# 22

 それから月日が経ち、例の保険料誤計算問題も事務統括部での対応は無事収束した。


 雨降って地固まると言うが、あの騒動の後、会社にいくつか変化があった。


 一つ目は、あの小窪が大阪の子会社へ出向になったことだ。本人がいなくなってみて改めて分かったことだが、小窪は思っていた以上にいろいろな人から煙たがられていたらしい。あの騒動は彼を追い出すにはちょうどいい口実だったのかもしれない。


 小窪の後任として新たに常務となった土井どいはシステム畑出身で、早速システム部門の改革に着手した。今回のミスを引き起こす要因となった、システム部門の軽視や、無謀なシステム開発スケジュール、子会社への負担の押し付けなど、この会社が抱える問題にメスを入れたのである。事務統括部も土井の担当となり、以前より現場の声に耳を傾けてもらえるようになった。


 そして、もう一つ最近大きく変わったできごとと言えば、会社が重い腰を上げて働き方改革に取り組み始めたことだ。残業制限、不要な会議や業務の見直し、有給取得の推奨など、世間で進められているような施策が、大洋生命でもスタートした。


 しかし、働き方を見直したからといって、いきなり仕事量が減る訳ではない。当然、残業ができない分、仕事は溜まる。そのため、それを解消しようと早出する者が続出した。


 佑希もその例に漏れず、今日も早朝からデスクに向かっている。


 世の中そんなにすぐに、何もかもがうまく行くなんてことはあり得ない。試行錯誤を繰り返しながらだんだん良くなっていくと信じるだけだ。そう思いながら、佑希はコーヒーを口にした。


 フロアの向こうから前島が出勤してくるのが見えた。


「おはようございます」


 佑希が挨拶すると、前島は笑顔で返した。


「おはよう。水野さん、今日はよろしくね」


「はい」


 佑希は少し照れ臭そうに答えた。


 大洋生命には、顧客に感謝の言葉をもらった従業員を毎月何名か推薦し、選考に通った者に表彰状を送るという社内表彰制度がある。それに佑希が選ばれ、今日の朝礼で役員から表彰されることになったのだ。


 それというのも、以前同性パートナーを保険金受取人に指定できない理由を文書で回答するよう求めてきた顧客から、後日、丁寧な文書対応をしたことに対するお礼の手紙が届いたからだ。


 当初佑希は、表彰されるべきは現場の人間であって自分ではない、それに本来の顧客の要望には応えられていないのに好事例として扱っていいものなのか、と断ろうとした。


 しかし、あいにく会社の表彰制度は子会社までは対象にしていない。それに、大洋生命テレサービスの澤井からこう言われたのだ。本社で表彰案件となればこの事例が注目を浴び、同性パートナーを認めない現在の規定への問題提起となる。それこそが顧客の希望することだと。その言葉で思い直し、佑希は自分が表彰を受けることを選んだ。


 朝礼の時刻が近づき、フロアに土井がやってきた。佑希が挨拶に行くと、土井はにこやかに挨拶を返してくれた。本当にこの人が自分のところの常務になってくれてよかった。佑希は心からそう思った。


 朝礼が始まり、土井が今回の事例について紹介する。


「このお客様は、同性のパートナーの方と同居をされていて、保険金受取人をパートナーの方に指定したいと希望されたのですが、あいにく当社では同性パートナーを受取人として指定することができません。他社では可能なところもあるのになぜ大洋生命ではできないのかと、お客様はコールセンターに訴え、文書での回答を希望されました。そこでコールセンターから相談を受けた水野さんが、コンプライアンス部と何度も調整を重ね、誠意ある回答をしようと尽力してくれました」


 そんなふうに紹介されると恥ずかしい。佑希は少しうつむいた。土井は続ける。


「その結果、書面を受け取られたお客様から、後日このようなお手紙が届きました。簡単に紹介したいと思います」


 そう言って、土井は手元の紙に目を落とす。


「以前から他の商品でお世話になっている御社で、ぜひパートナーのために保障を残したいと思いお電話しました。けれども御社では同性パートナーは対象外だと知り、一石を投じたい思いでこのようなお願いをさせていただきました。その結果、お願いした通り、現在の規定では対応ができない理由をきちんと書面に起こしてくださったうえで、私の声を今後の取り組みに活かしてくれることを約束してくださいました。現時点で希望が叶わないことは残念ですが、私の声を真正面から受け止めてくださり本当にありがとうございます」


