくなって一瞬で彼女から顔を背けた。彼女は一瞬で顔を背けた彼のことを少し不思議に思いながらも、惜しみなく拍手を送り続けていた。
教室中を満たす三十数人分の拍手の音は、先生が「はいはいおしまーい」と言い出すまで五分近く鳴り止まなかった。
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