 これでもかなりかいつまんでいる。佑希も読んだが、実際の手紙はもっと長かった。その手紙には、これまでに受けた偏見や不当な扱い、それでもなお、そういった世の中に立ち向かおうとする決意のようなものが含まれていた。それを読んで、佑希は過去の自分の無理解を恥じた。そして、一般的に理想とされている生き方とは、ほんの少し違う生き方を模索しようとしている自分の姿を重ね合わせた。


「――このような表彰は営業部門が対象になることが多いのですが、水野さんは、直接お客様と接することはなくても、自分の仕事の先にいるお客様のことを意識することで、このような感謝の言葉をいただくこととなりました。それでは、そんな水野さんへ賞状を授与したいと思います」


 佑希は背筋を伸ばし、土井に向き直った。土井は賞状を読み上げ、佑希に向けて手渡す。その手には、光沢のあるピンクブラウンのネイルが施されていた。


「それでは、水野さんから受賞にあたってのコメントをいただきたいと思います」


 土井がそう言うと、佑希はみんなの方に向き直った。そして、大きく息を吸い、話し始めた。


「今回は、このような賞をいただきありがとうございます。これは私一人の力ではなく、対応を相談させていただいた前島課長、文書を承認してくださったコンプライアンス部、そして、お客様のために情熱を持って取り組んでくださったコールセンターの方々あってのことだと思います。中でも、コールセンターの方々は私たちの知らないところで日々努力を重ねていらっしゃって、本当に感謝するばかりです」


 佑希は横目でちらりと土井の方を見た。今の今まで、言おうかどうか迷っていた。けれど、やはり言葉にしなければいけないような気がした。


「また、今回はこのような形でお客様にはご納得いただきましたが、今後会社として、多様な価値観を認めていく必要があると感じました」


 少しだけ空気がピリッとしたような気がした。構わず佑希は続ける。


「それはなにも、LGBTの方々に限ったことではなくて、誰もが――」


 みんなの顔がこちらを向いている。前島や、古山や、伊藤、福留、棗……


「――こういう生き方をしなきゃいけないとか、逆にこういう考えは古いから新しい価値観に従わなきゃいけないとか、そんな考え方に縛られずに生きていけるようになれたらって思うんです」


 話しながら顔が熱くなってくる。たぶんみんなの頭には、はてなマークが浮かんでいるだろう。


「保険は人の生涯に寄り添う商品です。ですから、私たちは、自分たちの仕事を通して多様な生き方に寄り添っていくことができます。そしてそれは、この事務統括部でも、きっと実現できるはずです」


 我ながら臭いことを言ったと思う。こんな台詞、入社後に営業現場の研修で聞いて以来、他の社員の口から聞いたことなどない。佑希は咳払いをして、言った。


「……すいません、長くなりましたが、以上です」


 佑希が軽く頭を下げると、その場に拍手が広がった。


 ◆


「すごかったよ、水野ちゃん」


 朝礼の後、古山に声を掛けられた。


「いえ、なんだか好き勝手に話してしまって」


「ううん、本当にすごいよ。それに引き換え、私は遅れてるなー。水野ちゃんみたいに進んだ考え方できないよー」


 古山は軽い調子で、それでいてどこか悲しそうに言った。


「違うんです」佑希は慌てて返した。「どの考えが進んでるとか、遅れてるとかじゃないんです。私は、古山さんの生き方、好きです」


「……ほんと、水野ちゃん変わったね。誰の影響かしら」


 古山はからかうようにそう言った。佑希は照れ笑いでごまかした。


「ありがとね」


 古山は微笑みながらそう言うと、席に戻っていった。


「ねえ、すごいじゃなーい、表彰されて」


 聞き覚えのあるダミ声が響き、佑希は慌てて振り返る。声の主は柴田だった。


「はい、お祝い。今度はマドレーヌ焼いてみたの」


 柴田はそう言うと、きれいにラッピングされたマドレーヌを佑希に手渡した。


「わあ、かわいい。いつもすみません」


 佑希はそれを両手で受け取る。すると、後ろから視線を感じた。


「あら」


 柴田もそう言って振り返る。そこには前島が無言で立っていた。


「ほら、前島さんもどーぞ」


 柴田は懲りずに、前島にもマドレーヌを渡そうとする。


「…………」


 前島は仏頂面で押し黙っていたが、柴田は笑顔を崩さない。


「……分かったよ」


 前島は渋々という感じでリボンのついたビニール袋を受け取ると、席に戻っていった。


 佑希と柴田は2人で顔を見合わせ、こっそりと笑った。


 ◆


「はあー、それでも、これだけの予算求められちゃうかあ」


 佑希は、新規開拓のアウトバウンドの目標値を見ながら頭を抱えた。小窪のような無茶な要求はされなくなったものの、やはり会社に目標はつきものだ。これを伝えたら、アウトバウンド担当の吉村になんと言われるか。


「――という訳で、厳しい状況は重々承知なのですが、これだけの数値を上げる必要がありまして……」


「――分かりました。なんとか工夫してみます」


 受話器の向こう、吉村はあっさりとそう答えた。佑希は拍子抜けして、一瞬沈黙した。


「御社の状況も分かりますし、それに、水野さんのお願いじゃしょうがないもの」


 吉村は柔らかな声でそう言った。その言葉に、佑希はじわじわと胸が温かくなるのを感じた。


「つい昨日だって、無理を言うお客様のために、いろいろと手配してくださったと聞いています。本当にいつもありがとうございます」


 吉村にそう言われ、佑希は迷わず答えた。


「いえ、それが私の仕事ですから」


 ◆


「うん、完璧」


 そう言って佑希は、書類を棗に返した。棗は嬉しそうに書類を受け取る。


「棗ちゃんも、だいぶ仕事早くなってきたよね。助かってるよ」


「ありがとうございます」棗は明るい声で答えた。そして、佑希の顔を覗き込むように尋ねる。「この後は、どうしましょうか」


 佑希は時計を見る。


「まあ、もうすぐ時間だし、ゆっくり片付けでもしてて」そして、茶化すようにつけ足す。「今日料理教室の日でしょ」


「あ、はい。すみません」


 棗は首をすくめるように頭を下げた。


「今日は何作んの?」


「あ、ローストビーフを……」


「いいじゃん。また感想聞かせてよ」


 こんなたわいない会話でも、以前の自分なら妬みを感じていたかもしれない。けれども、棗にはただ棗の日常があるだけだ。


 PCに目を戻すと新しいメールが届いていた。それを見て、佑希は小さく「あっ」と声を漏らした。


 保険金部の移管、延期になったんだ。


 以前会議で言及されていた、保険金部の業務を完全に事務センターに移管するという計画が延期になったことが、メールに記載されていた。


 その知らせに、佑希は、かつて保険金部に勤めていた彼のことに思いを馳せる。


 ――辞めるの……?


 例の騒動が一段落した頃、恵人から唐突に切り出された。


 ――応援のときに、社員のIDを流用して、派遣社員が見ちゃいけない画面を操作したのが問題になってね。


 ――それって、自分のID使わせてその仕事をさせた社員がいるってことでしょ? そっちが問題じゃん。何でそれで恵人が辞めることになるの。


 ――会社的には、派遣が勝手にやったことにしたいみたいよ。まあ、会社ってそういうもんじゃん。


 何も言えなかった。確かに恵人の言う通りだ。本当に責任を取るべき者はいざというときに自分を守り、責任を押し付けられた末端が切り捨てられる。絶句する佑希に、恵人はこう言った。


 ――でも、いいんだ。実はね、僕、もともと事務センターで勤務する予定だったんだ。それが、派遣会社の都合で当日になって本社に回された。もとから振り回されてたんだよ。でもね、それで佑希に会えた。運命だよ。感謝でいっぱいなんだ。


 そう言って、恵人は佑希の手を取った。


 ――佑希は、佑希にしかできない仕事を、誇りを持って続けてね。


 そうして恵人は会社を去った。そういう意味で、自分は恵人を守れなかった。


 せっかく保険金部の仕事もまだここに残るのに。そう思いながら、佑希はメールを読み進める。


 移管が延期になったのは、調整がうまく行かなかったからなのか。いや、調整には事務統括部も関わっているが、そんな話は聞いていない。もしかすると、誤計算の件をきっかけに、組織にある程度の余剰が必要だと判断されたのではないだろうか。まあ、自分の主観による憶測に過ぎないが。


 けれど、あのときはたまたま閑散期だった保険金部の人員がかなり応援に協力していたそうだ。何でも他の拠点に任せて、一人の無駄もなく仕事を回していたら、緊急時に対応できるだけの体力は確保できなかっただろう。効率が良いということは、裏を返せば余力がないということなのだ。


 何が収益にならない仕事だ。何がコストになる仕事だ。


 いくら営業現場が頑張って新しい顧客を獲得してきても、その申し込みの手続きは誰がどう行うのか。顧客の疑問には誰がどう答えるのか。そして、その現場を誰が指揮し、どう支えていくのか。そこには、自分にしかできない仕事がきっとあるはずだ。


 佑希は腕をまくった。


 さて、今日もあと少し。頑張って早く仕事を終わらせよう。


 ◆


 在宅ワークも、なかなかやりがいがある。


 恵人は、ウェブサイト制作業務の発注者へ進捗報告のメッセージを送信すると、クラウドソーシングサイトをログアウトした。


 以前、好きを仕事にすればいいものではないなどと、分かったようなことを言ったことがある。けれども、どうやって自分にできることでお金を稼ぐかを考えたところ、やっぱり自分にはウェブ関連の仕事がいちばんだという考えに行きついたのだ。


 この間の件で気がついた。自分は変なところで責任感を発揮してしまう傾向があり、割り当てられた作業を淡々とこなす仕事には向かないと。この間の件がなかったとしても、どちらにせよ自分は大企業の歯車にはなれなかっただろう。だから理不尽な契約解除であっても、あえて異議を申し立てようとはしなかった。


 かといって、零細企業の社員として消耗していた頃に後戻りするつもりはなかった。


 幸いなことに、この時代、インターネットを介して個人でも仕事を請け負うことができる。手っ取り早いのが、企業や個人が不特定多数に向けて仕事を依頼しているクラウドソーシングサイトだ。


 クラウドソーシングサイトでは、たとえばお店のウェブサイトを制作してほしいだとか、スマホアプリを開発してほしいだとか、いろいろな仕事が募集されている。その中から自分の希望する仕事を選んで応募し、時には条件交渉を行い、無事契約締結に至ればその仕事を受託することができる。


 それを繰り返しながら、フリーのエンジニアとして自らの責任のもとで仕事を請け負っていく、そんな働き方を模索しているところだ。単価が安く収入が不安定なのが悩みどころだが。今のところは、もう一つのスキルを活かすしかない。


 恵人は立ち上がり、オーブンを覗いた。よし、いい感じだ。チーズの香りが部屋いっぱいに広がる。


 続いて流しで布巾をしぼり、テーブルの上を拭き始める。


 テーブルの端には、朝から雑誌が何冊か置いたままになっていた。恵人はそれらをひとまず本棚の上に避難させる。日本経済大予測、損害保険完全ガイド、わんこの気持ちペット保険特集号。またあれこれと買い込んだものだ。そろそろ本棚に入り切らないんだけどなあ。自分が言えたことではないが。


 LINEの通知音が鳴り、恵人はすぐさまスマホを手に取る。


 なんだ。久米川からか。


 久米川も、あの騒動のときは大変そうだったが、それをきっかけに業務改善が進められ、以前よりは幾分か働きやすくなったそうだ。だから時々こうして飲みの誘いが入る。


 けど悪いな。恵人は断りの返事を送った。


 箸とナイフとフォークをテーブルに並べ、皿と鍋敷きを置く。冷蔵庫から昨日の残りのキャロットラペを取り出し、ツナ缶とひよこ豆を混ぜ合わせる。先程仕込んでおいた野菜スープを、再び火にかける。


 そろそろかな。恵人は玄関のドアを覗く。


 ピンポーン。エントランスのチャイムが鳴った。


 え、チャイム?


 インターホンで応答すると、相手は宅配業者だった。


 なんだ。恵人は拍子抜けしながら、オートロックを解錠する。


 少し目を離したすきに、野菜スープがぐつぐつと煮立っていた。恵人は慌てて火を弱める。


 玄関のチャイムが鳴り、恵人はドアを開ける。差し出された伝票を見て、靴箱の上から、水玉模様のマスキングテープを貼った印鑑を手に取る。


 これも実用書だな。A4くらいの大きさの荷物を受け取りながら、恵人は思った。


 宅配業者が帰ると、恵人はその荷物も本棚の上に置いた。


 再び野菜スープの火を調節する。そして、お椀を出そうと頭上の棚に手を伸ばす。


 ガチャっ。ドアの鍵が開く音がした。


 恵人は手を下ろし、ドアの方を向いた。ゆっくりと、ドアが開く。


「ただいま」


 ドアの向こうから佑希が顔を出した。


「おかえり」


 いまだにぎこちない声で、恵人は返した。


 ◆


 夕食を終え、2人でソファに寄り掛かる。


 佑希はスマホを見ながらあきれ声で笑った。


「もー、美香ったら、またLINEでのろけてるよー」


「美香さんって、海外で働いてたっていう、大学の友だちだっけ?」


「そうそう。筋金入りの仕事人で、本人も最初は絶対家庭に入るのなんて向かないって言ってたんだけど、主婦もなってみたら案外奥が深いって。人生ってどう転ぶか分からないね」


「ほんとだね」


「最近ね」佑希は、スマホをテーブルに置くと、話を続ける。「お客さんとか、会社の人とか、いろんな人の生き方を見てて、本当にいろんな人生があるなあって思ったんだ」


「うん」


「あと、今日仕事してて、今更だけど思ったの。別に営業の最前線でバリバリ収益を上げる人だけが偉いんじゃなくて、私の仕事だって会社に必要な仕事だし、お客さんに感謝されることもある。そういう仕事にやりがいを見出す人がいたっていいと思うんだ」


「そうだね」


「それとちょっと似ていて、女の生き方もさ、若いうちに結婚して子育てするのが幸せって言う人がいたり、逆に結婚しなくても男の人並みに仕事で活躍するのが偉いって言う人がいたりするじゃない」


「うん。どっちも、理想的なひな形みたいに言われてるよね」


「そうそう。もちろん、どっちの生き方も良いと思うよ。けど、そういう価値観に縛られずに、それ以外の生き方を模索する人がいたっていいと思うんだ。私みたいに」


 そう言って、佑希は恵人の肩にもたれかかった。


「そうだね」


 そう答えると、恵人は佑希の肩を抱いた。


「僕もね、親や兄弟と話していて、時々、僕の考えの方がひねくれてるのかなって思うことがあったんだ。地元で仕事を見つけて、地元で結婚して、子どもをたくさん作って、そのまま地元で生涯を終えるような生き方の方が、こうして無理に都会で生きていこうとするより賢かったんじゃないかって。でも、僕はそうしたくなかった」


「そういう生き方をしたい人が、そうしたらいい。恵人には、恵人の生きたいように生きてほしい。それに……」佑希は顔を上げ、恵人の目を見た。「恵人が東京に出てこなかったら、こうして出会うこともなかったし」


「そうだね」


 恵人は優しく微笑んだ。


 佑希は頭の後ろに手をやり、縛っていた髪をほどいた。長い髪がはらりと肩に落ちる。


「その香り」


 恵人はぽつりと言った。


「え?」


「佑希は覚えてないだろうけど、まだ知り合う前、エレベーターで佑希と一緒になったことがあるんだ。そのときと同じ香りだと思って」


「えっ!?」佑希は声を上げた。「そうだったの? 聞いてないよ!」


「引かれるかと思って、話してなかったんだよ」


 恥ずかしそうに恵人は答えた。


「引きはしないけど、でも、何でいちいち、エレベーターで一緒だった人のこととか覚えてるの?」


 恵人は頭をかいた。そしてぼそっと言った。


「そんなの、言わせないでよ」


 佑希は一瞬キョトンと恵人の顔を見返したが、その意味を理解すると顔を赤らめた。そして、飛びつくように恵人を抱きしめる。恵人もその背中に腕を回す。


 しばらくそうしてお互いの心音を聞き合っていたが、やがて佑希は腕を緩めた。そして、恵人の頬にそっと触れる。首元のネックレスが静かに揺れた。


 佑希がゆっくりと顔を近づけると――


「ふふ、くすぐったいよ」


「ごめん」


 2人の口づけは、佑希の長い髪によって阻まれた。


<完>

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テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話 笠原たすき @koh_nakamura

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